いにしえの詩文や詩人の残した名言から・・・
最近は便利な物、興味深い物が沢山目につく。つい買ってしまう物もある。そうすると更に次の物が欲しくなる。こうして次々に物を買い、いつしか我が家は物と本だらけになった。それでもあれが無い、これが欲しいと思う日々。ある日、夢の中でホラティウスに笑われてしまった。
Semper avarus eget.
(ホラティウス 書簡詩)
人の欲に際限無し。貧しい者ほと貪欲だ。浅ましさが益々己の品位をおとしめる。しかもそれを全く自覚しない。まるで中韓露米みたいだが、彼らに限ったことではない。そういう思いは大であれ小であれ我々の身近な所にも巣食っている。そう。あなた自身の中にも。かといって無欲になんかなれっこない。それは現実を活きる者にとっては無意味な事だ。本人は良いかもしれないが周囲に多大な迷惑をかけるだろう。とどのつまりはそこそこのポイントを見つけてそこに安住出来ればこんなに良い事はない。「吾、唯足るを知る」という言葉もある。「人の倍冨めば人の倍余計な苦労をする」という言葉もある。己の器に見合ったところで満足するのが人の道にはずれない目安なのだろう。
閣僚のヤスクニ参拝でひと騒ぎとか。
そもそもヤスクニって何だろう。明治政府の都合で作った神社に戦死者を祀ってそこに国の偉いさんが参拝。それって単なる政治の道具じゃないの? ヤスクニを拝まない奴は非国民だの何だの言うが、日本国は二千年も昔から続いているんだし、その歴史から見たら昨日今日出来たばかりの神社がなんぼのもんじゃい、と思うのは筆者だけだろうか?
確かに戦没者の犠牲は尊い。だが、それなら非戦闘員数百万人はどうなる? 明治以前に亡くなった人も、全部ひっくるめてヤスクニが祀っているのか? そんな話は聞いたことがない。
また、実際には遺族の中にはヤスクニに祀られるのを嫌がる人もいるという。それはそうだ。歴史的に何の根拠もない得体のしれない神社に国の都合で大事な家族を持ってかれてしまうのだから。それが自然な感情というものだろう。戦争は終わり、軍国主義も崩壊したはずなのに、なぜこれだけが継続されるのか。
戦争を悔い、犠牲者に鎮魂の祈りを捧げる事自体に問題がある訳ではない。なぜヤスクニでなければならないのか、なぜ民主国家になったはずの日本が軍国主義の象徴のようなものを擁護し、政治屋どもは参拝するのか。何か別個な力が裏で働いている様にしか見えない。
とはいえ、この問題に隣国からとやかく言われる筋合いはない。連中(特に中韓朝)は日本の事なら何でも嫌い。何でも反発。とにかく反日を掲げて騒ぎたて、なんぼかのおこぼれにあずかろう、というだけのならず者だからだ。実際、日本の領土に不法侵入して強制送還された犯罪者どもは国に帰れば英雄と呼ばれている。これなど国が関与していないはずがない。更に韓国では大統領が自筆の碑を建てたという。これ以上かの国の異常さを放置し続けると、やがてありもしないウラを疑われたり痛くもない腹をさぐられたりで日本としても捨ておけない事態になるかもしれない。
政府も腰抜けだが国民ももっとあちこちで韓国許すべからずの声を挙げるべきだ。ネット右翼に肩入れするつもりも反左反共を決め込むつもりも毛頭ないが、国際社会は自己主張しなければ誰も分かってはくれない。
日本の大衆に巣食う「みんないっしょでなきゃ駄目だ」意識は「絆」じゃない。
最近、時折今の日本の雰囲気を危惧する声が「ようやく」聞かれるようになった。何を危惧するのか、というと、今があの時代、そう、関東大震災後からあの大東亜戦争へと続く、あの時代に似ているというのだ。不況や震災後というだけでなく、一般大衆の気質というか、精神構造が、この頃から現在に至るまで少しも変わっていない、という事だ。
この国の大衆はあの戦争に至った経緯と責任について何も自覚せずに今日まで至っている。つまりはアジアへの差別観、国を挙げて戦争へと突き進んだ主戦主義、すべて一般大衆から出たものだが敗戦を皮切りに軍国主義の被害者を決め込んでしまい、終始総括することはなかった。
あの時代、主戦と自己犠牲を当然のものとして強いた時代。人々は今以上の「絆」で結ばれ、少しでも違う事を言うと「非国民」として避難を浴び、排斥され、場合に依っては投獄されたりもした。こうした事は憲兵の暗躍だけで起きたのではなく、一般民衆の中に普通に見られた事なのだ。彼らは確かに自らの意思でアジアへの進出を夢見、戦争を望み、自分たちに同調しない同胞を切り捨て、排斥していったのだ。これは「村八分」として古くからある日本人の特徴的気質のひとつでもある。確かに大多数の自由な選択の結果なのだが
翻って東日本大震災後、被災地救済に多くの人の関心が向かう中で、無条件に無償で動くボランティアが偉く、ビジネスで動く人は不謹慎、のような雰囲気が流れ、仕事で動く人々が云われのない避難を浴びるなどした。被災地に行った、と自慢気に言いふらす人には、これといって役に立った訳でもないのに、行かなかった、あるいは行けなかった人に対する優越感と軽い軽蔑が混じった。また、福島から避難してきた子どもたちにたいする差別、いじめ問題などは、関東大震災後の朝鮮人虐殺事件を彷彿とさせる。
何かというと、文部省唱歌「ふるさと」を歌いたがるのも、大衆心理の根底に巣食う植民地主義的統一意識の発動した結果である。かの曲は、これから日本が帝国主義に向かうに当たって、新天地海外を目指す大人たちの郷愁の心を思いやれる子どもを育成する目的をもって作られたという。この歌を人々が歌うとき、そんなものいらない、という自由さがその場は感じられない。知っていて当然。感慨深く歌って当然。そうでない奴は非国民、という雰囲気が流れる。そして、こんな歌がある日本はいいなあ、こんな歌が歌える日本っていいなあ、という心情が溢れる。そしてこれがかつてアジア・太平洋を席巻した日本軍国主義の根底を支えた大衆意識と本質的には何ら変わる事がない事には、誰も言及しない。
あなたの周りにある「絆」はどんな絆なのだろうか。