蓼食う虫も好き好きというが、いちど思い込んだらこればっかりは理性でどうにかなるものではない。
傍から見たらなんでそこまで、と思う様な相手でも、当事者にはすべてが一大事。
その若者は毎日通勤電車の最寄り駅で、
向かい側のホームに佇む女性に興味を持った。
くる日も、くる日も、遠くから彼女を見つめ続けた。
ところが、ある日を堺に彼女は姿を消した。
若者はそれでも彼女を待ち続けた。
彼は毎朝起きるたびに自問自答するようになった。
Morgens steh' ich auf und frage:
Kommt feins Liebchen heut?
Abends sink' ich hin und klage:
Aus blieb sie auch heut.
(ハイネ 「Morgens steh' ich auf und frage」より・前半)
「こんなこと、本当にあったの?」
なんの気なしに私はハイネに聞いてみた。
「あるわけないっしょ。見てるだけなんて」
意外とそっけない答え。
「じゃ、なんでこんな詩作ったの?」
「気分、、かな」
「ほんと?」
「うっそだよーん」
ハインリヒは意外とおちゃめだった。
In der Nacht mit meinem Kummer
Lieg' ich schlaflos,wach;
Träumend,wie im halben Schlummer,
Wandle ich bei Tag.
(ハイネ 「Morgens steh' ich auf und frage」より・後半)
しかし、詩に描かれた結末は決しておちゃめではなかった。
突然想い人が消え去った人には身につまされるだろう。
原稿がなかなか進まない。締め切りは明朝。
そんな夜、頭痛の頭を抱えながら原稿書きに勤しんでいると、
昔名を馳せた天才たちなら、こんな苦労はしないだろう、などと、ついあやかりたくなる。
「そんな事を欲するより真に己の欲する場所に戻ったらどうだ?」
陶潜に笑われた。
小无适俗韵
性本爱邸山
误落尘网中
(陶潜:归园田居より)
「間違って世の中にのこのこ出てしまったのさ。お陰でとんでもない目に遭った」
陶潜は少し茶目っ気のある、しかし、深みのある笑みを浮かべた。
「今の日本じゃ田園で自給自足って訳にはいかないからなあ」
思っていると、それを察知したかの様に言う。
覊鸟恋旧林
池鱼思故渊
(陶潜:归园田居より)
「今に今居る場所を旧林や故淵にしてみせるさ」
ちょっと見栄を張って応えてみる。
既に気配はなく、静寂が私を包み込んだ。