茫庵

万書きつらね

2012年01月29日 - 詩と技巧 10

2012年01月29日 16時07分01秒 | 詩学、詩論

2012年01月29日 - 詩と技巧 10

 前回は修辞について考察しました。様々な修辞法が知られていますが、印刷技術が発達して詩が書かれものを読む様になってからの、「音」としての詩表現からの逸脱を指摘しました。修辞法の本来の目的や現代の(自称も含む)詩人たちには他の技巧や修辞法の研究や修練が足りないのではないか、という問題提起も行いました。


詩学

 今回は、詩学について考察します。ご存知のように、欧州各国の詩は古代ギリシャ・ローマ以来の伝統的な詩学をいかに自国に適応させるか、創意工夫しながら発展してきました。私が調べたドイツ詩定型も、最初からあったのではなく、外国で生まれた詩型をドイツ語で使うにはどうしたらいいか、様々な試みをした詩人の努力があったればこそ導入され、定着したのです。そのあたり、読んでみると、

1.外国で新しい詩型が生まれる

2.感銘を受けた詩人が訳詩を試みる

3.その訳詩に感銘を受けた国内の詩人が同型の詩作を試みる

4.次第に広まり、同型の詩作も工夫、洗練され読み手の側も慣れてきて定着する

のような流れになる事が多い様です。実際、我が国においてもこの流れが見られましたが、丁度新体詩運動の頃が3と重なり、同時期、3から4に移行中に起こった口語自由詩運動に排斥されて流れが断ち切られたままになっているのではないかと思うのです。挙句の果てに日本語は他の言語とは違う、という最もらしい言い訳を掲げてさしたる努力や工夫を重ねる事を放棄してしまっています。今までたびたび論じてきた通りです。外国の詩壇でこういう態度でいるところは見た事がありません。島国根性というか、村意識というか、文化的センスの欠如甚だしき、といったところ。

 という訳で、外国の進んだ詩学を研究し、自国語の詩に応用する道がないか模索する、という事が、10番目の技巧として検討する価値がある、と筆者は判断して取り上げてみる事にしました。

 とはいえ、現段階で、自分にインプットされた詩学的情報は、アリストテレスとホラーティウス、それとドイツ詩学の3つしかありません。ごたくが偉そうな割には中身はまだまだ、という状態です。それでも手はじめとしては色々と検討材料はあると思っています。そのうちのふたつをここで取り上げてみたいと思います。

 1.詩脚
 2.詩行

 詩脚とは、詩の韻律を構成する単位となる要素で、詩脚がいくつか集まって詩行になります。西洋詩の定型は、詩脚<詩行<聯<詩、のように構成されます。日本語の詩行には西洋の言語のように複雑な詩脚はなく、ただ音数があるのみです。日本語の特性は、ひとつの子音のうしろにひとつの母音がつく事にあるので、複雑なバリエーションをそもそもとる事が出来ないので、西洋言語のような詩脚を持つのはいかに創造力を発揮させたとしても至難の業とされてきました。例えば、次のドイツ詩を見てみましょう。ゲーテの詩、GEFUNDENの第1聯です。


Johann Wolfgang von Goethe

GEFUNDEN

 Ich ging im Walde
So für mich hin,
Und nichts zu suchen,
Das war mein Sinn.

(全文はProjekt Gutenberg) http://gutenberg.spiegel.de/buch/3670/178

 太字で下線つきのところが強く発音される所です。1行に2つあります。何もついていない母音は弱めに発音される所です。弱強弱強弱 / 弱強弱強, / 弱強弱強弱, / 弱強弱強. のように配列されています。ドイツ語詩では、この「弱強」の組み合わせを詩脚としています。上記の詩は1-3行、2-4行がそれぞれ呼応し、2-4行は脚韻を踏んでいます。日本語はどうでしょう。

 Mori no naka aruite yukinu
 森の中 歩いて行きぬ
Tada ichinin,
ただ一人(いちにん)、
Mata nanimo sagasumaji, kore
また何も 捜すまじ、これ
Waga honshin.
わが本心。

 (抄訳:風雷山人)

 詩脚の整合をとることは出来ません。日本語の発音はドイツ語の強弱、イタリア語の長短などよりは、高低で変化をつける事が多いので、試みとして、他の音より音程が高いところを太字下線にしてみました。ひと目でわかる様に、とても2詩脚/行とはいえない状況です。ただ、日本語の詩脚はドイツ語を真似る必要はなく、日本語としての詩脚が持てればそれでよいと思います。例えば五七調のように、一定の音数を持ってその区切りと為す方法が考えられます。五を二+三、三+二、七を四+三、三+四のように分解したバリエーションも考えられます。

 上の訳詩はどうなっているでしょうか。単純に音数だけ見ると、まがりなりにも 五七 / 二四 / 五七(五+二) / 二四 となります。訳詩にも音としての詩のリズミカルな味わいも備えるためには、音数による律動のほかにも、もうひと工夫何か欲しいところですが、ともあれこうした詩脚を持つ事により、日本語になってもなんとか「らしい」リズムは保てるのではないか、という気がします。

 一般的な口語訳と比べてみればその差は歴然です。

 ぼくは森の中を歩いて行った
ひとりきりで、
そして、何も捜さないぞ
それがぼくの思いだった。

 (逐語的抄訳:風雷山人)

 これだけ見ると、散文を翻訳したのと何らかわりありません。原語にあった音的な味わいや韻文としてのリズム感などが全く消え去っています。そうです。外国語の韻文を、翻訳とはいえただの散文にしてしまって本当に詩情が伝わるのでしょうか?

 さて、ここまでで、ドイツ語詩の構成の日本語への置換えとして、とりあえず以下の2つは今後も工夫次第で実作出来そうだと位置づける事にします。

 1.詩脚は音数による区切りに置き換える。音数は自由だが区切りパターンは一定とする。
 2.脚韵は踏む(但し同じ韵が選択出来るとは限らない)

 今までは、この詩脚を単純に音数に置き換えてソネットやバラッドなどの定型を試みてきましたが、詩脚をベースにした定型というのも始めていきたいと思います。基本になるルールは以下のようなところかと思います。


 ・弱強五歩格 → 1行の音律は四三五四五(三四五五四などバリエーション可)。
 ・脚韻あり。但しパターンは仏式をベースにいろいろ。
 ・アクセント考慮せず。


 昨今の世界各国における日本語熱。これが今後も続くかどうかはともかく、このまま日本に詩的言語表現への工夫や発展が見られないならば、最後には外国語を母国語とする日本語詩人たちによって大鉈が振るわれる事になるかもしれません。西洋詩の詩情を日本に伝えたい、またはその逆を実現するために。そう考える詩人がいたとしても不思議ではありません。研鑽を怠った日本詩人は廃れ、国際的感覚と進んだ言語的センスを備えた外国の日本語詩人の作品が世界的に認められる時代がくるに違いないのです。

 そうなったとき、日本の生ぬるい怠惰に浸りきっている(自称も含む)詩人たちはどうするのか、見物です。



最新の画像もっと見る