茫庵

万書きつらね

2012年01月28日 - 詩と技巧 9

2012年01月28日 16時17分25秒 | 詩学、詩論

2012年01月28日 - 詩と技巧 9

 前回は、詩と批評は一体のものであって、優れた批評が優れた詩を生み出すこと、詩人には批評力が不可欠であること、批評はするのもされるのも詩人にとってはたいへんなプラスになること、現在の同人には合評をしないところがあるらしいがナンセンスであること、などを論じました。

 今回は修辞について。


修辞

 今までは、筆者自身がよく知らない事もあって、このテーマに触れる事はありませんでしたが、詩の詩たる所以は修辞にのみにあるのではありません。また、凝り過ぎた修辞には、却って抵抗感や反発を感じる人もあり、効果的に修辞を用いるには自分が何を表現したいと思っているかをよく考えた上で決める必要があります。修辞法そのものについてはWikipediaなどに詳しいのでここでは省略し、詩人は修辞法とどう向かい合うべきかについて考察します。

 詩が言語を使った表現芸術である以上、修辞法が一定以上の表現効果をもたらすのであれば、それを使いこなす事は極めて重要な技術のひとつになるに違いありません。しかしながら、いわゆる名詩といわれる作品に、修辞法が良いという評がついている記憶がない所をみると、詩の評価基準としては修辞というのは余り適切ではない様にも思えます。むしろ、ホラーティウスのように、読んだ人が「これなら自分でも書ける」と思って、実際に挑戦してみると大変な苦労を要する、みたいな作品を書きたい、という様なものが良い修辞、という事なのかもしれません。

 そもそも何故修辞技法を使うのでしょうか。詩はもともと劇場で聴衆相手に役者が唱えるものでした。このため、芸術としては音楽に近い性質を持ち、時間経過がなければ全貌が分からなかったのです。聴衆は前の行の余韻を味わいながら次の行を聴き、その時の音的な違いや類似とともに言葉の意味的な連なりの中に散りばめられた技巧を楽しんだのです。修辞法は、言わば言葉の宝石、刺繍のようなもので、常人では成し得ない修辞法を駆使して見事な作品を作るからこそ、詩人の存在価値があるのです。

 このように考えてくると、修辞法は単なる文章作法というだけでなく、発した瞬間に消えていく音としての言葉をいかに印象づけて味わいを深めるかを意識して使うべきものである事が判ります。我々は、書かれた詩を見て、ここが倒置だとか体言止めだとか隠喩がどうしたとか論じますが、音としての表現を味わう時にはそんな事かまってはいられません。先に頭に入ってくるのは音の響きの美しさやリズムが先であり、言語的な意味や言葉の配置などは後で意識されるものです。

 


どのように自分の作品で使いこなすか

 今「詩人」と名乗る人たちが、どのような修辞法を見につけ、どんな珠玉の作品を生み出すのか、私はいちいち確かめた訳ではありませんが、読み合わせをやった時に取り上げた詩について、修辞法の指摘や検討の話題になったのをほとんど聞いたことがありません。逆に、修辞法の多用を嫌う(のか使いこなせる技量がないのか)傾向にある、と感じています。技巧を感じさせない作りにするのは読み手に窮屈な思いをさせない点で大切な事ですが、素人さんが趣味で作る訳ではないのですから、使わずに作るだけでは「詩人」の作といっていいのか、疑問に感じます。

 修辞法の目的は、表現したい事を効果的に浮き立たせたり強調したりして、聴衆に鮮明に伝え、印象づける事にあります。昨今の印刷向けの詩で、顔文字や文字の配列によって絵画的に表現する手法を見かけますが、あれ、どうやって音で表現したらよいのでしょうか? 詩の本質が音にあるとするなら、ああいうのは単なる「遊戯」であって、詩の表現方法としてはいかがなものか、と私は思います。素人さんや趣味でやっている愛好家が楽しむならともかく、詩人を名乗る人がああいう流儀を真似をする必要はないし、やっている人がいるとすれば良識を疑わざるを得ません。

 修辞を上手に使いこなす為には、まず詩人自身の創造力を鍛えあげた上で、その創造力を言葉による表現に結びつけていかなければなりません。当然、豊富なボキャブラリーも語学力も必要になってきますし、新しい工夫を加えていくには発想力、独創性も欠かせません。詩人たちはそういうものをどうやって手に入れ、磨きをかけているのでしょうか。これもいちいち問いただしている訳ではないので、あくまでも出来上がった作品を見ての勝手な判断でしかないのですが、さしてとるべき作品が見当たらない、としか言い様がありません。

 効果的に修辞法を作品内に取り入れるには、定型についてよく理解した上で、あらわしたい内容に適した語句と修辞技法を選択して配置する事になると思うのですが、詩全体に漂わせたい詩情から見て、力強さを出すのか、余韻を残すのか、鮮明なイメージを描き出すのか、キーワードを印象づけるのか、など、目的に適合した技法を選択すべきです。
例えば、律詩では必ず対句を入れる事が定型として決まっていて、詩情を盛り上げる事ができます。西洋の詩型には繰り返しによる強調を軸に聯ごとに続きものの内容を展開して全体を編みあげていく様な手法があります。

 明治、大正の詩人が残した、文語体や漢文調で書かれたフランス詩などの訳詩を読んでいると、原詩に織り込まれた豊富な修辞の数々を、新しい時代の日本語詩でどう表現するか、先人たちの試みや工夫が伺い知れて興味深いです。ただ、名訳と言われる作品でも、確かにそれ自体は面白くあっても、原詩の味わいを再現しているかどうか、という事になると、未だ不満が残ります。先人たちでさえ、まだ西洋詩を消化しきれていなかったのだと思います。そして、十分に新体詩の完成を見る前に、何度も言いますが、口語自由詩が台頭してこの動きの芽を摘み取ってしまい、日本語詩が育つ可能性が捨て去られてしまったのです。

 これも繰り返しになりますが、何でもかんでも西洋詩の真似をすれば良い、と言っているのではなく、西洋詩の影響下、新しい日本の詩を打ち立てる流れが始まっているのに、口語自由詩運動が乱入した結果、安直に自国の口語での詩作のみに溺れて、現代詩はあまりにもベースになった西洋詩そのものについての基礎知識がないままに独善で偏狭な詩世界に陥っているのではないか、という指摘をしているです。詩人を自称する人はもっと勉強しなければ「詩人」を名乗るのは傲慢の極みと言えます。ただ書くだけでは素人さんでも趣味のポエマーでも出来る事なのです。



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