茫庵

万書きつらね

12月25日 - 詩と技巧 1

2011年12月25日 12時58分05秒 | 詩学、詩論

芸術としての詩

優れた芸術作品には技があります。素材があります。道具があります。
音楽や美術では、それは極めて分かりやすい形で他人も認識する事ができます。
では詩はどうでしょうか。

詩とは詩人が思いを言葉に乗せて発したものであるので、
これといった道具が見つかりません。強いていえば言葉そのものでしょうか。

以下は、あくまでも芸術としての詩、という事で話であって、
詩を読んだり書いたりするのが好きなだけ、という人々とは異なる次元の話です。


  詩作に思いを馳せるとき、
  詩人と称する人たちは、
  何もて道具となすべきぞ。

詩が道具となすもの。それは言葉しかありません。
その言葉をどう使いこなすかは、詩人本人の感性と
技量に任されているといえます。

  楽士が奏でる珠玉の音、
  絵師が彩なす美の極致、
  いずれ劣らぬ芸術の、
  技の冴えたる面白さ

音楽や美術の作品の出来栄えは、
誰が作品を鑑賞しても明白なものがあります。
優れた技術と才能からほとばしり出る芸術作品は、
時として芸術に縁のない私のような者をも圧倒します。

詩はどうでしょうか?
詩で使われる言葉は、誰でも使う言葉です。
誰でも使う言葉で書かなければ誰も理解できません。

絵や音楽の世界では、実力の有無による出来栄えの差は
悲しい位に明白で、弁明の余地も無い位なのですが、
詩の優劣はどうやってつけるのでしょうか?

絵にも音楽にもそれなりの基礎練習や技巧があります。
人を感心させるには、ある一定以上の技巧に長けていなければなりません。
趣味や楽しみでやってるならともかく、芸術家の域にまで達する人は、
皆厳しい修練を積み重ねています。

詩にはどんな修練が必要なのでしょうか。

こうした事を考えようとするとき、必ず出てくるのが
詩に理屈や技術は要らない、という論議です。

曰く、「言語表現理論や技術に凝っても人を感動させられる詩は作れない」

果たしてそうでしょうか?

私には、表現を磨く事もせず、理論の勉強もせず、技術を高める事が出来ない、
あるいはそういう努力を積み重ねるのが嫌な人の負け惜しみと言い訳にしか聞こえません。

何の努力もなしに、書きたいものを、自分が好きが言葉で書きたい様に綴っただけの詩では、獣が情に任せて吠えるのと同じだ、と昔の詩人が著作の中で述べている通りだと思います。
それでは仲間内で褒めあう位しか存在意義が持てないのではないか、と思うのです。
私は色々と同人や「詩人」と自称する方々を見てきましたが、どうもその域を出ない人が多い気がします。

調べてみると、どうも口語体詩が普及したあたりから、詩の低迷は始まっているらしい事が判って来ました。



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