詩と技巧 2
前回は、他の芸術と同じく、詩にも技巧があってし かるべきではないか、という問題提議を行いました。詩の技巧へのアンチテーゼとして、「技巧で人を感動させる詩が作れる訳ではない」という議論を挙げ、反 駁として、「思った事を好きなように表現するだけなら獣が情に任せて吠えるのと同じだ」という、昔の詩人の言を借用したのでした。そして、調べていくと、 詩の世界で技巧が軽視されるようになったのは、どうやら口語詩の抬頭の頃からではないか、という事が分かってきた、というところで結びました。
口語体詩と文語体詩
まず、ここで云う口語とは現代日本語の口語、文語とは、平安時代以後の古文、なかでも方丈記以来の和漢混淆文の事を指します。古語の口語は私自身よく分からないのでまた別な機会に考察する事にします。
さて、文語体詩は理解しにくい、修辞に凝り過ぎる、など、文語体詩への定番の批判は調べ物をしているとよく目にします。それは単に日常使わなくなったから そう感じるだけで、言語的に文語体に問題がある訳ではありません。英語の詩が理解出来ないから全部日本語の口語にしろ、という人はいません。普段使わなけ れば理解出来ないのは当たり前のことです。
では、言語的に口語体は文語体よりも優れているのでしょうか?
私は決してそうは思いません。むしろ圧倒的に逆だと思っています。
今の日本語とは明治維新後に作られた標準語が基礎になっていて、たかだか100と数十年ぽっちのものです。文語体の、いわゆる和漢混淆文は1000年近い (古文と合わせれば1000年以上)歴史を生き抜いてきた力ある言語です。私は、この、時代を越えて生き続けてきた、という事がもう少し取り上げられても 良いと思います。
その中で培われた言語としての力は、口語体では及びもつかない深淵なものだろうと推測します。推測、と述べるのは、私 自身がまだそれほど文語体を理解していないからですが、それでも推測し得るほど、ちょっとかじっただけでもその豊かさに驚かざるを得ない、という感想を 持っています。単に文章や詩歌の文体や語法だけでなく、典故、様々な枕詞や折句まで含めて、表現技法の蓄積は比べるべくもありません。口語体の文章や詩が それを継承あるいは流用したとしてもそれは口語体表現の資産ではないので、口語体の力と断ずる事は出来ないと思います。
もし口語体を使っても、文語体の歴史的資産を一切使わずに表現するとしたら、更に薄っぺらなものにしかならないでしょう。なんだかんだいっても、歴史の重さは偉大です。
「でも難しいじゃない?」
それでも聞く人がいるでしょう。それは勉強するしかありません。そして多読。慣れです、慣れ。口語体だって、慣れてない人から見たら似たようなものですか ら。例えば外国人とか。そのあたりは外国語の詩でも同じ様なもの。でも海外の詩は現代口語じゃないからダメだ、という話はついぞ聞いたことがありません。 外国語の詩を読むには、やはりその外国語を勉強しなきゃいけません。誰もそれをとやかく云うことはありません。口語主義の人たちは、母国語の文語より外国 語の方が理解出来るってんでしょうか? ボンクラな私にはよく分かりません。
そういう面々のことはさておき、ここでは味わい深い文語にもっと焦点を当てて、読む、書く、両方に渡って話題を展開していきたいと思います。口語体も無 くはないですが、それは他所にいくらでも書く人がいますから。ここで取り上げることではござんせん。但し、私が書く文語体風の文体は、いわゆる文語ではあ りません。森鷗外なども独特の文語調を使って書いてましたし、口語なんだけど漢文調、という文体で書いた文豪もいるとか。 という訳で、私も文体の勉強は 続けつつも、それっぽく自分の文体で書く事に致します。 やはり多読しないと本当の文体は身につきません。それまでは申し訳ありませんがまがい物で失礼致します。