とつぜんの伊都さま
若き日の北条早雲を描く新九郎、奔る!
では直近17巻でようやく、、
ええようやくですよ
龍王丸(今川氏親)が今川の家督をゲットし、
伊都(北川殿)が新九郎に富士下方十二郷および興国寺を与えました。
そのお祝いってわけではありませんが
先週興国寺城へ。
北条早雲旗上げの地として知られる城です。
沼津市根古屋
国道1号線から北へまっすぐ、とてもわかりやすい。
天気がいいので木の影で全然読めませんね。
興国寺城は国指定史跡。
平成29年には続100名城に登録されています。
私は9年ぶりの訪問。
本丸にある穂見神社
天守台の石垣
西櫓台から本丸を見下ろす
駿河湾、伊豆半島が見えます
大空堀
戦時中の防空壕が3つ残されてます。
中に入った強者もいるようで、検索すると内部の写真が見つかります。
清水曲輪のほうにもいくつか防空壕があるそうです。
大空堀の西端
興国寺城で最も絵になるカッコいい場所だと思います。
でもこのへん歩きづらい。
北曲輪
大空堀から階段登って行けるんだけど通行止めになっててよくわからないのでいったん外の道路に出て坂道をぐるっと。
疲れました。
興国寺城前の道路に立ってる整備計画図
(Googleマップより)
これ、9年前にもありました。
発掘調査や整備が進んでるそうで、今回は見どころ増えてるのかな?と楽しみにしてたのですが特に変わらず。
駐車場がわかりにくいのも昔のままでした。
わからないとこ多いの。
小さい城跡なのに。
新九郎(北条早雲)の興国寺城での旗上げ話は江戸時代の軍記物に書かれているもので、
当時新九郎が興国寺城を居城としていた史実はありません。
興国寺城自体、史料に登場するのは新九郎没後の今川義元の時代になってからです。
今川義元が興国寺を移転させて、その土地に寺の名前を取った興国寺城を築城してます。
つまり新九郎が生きてた頃はまだ興国寺は城ではなかったのです。
新九郎が北川殿から貰った富士下方というのは現代の富士市一帯、興国寺も含まれますが、図を見てわかるとおり興国寺はかなり辺鄙なところ。
富士下方を支配するなら善徳寺のほうがふさわしいです。
また、新九郎が茶々丸を討伐したのは下剋上ではなく、室町将軍足利義澄及び今川家からの命なので旗上げなんかしません必要ありません。
そんなですから
北条早雲興国寺城で旗上げというのは、早雲が浪人だったとか牛に松明くっつけて大軍!的なお話同様ファンタジー なのです。
よく見えないけど
北条早雲と天野康景の石碑
天野康景は徳川時代の興国寺城城主。
領民殺害事件をめぐり本多正純と揉めて城を捨て出奔、改易され、
その後は南足柄市沼田の西念寺で晩年を過ごしました。
沼田近隣では天野さん慕われてたみたいです。
「新九郎、奔る!」での興国寺城の扱いはまだわかりませんが、
茶々丸討伐は中盤(?)のクライマックスなのでみっちり丁寧に描かれそうですよね。
となると小田原に到着するのはあと5巻くらいは必要か。
早く来てね。
寄栖庵も道寸も待ってるよ。
✳︎参考文献✳︎
「戦国北条五代」黒田基樹
「新九郎、奔る!」ゆうきまさみ
「興国寺城跡」沼津市教育委員会、沼津市文化財センター