arq. ルイス・バラガンの故郷はハリスコ州グアダラハラ、裕福な領主の家に生まれ育ちました。その頃の領主の家はアシエンダと呼ばれ、彼もこの写真の様なアシエンダで暮らしていたのでしょう。 細かく桟で仕切られた大きな窓、壁に付いた巾の狭い階段、ピッチの狭い梁で支えられた天井、これが彼の自邸のルーツです。
屋上。 壁の塗料が剥がれています。アルキテクト バラガンが亡くなったのは1988年ですから、この写真を撮る6年前です。その頃から塗装は塗りなおされていなかったみたいです。 言わば、彼の意思で塗った最後の塗装です。
それから、彼の作品で馬の水飲み場(las arboledasのこと)を知っている人も多いと思いますが、そこに行く途中に彼の作品がほぼ廃墟状態にあるのを多くの人は知りません。とっても寂しいことです。説明によれば、お金が無いからとの事。何とかしたいものです。
それから、彼の作品で馬の水飲み場(las arboledasのこと)を知っている人も多いと思いますが、そこに行く途中に彼の作品がほぼ廃墟状態にあるのを多くの人は知りません。とっても寂しいことです。説明によれば、お金が無いからとの事。何とかしたいものです。
バラガンの自邸は多くの本などで紹介されていますが、この写真は今後とも見ることは無い、とっても珍しい写真です。 階段に手摺りが付いています。
このあたりから、ルイス・バラガンと呼捨てにするのはとっても気が引けるので、敬称をつけます。アルキテクト ルイス・バラガンが高齢になってから、階段の昇り降りの補助と危険防止の為、やむなく取付けたものです。私がこの写真を撮ったのは1994年11月に行った時です。その時はまだMUSEOになっていなくて、アルキテクト バラガンの世話をしていたおばあちゃんとお孫さんが同じ敷地内で暮らしていました。
その時、保存のための改修工事がスタジオの方から始まっていましたから、住居の方に工事が移った時に取り外されたのではと思います。
このあたりから、ルイス・バラガンと呼捨てにするのはとっても気が引けるので、敬称をつけます。アルキテクト ルイス・バラガンが高齢になってから、階段の昇り降りの補助と危険防止の為、やむなく取付けたものです。私がこの写真を撮ったのは1994年11月に行った時です。その時はまだMUSEOになっていなくて、アルキテクト バラガンの世話をしていたおばあちゃんとお孫さんが同じ敷地内で暮らしていました。
その時、保存のための改修工事がスタジオの方から始まっていましたから、住居の方に工事が移った時に取り外されたのではと思います。
メキシコで建築と言えば、ルイス バラガンを思い浮かべる人は多いでしょう。彼が世間に知られるようになったのは、プリッカー賞を受賞してからのことです。それ以前は、メキシコ建築と言えば、壁画建築のイメージが強かったのです。
ルイス バラガンの受賞は、そんなメキシコ建築の印象を一気に変えてしまいました。 同時に壁画建築は以前のように建てられなくなりました。
彼の建築は、非常に精神性の高い建築物と言って良いでしょう。写真のリーフにもその事が書かれていましたが、残念ながら私のスペイン語能力では良くわかりませんでした。 少なくとも彼の建築空間にいると、多くの人が心静かになれるのは間違いない様です。
ルイス バラガンの受賞は、そんなメキシコ建築の印象を一気に変えてしまいました。 同時に壁画建築は以前のように建てられなくなりました。
彼の建築は、非常に精神性の高い建築物と言って良いでしょう。写真のリーフにもその事が書かれていましたが、残念ながら私のスペイン語能力では良くわかりませんでした。 少なくとも彼の建築空間にいると、多くの人が心静かになれるのは間違いない様です。