摩耶ケーブルは、摩耶山・天上寺への参拝交通手段として大正15年に開業した。
摩耶ケーブル虹の駅から歩いていくのだが、参道として相当栄えたようだ。
▲開業当時の摩耶ケーブル・初代車両(摩耶ケーブルHPより)
虹の駅付近は、「山上茶店群」として5~6軒の茶店があり、
うどんや焼き芋、回転焼きなどを売る茶店のほか、射的場などもあったようだ。
▲摩耶遺跡の銘板には相当な賑わいを感じる写真が
しかし、昭和51年に天上寺が消失して、摩耶山頂に移転したこともあり
茶店群は次々に閉店し、阪神淡路震災前頃には
福田氏が経営する茶店のみとなった。
その後、健康ブーム、ハイキングブームの後押しにより
参拝客から登山客に客層は変わったが、茶店が1軒のみとなったことと
店主の福田氏が最高の好好爺だったこともあり、
登山客の憩いの場所として愛されていた。
父が高尾大明神の御守りをすることになった昭和53年以降、
福田氏とも親交が深まり、掃除やお参りの折には必ず立ち寄り
父は酒を、学生だった私はジュースをいただいていた。
工務店を経営していた親父は「お稲荷さんのお陰」を口癖に
忙しく働いていたので、年に数回しか掃除やお参りに行けなかった。
そのため、福田氏が代わりに高尾大明神のお守りをしてくれていた。
験げ者の父は20代の頃、占い師に「あなたの寿命は50歳」と言われたらしく
ずっと信じていたが、今年88歳まで生きている。
父曰く「長生きできたのはお稲荷さんのお陰」
「職人のお前たちを大学に出せたのはお稲荷さんのお陰」
「阪神淡路大震災で生き延びたのはお稲荷さんのお陰」
「阪神淡路大震災で家は全壊したが、また建てられたのはお稲荷さんのお陰」
と何でもかんでもお稲荷さんのお陰にしている。
話は逸れるが、弊社の美術製作担当の上田氏に高尾大明神改装のお手伝いを
していただいているが、彼もまた
「お稲荷さんのご利益で仕事が増えた」という高尾大明神の信奉者である。
もちろん私も天職につき、その後起こした町場の制作会社が
30年も続けてこられたのはお稲荷さんのお陰だと感謝している。
さて話を元に戻すが、山上茶屋の福田氏は高尾大明神から少し登った、
上野道との三叉路にお地蔵さんを御守りしていた。
昭和53年の高尾大明神大改修の折は、お地蔵さんの賽銭箱を親父が寄贈した。
白色に塗装された賽銭箱はいまだに健在で、
我が家の正月の高尾大明神のお参りの際は、
お地蔵さんへのお参りも必ず行なうようにしている。
▲福田氏が守るお地蔵さんは高尾大明神の50mほど山手にあり
上野道との三叉路にある。現存。
当時、私は麓の高校に通っており、体育が2時限続けてある時は
必ず、母校のグラウンドから天上寺消失跡へのマラソンとなっており
ズルをする学生は、タクシーで摩耶ケーブル下まで行き、
ケーブル経由で天上寺跡に行こうと画策したが、
先生もケーブル下に見張りを立てて阻止し、目論見はついえた。
天上寺消失の原因はタバコの不始末だったようだが
天上寺マラソンが嫌で先輩が放火しんじゃないかと、
三島由紀夫作「金閣寺」のような都市伝説が
母校では真しやかに語り継がれている。
真相はいまだ闇の中。
◀消失した天上寺跡
平成7年1月7日、阪神淡路大震災で神戸の街は蹂躙された。
摩耶ケーブルも例外ではなく、震災後約7年間運休を余儀無くされた。
その頃、私も弟も結婚しており、女児を2人づつもうけていた。
私の子供も弟の子供も小学生になり、父と私と弟の一行に子供4人と
その妻たちが加わり、震災後のケーブル休止期間は歩いて
高尾大明神にお参りしていた。
震災で福田氏の経営していた茶店は被害を受け、
休業となり、そのまま閉店となった。
福田氏の息子さんがお地蔵さんの御守りを今もしているようで、
今でも正月はお地蔵さんがきれいに掃除されている。
高尾大明神は、高齢の父に代わり
10年ほど前から四代目として私が御守りしている。
12月28日には妻と二人で掃除に出かけ、いまでも正月には一族で詣でる。
昭和は父と私と弟の3人(震災前は母も加わり4人)で、
平成になってからは、妻や子供も加わり10人で、
さらに令和になってからは父母は高齢で留守番の代わりに
孫の夫やひ孫も加わり、大挙してお参りしている。
しかし今年はコロナ禍でもあり、正月は私夫婦と弟夫婦、
弟の長女夫婦と子供の7人の初詣となった。
コロナがあければまた大挙してお参りしたいものだ。
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