(有)プランニングオフィス多田の設立当初は3人の所帯で、
風呂屋のオヤジが持つ7階建てマンションの7階に事務所を構えていた。
しかし、仕事が増えるにつれ手狭になり
200mほど離れた現在のオフィスビルに引っ越しした。
私は、阪神淡路大震災の折、マンションの1階に住み
あわや押し潰されそうになったトラウマで
以降、最上階なら潰されることもなかろうと
この時の引っ越しに際しても、5階建てビルの5階を借りた。
(沖縄ロケで沖縄プロレスの皆さんと記念撮影。
中央が私と小野寺 真晴カメラマン)
引っ越してしばらくした冬のある日、その男はバック片手にやってきた。
小野寺 真晴君だ。小野寺君は仙台で仕事をするときに使っていた
撮影プロダクション・㈲ミヤギビデオサービスに所属するVEさんで
将来はカメラマンを目指していた。
見所のある奴だと目にはかけていて、仙台に限らず東京圏から北海道圏まで
仕事があった時は必ずオーダーしていた。
しかし、大阪の地で、しかも我が社の玄関先で、まさか目の前にいるとは…
「急にどうしたの?」
「会社を辞めまして…大阪でカメラマンになろうかと…」
おいおい、映像のメッカ・東京を飛び越して
文化の坩堝・大阪に来てどうするの?
どうせアテがないなら、東京の方が仕事はあるよ。
と言っても始まらない。
「しばらく厄介になります」って
まさかここに泊まる気かと、さりげに聞くと嬉しそうに「ハイ」という。
それから1週間、私の貸したキャンプ用の簡易ベッドと寝袋で
夜は我が社の宿直警備員となる。しかし翌朝会社に入ると男臭い。
このまま居座られるとヤバい。本当にヤバい。
しかし、私の会社はプロデューサー&ディレクター会社で撮影部門は持たない。
居座られても雇えない。しかたがないので
真剣に彼の再就職先を探すことにした。
知り合いの撮影プロダクションを片っ端からあたったが、
運良く㈱カムクルーという会社に再就職先が決まった。
その間、当人はというと気楽に我が社の宿直警備員を満喫している。
参った奴だ。
再就職先の㈱カムクルーは、京都にある映像プロダクション・
㈱元気な事務所のグループ会社で、キネティック時代の同士・
牧 逸郎カメラマンも出入りする。
というのも元気な事務所の2代目社長・東郷 一重君はかって牧さんと
㈱アートプラザという制作会社で同じ釜の飯を食っていた先輩後輩で、
アートプラザ在籍時に私の助監督をしてくれたこともある。
実に任せて安心の再就職先だった。
小野寺君は、新大阪近くのマンションを借り、
労働基準局の監査ギリギリの残業、休日出社に加え
サービス残業も自ら取り入れて仕事に励んだ。
年末年始には、神戸の我が家に大阪で出来た彼女を連れて呑みに来たり、
5月に神戸市東灘区で行われる「だんじり祭り」には毎年参加していた。
小野寺君は再就職先のカムクルーで、仙台時代には体験できなかった
心身ともに本物のカメラマンの助手についたりと貴重な体験を積み重ね、
その後、カムクルーが東京支社を出すのを機に東京支社に移動した。
(カムクルー東京支社時代の小野寺君の名刺)
そして2011年、ついに念願のフリーカメラマンになった。
本当に大丈夫なのかと心配になり、2011年春に企業ドキュメント作品で
石垣ロケに連れて行ったが、しっかり仕事をしていた。
いまや私の企業ドキュメンタリー作品には欠かすことができない
カメラマンとなっている。成長したの~~。
(フリーになってからの小野寺君の名刺)
私は監督として巨匠ではないが、経験を積み、歳を重ね
いつしか後輩が多くできた。
業界に入って、まじめに仕事に取り組んでいれば、最初の1~3年間の
伸び率は毎年倍々になるほど、成長が著しい。
企業人、組織人としての振舞い方や空気の読み方も習得し、
本来やりたい仕事も見つかり
将来に対するビジョンも描けるようになってくる。
先輩を見て「早くあんな風になりたい」と思う人も出てくるし、
逆に「あんな風にはなりたくない」と思う人も出てくるし、
時には大先輩を捕まえて「勝った!」と感じる時もある。
そういう自信の根源は、
自分が何をやってきて、何ができて、何ができないのかを
きちんと理解し、さらなる成長を願って日々努力することからしか生まれない。
24時間、頭のどこかにいつも仕事があり、
見るモノ、聞くコト、触れるモノ、
すべてが即仕事に結び付けられるようにしておかねばならない。
新入社員のほとんどはやる気を持って入社してくる。
にもかかわらず、いつしか新人がやる気をなくすのは
先輩という目標がない、目標にできない先輩だらけだからだ。
先輩に恵まれなかったというほど悲しい事はないし、
そうして辞めていく後輩がいれば、
自分にも問題があると感じなければならない。
先輩は、成長著しい後輩にとっては一番身近な存在だから、
彼らはいろいろな質問をぶつけてくるし、
それに対してこと細かく接してやらなければならない。
なぜなら私たちもそうして育ててもらったからだ。
先輩として「頼りにならない奴」と後輩からレッテルを貼られてしまうと、
自分自身を写す鏡になくなった先輩自身も
途方に暮れることになってしまいかねない。
チームで仕事をするとはそういうことなのだ。
(記念撮影ではたいていカメラ助手がシャッターを切る。
この写真も小野寺君が撮ったので写っていない。
青森ロケで、私と小沢カメラマン)
現在、小野寺君は東京でいっぱしの仕事をするようになっている。
彼が憧れた、私と小野寺君の間に立つカメラマンは
河西 秀樹氏や牧 逸郎氏、そして小沢 隆氏だが
彼らは皆、小野寺君にカメラマンとして技術を教えるだけでなく
生き方そのものに刺激を与えてきたので、
「あんなカメラマンになりたい」と常に目標とされてきた。
月日は流れ、あれから15年、
現役バリバリは小沢 隆カメラマンのみになってしまったが…
今度は小野寺君自身が目標とされるように、
後輩の面倒をみる事も忘れないでほしい。
今まで何度もこのブログで言っているが
フリーのギャラの中には、後輩を育てる授業料も含まれているのだ。
例えその後輩が、プロダクションの一員であろうが、
アマチュアであろうが、カメラマンを目指す者であれば、
全身全霊をかけて、その後輩と向き合わなければならない。
風呂屋のオヤジが持つ7階建てマンションの7階に事務所を構えていた。
しかし、仕事が増えるにつれ手狭になり
200mほど離れた現在のオフィスビルに引っ越しした。
私は、阪神淡路大震災の折、マンションの1階に住み
あわや押し潰されそうになったトラウマで
以降、最上階なら潰されることもなかろうと
この時の引っ越しに際しても、5階建てビルの5階を借りた。
(沖縄ロケで沖縄プロレスの皆さんと記念撮影。
中央が私と小野寺 真晴カメラマン)
引っ越してしばらくした冬のある日、その男はバック片手にやってきた。
小野寺 真晴君だ。小野寺君は仙台で仕事をするときに使っていた
撮影プロダクション・㈲ミヤギビデオサービスに所属するVEさんで
将来はカメラマンを目指していた。
見所のある奴だと目にはかけていて、仙台に限らず東京圏から北海道圏まで
仕事があった時は必ずオーダーしていた。
しかし、大阪の地で、しかも我が社の玄関先で、まさか目の前にいるとは…
「急にどうしたの?」
「会社を辞めまして…大阪でカメラマンになろうかと…」
おいおい、映像のメッカ・東京を飛び越して
文化の坩堝・大阪に来てどうするの?
どうせアテがないなら、東京の方が仕事はあるよ。
と言っても始まらない。
「しばらく厄介になります」って
まさかここに泊まる気かと、さりげに聞くと嬉しそうに「ハイ」という。
それから1週間、私の貸したキャンプ用の簡易ベッドと寝袋で
夜は我が社の宿直警備員となる。しかし翌朝会社に入ると男臭い。
このまま居座られるとヤバい。本当にヤバい。
しかし、私の会社はプロデューサー&ディレクター会社で撮影部門は持たない。
居座られても雇えない。しかたがないので
真剣に彼の再就職先を探すことにした。
知り合いの撮影プロダクションを片っ端からあたったが、
運良く㈱カムクルーという会社に再就職先が決まった。
その間、当人はというと気楽に我が社の宿直警備員を満喫している。
参った奴だ。
再就職先の㈱カムクルーは、京都にある映像プロダクション・
㈱元気な事務所のグループ会社で、キネティック時代の同士・
牧 逸郎カメラマンも出入りする。
というのも元気な事務所の2代目社長・東郷 一重君はかって牧さんと
㈱アートプラザという制作会社で同じ釜の飯を食っていた先輩後輩で、
アートプラザ在籍時に私の助監督をしてくれたこともある。
実に任せて安心の再就職先だった。
小野寺君は、新大阪近くのマンションを借り、
労働基準局の監査ギリギリの残業、休日出社に加え
サービス残業も自ら取り入れて仕事に励んだ。
年末年始には、神戸の我が家に大阪で出来た彼女を連れて呑みに来たり、
5月に神戸市東灘区で行われる「だんじり祭り」には毎年参加していた。
小野寺君は再就職先のカムクルーで、仙台時代には体験できなかった
心身ともに本物のカメラマンの助手についたりと貴重な体験を積み重ね、
その後、カムクルーが東京支社を出すのを機に東京支社に移動した。
(カムクルー東京支社時代の小野寺君の名刺)
そして2011年、ついに念願のフリーカメラマンになった。
本当に大丈夫なのかと心配になり、2011年春に企業ドキュメント作品で
石垣ロケに連れて行ったが、しっかり仕事をしていた。
いまや私の企業ドキュメンタリー作品には欠かすことができない
カメラマンとなっている。成長したの~~。
(フリーになってからの小野寺君の名刺)
私は監督として巨匠ではないが、経験を積み、歳を重ね
いつしか後輩が多くできた。
業界に入って、まじめに仕事に取り組んでいれば、最初の1~3年間の
伸び率は毎年倍々になるほど、成長が著しい。
企業人、組織人としての振舞い方や空気の読み方も習得し、
本来やりたい仕事も見つかり
将来に対するビジョンも描けるようになってくる。
先輩を見て「早くあんな風になりたい」と思う人も出てくるし、
逆に「あんな風にはなりたくない」と思う人も出てくるし、
時には大先輩を捕まえて「勝った!」と感じる時もある。
そういう自信の根源は、
自分が何をやってきて、何ができて、何ができないのかを
きちんと理解し、さらなる成長を願って日々努力することからしか生まれない。
24時間、頭のどこかにいつも仕事があり、
見るモノ、聞くコト、触れるモノ、
すべてが即仕事に結び付けられるようにしておかねばならない。
新入社員のほとんどはやる気を持って入社してくる。
にもかかわらず、いつしか新人がやる気をなくすのは
先輩という目標がない、目標にできない先輩だらけだからだ。
先輩に恵まれなかったというほど悲しい事はないし、
そうして辞めていく後輩がいれば、
自分にも問題があると感じなければならない。
先輩は、成長著しい後輩にとっては一番身近な存在だから、
彼らはいろいろな質問をぶつけてくるし、
それに対してこと細かく接してやらなければならない。
なぜなら私たちもそうして育ててもらったからだ。
先輩として「頼りにならない奴」と後輩からレッテルを貼られてしまうと、
自分自身を写す鏡になくなった先輩自身も
途方に暮れることになってしまいかねない。
チームで仕事をするとはそういうことなのだ。
(記念撮影ではたいていカメラ助手がシャッターを切る。
この写真も小野寺君が撮ったので写っていない。
青森ロケで、私と小沢カメラマン)
現在、小野寺君は東京でいっぱしの仕事をするようになっている。
彼が憧れた、私と小野寺君の間に立つカメラマンは
河西 秀樹氏や牧 逸郎氏、そして小沢 隆氏だが
彼らは皆、小野寺君にカメラマンとして技術を教えるだけでなく
生き方そのものに刺激を与えてきたので、
「あんなカメラマンになりたい」と常に目標とされてきた。
月日は流れ、あれから15年、
現役バリバリは小沢 隆カメラマンのみになってしまったが…
今度は小野寺君自身が目標とされるように、
後輩の面倒をみる事も忘れないでほしい。
今まで何度もこのブログで言っているが
フリーのギャラの中には、後輩を育てる授業料も含まれているのだ。
例えその後輩が、プロダクションの一員であろうが、
アマチュアであろうが、カメラマンを目指す者であれば、
全身全霊をかけて、その後輩と向き合わなければならない。
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