日常のことばたち

時々落ち込むこともあるけれど、いまを生きるんだ。

教えておくれ

2014-05-09 04:14:41 | 日常
0時過ぎ、家族も寝静まったリビングで、テレビもつけず、ご飯を食べることに、私は独りを感じざる得ない状況で、たた栄養を摂取する為に、黙々と冷えたご飯を口に運ぶのであった。

12時間振りに口にする食事は、味という概念は無くなり、そこにはただ時間という概念しかなく、時計の秒針の音だけが、静寂(しじま)の底から聞こえてくるのであった。

楽しい食事とはどういったものだったのか?

美味しい食事とはどういったものだったのか?

私は記憶の片隅にある、理想の食事を引っ張りだしてみたのの、それが正確な記憶だったのかさえ、曖昧であった。

カラン

と、静かなリビングに烏龍茶のグラスの氷が音を立てる。

「1時か」

うなだれた様子で、食器を洗い、洗面台に立つ。

鏡には仕事と人生に疲れた男の顔があった。

「なんて顔してやがる」

かつて幸せを手にいれたはずの男の顔は、草臥(くたび)れており、年齢を重ねた顔はどこか心が病んで、泣けてくるようだ。

明日をも生きているのかどうかと思うほど、今の世界に興味が無かった。

生きていることに意味があるとすれば、それは死んでいないということだけだった。

過去の記憶を辿ることもあるが、楽しいことだけではない。

辛いことの方がたくさんあったと感じた。

だからといって、自分自身が悲劇の主人公を演じてるわけでもなかった。

周りからそう見られることに嫌気になってくるからだ。

あくまでこれが私の道。

人の業を背負って尚、歩いてきたのだ。

ここ数年泣いたことがない。

感情が欠如しているのだろうか。

ただ生きるのも世知辛い世の中で、どこか壊れてしまったのだろうか。

だとしたら、何を以ってして治すことができるのか。

私が医者であったなら、それを治すことができるのだろうか。

私が看護師であったなら、あの時、ひとつの命を救えたのだろうか。

教えておくれ。

この薄汚れた両手で、まだ何かできるのか。

教えておくれ。

後悔をしない生き方を。

教えておくれ。

悲しみを両手で優しく包み込む方法を。