明日より寄稿予定
『バランギガ虐殺』
20世紀の植民地支配の記憶が蘇るのはアジアに留まらない。
1901年、ある鐘の音をきっかけに10歳以上のフィリピン人が大量虐殺された
米比戦争の最中の1901年9月28日、サマール島バランギガの小さな村をパトロール中の米軍2個中隊が突然フィリピン側の待ち伏せ攻撃を受けて、米兵48人が殺害される事件が起きた。米軍のアーサー・マッカーサー司令は報復としてレイテ島の市民の皆殺しを指示、10歳以上の男子が虐殺された。その犠牲者の数は2000人という説から5万人という説まであり、はっきりとしていない。
この時のアーサー・マッカーサー米軍司令は太平洋戦争でフィリピン奪還を果たし、日本の敗戦後に「連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)」の最高司令官を務めたダグラス・マッカーサー司令官の父親にあたる。
歴史家によると、この時の米兵待ち伏せ攻撃の合図に鳴らされたのが3つの鐘のうちの一つとされている。米比戦争に勝利した米側はバランギガの3つの鐘と1557門の大砲を戦利品として米に持ち帰った。
太平洋戦争後に米比関係が発展するにつれて、フィリピン側から鐘の返還を求める声がではじめたが、米退役軍人会や軍関係者などからは「米比戦争で戦死した米兵のメモリーであり、返還する必要はない」などの反対の声も出ていたことから実現しなかった経緯がある。
米政府はフィリピンに対し米比戦争(1899?1902)で米側が戦利品として持ち帰ったフィリピン・サマール島バランガイの3つの教会にあった鐘を返還することを決めた。11月14日(米時間=フィリピン時間15日)に鐘が保存されているワイオミング州のF.Eワレン空軍基地でジェームス・マティス米国防長官とホセ・マヌエル・ロムアデス駐米比大使らが出席して行われた式典で明らかにした。
ワイオミング州にある「バランギガの鐘」の前で返還決定を喜ぶホセ・マヌエル・ロムアルデス駐米フィリピン大使(左)とマティス国防長官
「バランギガの鐘」としてフィリピンでは知られる3つの鐘に関してはフィリピンのドゥテルテ大統領が再三米側に対して返還を求めてきたもので、今回返還が実現することになり米比関係のさらなる親密化が進むものとみられている。
2018年12月11日(火)
米国が1901年にフィリピンでの米比戦争の際に「戦利品」として持ち去った「バランギガの鐘」と呼ばれるキリスト教会の3つの鐘が12月11日、117年ぶりに故郷フィリピンに返還された。
殺りくの号砲響かせた「バランギガの鐘」が117年ぶりに帰国した
国の歴史的な遺産であると返還を長年望んできたフィリピンでは、この鐘返還のニュースは大きく伝えられ、国民は「故郷に戻った鐘」を歓迎した。
米ワイオミング州内のワレン空軍基地に保管されていた2つと、韓国の米軍基地にあった1つの計3つの鐘は、米軍のC130輸送機で11日にマニラのビラール空軍基地に到着した。
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