福岡での高校の同窓会から広島に帰って来て、1日広島に居ましたがまた九州に出かけました。
今度は、歴史を楽しむ仲間の「歴爺」グループ3人組です。
「歴女」に対抗して付けた「歴爺」(れきジィと読みます)ですが、私より若い2人には悪いかな・・・。
去年の7月に「関ヶ原の決戦地」を見に行き、次は「田原坂」と決まっていましたが各歴爺の時間や
時期(暑いとだめ、寒いとだめなどうるさいので)で行く日の調整がつかず、
やっと私は九州から帰ってきたばかりなのに、疲れをものともせずに挙行しました。
例の、1000円高速を利用するのです。
熊毛ICに集合して、一路高速道路で熊本の植木ICに向かいました。
田原坂の戦いの事はご存知の事と思いますが、簡単に説明しておきます。(パンフレットなどからの受売りですが…)
明治10年2月14日に薩摩の西郷隆盛が政府に反旗をを掲げ、政府尋問の為薩摩兵を率いて北上しました。
政府軍の鎮台兵が立て籠もる熊本城を包囲し、主力はさらに北上して熊本城を救援する官軍と高瀬(玉名市)で
交戦したが、利あらず引いて吉次峠、田原坂、山鹿の線で阻止を図ったのです。
当時はその中で田原坂だけが、大砲を運ぶ事が出来る唯一の道でした。
熊本城を築いた戦国時代の名将加藤清正は、城の北側は植木町まで続く台地なので
その端の要害の田原坂から熊本城までの14kmを道を深く掘りこんだ凹道として、城北防衛に備えたのです。
この凹道は、戦略的に道の両側に土手を積み上げた道で、この土手の後ろに隠れて、
通過する敵を攻撃する様になっていたのです。
官軍は熊本城の救援のため、その田原坂の道の突破を図ったのです。
歴爺達は、植木ICを出て田原坂に向かいましたが、坂の下の官軍の陣地の方に、馬(車)を進めました。
まず、「田原坂の戦い」を知るには現地を見なければなりません。
田原坂の上り口に立ちました。
しかし、台地の高さは60m~70mとの事で、坂道の距離も1.4kmしかなく大した坂道ではありません。
ウォーキングでも簡単に歩ける道です。
どうしてこんな所で17日間も戦いあったのだろうかという思いでした。
坂の登り始めです。オヤ!少しキツイ坂かな。道が折れています。
しかし、だんだん登って行くと両側に土手が切り立ってきました。
最初の攻撃の時はここら辺りまで官軍は攻めた様です。
しかし、ここからの三の坂で薩摩軍の反撃に会います。 坂の上は公園となって案内板も建てられている。
その公園に植木町田原坂資料館があります。
我々歴爺はその資料館に、「植木町観光ガイドの会」
のボランティアの方に案内をお願いしました。
そのガイドさんのお蔭で戦況などよく解りました。感謝しています。
壁に弾痕の跡が残っている土蔵が復元されています。
田原坂の戦いがいかに凄かったかを示す弾痕です。
官軍は、一日で32万発の小銃弾を使ったと言われています。
西南戦争戦没者慰霊碑(田原坂の戦いは西南戦争の中の一戦場でした)
資料館の中は詳しく戦闘の状況が説明されていますし、1日で32万発の銃弾戦で、小銃弾同士が、
空中でぶっつかり合った玉なども展示されています。
薩摩兵の服装と装備。木綿の着物、先込め銃、日本刀。 官軍の服装と装備。ラシャの軍服、元込め銃、銃剣。
田原坂の戦いの17日間の間、晴れは4日しかなく大半は雨の中の戦いで、薩摩兵の木綿の着物は
水を吸い動きが取れず、草鞋の鼻緒は切れ、先込めのエンピール銃は粉の火薬が水を吸って不発になった。
それに対して、官軍は水に強いラシャの軍服、皮の靴、雨の中でも発射が出来る元込めのスナイドル銃を
使用していました。
薩摩軍の日本刀は戦いの初め頃は、占領されても夜討の抜刀隊が陣地を取り返していたが、
官軍も元士族の警視庁巡査の抜刀隊を編成して対抗したため、薩摩軍はだんだん押されていった。
資料館のすぐ近くに、田原坂の戦いの薩摩軍と官軍の戦闘配置を一目でわかる様に
「パノマラガーデン」が造られていています。
それを見ると、官軍がなぜ三の坂(下の写真の中央上部に立札)を抜く事が出来なかったがよく判ります。
三の坂は、道の右側(西側)は崖で、頂上に陣地を築いた薩摩軍の正面を丸裸で通るような三の坂です。
これでは雨に強かった官軍もなすすべが有りません。
三の坂の突破をあきらめ、官軍は西側向かいの丘を占領し砲陣を築いたり、もっと熊本城寄りの横平山を占領し、
田原坂の背後からの攻撃により薩摩軍は敗走することとなった。
田原坂の戦いに敗れた薩摩軍の美少年になりきった私は
“雨は降る降る じんばは濡れる 越すに越されぬ 田原坂 右手に血刀 左手に手綱 馬上ゆたかな美少年”
と歌いながら西郷ドンがいる熊本に逃げ延びたのであります。
その逃げ延びた熊本は、包囲したお城の本丸は包囲の前日に原因不明の火事で焼けてしまっていましたが、
今回の訪問では再建されていました。
田原坂の戦いで疲れて、天守閣の2階でお城のビデオを見ている内に眠ってしまい、
天守閣の頂上に登るのをあきらめました。
戦いの後の熊本の商店街にも視察に向かいました。
広島の本通り商店街のアーケードより大きく、地方に多いシャッター通りではなく元気な町です。
キョロキョロする右の二人が仲間の歴爺。 女学生を撮ったのじゃありません。
木の根元のスノコから水蒸気が出ているのです。
今日の熊本は暑かったが、お蔭で少し涼しかった。
田原坂の戦いを見に行く前に、植木町で熊本ラーメンを食べました。豚骨ですがしつっこくなく美味しかった。
私のC級グルメ:熊本ラーメン「えぼし家」 ラーメン650円
まだ、旅はつづく。
今度は、歴史を楽しむ仲間の「歴爺」グループ3人組です。
「歴女」に対抗して付けた「歴爺」(れきジィと読みます)ですが、私より若い2人には悪いかな・・・。
去年の7月に「関ヶ原の決戦地」を見に行き、次は「田原坂」と決まっていましたが各歴爺の時間や
時期(暑いとだめ、寒いとだめなどうるさいので)で行く日の調整がつかず、
やっと私は九州から帰ってきたばかりなのに、疲れをものともせずに挙行しました。
例の、1000円高速を利用するのです。
熊毛ICに集合して、一路高速道路で熊本の植木ICに向かいました。
田原坂の戦いの事はご存知の事と思いますが、簡単に説明しておきます。(パンフレットなどからの受売りですが…)
明治10年2月14日に薩摩の西郷隆盛が政府に反旗をを掲げ、政府尋問の為薩摩兵を率いて北上しました。
政府軍の鎮台兵が立て籠もる熊本城を包囲し、主力はさらに北上して熊本城を救援する官軍と高瀬(玉名市)で
交戦したが、利あらず引いて吉次峠、田原坂、山鹿の線で阻止を図ったのです。
当時はその中で田原坂だけが、大砲を運ぶ事が出来る唯一の道でした。
熊本城を築いた戦国時代の名将加藤清正は、城の北側は植木町まで続く台地なので
その端の要害の田原坂から熊本城までの14kmを道を深く掘りこんだ凹道として、城北防衛に備えたのです。
この凹道は、戦略的に道の両側に土手を積み上げた道で、この土手の後ろに隠れて、
通過する敵を攻撃する様になっていたのです。
官軍は熊本城の救援のため、その田原坂の道の突破を図ったのです。
歴爺達は、植木ICを出て田原坂に向かいましたが、坂の下の官軍の陣地の方に、馬(車)を進めました。
まず、「田原坂の戦い」を知るには現地を見なければなりません。
田原坂の上り口に立ちました。
しかし、台地の高さは60m~70mとの事で、坂道の距離も1.4kmしかなく大した坂道ではありません。
ウォーキングでも簡単に歩ける道です。
どうしてこんな所で17日間も戦いあったのだろうかという思いでした。
坂の登り始めです。オヤ!少しキツイ坂かな。道が折れています。
しかし、だんだん登って行くと両側に土手が切り立ってきました。
最初の攻撃の時はここら辺りまで官軍は攻めた様です。
しかし、ここからの三の坂で薩摩軍の反撃に会います。 坂の上は公園となって案内板も建てられている。
その公園に植木町田原坂資料館があります。
我々歴爺はその資料館に、「植木町観光ガイドの会」
のボランティアの方に案内をお願いしました。
そのガイドさんのお蔭で戦況などよく解りました。感謝しています。
壁に弾痕の跡が残っている土蔵が復元されています。
田原坂の戦いがいかに凄かったかを示す弾痕です。
官軍は、一日で32万発の小銃弾を使ったと言われています。
西南戦争戦没者慰霊碑(田原坂の戦いは西南戦争の中の一戦場でした)
資料館の中は詳しく戦闘の状況が説明されていますし、1日で32万発の銃弾戦で、小銃弾同士が、
空中でぶっつかり合った玉なども展示されています。
薩摩兵の服装と装備。木綿の着物、先込め銃、日本刀。 官軍の服装と装備。ラシャの軍服、元込め銃、銃剣。
田原坂の戦いの17日間の間、晴れは4日しかなく大半は雨の中の戦いで、薩摩兵の木綿の着物は
水を吸い動きが取れず、草鞋の鼻緒は切れ、先込めのエンピール銃は粉の火薬が水を吸って不発になった。
それに対して、官軍は水に強いラシャの軍服、皮の靴、雨の中でも発射が出来る元込めのスナイドル銃を
使用していました。
薩摩軍の日本刀は戦いの初め頃は、占領されても夜討の抜刀隊が陣地を取り返していたが、
官軍も元士族の警視庁巡査の抜刀隊を編成して対抗したため、薩摩軍はだんだん押されていった。
資料館のすぐ近くに、田原坂の戦いの薩摩軍と官軍の戦闘配置を一目でわかる様に
「パノマラガーデン」が造られていています。
それを見ると、官軍がなぜ三の坂(下の写真の中央上部に立札)を抜く事が出来なかったがよく判ります。
三の坂は、道の右側(西側)は崖で、頂上に陣地を築いた薩摩軍の正面を丸裸で通るような三の坂です。
これでは雨に強かった官軍もなすすべが有りません。
三の坂の突破をあきらめ、官軍は西側向かいの丘を占領し砲陣を築いたり、もっと熊本城寄りの横平山を占領し、
田原坂の背後からの攻撃により薩摩軍は敗走することとなった。
田原坂の戦いに敗れた薩摩軍の美少年になりきった私は
“雨は降る降る じんばは濡れる 越すに越されぬ 田原坂 右手に血刀 左手に手綱 馬上ゆたかな美少年”
と歌いながら西郷ドンがいる熊本に逃げ延びたのであります。
その逃げ延びた熊本は、包囲したお城の本丸は包囲の前日に原因不明の火事で焼けてしまっていましたが、
今回の訪問では再建されていました。
田原坂の戦いで疲れて、天守閣の2階でお城のビデオを見ている内に眠ってしまい、
天守閣の頂上に登るのをあきらめました。
戦いの後の熊本の商店街にも視察に向かいました。
広島の本通り商店街のアーケードより大きく、地方に多いシャッター通りではなく元気な町です。
キョロキョロする右の二人が仲間の歴爺。 女学生を撮ったのじゃありません。
木の根元のスノコから水蒸気が出ているのです。
今日の熊本は暑かったが、お蔭で少し涼しかった。
田原坂の戦いを見に行く前に、植木町で熊本ラーメンを食べました。豚骨ですがしつっこくなく美味しかった。
私のC級グルメ:熊本ラーメン「えぼし家」 ラーメン650円
まだ、旅はつづく。
まだかまだかと立ち寄っていましたから。
熊本は私のご先祖さまに縁の地?
いや、先祖は伊達藩だったか?
大変御疲れ様ですが、つづきも気になります。
しかし、校正に手間取り0時を過ぎてしまいました。
雷さんのご先祖様は、やっぱり熊本でしょう。
ちょっと昔、○川掃除大臣が辞任して少し名前を汚したけど…。
首が長くなるほど、待っていました。
田原坂の戦いは歴史で習ったが、テストの為だけですから、よくは知りませんし、勉強になりました。日本の歴史だけでは、ありませんが、世界中では、大なり小なり、犠牲があるのですね。その人達の尊い命の上の平和で、成り立っていると、思います。いまだに、戦いがある国も平和が早くくればいいと思います。
1万4千人以上です。広島県の方の名前もありました。
ブログには書きませんでしたが、西南戦争でこんなに多くの人が無くなっている事を知りませんでした。
とても勉強になりました。
ありがとうございます(^^)