(毎日新聞福島地方版 8月16日)
大きな画面は江戸東京博物館の展示品。模型でスケールは1/4程とか。
都合三度ほど見ているがその時の疑問は和紙の産地に触れていないこと。
放流地点の一つは県内の海辺なのに。
この町に住んでいて句会などで爆弾がこの地に落ちた事は事は聴いていた。
町史も読んではいたが簡単に数行のみ。
3月10日の東京大空襲は海老名香葉子さんから
講演で聴いたことがある。焼夷弾を目的地に円を描くように
投下して、その後円内を場爆撃したとか。死者10万人。
その後8月原爆投下。
この風船爆弾が放射されたのは1919年11月。
神風特攻隊の攻撃がすべて終わった後。日本軍は既に戦力は無かった。
最後に偏西風使っての風船爆弾に運命を託した。
だが戦果はなにも入ってこない。それもそのはずアメリカは
あることを非常に恐れその情報は米国国民、マスコミに完全に伏せた。
戦中日本軍は中国で細菌兵器、化学兵器を研究していた。
その部隊は731部隊。戦後あんまり追求する声は無い。
戦勝国米軍はその資料を全部持って行っている。
戦勝国だから当然と言えばそうなるが、その内容から
特殊な取り決めあり追求の声は出てこない。当事者の声もない。
そしてこのコロナによる世界中のパンデミック。
当時のアメリカ国防省、軍はこの事をよく知っていた。
つまり風船爆弾は現地では破裂していない。
なら何のために到着したか、細菌兵器、化学兵器ではないかと
当時の国防省、米軍などは考えたのだろう。
言わば日本からの見境の無い米国への細菌兵器による無差別攻撃。
非常なる危機感でもって、反撃の強い意思のもと
軍は大規模な反撃の空襲を始めのだと思う。
米国国民はそれを知らされていない。
もっと早く日本軍は降伏するべきだった。
それが無いために20年になってからの戦地での本土での、沖縄での
被害は日本軍自ら招いたとわたしは思う。
江戸博物館 風船爆弾紹介
731部隊 その一部