第2次世界大戦終了後、29年間フィリピンのルバング島で孤独な戦いを続け、帰国後にブラジル に移住した小野田寛郎さん(89、和歌山)が、12日午後2時から聖市リベルダーデ区の文協小講堂で行われた本紙主催の講演会「日系人へのメッセージ」に 招かれ、立ち見客も出るほど超満員となる約250人の聴衆を前にスピーチした。
小野田さんは高齢にもかかわらず1時間以上も立ったまま講演し、日系ブラジ ル人に向けて「ブラジルではすでに自立しているので、日本国からの援助はいらないと言いましょう」と自立の尊さを説いた。
また、ルバング島での体験を交え ながら「人間は自分一人では生きていけない。周りの人に感謝をしなければ」と横行する個人主義に対して警鐘を鳴らした。この講演で寄せられた憩の園への募 金額は2450・70レアルに上った。
小野田さんは1922年生まれの89歳。現在の和歌山県海南市出身。中国の貿易会社で働いていた42年に徴兵召集を受け、英語や中国語が話せたことから陸軍中野学校二俣分校で情報将校として育成された。
日 米開戦後の44年12月31日、日本軍の占領下のルバング島に着任。長期持久態勢の準備に努め、終戦後も部下3人とともに戦闘を継続。29年の間、山中で ゲリラ戦を行いながら生活した。「部下が銃撃戦で撃たれたが、我々には薬もなく、人間の持つ自然治癒力のみで治すしかなかった」と壮絶な経験を語り、「自 分の身は自分で守るということは当たり前のこと。
今の日本人は戦争で負けアメリカに骨抜きにされて、自分の国は自分で守るという気概のない憲法を作った。 ジャングルではそういう者は、原則生きる資格はない」と日本に対して痛烈な批判を浴びせた。
小野田さんは、日本帰国の半年後(74年 10月)に兄弟の住むブラジルに移住。南マット・グロッソ州で1200平方メートルの小野田牧場を開拓。10年で牧場経営を成功に導いた。
小 野田さんはその後、80年に起きた「川崎・浪人生金属バット親殺し事件」に心を痛め、青少年の健全育成に寄与するサバイバル塾「小野田自然塾」を開校。自 らの経験を生かして、自由で自律的な子どもが育つよう、塾ではキャンプなどを実施している。
「ルバング島で裁縫用の針を作ろうとしたら、男2人で試作品を 作るのに2日かかった。3日目でようやく針が9本できた。これが自分の力の限界。社会では周りの人がいるから自分がいるということを忘れてはいけない。自 分の権利や自由ばかり叫ぶのではなく、マナーや優しさを大事にしましょう」と呼びかけた。