←独立か死か
-イピランガの丘より-
旅行ガイドでサンパウロのページを見ていると、ある絵画が必ず紹介されている。タイトルは『インディペンデンシアINDEPENDENCIA オウOU モルチMORTE!(独立か死か!)』。ブラジル独立を決定付けた瞬間が描かれている。
独立の舞台'イピランガ'は、現在、パルケPARQUE ダDA インディペンデンシアINDEPENDENCIA(独立公園)になっている。なだらかな坂が続く公園には、どっしりと構えた宮殿が目立ち、正面のフランス風庭園がブラジルにいることを忘れさせる。宮殿のような建物は、19世紀末に独立を記念して開館したムゼウMUSEU パウリスタPAULISTA(パウリスタ博物館)。ここに名画『独立か死か!』は収められている。
実物の絵画を鑑賞すると、大きさ(4.15×7.60m)と美しい描写に目を奪われてしまう。
《名画『独立か死か!』》
絵はパライーバ州出身の画家ペドロPEDRO アメリコAMERICO(1843-1905)の作品で、1886年から1888年にイタリアのフィレンツェで描かれた。完成した絵はイタリアの展示会に出品され、ドン・ペドロ2世やヨーロッパの王族の喝采を得て、イピランガに迎えられた。
★画家ペドロ・アメリコ
ペドロ・アメリコは子供の頃から画才に恵まれ、10歳の時にはフランス人の科学調査員にデッサン力を見込まれて、ブラジル北東部の探検に同行したほどだった。後にヨーロッパへ留学し、少年時代からの才能に磨きがかかる。
風刺画も描いたペドロ・アメリコは、美術、歴史、考古学などにも通じた学者風の画家として知られ、絵の制作過程を記した本まで残している。
『独立か死か!』はブラジル人の独立宣言のイメージが反映され、ドラマチックにするための工夫が凝らされた。
例えば、ドン・ペドロの馬が落ち着いているのに対し、向かいの竜騎兵の馬は、意図的に動きのある描写を強調している。木々の緑や空の青は、馬や地面の色を引き立てるように配色された。赤みがかった雲は、独立の舞台を熱くしている!
★イピランガの叫び
1822年9月7日。ドン・ペドロ一行がイピランガ河畔を旅する途中、リオから使者が到着した。携えた手紙にはポルトガルからの帰国命令などが記され、従わなければ反逆罪の疑いで起訴する可能性があるとまで伝えられた。
絵は決断を迫られたドン・ペドロが、剣を天にかかげ「独立か死か!」と叫ぶ一幕。ドン・ペドロを取り囲む竜騎兵も剣を鞘からぬき、歴史的な瞬間に気分を高揚させている。命令が記された紙をかかげる人もいる。
左端でドン・ペドロ一行を気にする農夫やトロッペイロ(ロバに荷を積んだ隊商)と、右端にある一軒の小屋からは、当時のサンパウロの一面をうかがえる。小屋は'カーザCASA ドDO グリットGRITO(叫びの家)'と呼ばれ、今も独立公園で昔の面影を残している。
《植民地の危機から独立までの話》
★植民地の危機
砂糖価格の下落、金産出量の減少…。18世紀後半、ブラジルを支えてきた経済基盤は危機だった。それにも関わらず、ポルトガルは貿易赤字の埋め合わせやリスボン大震災(1755)からの復興を理由に、さまざまな税金や賛助金を取り立て続けた。その上、工業自由化を禁止するなど、あらゆる政策にも介入していた。
ポルトガル本国に対する不満や、西欧、北アメリカで自由主義的な新国家が成立していたこともあり、独立への気運が高まった。
★チラデンテス
ポルトガルへの反感は、それまでポルトガル本国と同盟関係にあった大土地所有者や知識人にも広がった。州によってはポルトガル政府に反抗する動きも現れた。
中でも黄金で栄えたミナス・ジェライスは、自治や独立を強く望んだ地域だった。金の産出量が減って以来、税金の不足分として住民から不意打ちで取り立てられた'デラーマ税'も反発に拍車をかけた。
ポルトガル政府に反逆を企て、密告されて命を落とすことになった国民的英雄のチラデンテス。彼が登場したのもこんな時代のミナス・ジェライスだった。チラデンテスの死はブラジルが独立へ歩み始めた事件として考えられ、処刑された4月21日が「チラデンテスの日」になっている。
★ナポレオンとブラジル
19世紀初頭、ヨーロッパではナポレオンが勢力を拡大していた。
ナポレオンはイギリスに経済的打撃を与えるため、「大陸封鎖政策」をヨーロッパ諸国に求めた。しかし、イギリスの従属的な立場にあったポルトガルは命令を無視。直後にリスボンはナポレオン軍に占領された。
とはいってもポルトガルでは、すでに皇太子ドン・ジョアン(後のジョアン6世)をはじめ、王族、貴族、官僚、大商人など1万人以上が、イギリス船でブラジルに向かっていた。国内の通貨も半分以上が持ち出されていた。
1808年3月、一行はリオデジャネイロに到着した。それから約14年間、リオがポルトガルの王室所在地となり、町は日を追って洗練された。
★父から息子へ
ヨーロッパからナポレオンの失脚が伝えられると、ジョアン6世は皇太子ドン・ペドロをブラジルの摂政王子にし、ポルトガルへ帰国した(1821)。父は息子に、「もし、ブラジルがポルトガルから分かれることになったら、自分の力で王位に就け」と言い残したという。
やがて、ポルトガル議会はドン・ペドロの帰国とブラジルの再植民地化を決議した。これにブラジルの有力者が反発し、独立への歩みは加速する。
★ブラジルの独立
1822年9月7日、ドン・ペドロは'イピランガの叫び'で独立を決意した。リオに戻ると人々の前に現れ、大歓声の中で独立を宣言し、同年12月1日、'ドン・ペドロ1世'を皇帝とする「ブラジル帝国」が誕生した。
サンパウロやリオの町には緑と黄色のリボンが風になびき、喜びのムードにつつまれていた。
*緑はドン・ペドロのブラガンサ家、黄色は妻のハプスブルク家を象徴する。
★独立の特徴
ブラジルの独立は、スペイン領だったラテンアメリカ諸国とよく比較される。
たくさんの民衆が犠牲となった国の多い中、ブラジルは平和的に独立が達成された。また、近隣諸国が共和制を樹立したのに対し、ブラジルは'帝政'という形態で独立した。
ブラジルの大土地所有者は奴隷制の維持を望んだため、民衆蜂起による急進的な共和制の樹立を好まなかった。さらに、支配層のポルトガル出身者は、本国との関係を維持したかった。そこで、ポルトガルの皇太子ドン・ペドロを皇帝とする帝政が選択された。
★200年の願い
親子で領土を分けたようにも見えるブラジルの独立。過去に遡ると、王室が移転する話はブラガンサ朝の成立した1640年からはじまっていたそうだ。ナポレオン軍に追われてブラジルに来たとはいえ、王様ファミリーには約200年の望みがかなった日だったかもしれない。
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