今から紹介するハディースは、伝承された中で、イスラームの定義を最も強く説明しているものです。今回はその前部についてお話します。
このハディースの中には、気を配られない一言があるために、
多くの人がイスラームを間違って理解してしまっています。
このハディースは、
「イスラームは五つから成り立っている」
と言っており、「イスラームは五つである」とは言っていません。
この二つの表現には違いがあります。
椅子で例えてみます。「この椅子は四本の足で存在している」と、「この椅子は四本の足である」という表現の違いを考えてみてください。
「イスラームは五つから成り立っている」は、「イスラームは五要素によって存在している」という意味です。
アッラーの他に神は無く、ムハンマドはアッラーの使徒であるという証言、礼拝、斎戒、喜捨、巡礼だけがイスラームというわけではありません。これらは柱であり、その下にさまざまなイスラームの要素が続きます。
では、イスラームとは何でしょうか。
イスラームとは、クルアーンとスンナ(預言者(平安と祝福がありますように)の言行録)にあることを実行することです。
もちろんその前に、すでに証言、礼拝、斎戒、喜捨、巡礼が実行されている必要があります。しかし残念ながら、多くのムスリムがこのことに気づいていません。
ある人は礼拝すればムスリムになれたと思い込み、また違う人は斎戒すればムスリムになれたと思い込んでいます。
同じく、喜捨をし、巡礼を全うした人もそう思い込んでいます。
しかし、これらのことを行っただけではイスラームを実現したことにはならないのです。
これらはイスラームの存在の証明です。
人間は、生きている全ての瞬間、ムスリム(アッラーに仕えるしもべ)でいる必要があります。
四六時中、礼拝や斎戒は出来ませんが、いつでもムスリムでいなければならないのです。
前回までに、四つの要素(礼拝、斎戒、喜捨、巡礼)についてお話してきましたが、今回は一番大切な要素である、「(アッラーの他に神は無く、ムハンマドはアッラーの使徒であるという)証言」についてお話します。
ムスリムは最初に、この証言を求められます。「証言する」と「言う」には、違いがあります。証言する、とはどういう意味でしょうか。
それは「感じる」ことです。
体の中で、心で感じることです。
「ラーイラーハイッラッラー(アッラーの他に神はない)」と唱えても、それを心で感じていなければ、言っていることと心にあることが一致しないことになります。この不一致は、偽りの信仰を意味します。
つまり、イスラームは心なのです。
「ラーイラーハイッラッラー」を心で感じる。
アッラーこそ、私の人生で最も重要である、と心で感じることです。
アラビア語で、「ラーイラーハ la ilaha(神は無い)」の中にある、イラーフilah(神)という単語は、動詞「ワラハ walaha」から派生しています。
この単語は、「激しく愛すること」を意味します。
愛情には、階級があります。その中で最も高い位の愛を、「ワラハ」といいます。
すると、「イラーフ」は、「最も愛される存在」という意味になります。
「ラーイラーハイッラッラー」は、一番愛される存在はアッラー以外に無し、という意味になります。
しかし、私がこの言葉を口にしながら、もし心の中にアッラーよりも愛している存在があった場合、嘘をついたことになります。
そうならないよう、「ラーイラーハイッラッラー」と唱える前に、よく考えてください。
真実について。
あなたはこの言葉の意味を証言するのか、あなたの心の中にこの言葉は存在するのか?
アッラーは、あなたの心、あなたの夫、子供、友人、食べ物飲み物、服、財産の上におられます。
私は、責任を持たずにこの言葉を口にすることで、アッラーの御前で嘘つきになってしまうことを本当に怖れます。
この思考こそが、「証言」なのです。
このハディースの中には、気を配られない一言があるために、
多くの人がイスラームを間違って理解してしまっています。
このハディースは、
「イスラームは五つから成り立っている」
と言っており、「イスラームは五つである」とは言っていません。
この二つの表現には違いがあります。
椅子で例えてみます。「この椅子は四本の足で存在している」と、「この椅子は四本の足である」という表現の違いを考えてみてください。
「イスラームは五つから成り立っている」は、「イスラームは五要素によって存在している」という意味です。
アッラーの他に神は無く、ムハンマドはアッラーの使徒であるという証言、礼拝、斎戒、喜捨、巡礼だけがイスラームというわけではありません。これらは柱であり、その下にさまざまなイスラームの要素が続きます。
では、イスラームとは何でしょうか。
イスラームとは、クルアーンとスンナ(預言者(平安と祝福がありますように)の言行録)にあることを実行することです。
もちろんその前に、すでに証言、礼拝、斎戒、喜捨、巡礼が実行されている必要があります。しかし残念ながら、多くのムスリムがこのことに気づいていません。
ある人は礼拝すればムスリムになれたと思い込み、また違う人は斎戒すればムスリムになれたと思い込んでいます。
同じく、喜捨をし、巡礼を全うした人もそう思い込んでいます。
しかし、これらのことを行っただけではイスラームを実現したことにはならないのです。
これらはイスラームの存在の証明です。
人間は、生きている全ての瞬間、ムスリム(アッラーに仕えるしもべ)でいる必要があります。
四六時中、礼拝や斎戒は出来ませんが、いつでもムスリムでいなければならないのです。
前回までに、四つの要素(礼拝、斎戒、喜捨、巡礼)についてお話してきましたが、今回は一番大切な要素である、「(アッラーの他に神は無く、ムハンマドはアッラーの使徒であるという)証言」についてお話します。
ムスリムは最初に、この証言を求められます。「証言する」と「言う」には、違いがあります。証言する、とはどういう意味でしょうか。
それは「感じる」ことです。
体の中で、心で感じることです。
「ラーイラーハイッラッラー(アッラーの他に神はない)」と唱えても、それを心で感じていなければ、言っていることと心にあることが一致しないことになります。この不一致は、偽りの信仰を意味します。
つまり、イスラームは心なのです。
「ラーイラーハイッラッラー」を心で感じる。
アッラーこそ、私の人生で最も重要である、と心で感じることです。
アラビア語で、「ラーイラーハ la ilaha(神は無い)」の中にある、イラーフilah(神)という単語は、動詞「ワラハ walaha」から派生しています。
この単語は、「激しく愛すること」を意味します。
愛情には、階級があります。その中で最も高い位の愛を、「ワラハ」といいます。
すると、「イラーフ」は、「最も愛される存在」という意味になります。
「ラーイラーハイッラッラー」は、一番愛される存在はアッラー以外に無し、という意味になります。
しかし、私がこの言葉を口にしながら、もし心の中にアッラーよりも愛している存在があった場合、嘘をついたことになります。
そうならないよう、「ラーイラーハイッラッラー」と唱える前に、よく考えてください。
真実について。
あなたはこの言葉の意味を証言するのか、あなたの心の中にこの言葉は存在するのか?
アッラーは、あなたの心、あなたの夫、子供、友人、食べ物飲み物、服、財産の上におられます。
私は、責任を持たずにこの言葉を口にすることで、アッラーの御前で嘘つきになってしまうことを本当に怖れます。
この思考こそが、「証言」なのです。