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悔い戻る者たちの道しるべ【3】-(2) 赦される罪について

2015年03月06日 | 悔い戻る者たちの道しるべ
しもべの主に対する罪をその大小で分ける
小さな罪に固執しまう場合どうなるのか
それに対する罰はどのようなものなのか

について見ていきます。

教友ビラール(アッラーの御満悦あれ)の素晴らしい言葉を紹介しましょう:
「罪の小ささを見るのではなく、誰に対して横柄な態度を取ったのかを考えなさい。」

罪はその大きさで軽量されるようなものではなく、その行為によって誰に、つまり世界の主アッラーに対して横柄な態度を取ったかで軽量されます。主に対する信仰が上昇するにつれて、己の信仰はアッラーと共にあるのだという感覚に傾倒していきます。アッラーの使徒(アッラーの祝福と平安あれ)は次のように言われました:
≪至誠とは、アッラーが目の前にいらっしゃるかのように彼を崇めることである。おまえが彼を見ていなくとも、まことに彼はおまえを御覧である。≫(ムスリム伝承)

「そして彼はおまえたちがどこにいようとおまえたちの共にあらせられる。」(57:4)

あなたが”アッラーは自分と一緒にあらせられるのだ”と感じる度にあなたはアッラーに恥じるでしょう。また”アッラーは偉大である”と感じる度に彼に対して小さな罪も甚大であるのだと見なすことでしょう。学者たちが述べた基本的な法則にこのようなものがあります:罪が大きいと感じる度にそれはアッラーの許で小さくなり、罪が小さいと感じる度にアッラーの下でそれは大きくなる。信仰者にとっての罪はまるで彼の胸にのしかかる山のようですが、偽信者にとっての罪は追い払った蠅のようです。私は偽信者のうちの信仰者が誰であるのかをその人の罪の捉え方で知ります。言った言葉のために眠れなくなる信仰者人がいれば、罪を犯しても寝られる不信仰者もいます。そのためアブーフライラによるとアッラーの使徒(アッラーの祝福と平安あれ)は次のように言われたのです:
≪まことにある男は悪くないと思って発した言葉のために火獄の中で70年間吹き飛ばされ続ける。≫(アッ=ティルミズィー伝承)

貞淑な女性を(姦通等で)中傷することは100年の行為を壊す、とも言われます。証拠もなく清廉で貞操を大切にしている女性の尊厳について暇つぶしに話すことは、100年間の行いを壊してしまうということです。また己が言った言葉を数える者は審判の日に救われるとも。言葉も行為ですから、あなたがあなたの行為の一つである言葉を数えれば助かるということです。しかし言葉は行為と無関係であると考えた瞬間に誠実さは失われます。ですから、罪の小ささを見るのではなく、誰に対して横柄な態度を取ったのかを考えなさい、ということなのです。あなたの中で罪が小さくなるたびにアッラーの許でそれは大きくなり、あなたの中で罪が大きくなるたびにアッラーの許でそれは小さくなります。これは良い兆候です。信仰者は己の罪を胸を押し付ける山のように感じ、それが落ちてくるのを恐れますが、偽信者は己の罪を蠅のように見ます。

多くの若者が”自分の罪は他人の罪と比べてどうなんだろう?他人たちは普通にしているが?”と心の中で思っています。または悪魔がこのように囁きます。そして若者は言います:”自分の罪は他人の罪に比べたら大したことはない”と。

この質問には詳細な答えがあります。自分を医者にたとえてみてください。あなたのところに胃に炎症を起こした患者が来ます。あなたは患者が摂るべき食べ物の載った厳しいリストを渡します。胃の炎症は治るものなのにもし患者が禁じられたものを食べたらあなたは怒るでしょう。代わって悪性腫瘍を患った患者が来たらあなたは彼に好きなものを食べてくださいと言うでしょう。彼らこそがアッラーからさ迷った罪を問われない人たちです。交通違反した人間を絞首台に連れて行くと仮定します。さてあなたは彼に違反の審問をしますか?彼は審問されません。その意味でアッラーは次のように仰せです:
「そして罪人は彼らの罪について問われることはないのである。」(28/78)
※アッラーは彼らの罪を御存じであり、審問による申し開きや悔い改めの機会を与えず、獄火に入れ給う。
アッラーがさ迷った無知な者に:おまえは現世を取りなさい。おまえはわれの慈悲から追放された者だ、と仰せになったようです。
「それゆえそれによって訓戒されたこと(厄災)を彼らが忘れたと時、われらは彼らの上にすべての(恵みの)扉を開き、与えられたものに彼らが歓喜していた時、われらは彼らを不意に捕え、」(6:44)

カリキュラムの難しさや教科書の難しさや難しい教師や膨大な質問や毎月提出しなければならない論文について悩む学生が学校に行っていない若者に愚痴を言います。若者は、「俺はズフルのアザーンまで寝ている。気楽さ。」と答えました。一人は博士になって指導する立場になろうとしている。もう一人は最低の人間になろうとしている。後のことを気にせず罪を犯す人間とアッラーが御満足しない言葉を言ってしまうことを恐れる人間は釣り合わないのです。集中治療室にいる人とその外にいる人は同じではありません。

背き、さ迷い、大罪を犯し、笑い、遊んでいる若者。不正な悪魔の道を行く者に悪魔は満足します。悪魔は言いました:
「必ずや私はあなたのまっすぐな道で彼らを待ち伏せしましょう。」(7:16)

信仰者が真実の道を歩こうとすると囁きが聞こえてきます。己の小さな罪がアッラーを怒らせてしまうことを恐れるような篤信な信仰者と無知な者は釣り合いません。

ある学生が私に言いました:「僕はアッラーをおそれません。」私は、「君の言うとおりだね。」と言いました。彼は「どういうことですか?」と言って私の言葉を不思議がりました。
「農夫が二歳になる息子を収穫地に連れて行く最中、蛇がそのそばに来た。大の男でもこのような蛇を見たら驚くに違いない。それなのに二歳の子どもは蛇に触れようとした。なぜ恐れないのだろうか?なぜなら理解していないから。理解しない者は恐れない。」
恐れる者は理解している者です。
ある技術者が建物にひびが入っているのを見たら、「もうすぐ崩壊する」と言うでしょうが、他の人間が見たらひびの上から詰め物をするだけでしょう。知る者と知らない者の間には大きな隔たりがあります。
医者は果物を洗います。なぜでしょう?微生物や感染の恐れを知っているからです。無知な人はビスミッラーと言って食べなさい、と言うでしょう。これこそが私たちが必要とするものです。私たちは知と畏敬を共に必要とします。
赦される罪はあなたがアッラーに対して成した罪。そして罪の小ささを見るのではなく、誰に対して横柄な態度を取ったのかを考えてください。

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