第一の至高なる創造主の存在根拠
「有」と「無」を巡る理性的必然の根拠
※Al-Ujud「有」:もとから存在しているという意味。
Al-‘Adam「無」:もとから存在していないという意味。
Al-Asl「元」:源泉、元来等という意味。
1.創造主の元は「有」であるので、かれの存在は「必然」である。
2.宇宙の元は「無」であるので、その存在は「可能」である。
3.「可能」である存在が存在している原因は、存在が「必然」である存在の他ならない。
四段階を経た説明を見ていこう:
【第一段階】
この世界に生きる人間の誰もが、「有」が「無」と相対関係にあること、そして「有」と「無」の他に第三者が存在しないことを疑わないだろう。
この二つの内、片方が確定すると、もう片方は明らかに消える。また片方が消えれば、もう片方は確定する。
ここで私たち自身に問うてみよう:どちらが元なのか?一般的な「無」に相対する「有」が元なのか、それとも、一般的な「無」が元なのか?
この問いに答えるために:どちらかが元であると仮定する方法を採ればよい。そしてそれを元であるとした場合に無効性が見出せるか見極める。
この方法に沿って、心に浮かぶ全てのものの存在の元が:「無」と仮定しよう。
「無」の意味は:心に浮かぶもの、そしてその性質が存在しないこと。つまり、個として存在しないこと、無力、無意思、無知、無命、何も無いこと。
この仮定に基づいて自問してみよう:「無」はどのようにして―それが元である―「有」の状態に変わることができたのか?私たちは自分たちの存在を感じているのではないか?私たちの周りにある数多くのものを見ているのではないか?先に述べたように、「無」の意味は、心に浮かぶ全てのものが一般的に存在しないことを指す。ではどのようにしてこの一般的な「無」から数多くの個体や属性や力がやってくるのか。自身で「無」から「有」に移動したというのか。しかし、この移動は力なしには実現しない。この「力」の元も「無」のはずでは?
直感的に、「無」がひとりで「有」に変身するのは不可能であるし、「無」が何かを存在させることも不可能である。
この件を指すクルアーンの言葉:
「彼らは無から創られたのか、それとも彼らが創造したのか。」(トゥール章52節)
つまり:彼らは創造主なしで「無」から「有」に移動したのか?それとも彼らが彼ら自身を創造し、この移動を成したのか?これは直感的に、両方とも不可能なことである。
ということで:「無」が一般的な「元」であれば、数え切れないこの現存物の一つも存在しなかっただろう。だからこそ私たちは「元」が「有」であると理解しなければならない。
この根拠により、決定的理性的に「無」が元であると成立しない、と確定する。
事実がそのようであるということ、つまり「元」は「有」であることが、同じく決定的理性的に確定する。なぜなら―先に述べたように―「有」は「無」の反対語で、二者の間に入るものは無いからである。
また、相対関係にある二者を巡る「元」の存在に、理由付けや説明は不要である。なぜならそれが存在のために理由を必要としたら、それは「元」とは言えないからである。「元」ではない諸現存物こそが存在するための原因や理由を必要とするのである。
この証明により、二つのことが判明した:
(A)「元」は、「有」であること。
(B)「元」は、 “「元」と言われること”以上の原因や理由を理性での理解のために必要としないこと。
【第二段階】
疑いの余地なく「有」が「元」であるなら、この「元」に「始まり」があることは可能だろうか?そして、この「元」に「無」が続くことは可能だろうか?
この問いに答えるために:
1「有」が「元」であるものの存在に「始まり」があることは理性的に正しくない。なぜなら、その存在に始まりがあるものは、必ず「その存在」を存在させた原因を必要とするからである。そうであるとするなら、その存在が「元」であることはない。
2その存在が「元」であるものに「無」が続くことは不可能である。その存在が「有」であるものを基に私たちは全ての経過する時間に無が発生するとするからである。「有」が「元」であるという事実が継続しているということは、「元」に「無」が発生する理由が決して無いということである。なぜなら「無」は、元来から「無」を属性として持つ存在にしか発生しないからである。
そのため、私たちが「元」であると理解する「有」に「無」が発生することは理性的に不可能である。
この真実を指すクルアーンの言葉:
「死ぬことのない生き給う御方にお任せしなさい。」(識別章58節)
「死ぬことのない行き給う御方」とは、その存在が「元」である御方である。そのため無と死がかれに発生することはない。
【第三段階】
以前の二つの段階で分かったことは:
A.理性的に「有」が「元」でなければならないこと。
B.その存在が「元」であるものに始まりがあったり、「無」が発生することは不可能であること。
では、私たちが見、感じる世界に現存するものたちに目を向けてみよう。それらの「元」は「有」なのか、それともその反対である「無」か。
ここである事実が見えてくる:私たちはかつて存在したことはなく、その後に存在した、ということである。そして私たちは精巧な造りをした存在であることだ。イチジク章4節で至高なる御方は次のように仰せられた:
「まことにわれは人間を最も優れた形に創造した。」
また多くのものがかつて無の下にあり、その後になって私たちが継続して目にしているようにそれらは存在していることである。
また私たちが感じ、また目にする各個体に起こっている継続的な多くの変化などの現象もそうである。
ここで言えるのは:私たちの感覚がとらえる現存する全てのものの「元」が「有」なら、変化や変身、増減、消滅などに晒されることはなく、存在するためや変化のために理由やきっかけを必要としないということである。
しかし実際には、それらは変化や変身に晒されており、その(変化などの)法則が原因や影響を与えるものをそれらに必要とさせている。そのため、理性的に存在物の「元」が「有」ではないことが確定する。つまり存在物の「元」は「無」である、ということである。
そのため、存在物はその存在のために、それらを存在させる原因を必要とする。
この段階で判明したことは:
A.私たちの感覚がとらえる現存する全てのものの「元」が「無」であること。
B.現存する全てのものの「元」が「無」ということは:それ(現存する全てのもの)に影響を与える原因で、「無」の状態から「有」へ連れ出した存在があることが理性的に必然となること。またその存在は、継続的に現存する全てのものに影響を与えていること。
私たちの「元」は「無」であり、私たちは存在しなかった後に存在したことがクルアーンに載っている:
「人間にはなにものとも呼べない、長い時間があったではないか。」(人間章1節)
「無」を経験したものには必ずそれを存在させた存在があることが直感で理解できるのは周知の事実である。その存在こそが、創造主である。
【第四段階】
以前の三つの段階で三つの事実が判明した:
1理性的に「有」が「元」でなければならないこと。
2その存在が「元」であるものに、始まりと無が発生することは不可能であること。
3現存する全てのものの「元」は「無」であり、それらは存在するために存在するための原因を必要とすること。
この三つの事実が判明したので、理性が完全に、異議なくそれらを受け入れるよう和解する必要がある。そのために言えることは:
第一:理性的に、偉大な存在の存在が必然であること:その存在は現存する全てのものの「元」であり、その存在が「無」となることは不可能であるので、その存在は、「理性的に存在が必然である御方」である。
第二:目に見える世界の「元」は「無」であること。そしてそれらを「無」から「有」へ連れ出し存在させる原因が生じていること。
第三:世界を存在させている原因が、偉大なる存在のほかにないこと。その存在は「元」であり、その存在は、存在が必然である御方である。かれは、「至高なるアッラー」である。
締めくくりの言葉:
この解説により、「アッラーはどのように存在したのか?」といった疑問は完全に消えるだろう。なぜならこれは論理にも理性にも基づかない疑問だからである。しかしこの問いは、その「元」が「無」である存在に対して有効であるといえる。なぜならそれは、「無」から存在させてくれる存在を必要としているからである。
かわって、理性的にその存在の「元」が「有」で、「無」が相応しくない存在にこのような疑問が沸くことはどんな場合でもあり得ない。この種の問いが意図していることは、「(その御方の)「元」は、「有」である」という科学的に確定した真実で消えるのである。
「有」と「無」を巡る理性的必然の根拠
※Al-Ujud「有」:もとから存在しているという意味。
Al-‘Adam「無」:もとから存在していないという意味。
Al-Asl「元」:源泉、元来等という意味。
1.創造主の元は「有」であるので、かれの存在は「必然」である。
2.宇宙の元は「無」であるので、その存在は「可能」である。
3.「可能」である存在が存在している原因は、存在が「必然」である存在の他ならない。
四段階を経た説明を見ていこう:
【第一段階】
この世界に生きる人間の誰もが、「有」が「無」と相対関係にあること、そして「有」と「無」の他に第三者が存在しないことを疑わないだろう。
この二つの内、片方が確定すると、もう片方は明らかに消える。また片方が消えれば、もう片方は確定する。
ここで私たち自身に問うてみよう:どちらが元なのか?一般的な「無」に相対する「有」が元なのか、それとも、一般的な「無」が元なのか?
この問いに答えるために:どちらかが元であると仮定する方法を採ればよい。そしてそれを元であるとした場合に無効性が見出せるか見極める。
この方法に沿って、心に浮かぶ全てのものの存在の元が:「無」と仮定しよう。
「無」の意味は:心に浮かぶもの、そしてその性質が存在しないこと。つまり、個として存在しないこと、無力、無意思、無知、無命、何も無いこと。
この仮定に基づいて自問してみよう:「無」はどのようにして―それが元である―「有」の状態に変わることができたのか?私たちは自分たちの存在を感じているのではないか?私たちの周りにある数多くのものを見ているのではないか?先に述べたように、「無」の意味は、心に浮かぶ全てのものが一般的に存在しないことを指す。ではどのようにしてこの一般的な「無」から数多くの個体や属性や力がやってくるのか。自身で「無」から「有」に移動したというのか。しかし、この移動は力なしには実現しない。この「力」の元も「無」のはずでは?
直感的に、「無」がひとりで「有」に変身するのは不可能であるし、「無」が何かを存在させることも不可能である。
この件を指すクルアーンの言葉:
「彼らは無から創られたのか、それとも彼らが創造したのか。」(トゥール章52節)
つまり:彼らは創造主なしで「無」から「有」に移動したのか?それとも彼らが彼ら自身を創造し、この移動を成したのか?これは直感的に、両方とも不可能なことである。
ということで:「無」が一般的な「元」であれば、数え切れないこの現存物の一つも存在しなかっただろう。だからこそ私たちは「元」が「有」であると理解しなければならない。
この根拠により、決定的理性的に「無」が元であると成立しない、と確定する。
事実がそのようであるということ、つまり「元」は「有」であることが、同じく決定的理性的に確定する。なぜなら―先に述べたように―「有」は「無」の反対語で、二者の間に入るものは無いからである。
また、相対関係にある二者を巡る「元」の存在に、理由付けや説明は不要である。なぜならそれが存在のために理由を必要としたら、それは「元」とは言えないからである。「元」ではない諸現存物こそが存在するための原因や理由を必要とするのである。
この証明により、二つのことが判明した:
(A)「元」は、「有」であること。
(B)「元」は、 “「元」と言われること”以上の原因や理由を理性での理解のために必要としないこと。
【第二段階】
疑いの余地なく「有」が「元」であるなら、この「元」に「始まり」があることは可能だろうか?そして、この「元」に「無」が続くことは可能だろうか?
この問いに答えるために:
1「有」が「元」であるものの存在に「始まり」があることは理性的に正しくない。なぜなら、その存在に始まりがあるものは、必ず「その存在」を存在させた原因を必要とするからである。そうであるとするなら、その存在が「元」であることはない。
2その存在が「元」であるものに「無」が続くことは不可能である。その存在が「有」であるものを基に私たちは全ての経過する時間に無が発生するとするからである。「有」が「元」であるという事実が継続しているということは、「元」に「無」が発生する理由が決して無いということである。なぜなら「無」は、元来から「無」を属性として持つ存在にしか発生しないからである。
そのため、私たちが「元」であると理解する「有」に「無」が発生することは理性的に不可能である。
この真実を指すクルアーンの言葉:
「死ぬことのない生き給う御方にお任せしなさい。」(識別章58節)
「死ぬことのない行き給う御方」とは、その存在が「元」である御方である。そのため無と死がかれに発生することはない。
【第三段階】
以前の二つの段階で分かったことは:
A.理性的に「有」が「元」でなければならないこと。
B.その存在が「元」であるものに始まりがあったり、「無」が発生することは不可能であること。
では、私たちが見、感じる世界に現存するものたちに目を向けてみよう。それらの「元」は「有」なのか、それともその反対である「無」か。
ここである事実が見えてくる:私たちはかつて存在したことはなく、その後に存在した、ということである。そして私たちは精巧な造りをした存在であることだ。イチジク章4節で至高なる御方は次のように仰せられた:
「まことにわれは人間を最も優れた形に創造した。」
また多くのものがかつて無の下にあり、その後になって私たちが継続して目にしているようにそれらは存在していることである。
また私たちが感じ、また目にする各個体に起こっている継続的な多くの変化などの現象もそうである。
ここで言えるのは:私たちの感覚がとらえる現存する全てのものの「元」が「有」なら、変化や変身、増減、消滅などに晒されることはなく、存在するためや変化のために理由やきっかけを必要としないということである。
しかし実際には、それらは変化や変身に晒されており、その(変化などの)法則が原因や影響を与えるものをそれらに必要とさせている。そのため、理性的に存在物の「元」が「有」ではないことが確定する。つまり存在物の「元」は「無」である、ということである。
そのため、存在物はその存在のために、それらを存在させる原因を必要とする。
この段階で判明したことは:
A.私たちの感覚がとらえる現存する全てのものの「元」が「無」であること。
B.現存する全てのものの「元」が「無」ということは:それ(現存する全てのもの)に影響を与える原因で、「無」の状態から「有」へ連れ出した存在があることが理性的に必然となること。またその存在は、継続的に現存する全てのものに影響を与えていること。
私たちの「元」は「無」であり、私たちは存在しなかった後に存在したことがクルアーンに載っている:
「人間にはなにものとも呼べない、長い時間があったではないか。」(人間章1節)
「無」を経験したものには必ずそれを存在させた存在があることが直感で理解できるのは周知の事実である。その存在こそが、創造主である。
【第四段階】
以前の三つの段階で三つの事実が判明した:
1理性的に「有」が「元」でなければならないこと。
2その存在が「元」であるものに、始まりと無が発生することは不可能であること。
3現存する全てのものの「元」は「無」であり、それらは存在するために存在するための原因を必要とすること。
この三つの事実が判明したので、理性が完全に、異議なくそれらを受け入れるよう和解する必要がある。そのために言えることは:
第一:理性的に、偉大な存在の存在が必然であること:その存在は現存する全てのものの「元」であり、その存在が「無」となることは不可能であるので、その存在は、「理性的に存在が必然である御方」である。
第二:目に見える世界の「元」は「無」であること。そしてそれらを「無」から「有」へ連れ出し存在させる原因が生じていること。
第三:世界を存在させている原因が、偉大なる存在のほかにないこと。その存在は「元」であり、その存在は、存在が必然である御方である。かれは、「至高なるアッラー」である。
締めくくりの言葉:
この解説により、「アッラーはどのように存在したのか?」といった疑問は完全に消えるだろう。なぜならこれは論理にも理性にも基づかない疑問だからである。しかしこの問いは、その「元」が「無」である存在に対して有効であるといえる。なぜならそれは、「無」から存在させてくれる存在を必要としているからである。
かわって、理性的にその存在の「元」が「有」で、「無」が相応しくない存在にこのような疑問が沸くことはどんな場合でもあり得ない。この種の問いが意図していることは、「(その御方の)「元」は、「有」である」という科学的に確定した真実で消えるのである。
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