自分を肯定できる材料がないというのは、なかなか厳しい。
人より秀でたものもなければ、ありふれた日常を維持できているわけでもない。生きる意味がない、なんて大層なことを言いたくなる。
たとえば今、経済的にかなりな困窮生活を送っていて節約節約・支払い支払いの毎日なんだが、かといってそれで死にたいくらいしんどいわけではない。
好きだった本もCDも、なくても全然平気。しんとした部屋でじっとしているのも平気。TVは嫌いだからなくてもいいし。これはつまりそういう娯楽的なものへの執着がないってこと。
うまいもんが喰いたい!とも思わないし。
どうしてもしたいことがない。
思えばニート前からもそうだった。漫画やCDには執着あったけど他にはこれといってなかった。喰い物にも旅行にも遊びにも就職にも。だからダメなんだ。
今、どうにも先細るだけしかない人生をそうそう楽観もできない状態で眺めていると、あまりよい精神状態にはならない。
よくいうところの、死ねば楽になれる的な思考がよぎる。なんていうと、死ぬのはいつでもできる、死ぬ気でやってみよう等と怒られそうだ。死ぬ気でやったとして、うまくいかなかったらどうしようか。現実的にいえば、ここでもよくいっている「体を壊す」。今以上にどうにもならなくなる。死ぬ気でやってダメだった場合は死んじゃってもいい、が「死ぬ気でやってみよう」論者の次点策なんだろうか???皮肉ではなく。
死にたいわけではない。楽にはなりたい。それだけのこと。今死ぬと、何だか負けた気がする。何が敵かも分かっていないけど負けた気がする。それは嫌。母一人残して死ぬわけにもいかんし。
俺って何なんだろうなと思うわけだ。日々。
楽しく笑って過ごせる、が目的なんだろうか、俺の人生。うん、幸福にはなりたい。楽しく笑って過ごしたい。笑って、はいらないかもしれない。楽しく過ごしたい。心平穏に、安穏に、安楽に。しんどく働くのは構わない。そういう大変さは大丈夫。体が壊れることだけが嫌。
楽しく過ごしたいの状況を考える。
栄養バランスのいい食事を毎食食えて、家族二人ちゃんと病院に通えて薬も買えて、ヘラヘラ話ができればいい。結局、経済の安定なんだよなあ。堂々巡り。
人より秀でたものもなければ、ありふれた日常を維持できているわけでもない。生きる意味がない、なんて大層なことを言いたくなる。
たとえば今、経済的にかなりな困窮生活を送っていて節約節約・支払い支払いの毎日なんだが、かといってそれで死にたいくらいしんどいわけではない。
好きだった本もCDも、なくても全然平気。しんとした部屋でじっとしているのも平気。TVは嫌いだからなくてもいいし。これはつまりそういう娯楽的なものへの執着がないってこと。
うまいもんが喰いたい!とも思わないし。
どうしてもしたいことがない。
思えばニート前からもそうだった。漫画やCDには執着あったけど他にはこれといってなかった。喰い物にも旅行にも遊びにも就職にも。だからダメなんだ。
今、どうにも先細るだけしかない人生をそうそう楽観もできない状態で眺めていると、あまりよい精神状態にはならない。
よくいうところの、死ねば楽になれる的な思考がよぎる。なんていうと、死ぬのはいつでもできる、死ぬ気でやってみよう等と怒られそうだ。死ぬ気でやったとして、うまくいかなかったらどうしようか。現実的にいえば、ここでもよくいっている「体を壊す」。今以上にどうにもならなくなる。死ぬ気でやってダメだった場合は死んじゃってもいい、が「死ぬ気でやってみよう」論者の次点策なんだろうか???皮肉ではなく。
死にたいわけではない。楽にはなりたい。それだけのこと。今死ぬと、何だか負けた気がする。何が敵かも分かっていないけど負けた気がする。それは嫌。母一人残して死ぬわけにもいかんし。
俺って何なんだろうなと思うわけだ。日々。
楽しく笑って過ごせる、が目的なんだろうか、俺の人生。うん、幸福にはなりたい。楽しく笑って過ごしたい。笑って、はいらないかもしれない。楽しく過ごしたい。心平穏に、安穏に、安楽に。しんどく働くのは構わない。そういう大変さは大丈夫。体が壊れることだけが嫌。
楽しく過ごしたいの状況を考える。
栄養バランスのいい食事を毎食食えて、家族二人ちゃんと病院に通えて薬も買えて、ヘラヘラ話ができればいい。結局、経済の安定なんだよなあ。堂々巡り。