レダック ピースボートに乗る 改訂版12

2014-07-09 18:06:01 | 日記
④ タヒチ ?の楽園 (6/2~3)
 6日間の航海の後、6月2日はタヒチ島 パペーテという港に、3日は同じくボラボラ島で遊ぶ。ボラボラ島は大型船は入れる港はないので、港の近くに投錨しテンダー船から上陸する。私は行けなかったけれど、OPで「バリハイ」の清澄な歌声の主題歌「南太平洋」の舞台となったモーレア島に行った者もいる。地上最後の楽園といううたい文句もあるように、垂涎の観光地である。(ピースボートから見た日の出 と タヒチの日の入り)
(もっとも交通手段と目を剥く宿泊料が問題で、通常では行くのは困難)
 物価は(相対的に)高い。店は商売熱心であってもある線以上は負けない、村中を走っても、いかにも村ではあるが、目にする限りは貧民街はない。南米訪問国に比すれば、総じて豊かなのである。なぜとなれば、フランス自治領であるからだ。どういうことか。フランスの核実験地としてムルロア環礁が汚染され、被爆者が出た歴史を持つ。だから、反核と独立を目指す裸足のGさんがピースボートの水先案内人として3回ほど講演と+αの交流を行った。しかし、フランスはいまだ手放していない。過去・および現在の代償としての一定の豊かさがあるのだろう、そして、今後も踏まえると、最後の楽園を死守しなければ立ちいかなくなるおそれがある。環境(観光)資源保護は必須のことなのだ。物価の目安はとしては、私は食べ物を判断基準にしている(それしかないが・・・)し、店を選ぶにはローカルがバンバン買いに行くような店かどうかをまず観察する。昼の軽食として、マクドのような店で、フランスパンを使ったホットドッグ(確かにパンがうまい)とコーラで500フランだった。現地通貨はフレンチ・パシフィック・フランというが長いのでフラン。1フラン大体1.2~1.3円。だから600円強となる。道に出したベンチに座れないほど客が多い。ジェラートの店では2スクープならやはり500フラン、これも学校帰りの高校生でも普通に入ってくる。スーパーで買うローカル・ブランドのヒナノ・缶ビールが230フラン(発泡酒なんか探しても無いもんね、日本での僕よりリッチや)
ゴーギャンの「タヒチの女」はあまりにも有名だ。だから住民はほとんどポリネシアンと思いきや、経緯からフランス人らしき白人も結構見かける。ただし我々含め、観光客が多いので見分けがつきにくい。公用語はイースター島と通底するポリネシアの言葉とフランス語だそうだが、観光業者でも英語が話せるとリーダー格。日本人観光客も多いせいか、それどころか町?村ですれ違うと「ありがとう」「こんにちは」、翌日のガイドなどは「上を向いて歩こう」なども歌うし、どこで「日本語ならったの」と聞かれて、「にほんにお嫁さんいる。ウエトアヤという」くらいの冗談を言う。会った限りでのタヒチ人は陽気。
両日ともOPでなく、自分らで自由行動した。タヒチの港は一歩出れば中心街。自動両替器で現地フランを手に入れ、郵便局へ。ジブラルタルでの教訓から切手はその国の通貨で。特にタヒチの切手は原色を使った華やかな色彩で、収集家の間では人気があるとも聞いていたので、絵葉書を書き溜めていた。しかし、記念切手は大きすぎる。一番小さな通常のモノを求めるものの、それでも既に書いた宛先にかぶり、持っていた鉛筆で修正や書き足しという不細工なものになってしまった(ゴメン)。
次にマルシェという庶民の市場へ、2階が各店舗になっており、色鮮やかなパレオという手織りの布が代表的土産として吊り下げられている。妻のお買いものの付属亭主として見て歩く。ガイドブックに掲載している布地屋にも行く。さらには、上にあげたビール会社がそのブランド名を活かしパレオやアロハシャツ・バッグなどの土産物をやっている店にも行く。キリンやサントリーのTシャツというわけです。それに黒真珠が特産品らしく、その博物館を覗くと、西太后やエリザベス女王の人形に数えきれないほどの黒真珠が飾られているのが印象的だった。
 タヒチに来て泳がないのはご先祖様に申し訳ないというほどたいそうなことではないが、やはり癪だ。ところで、どこにいけばいいのか。ここらが無計画な習性ゆえの効率の悪さで、とにかくiインフォーメーション・センターで聞いたバスに乗り込み、リゾートホテルの前の駅で降りる。やはり無計画な若者10人ほどはそのまま、もっと先まで乗っていく。ホテル内を少し行くとプ-ル、その先にたった4人だけがたわむれているビーチが広がっていた。スタスタとそこまで下りて行けば一組のアベックは日本人。「プライベートビーチかどうか知らない」という。さすがに妻は遠慮したが、私は意地で海に浸かった。波がきついうえに、3mも足を踏み入れればいきなりの深み。どうする?いままで行っていたジムはプールが無いので当然今年は初泳ぎ、老化の表れか明け方に足がつる、等々の総合判断から、「危険」マークが点滅する。ビーチに入るときに読んだ看板では「プライベートビーチだから入るな」ではなく、「ホテルは事故には一切責任を持たない」だったことも思い出す。頭をよぎったのは、確か吉本隆明は鎌倉の海で溺れかけたという記事をよんだことがあったなあ、ということ。有名人ではないが、「タヒチの海で日本人観光客溺死」なんど格好悪いではないか。それでも、未練たらしく波打ち際に平行に30mほど2往復して早々に着替える。帰りのバスもあまり待つことなく港に帰り着いた。帰船までの時間が生じたので、妻は「カードがあれば買える」病にかかり大満足でした。私はといえば、タヒチの海に瞬間的に浸かった、ジェラートを食べた、スーパーで買ったヒナノ・ビールを公園で空けた、ということで、ちょっぴり不満なタヒチの思い出でした。そうそう、この港の公園はジョガーであふれており、そこまでは生きていたい東京オリンピックでタヒチの選手を見られたらイイナと思いました。そして、公園の一画には核実験で犠牲になった200人ほどの慰霊碑にピースボートからの花束が献じられておりました。
その日の5時には出港し翌朝、ボラボラ島に。ここのヴァイタペという港も小さいので、目と鼻の先ながら投錨し、テンダー船で港へ。ただし、イースター島のような救命具などつけずに普通の観光船の感じで数分で着く。ここも自由行動で、まずは昨日の不完全海水浴の挽回とばかりに、ホテルのシャトル?・ジープ?荷台に9人で乗る(一人5$or500フラン)。村道をぶっ飛ばし、先に上陸して歩いているorレンタサイクルのピースボートの諸君を追い抜いて、着いた先には、環礁で囲われたそれはそれは美しい海がまっていました。環礁のあたりだけが外からの波を受けるせいか波頭の白線で、薄い水色が続き、すぐ近くは透明のためお魚が群れているのが見えます(ただし水の色と一体化し極彩色のものではありません)。自然ってこれだけ美しいのかと思ったのは、NZとこの海が双璧でしょう。本当に遠浅で、環礁で囲まれた巨大なプールと言えます。どこまで行っても、遠浅かどうか?そこまでの勇気はありません。でも白く波頭の見える線の半分くらいまでは行きました。ピ-スボートの若者グループも、そのあたりから引き返してくるのを見ると、そこまでで充分です。妻も喜んで遊泳していました。
 今後は望めないだろう生涯最高の海水浴場で二泳ぎして、ホテルのシャトルで港へ戻る。というのは、朝、港に先着した妻(テンダーボートに乗る順番がわずか一人の差でばらばら)が、港のiで尋ねた「ラグナリウムに行きたければ12時半に来い」と言われていたためだ。無計画だと誤算が二つある。港周辺の食堂は1ケ所で満員、i には誰もいない?!
 客ひろいのために集まる車・船の業者等に尋ねる。一つは行くがピースボートのOP用だって、それでも、車で○○まで行けばそこから船が出るとのこと、やはり行先を探していたピースボートの女性乗客3人とその計画に乗った。おかげで昼は昨日タヒチで買ったおいしいフランスパンを分けてしがんだだけ。午前中の道をもう一度走り、美しいビーチのホテルからさらに客を乗せ、さらに道を進め、小さな船泊まりに着く。小ボートで、波を蹴立てて美しい海上を行く。見えてくるではありませんか、誰でも一度はTV等で見たことがあると思われる海上のコテッジの連なりが。これはインターコンチネンタルのものらしいのですが、1泊の最低が8万~10万ですって。ゲゲゲーー。そして、欧米以外では中国人と日本人がよく泊まるんだって、新婚さんとか、ソウナノ、オホホホ・・
 そこを行きすぎ着いた島で、水着に着替えるよう言われ、水中メガネ・シュノーケルを渡される。我々も同行の女性客も自然水族館くらいの知識で、グラスボートみたいなものを想像していたのだが、まったく違った。女性客の中では娘時代が一番昔にあった人だけがこれに挑戦した。まず、海亀の生息している自然の生け簀を見てから、鮫とエイもいる生け簀に連れて行かれ、自由に遊泳しエイに触り、鮫を身近に泳げ、ということらしい。エエ!!海亀の所でもかつては一緒に泳いでいたのだが、噛みつくことが分かったので、今は見るだけという。それなら鮫は?? この鮫はレモン鮫といい、人を襲わない、と言われてもネ。心理的抵抗をなくすため、最初のカメは見るだけ、次にエイは水に入って触るだけという手順を踏む。触りましたよ、もちろん僕のことだから「エイ」という気合とともに、なーんてネ。皮膚はぬめっとしてるが固い、長い尾は節が連なっているようでザラザラして痛い。もちろんエイさんも泳いでいるのだから、わずかな間だけ触れる。結構愚直なやつのようで、遊泳中おしりに何か当たったので海中をみるとエイさんだったりして。他の皆さんは道具を使って、海中を楽しんでいるが、僕はそうはいかない。あちこち悪いが、右耳も鼓膜が破れており、水中に顔をつけると水が遠慮なく入っていく。仕方なく、ただ平泳ぎをしているだけなのです。それでも体長2~3mのレモン鮫が側を通ると、緊張する。
かなりの時間泳いで、帰る段になって、「皆集まれ」ということになった。どうせCMだと思ったがパレオの結び方講習。3種類の結び方をそれぞれ客をモデルにして行われる。皆、ということは妻も含めて感心する。私の内部の声「何や、結び方も知らんと買いまわってたんかいな」。ところが僕も指名される。結局パレオの褌でした。
ピースボートのOPで来た連中と交替で帰ることになり、また10万円コテッジを横目に見ながら、帰船したのでした。行けて良かった。あとはハワイだけだ。思い残すことはないほど、満喫した。

⑤ ハワイイは、結構難しい島だった
 6月3日夜半、ボラボラ島を出港したピースボートは一路最後の寄港地ハワイを目指したわけですが、途中で怪情報がまことしやかに流れます。これまでの見事に左右に描かれていた船の水脈が、右側半分しか出ていない、エンジンの半分が止まっているに相違ない、ハワイ到着も遅れるだろう、あるいは船の状態はもっと悪いかも知れない、というものです。食事の合席していた人から聞かされ、他の人にも確かめると、噂は知っているということでしたし。最近変な揺れがひどいということは皆の思うところでもあったのです。がぜん話は盛り上がり、もし、ハワイで入港が認められなかったり、エンジン修理のためにドック入りしたら、ホテル代は誰がもつのか、等々。しかも、その話を切り出した人が、「他の船に詳しい人と、日本側の責任者(ジャパングレースのHさん⇒スペイン モトリルのバルで僕が軽口を言った相手)に聞いても、否定したけれど、彼はほんとのことは言わない人だ」と、話は大きくなります。翌日には航路説明会があるので、そこで明らかになるだろうということで、いちおうお開きに。その説明会、Hさんのほうが先手をとった。「最近、妙な噂が流れているようです。皆さんも暇ですね・・」と切り出し、片肺飛行・・じゃなかった、片肺航行?は、時間調整のための予定の行動であり、左エンジンも点検後、動かす予定とのこと。
 というドタバタがあったものの、6月10日朝、ハワイ オアフ島の港に到着した。予定通りであった。ところが今までとは違うことがある。テロ対策に敏感な米国では、個別の対面審査が必要とされるのであった。これまでの国は、飛行機と船の違いはあるが、事務局が一括審査を申請し、マ多分問題にもならなかったのだろうから、「全員の上陸許可がおりた」との放送で船外に出たのである。ところが、この朝8時過ぎに、パトカーを連ね港の税関・入管が乗船してきた。少しばかりたまげたのは、麻薬犬である。犬まで乗船してきている。おまけに、米国にとって、PBはいかにもうっとうしい船なのであろう。カリブ海諸国、LA諸国には寄港しても、久しぶりの入国らしいのである。船内講演では、いかに米国が19世紀末からLA諸国を支配してきたかという講演が続いているのである。ご当地ハワイについても、カメハメハ王朝を廃絶させ、軍事のかなめ石として整備しなおすとともに、米本土の観光資本が押し寄せ現地住民の生活破壊を推し進めていったかなどの講演もあった。あのワイキキの浜辺も人工のものとは恐れいる。その中で、あのスペル通り、現地の人にとって、ハワイではなくハワイイなのだ。講演の中身まで知っているわけではなかろうが、米当局にとってはピースボートは胡散臭い船という評価は定着しているのだろう。被爆者の語り部を乗せて各国で啓発・講演活動するような御一行様は、米軍需産業界にとってはウットウシイに相違ない。
 マ、それはそれとして、対面審査はスムースであったのに拍子抜けする反面、帰船のチェックはベルト・荷物等結構厳しかった。ところで、海外旅行の経験の多い妻(およびそれほどではないが私)ではあるが、ハワイは初めてなのである。そして、感じたことは、日本人が溢れかえり、誰が居住者か分かりにくく、ツアーならともかく、自分らだけで旅行するなら、よく調べてからでないと結構移動が難しい島だということであった。ハワイが名だたる観光地だからと舐めてしまって、OPを申し込まず、自力活動を目論んだのが結果的に悔いの残ることとなってしまった。だから、この項については、自力でハワイ観光しようという人にとっての反面教師くらいの値打ちはあるかも知れない。
 10日の予定としては、講演でも聞いたRemember Pearl Harborに「アリゾナ記念公園」ができており効率的に見学できるということなので、まずはそこへ行く、そして妻の自主活動グループが17時に有名ホテルのディナーでハワイアン見学という企画に便乗するというもの。対面審査が終わり結果的に下船できたのは11時過ぎで、しかも港からは、どうも直接行けず、ほとんどが中心街であるアラモアナ・センターという所かワイキキまで行きバスに乗らなければいけないということが分かった。そのアラモアナに行き、iで翌日のアクティビティで申し込めるものを問い合わせたが芳しい結果は得られず、アリゾナ公園へのバスの時間も分からないので、まずは昼食を取ろう、このセンターには回転ずしもあるのでそこで腹ごしらえをすることとした。これがまず失敗、日曜の昼時のせいもあって、おまけに米に吸収されたカメハメハ大王の生まれた日とかで大層な人出、20分ほどでやっと席に座れたが、寿司店なのにビールはおいてない(そうなんですよ、よく調べて行かないとネ)、マアマアのものもあるが総じてマヨネーズべっとり・・期待外れのランチだった。  ともかくアリゾナ・メモリアルに行こう! でもバスストップが分かりにくい、しかも時刻表などありません、ともかく行先方面の番号の書いたストップでひたすら待つ、待つ、待つ・・・「オーイもう半時間や」「ガイドには40分くらいおきとあった」・・・「オーイもう40分や」「あきらめて離れたとたんに来たら癪だし・・」・・・「オーイ 50分たった」「ウーン」・・とそこへ来たんですね。このバス乗車が実は一番の勉強になったのかもしれない。2~300mも行かないうちにバスストップに出くわし、まさにハワイアン(ハワイイ現地人)の生活の足になっている様子を見てとれたからである。それと、どこでおりたらいいのか、前方に小さな字なので見過ごすところであったが、「次停まります」と地域(カウンティ 郡かな?)―駅名が表示されていたのを見つけて一安心。また、降車の意志はボタンが無いのでこれも観察していたら、窓に沿わせてゴムひもが一周してある、これを引っ張るわけネ。前方の表示板に「ARIZONA MEMORIAL」がでる。ア、ここや、思わず強く引っ張る。焦る必要はないのネ。たくさん降りたから。
日曜なので、白人・現地人含め家族連れが多い。なるほど・・・。でも貴重品とカメラ以外の荷物の持ち込みは禁止、荷物預けの3ドルが実質の入場料、そうなのです、特別メニューを取らなければ無料ということの意味を考えるべきなのでしょう。荷物を預け、警備員の示す人一人しか通れぬ入り口を超えたところのiで、係員が親切な案内をしてくれる。
 あとの施設を大急ぎでみてまわり(時間があれば現役の戦艦ミズーリ―に乗船することも可=有料)、いつ来るか分からないバス停へ急ぐべく荷物を取りに行ったら、顔見知りのPB乗客と出会い、彼らもディナーショーに参加予定ということでタクシーに乗り合わせて、ゆうゆう間に合った。間に合い過ぎて、時間をかけて昼飲み損ねたビールとピザ・エビフライなどに時間をかける。結局歌とダンスが始まりだしたのは19時ころ、おまけに途中で、多分フラダンスのワークショップ付きの御一行様の発表会もどきのとび入りがあった。日本人のオバンのフラダンスなど見とうもないレダックは、妻を促して失礼することにしました。ウィンドショッピングも兼ねてアラモアナまで歩きましたが、途中で道に迷いかけるなど結構な距離ではありました。ハワイ一日目あまりいいことは無かったけれど、ピザやスイーツはさすがでありましたことを付記しておきましょう。
 6月11日、昨日の失敗に懲りて、観光客用のトローリーバスで行こうと決め、切符を販売しているビルに行く。一番経済的なのは路線バスで、乗車時2.5ドル払いながら「乗り継ぎ」といえば乗り継ぎ切符をくれる。それでどこまででも、その気になれば島一周でもできる。時間の制約がなければ、それもまた良し。しかし、いつ来るか分からない。このトロリーバスは、まわる路線が4方面に分かれており、その路線内では乗降自由である。時間については、40分ごととか30分ごととか路線によって発着のローテーションが違う。迷いながら3路線が使えるお得切符のお勧めを買った(馬鹿だね・・) たまたまRed方面の発車時間が近いのでそれに乗り、目的地はとりあえずホノルル美術館へ。2階建てのオープンカーのいかにも観光地のバスという感じでワイキキの浜辺を見やりながら、美術館に9:55到着着。だから、次は10:35ということか、40分で回れるかな?と焦りながら見学する。西洋美術とアジア・オリエントと大別されていて、とにかく西洋を中心にまわる。それなりに著名な画家の作品も少なくなく、一見の価値があった。気がつくと10:40ころ、あわてて玄関に行くもどうやら出たようで、もう一度入りなおす(そんな客も多いようで入館シールを付けていると再入場できる)。日本のコーナーもあったが、大したものではない、中国・韓国・イスラムのコーナーもあるが、仏教美術ではこれらが混然と展示されているので、混乱しかねない。こちらは、類似のものは見慣れているせいもあり、あまり見る価値は感じられない。今度は11:10に出る。来ない・・来ない・・・来ない、ナンデ? 同じ方面に行く路線バスは何台も行く、2.5ドルで行けたのに・・・。ひょっとすれば僕らの乗った便は結構市内が混んでおり、予定時間より遅く到着したのかもしれない? もう、待つのは慣れっこ、美術館の外壁にしつらえてある席で、風に吹かれて泰然自若と待っておりました。11:45ころ、2階建てバスがトローリとやってきました。Haa--、来ないわけはないんだから。でも、もう一路線も乗れる切符なんだから、それも使わなくてはもったいない。チャイナタウンで食事してたら、最終の出発時間に間に合うか? 買い物もしたいと妻は言うし、なんで時計見ながら、焦らなアカンの? というわけで、とりあえず出発地点まで戻った時は13時になろうとしていた。途中、カメハメハ大王の誕生日が昨日であったことから、その彫像にたくさんのレイで飾られているのだけはしっかり見ましたが・・・。
グリーン方面のバスは13:10発、ランチ抜きかよ?こうなりゃ、お仕事だね。切符売りの日本人のおばさんが教えてくれるには、「このバスストップのカフェ&マートの食事がおいしいと、わざわざ報告に来てくれたお客さんがいる」とのこと。マ、それで我慢しよう。
ダイヤモンドヘッドの登山口に着く。1時間半かかるそうな、パス。デ、やっと件のバスストップに着いたのはいいが・・どれ? 自家用車を駐車場に止めた人々が、次々とハンバーガー屋に隣接したパンとお惣菜屋風の店に入っていく。店の前に壁沿いにテーブルがあり、そこで数人がサンドイッチなどをぱくついている。エ、レストランじゃないの?まあイイか、早速店に入り、サンドイッチ、パン、飲み物、焼きアスパラ、なんか料理したハム?などを仕入れ、空いているテーブルでやっとランチ。確かに味は悪くないが、わざわざバスの切符売り場のおばちゃんに報告しに行くかねえ? 山の強風で、パックが飛んでいくなどの自然の食事だったけれど、まだ終わらないうちにバスが来る。なんで、ゆっくりしたいときにもう来ちゃうわけ? 結局、ハワイイのバスと我々は相性が悪いということで諦めました。年行けば人間ができてくるのです。
せめて、最後の夕食は、ということで、アラモアナに戻り、妻の買い物中、休憩と下見をかねてブラブラした。最後の土産を買うチャンス、でも妻と別行動で財布にはドルがない、マ無事に帰れば良いだろう、それにハワイの土産など珍しくもなんともなかろう、などと勝手な理屈をつけてベンチで休んでおりました。買い物の終わった妻と待ち合わせ、「つきじ」といういかにも日本料理ッポイ店を覗くと、それなりの値段だったが、横の数字は何だ?Happy Timeとある。例えば15$の横に9$、今は18時を回ったがお姉さんに聞いてみよう、「今?Happy Timeでいけますよ、20時半まではそうです」。決めた!そして迷わず注文する。「ドラフトビール、アキ・ポケ、キャリフォルニア・ロール、スパイシーエビ」。イヤア感激、アキは鮪 ポケは生で、つまりは刺身。角切りだが山のような刺身、エビは40匹はありそう、食べても食べても減らない、ということで食べきれず、ビールをお代わりして、二人で約30$、イヤアHappy Timeでした。(ハワイの常連者にお聞きします、これって一般的?)


レダック ピースボートに乗る 改訂版11

2014-07-07 07:10:21 | 日記
第4章 ポリネシア
  ① イースター島 モアイとご対面(5/25~26)、ラパヌイの人
イイースター島はチリ領である。ペルー領であった時期もある。だから第3章の最後として位置付けるべきなのかも知れないが、講座の中で、オランダ人の冒険家がこの島に上陸した日が、キリスト教の復活祭だったのでイースターと呼んだということで、国際的にはこれが通用しているだけのことで、島民自らはラパ・ヌイと呼び慣わしている。遠い昔から、ニュージーランド・イースター・ハワイを結ぶ巨大な海域の三角形内で海に暮らす人々が行き来したポリネシアの民であり、当然文化も類似している。ニュージーランドのマリオも、タヒチの住民も同じルーツを持ち、ポリネシアの海の民と認識している。
  5/25(日)未明 イースター島を目前にする。ピースボートのような大型客船が接岸できるような港はない。投錨して、テンダーボートで渉るのだそうだ。投錨は危険を伴う作業なので明るくなってからやる。おまけに入国に関してのチリとの協定の加減で税関書類、持ち込み品チェックがある。だから大変時間がかかる。出発できたのは昼前となった。
  OPは、英語ガイド半日観光(15,000円)で、CC通訳付きだともう2千円高い。この費用には、チリの国立公園指定による入島料7千円が含まれているそうだ。我々は、本日の一番最後のグループで、救命胴衣をつけてテンダーボートに乗り込む。波に漂っているのでクルーの差し出す手を握りながらでないと難しい。3列3人の9人乗りで、前に一人の先導役と後ろのエンジン操作役、11人乗だ。5分ほど波しぶきをたて、着いたところがアナケナ浜という。数十人が水着で戯れている。書類提出と簡単な荷物チェックがあり、入島料を払った目印の腕輪をつける。バスではなく、10人乗りくらいのワゴン車2台で1班、ガイドが一人つく。地図を見たら、イースター島そのものは二等辺三角形を斜めにおいて右の底角だけをちょん切ったような形だが、その右辺の中点からから左の底角まで縦断道路が伸びており、その他の道路は海岸沿いだけのようだ。海底火山の噴火で溶岩流が冷えて固まりできた島だそうで、なだらかな丘陵と平地が続き、小高い所も山というよりなだらかな古墳が点在するような、はたまた女体の乳房のように伏せたお椀がところどころに、といったやさしい地形である。木もまばらで、森がないのだが・・。
各見どころでパンフとガイドから語られたラパ・ヌイの歴史は、次のようなものであった(と思う、CCはいないんだから)。
ここラパヌイでは、人々は氏族clan、つまりは共通の先祖を持つとされる血縁集団の中で暮らしていた。複数の氏族の中のある氏族の長が島全体の中で王となり統治するというルールがあった。どうも、モアイは氏族ごとの祖先のシンボル、あるいは守り神として造られたということのようだ。だから、モアイは海に向かって建てられているのかというとそうでなく、海沿いではあるが氏族の住む内陸に向かって建てられたというのが正解。そこらに気まぐれに建てられた(置かれた?)のでなく、おそらくは墓所として造られた石の祭壇(アフと言われる)の上に建てられたというのが公的?正式?のようだ。しかし、人口増加などの要因で、王を決めるルールが守れず、氏族間戦争みたいのものがおこったらしい。氏族同士が血を流すと同時に、敵のシンボルであるモアイを倒す、文字どうり立っているものをこかす、横にする、さんごや真珠をモアイの目として張り付けたりはめ込んでいる場合はそれを取る、という時代があったとうことだ(モアイ倒し戦争って、何とも運動会のようなのどかな名前で呼ばれている)。それで、倒されたり明後日の方向を向いたモアイが見られるし、海に沈んだものもある。(モアイにも不幸な星の下に生まれたモノがあったんですね)
デ、このモアイを、造っていたのがラノ・ララクという岩山。モアイ工場があったんだ!岩山の岩に直接、長い耳をもった顔と、肩から下という具合に、いわばモアイ原型として切り出す。それを山の斜面を利用して作業しやすい足場のある部分までおろし細部まで刻む、そして、できた完成品を運ぶ、ということで1丁上り! そのとてつもない作業にはテコやコロみたいな道具(地元藤井寺の修羅を思い出す)を使うためおびただしい木が必要とされ、ために森が無くなってしまったという話だ。また、作業途中で放棄されたため(その理由は認識できてません、また調べておきます)刻みかけのモノ、やりかけのモノなどの出荷前モアイ、生産途中モアイ、移動失敗でうつむきに倒れ顔面がめりこんだと思われるモノなどが累々とある。(こんな形容詞でいいのかな? 死体みたいだね、2~3mくらいのモノから、大きいものなら10mを超すーー地上に6mくらいの顔と肩からの一部が現れていても、地下には同じ長さの胴体が埋まっているーーモアイ君もいる、この表現もおかしいネ、あるが正しい? だんだん擬人化が激しくなってきた。ゴロン ゴロンとが一番近いのかな)ちなみに、ラノ・ララクで最大と推測されるのは作業しかけで、まだ岩に一部刻みかけたモノだが、完成すれば22m(1階で3mとっているマンションなら7~8階の屋上!)に及ぶそうだし、通常男性だが女性のもあるという話だし(見ていない)、立っているのではなく正座しているモアイ君もいる(これは見た、おかしい)
これに対し復元されちゃんと立っているモノの中で、観光写真でも知られている完成モアイは、アフ(覚えてますか?数行前にありましたね、石の祭壇)・トンガリキの15体です。その中で、茶色の帽子を被っているように見えるモアイ君は身長も高く目立っています。でも、帽子ではなく、ラパヌイの人の髪型(長髪をちょんまげのようにして括る)という説もあります。チリ地震で倒されたモアイを日本の重機会社が立て直したという話も聞きました。
もう1ケ所、最初に上陸した浜には7体のモアイ(4体は帽子・髪付き)と、別の所の最初に修復されたモアイがありました。9百体ほどがあると言われる中で、結局見たのは50くらいですが十分ご対面は果たせました。(書く方も読む方も、モアイの話は、もー飽きた、もー飽い、た、ようなので)これ以外の見どころとしては、ラノ・カウ山という噴火山の火口に雨水がたまり湖となったところがあります。外輪山の直径は1.5Kmもあるそうですから珍しい。また、隣接するオロンゴ岬には、かつての全島支配の王様を決めるために鳥人間コンテストがあったらしい。そのレフェリー達が試合の間住む石積みの住居址も珍しいもので、掘られた地下の空間が家というべきで地上の石積みは1mもなく、人一人がくぐれるかどうかという狭い入り口含めると、まるで塹壕(トーチカ?)のようだ。立って歩けないほど狭いので膝を抱えて眠ったと推測されている。それでも、ヨーロッパの外敵の前では無力で、天井に書かれた絵が珍しいというので剥がされ持って行かれたということだ。
帰りのテンダーボートで一瞬ヒヤッとした場面があった。ピースボート本船に着き下船のためにロープで固定しようとしたちょうどその時、止まる前の船の勢いと波のため、テンダーボートの舳がピースボートの舷門からのタラップの一部に食い込み、その衝撃で大きく傾き、目の前の婦人が危うく落ちかけた。ピースボートの人間も必死でロープを操作し、食い込みが離れたので結局難に至らなかったが、どこにでも事故の要素は転がっている。
さて、ラパヌイについては、水先案内人として乗船していたEと、Eの活動を抜きにして語ることはできない。かつての王の一族の子孫である彼は、チリの大学で建築工学も学んだが、今はラパヌイの文化――民族音楽・ダンスなどの継承と伝播に奔走する音楽家である。
20代後半の肉体たるや頑健で、たまたまトレーニング室で一緒になったんだけれど、ロープを使って一流アスリート並みの筋トレをしていた。ラパヌイに伝わるダンス(ラグビーのNZオールブラックスで有名な試合前のダンス=ハカと同様のもの)、あるいは彼が作曲した歌(ギターやパーカッションも操りながら)を我々に披露してくれる催しをやってくれたり、ワークショップを開いて彼がこの船に来てから作詞作曲した音楽とダンスを教えてくれるなど、E旋風が吹き荒れた。韓流ヨン様ブームが沸き起こったと同じように、E様ブームがおば(あ)さま族の間で起こったのだ。25日の夜、彼が島で育成している音楽・舞踊NGOのメンバー数人も乗船して開いた発表会は熱気に包まれた。ワークショップの数十人の?メンバーも舞台に上がりラパヌイ語の歌と踊りを披露した時は、短時間のうちに見事なものだとしかいいようがない。
 妻もE様ファンになったのだが、妻だけが知る体験がある。26日に彼の一族や、NGOで学ぶ子供たちも乗船してきて船内を見学していたのだが、妻がトレーニング室で一人ウオーキング中に、4名の子どもたちが入ってきてトレーニング・マシンとともに自販機に興味を示したということであった。船内の自販機はすべて現金は使えず、いつも身につけているIDカードをかざして清算するので、妻はおごってやったらしい(すごい!)。話していると(学校では英語を学習している)、Eの話になり、「結婚はしていないが恋人はいる、同棲はしていない」というような情報がもたらされたらしい。どこでも「女の子はやはり関心があり、よく知っているんだ」というのが妻の感想。
 Eやラパヌイの人々、そして千人(じゃなかった)千体近いモアイ君、マウルル(ありがとう)、イオラナ(さよなら)。26日夕刻錨を引き上げ、6月2日に間に合うよう、タヒチ パペートに向かう。デモ、ラパヌイで予定を1日延したため、遅れを取り戻すかのように、船足が早まったんじゃーナイ? その後の揺れはかなり激しい。ランニングマシンに危なくて乗れないよー。 


レダック ピースボートに乗る 改訂版10

2014-07-06 16:11:47 | 日記
③ ペルー リマと、クスコ・マチュピチュ
 5月13~15日、ペルー海流(フンボルト海流ともいう、寒流だし、南半球なので冬に向かうところで結構寒い)に逆らって太平洋に南下したピースボートが、首都リマの外港カヤオに着いて上陸許可が出たのは16日10時過ぎでした。あまりにも有名になった世界遺産マチュピチュへのOPが2日・3日・4日コースやナスカの地上絵も見るなど5種類ほど用意されており、違いまでよく分からないまま、私は3日間のKコースを選びました(代金がナ、ナント174、000円!でもこのために来たようなものダカラネ。)実際の観光体験・疲労度・高山病体験など満喫したのだと思います。
 入港日の16日は、ツアーを取りやめ、港からリマ繁華街へのチャーターバス代だけ申し込んだ。それでも3千円。
(段々状況が分かってくると、OPは団体行動だから、自由がきかないー博物館まで来て見学できないとか、買い物やお茶が決められた地域以外でできないーとか。さらに、上に書いたように代金が割高。そこでインターネットを駆使でき行動力に富む若者は、乗船中に調べて現地旅行社に申し込むとおよそ2/3程度でいける場合がある。そこまでの根性はまだないから、近場の場合だけ見習った)
是非じっくりとラファエル・ラルコ(人名)考古学博物館(外壁が花爛漫で美しいを見て回りたいからだ。ここは、人名が冠してあることから分かるように個人の収集を3年ほど前から公開するようになったものだ。まわりの2~3mの白壁に、多彩で可憐な花が打ちかけられた簾のようにして咲き誇っていた。民間だから入館料は必要なわけで、30ソレス(1ソル 複数はソレス=36円、ほぼ千円)を払ったら、目ざとく妻がシニアなら25ソレスと見つけてくれた。紀元前後からのアンデス文明を示す土・石の展示品は、是非一見の価値がある。素朴なものや、アニメにでも出てきそうなデフォルメした顔など、土器文様や祭祀用装飾品などに描かれた人間・動物の姿は、現代の商業デザインでも通用すると思わせる。別棟は「エロチック」な展示と表示してあり、それぞれの性器をデフォルメした土器や交合する人形が(女性上位が多い)の土人形が3室にわたり展示されていた。こちとらは、ニンマリしながら見て回ったが、前を歩く欧米系のカップルとすれ違う時あまりに真剣な眼差しであったこともおかしい。ギリシャ ミコノス島でも眼福と思ったが、ここの収蔵品は質量ともに遥かにしのぐ。
 1時間半ほど要したが、往路値段交渉をしたタクシードライバーが待っていてくれた。盛り場で客引き婆さん(なぜか客引きは婆さん)が50ソレスと言ったので「話にならん、20だ」と言って返したら、一人の運ちゃんが印刷した行先別値段表みたいなものをもって来て、協定?で30 と決まっていると説明した(多分?妻が全部仕切ってます)ので、その人に頼んだのだ。不安定な稼ぎよりも確実性を彼は選んだのだろう。地下の「ラルコ・マル」という大きなマートの中の海岸線に面したリゾート風レストランで夕食をとっていると、どこの国に旅行しているのか全く分からない。一方、繁華街に来るまでの家は、焼き煉瓦で屋根が葺いてあるとは限らず、古典的貧しさが目に付く。往復2千円ほどを確実に手にすることが彼にとっては必須であったのだろう。(マ、レダックの屁理屈はさておき)
 さて、いよいよマチュピチュへの出発日、17日は2時半集合(昼ではない。ピースボートは早朝と言ってるが深夜が正しい)。6時のチャーター便に間に合わすためにはやむを得ないのだそうだ。バスで空港―バス内で日本のから揚げ弁当配布―空港着手続き、と半ば寝ぼけながらともかくクスコ空港に到着しました、7時半です。海抜3400m、思ったほど寒くはない。人口40万人の一大都市ということだが、驚いたことに果実や肉を売る道端の店が多く開かれているだけでなく、小学生らしき姿(教育改革で公立校は制服着用とのことですが、アンデスの服装や大人の華美とはいえない姿と比べるとよそいきの立派なものに見えます)も動き回っている。そうです。「アンデスの朝は早い」。また、地中海寄港中は野良猫を至る所で見かけましたが(それを「アラ、かわいい」とか言って写真を撮りまくる、触りまくるピ-スボート乗客の能天気さ・・)、野良犬を多く見かける。昼間は例外なく1匹で怠惰に寝そべってるのを見てきたが、朝の内は食糧確保のためか数頭の集団が動き回ってる。
 この地のガイドは日本人Tさん、3日間お世話になったが、まず案内してくれたところはenden、最初何を言っているのかよく分からなかったが、やっぱり塩田。3千数百mのアンデス山脈で連れてこられた所が、白い田んぼ、びっしりと何区画にも及ぶ。田が4千枚(田の単位は枚でよかったのでしょうか)にも及ぶそうな。かつての海底が隆起したためとのことだが、理解を超えている。湧き出る水が塩辛いことに注目したアンデスの民が、水を順番にひき、天日で乾燥させて残った塩分を土とともにこそぎとり、精製したものをもって生業にしているということだ。「流れくる水をなめてみなさい」とガイドに言われて掬い取ったが、ぬるいその水は海水よりはもっと濃くてえづきそうになるほどだった(馬鹿な私は「舐めろ」と言われたのに、ゴクっといってしまったのです)。土産物屋のNo1商品は、断然そこでできた塩。妻も嬉しそうに買っていた。「帰り重くなるヤロ。しおがないなあ」とは・・、言ってません。
続いては、段々畑。日本でも棚田で有名な観光地もいくつか聞くが、スケールが違う。きれいな円形の最深部から、同心円上に上の方に段々畑が続き、上部の直径100m以上?もあろうか? 上部と底とでは温度差があるので、インカの農場研究所でもあったという説がある。縦に線が下まで続いているように見えるのは水路あと。インカは(我田)引水も得意であったのだ(まともに読むな)。昼食は、多人数が入れるのはここしかないというレストランで、庭にはアルパカとリャマも観光客用に飼われていた。 
 昼食後、「ペルー・レール」鉄道のオリャンタイタンポというわけのわからぬ名の駅に向かう。車両は、超豪華で高級レストランのようなハイラム・ビンガム(マチュピチュを発見した人の名)号、観光用ビスタドーム車、通常の列車の3種類ある。我々は松竹梅の竹に当たる観光用車で、屋根の一部が透明のドーム型になっているため、見上げると、そそりたつ山肌がすぐ上に迫っているように見える。進行方向に向かって左側を流れるのがウルバンバ川。なんか言いにくい固有名詞が続くのは、古代アンデスからのケチア語からとったため。ちなみにマチュは古い、ピチュは山、古山ってわけ。ウルは忘れた、バンバはパンパと同じで平原。立派なテーブルを前にした座席で、山を見上げるのに忙しく、ために首が凝る。「後ろのあの山は5千○○級のベロニカ山」とか、ガイドTさんが説明するが、「富士山がどうした」といわれているようで想像さえできない。ある橋の所からは「インカ道は徒歩ではこの道以外はいまだに無い」という説明も衝撃的。クスコに比べ約1400mも低いマチュピチュ駅(当然終点)に着くと、イメージは一変。ここが秘境の入口? 人口3千人ほどの町の人々は、ホテル・土産物屋・遺跡入場口までのバス運転手などに従事しており観光一色。細い何本かの通路は土産物屋が連なり、そこを抜けると、もうまるっきり日本の温泉街?! 「加賀屋」とかなんとかが出てきそう。
 ホテルで窓のない部屋が割り当てられたのは許せるとしても、夕食の5$のビールは許せない。キャップは回して開けよ、ということだが、泡は立たず気抜け状態。他の注文者も一緒に抗議して替えてもらった、でもまた同じ。結局返金で、休肝日となりました。
  翌18日、7時半にホテルを出ると土産物屋はオープンしており、細い道を何台もの空バスが到着しては、次々に出発していく。九十九折とはこの道のことかというくらい、鋭角的に10数回?曲がり、早くもスリルを味わわせてくれる。対向車はすべて空バス。どこかにバスの駐車場から出発して、マチュピチュ駅まで客を迎えに行く。「アンデスの朝は早い」のだ。何でも遺跡保護のために一日バス60台?分、2千数百人しか入山させないそうだ。そこにピースボートから500人ほど参加しているという、ゲゲ!。ちなみに入場料を計算すると5500円くらい。他国の観光客も同じように旗を立ててグループ行動しているから、急峻な角度の狭い足場で、頻繁に混雑し、すれ違うのに一苦労する。
そもそも、一体何のためにこのような高地(標高2400mくらい)に大変な建造物群を作ったのか?、さらに鉄器を持たなかったとされるインカが、どうして岩石(花崗岩)を切り出し、石を組み合すことができたのか? 謎とされている。はじめの疑問に関しては、都クスコに代々の王の館があるが、神殿はじめ残されている石の組み合わせから見て何代目かの王の時代(9代目?)に別荘兼祭祀用に造られたという見方が有力だそうだ。そのためにここに住居を構える家屋(といっても屋根のない石の間取りから推測すると)500軒?くらい、だから神官や、王の世話をする者たちなどの定住者は2千人?と推測される。インカの宗教は太陽神崇拝で、世界は天界・この世・地下世界で構成されており、それぞれの世界を象徴する動物がコンドル・ピューマ・蛇なのだそうだ。そうすると、名曲「コンドルが飛んでいる」は滅びたインカへのオマージュでもあるのだと思えてくる。征服者ピサロは、クスコを膝下に置き、その後のスペイン人の流入とともにキリスト教を持ち込んだ結果、ペルー全体では今は85%がクリスチャンということだが、アンデスの住民だけをとってみればどうなんだろうと思う。だが、征服者たちはマチュピチュにはたどり着くことはなかったがために、20世紀に「発見」されるまで、遺跡として保たれたのだろう。
二つ目の疑問は、磨いた石で切断したのではないか?としか答えようがないらしい。石斧みたいなものか?しかし、石積みを見ていると信じられない。
  話を遺跡に戻そう。特別の都であるから、先ほど書いた「インカ道」を通り、1ケ所だけの門にたどり着く(3泊4日かかるそうだ)。この門から都に入る者をチェックするために「見張り小屋」がある。ここからの眺望は遺跡全体を捉えることができ、宣伝用写真はここからものが多い。(私も写真を撮ってもらったのだが、足がすくみおよび腰。どうも歩いていると揺れっぱなしのような感覚が続いているのだが、これって高山病?)
着いた時点では霧のせいで遠望しても分かりにくかった遺跡が、晴れるにしたがって姿をあらわす。古い山に対し、後背には「ワイナ=新しい、ピチュ=山」がそびえており、とんがりコーンのような山肌に人が蠢いているように見えるのも凄い! あと、天界の象徴たるコンドルを意味する岩石群、ピラミッドパワーに対抗してマチュピチュパワーの気を発するという1枚の岩石、地震にも耐えれるよう窓は台形の構造、生活するうえで欠かせない水路、その水路の水を貯めれる沐浴場、そしてその湯あみ眺めることのできる王の玉座(ウラヤマシイ)、そしてそれらの岩石を組み合わせて積み上げられた建造物、等々、たっぷり3時間半見て回りました。
降りてきたのが昼食時のため、入口に一軒しかないレストランに入るのに25分待ち、帰る人と午後からの客とでバス発着所も満員、マチュピチュ駅も周辺の土産物屋もまたまた人が溢れている。人気ある秘境はツカレルーー。昨日のペルーレイルで、オリャンなんちゃら駅へ帰ることになる。ところが、である。例のビスタドーム車両の隣のボックスにガイドさんがいたが、発車して間もなく入った電話は、隣のバスの組の添乗員からのもので、「2人が戻れず私も待っている」というものだった。幸い30分後の次の便(秘境なのによく走っているなあ)で追いつくそうだ。ために、隣の組は、オリャンなんちゃら駅で半時間ほど待ったそうな。列車でよかった、船ならどうするの・・
我がバスはスイスイとホテル到着、夕食はまた昨日の昼と同じところダッテ。でも、この日のビールは立派に泡立つビールだったし、ケーナなど生演奏とダンス付きだった。何より多くの人が感動したのは、夜空の星の素晴らしさだった。ついに南十字星を認識できたのです。ホテルへのバスの中も灯りを消して、夜空を見上げていました(多分運転手以外は)。
  19日、バスでクスコに戻る。サンドミンゴ教会に入ったのだが、これが珍しい。征服者は、インカの神殿、王の住居を破壊し、そこに教会を建てたのだが、破壊せずに残した石積みなどが共存しているのだ。神仏習合よりすごーい。特に太陽の神殿の間と言われる空間の石積みは、間に接着材的なものを一切挟まず、一分の隙もない。剃刀の刃1枚通さないという。ガイドさんが米1$紙幣を取り出し、「隙間が無いので入りません」と実験した後で、「しかし、ここには入ります」と自分の胸元のポケットにしまいこんだのは笑えた。街のあちこちにも、破壊されず残った石積みを利用した建物が多く見て取れる。
  さらにバス移動してサクサイワマン遺跡にも行く。入口から出口まで1Km近くはありそうな草原の真ん中に、またまた石積みが小高い丘の様になっている。ピサロに降伏した後も抵抗したインカの砦だったという。ガイドさんの説明ではなんか凄い名前がついていた。「満足した鷲?鷹?コンドル」。スペイン人に抵抗し虐殺されたインカの肢体をついばむ鳥が満足するほどであったという由来だというからスゴイ。マーしかし、前にウルグアイに行ったとき、各国の人種を調べたら、ウルグアイなどでは原住民はほぼ全滅し欧米人で占められていたことを知ったのだが、ここでも200人でインカを滅ぼすなど、大航海時代以降の欧、そして19~20世紀以降の米って、ラ米(だけではないが)にとって本当にエグイのネ。
  ペルービアン航空で、3千m以上降下し、かくて、マチュピチュ・クスコの旅は終わりましたが、カヤオを出ても私はなお揺れています。西南西にイースター島に向け針路をとるピースボートを、太平洋がボチボチ荒波で手荒く迎えてくれだしたようです。


レダック ピースボートに乗る 改訂版9

2014-07-06 14:42:02 | 日記
第3章 ラテンアメリカ
<解説1>ラテンアメリカの状況 ベネズエラ
 私のラテンアメリカに関する認識は完全に変わった。ポルトガル領ブラジル以西を支配したスペインがインカを滅ぼし、金銀を略奪していった歴史、ブラジルなどへの日系移民が多いこと、またその子孫や出稼ぎ者が現在の渡日者として多いこと、などは大方の理解としてあるだろうが、せいぜいそんなものである。
2002年妻がJICAシニアでウルグアイに派遣されたので、2度訪問したことがある。原住民がほとんど絶滅させられ残っておらず、征服者たるラテン系欧州人が人口の大多数をしめていることに驚きもし呆れもしたのだが、今回、ジャーナリストIさんの連続講座を聞いて、19~20世紀の歴史はストンと抜け落ちていたことに気付いた。すなわち、アメリカのフロンティア拡大とは、国内インディアンだけでなく、中南米諸国に対してもエゲツナイ謀略と力による収奪であったことに。
大雑把にいえば、1823年のモンロー主義宣言は、欧州による米大陸干渉の拒絶であった。自らはメキシコからのテキサス割譲を推し進め、大西洋と太平洋の「両洋」国家たることを実現した。それとともに、中南米諸国からスペインの勢力を弱めるべく工作していたが19世紀末の米西戦争で勝利することによって、スペインに代わる米帝国主義の支配権の地歩は固めるとともに、ついでにハワイ(+フィリピン)をも併合する。さらに、かねてより大西洋と太平洋をつなぐ運河の必要性が痛感されていたのだが、ニカラグア案も有力だったけれど、結局パナマで工事が開始される。パナマはコロンビアの一部だったが、アメリカは独立を支援するふりをして、独立後の運河権益を確保するばかりか属国化していった。工事そのものは、あのスエズ運河のレセップスが失敗した後アメリカが引きつぎ、1914開通した。
中南米諸国の政変にはアメリカが公然たる軍事介入やCIA工作など枚挙にいとまがないほどだ。それに対抗したのがカストロと彼の盟友チェ・ゲバラであった。彼らはシモン・ボリーバルの理想を引き継ぐ形で米支配からの独立をキューバで果たしたのだが、ゲバラはアフリカでも革命戦争を戦い倒れるが、キューバがカリブ海諸国の灯の役割を果たしている、現在も。
一方1998 ベネズエラ大統領選でチャベスが勝利した。彼はカストロとも親交を深めつつ、貧困対策に重点的に取り組み圧倒的支持を博すようになった。これに対しCIAの支援を受けた国内反革命勢力(従来の石油資本で財を成していた人々)によるクーデターで捕えるも、チャベス支持の民衆の反撃にあいクーデターは30時間で失敗に帰した。2013チャベス逝去後の現マドウーロ大統領もチャベス路線を踏襲している。今状況は米・カナダをいれ米中心の南北アメリカ秩序を維持しようとする米州機構(OAS)と、この両国を除外したカリブ海・南米機構(CELAC)に結集し米からの自立をめざすキューバやベネズエラを中心とする勢力との闘いが、今後の中南米諸国の動向を左右するとIさんは見る。
① ベネズエラ
(解説2)エル・システマ 英語なら「The System」、だから、体系、制度などの無味乾
燥な固有名詞なのでいささか説明を要す。1975年、音楽家で大学の先生だった人が、ベネ
ズエラのスラムの子どもたちに音楽の素晴らしさを通じて自信をつけさせようとして始め
た音楽教育の施設、およびその運動のことで、40万人の子どもたちが学ぶまでに拡大し、
今や政府の支援も受けるようになっている。ここで学び、一流の音楽家になっていった者
たちで構成する交響楽団は名声を博している。
 反核・環境・人権などの課題にNGOとしての活動するピースボートにとって、ベネズエラは、特別な思い入れのある国に見える。2008年から楽器を寄付するなど交流を始め、今年も日本で集めた楽器を贈呈するという任務とともに、今回はカサブランカから8名の「エル システマ」のメンバーを乗船させ、船内での演奏会を開くなどより一層の交流活動を深めている。このためか、寄港地ラグアイアに着いた5月7日の朝、港は吹奏楽で包まれるワ、PB総ディレクターTさんは和服で答礼の意を表すワ、夜には港から数分の近くの公園で歓迎パーティーは開かれるワ、そこにTさんを見習ってかオバ(ア)さんの数人は浴衣姿で現れるワ(エ、こんなんまで持ってきたの!)、地元の人も子や孫がでているからと大挙して押しかけるワ、マ、エライ騒ぎでした。
そして、これも原爆の語り部「折鶴」(第2部 船内生活参照)のメンバーが、現大統領との面会アピールできたのです。想像をこえている。「船内新聞5月10日号」の冒頭だけ紹介する。「ベネズエラに寄港していた8日、カラカス市内において第83回クルーズおりづるプロジェクトの被爆者6名がベネズエラのマドウーロ大統領に面会しました。・・・」

この日、私はOPとして「首都カラカス観光」(12000円)を選んだ。休日でもないのに盛り場は人にあふれかえっており、ガイドの旗を頼りにスペイン統治時代の建物のある旧市街を見てまわった。人々の顔は明るい。ピースボート観光隊御一行様のほうでプラスイメージをもっていたせいか、街の人々は陽気に声をかけてくるように感じられた。残念なことに、見どころのシモン・ボリーバルの生家・博物館、国会議事堂、教会すべて外観だけで中に入れず、不満が残った。何回か前のブログを見れば、内部見学できており、「どういうこと?」。バスを止めるスペース、昼食の場所、トイレ等々観光地としてのインフラ整備もまだまだの感がある。
 それよりも、私も含め多くの参加者(このコースもバス4台)の耳目を引きつけたものは、ある地点からパラパラ、気がつくとびっしりと山にへばりついて建てられている家々が続いている光景であった。そして、私も含めそれこそ多くの参加者は、この間のIさんの講義を思い出していたに違いない。市街地を挟んで、石油資源の利権構造で甘い汁を吸えた富裕層の住宅地一帯の反対側に、職を求めて勝手に住み着いた貧民層の住居群がどんどん拡大していったということだ。その貧民率(具体的にはどんな指標か?までは分からないが)が75%(4人に3人)であったものを20%までに改革していったのがチャベス前大統領であったのだが、クーデター(2002年)によって大統領官邸で身柄拘束→近くの島に拉致された際も、「大統領を辞任しない」姿勢を貫き、そのメッセージを側近の気転により国営放送で流すことができると、何千?何万?という家々から、わらわらと、そう、わらわらと、人が降りてきて大統領官邸を取り囲んだそうで、ためにクーデター政権は3日で倒れチャベスは復帰したのだ。そのドキュメント映画を見る企画もあり胸が熱くなった。
 そう、車窓からえんえん続くこの光景こそ、現代史の舞台なのだ。(神戸の街の山手が貧民の住居群、そして街がどんどん伸びていくというイメージ)何しろ、区画整理された道に沿って作られたものではないので、山の上方では降りてきて、また帰りに登っていくのは大変、だからびっくりするものがあった。ケーブルカーがついているのですよ。もちろんスペイン語だが英語にすればmetro cableとの表記があったので、思わず注視していると、そこはケーブル駅だったらしく、車窓から見上げると確かにゴンドラが往復していた。その後にガイドさんの説明があり、3路線あり、運賃は日本円で30円くらいだそうだ。
 翌5月8日、OPで「エル システマ」見学・交流を選んだ(7000円)。一つくらいピースボートの特徴的なプログラムも選ばなくっちゃ。市内の本部は、個人・グループ練習室が100室以上を数え、様々な講義・実習室・コンピューターを駆使して作曲できる部屋や、演奏会場も有し、近くの大学の音楽学部の学生が借用するなど想像を超えていた。
 ところが、昼食は、カラカスから、も一度ラグアイラへの道を引き返し、ピースボートを横目に見て通り過ぎ、港町のレストランにおいて焼き魚料理であった。レストランの通常メニューを見れば600円くらいで、結局バス代?と考えざるを得ないという不満はさておき、訪問先は、ラグアイラに属する地域の「エル システマ」の音楽練習所だった。元保養所?の施設を入手した「エル システマ」が、この地域の3つのグループ(小学校ごとのようだが、就学前とみられる子もいる)の会員の練習・発表会場としているものだ。小学校ごとの服の色が違うようだ。バスから降りるなり、パーカッションの凄いリズム、数人の子が、タイコ(皮が貼ってあるのは片側だけ)を手で、(なんというのだろうか)中空の木の柱を木の棒で叩いているのが最初の歓迎。2回ホールにあがると別の地域の子どもたちの演奏で、盛り上がる。答礼に訪問団のほうはバス中で練習した「大きな栗の木の下で」や「幸せなら手をたたこ」を身振り付きで発表する(こんなところではレダックは照れない)。そして、正当な国歌ではないが、国民に愛され第2国歌と言われる「ベネズエラ」をスペイン語で合同で歌う(参加者は船上で練習させられたのです)。私もかなり声をはりあげ歌ったのだが、横に来たオバ(ア)サンがまた凄い声、後の交流で分かったのだが、どうも声楽の指導者らしく、数人で彼女と交流している際、いろんなベネズエラの民謡?をゴスペルチックに教えてもらった。「オレーオライローー」とかなんとか(即興ではもう覚えていません)。フリータイムになると、子ども相手だからみんなはしゃぐこと。写真撮影、折り紙、ダンス、贈呈のためある程度まで作成した垂れ幕の共同仕上げ(子供の手やコブシに絵具を塗り、手形として押させる)、パーカッション演奏、名前はともかく電話番号を尋ねること(聞いてどうするの?)などなど・・・帰る時間になり、「もう終わりなので記念撮影しましょう」という趣旨を可愛いCCのAさんが呼びかけても子どもたちはもう熱中し聞いていないので、この時ばかりは、もどうしようもないとばかりに、やけくそでスペイン語をがなりたてておりました。
 やはり、子ども相手はいいものです。バスで連れまわされたという悪印象は、帰るころにはすっかり消えていました。

③ パナマ(5/11~5/12)
 ピースボートとしてはベネズエラでの一大ミッションを終え、5/9・10の2日間でカリブ海を回り込み次の寄港地はパナマ。スエズに続き、今度はパナマ運河を超えるのです。11日朝8時ころクリストバルという港町に着く。申し込んでいるOPは昼集合なので、乗船許可が出るや否や、早々に多くの乗客が飛び出す。ターミナル周辺の店・スーパーに殺到するのだ。それに、インターネットが使えるターミナルなので、やっと書き溜めたブログをまずは投稿する。
蒸し暑い。西経80度くらいで北緯は10度を切る。ターミナルと船を往復すればシャツが汗ばみ替えなければならないほどだ。だから持ってきたのが少ないTシャツを仕入れる。どうせ洗濯すればペラペラになりそうな生地なのに、世界の要衝だけあって土産物屋は高い。それでも25$(アメリカはパナマ運河に対する権益確保のための属国化政策の名残は通貨にもあらわれており、バルボアと呼ばれるが、紙幣は米ドルでしかない。故に1バルボア=1$で、少額の硬貨だけがはパナマ国として発行されているが、これも米ドル硬貨のデザインだけがちがうもの)を20$に値切る。
午後、OPとして「パナマ鉄道乗車とパナマシティ観光」に行く(14000円)。パナマ鉄道とは、大西洋側のコロン駅と太平洋側のパナマシティ駅(約80Km 1時間半)を結び、運河にほぼ沿って走る鉄道ではあるが、貨物および観光用にしか使わないため、中間駅は無い。なぜとなれば、運賃が2500円。バスなら250円程度なので地元民は使わないそうだ。しかも、我々のための特別便のようだ。中は、いかにも観光列車仕様で、校長の執務机なみの大きなテーブル、かわいい照明灯が目を引く。車両間には展望デッキも付いている。また、鉄道と運河の地図を箱の上面に記したミニ・スナックとコーヒーがサービスされる。
この鉄道に乗る値打ちは、明日渉る運河の様子を陸から見ようというものだ。大西洋と太平洋をつなぐ道への願望は古くから存在した。征服者スペインがボリビアの銀などを欧州に運びこむ道が模索され、やがてペルーのカヤオ(5/16に行く港)からマゼラン海峡を抜ける航路が使われるようになったという。でも大回り過ぎる。昔からメキシコ・ニカラグアも検討されていたという。ここに現れたのが、スエズ運河を開削したあのレセップス。だが、中国人の苦役など人夫2万人もの人命の犠牲を出しながらも失敗し、彼の壮大な夢は頓挫した。砂漠の開削と、アンデス山脈と同じ岩盤を持つパナマ地峡とでは、事情は違ったのだ。そこで、全面に登場するのが米国。前に書いたように米西戦争での勝利によって、スペインの権益を奪い取り、二つの海の支配を目指す意欲を示す。岩盤の固さ以上に、技術的問題は、二つの海の水面は26mもの高度差の解決だ。レセップスと同じ轍は踏まぬよう、閘門式を取り入れやってのけたのだ。ガツン湖という人工の湖(琵琶湖よりはるかに大きいというから恐れ入る!)を掘り進め、もう一つのミラフローレスという湖に大掛かりな閘門を作ったのだ。フロリダ=キューバのガンタナモ基地=パナマ運河と続けば米太平洋艦隊との連携作戦は容易だ。ラテン・アメリカ諸国の動きの中でパナマが独立しても、パナマ運河だけは手放さなかったのは軍事的にも要衝だからだ、と例のIさんは指摘する。第2次大戦後も「パナマ運河をパナマに」という政権指導者(トリホス)を暗殺したり、突然の米軍のパナマ侵攻など相当固執し、最終的にパナマに返還されたのは1999年末になってからであったという。
鉄道列車からは、ガツン湖面上を、伐採したはずの木のてっぺんや土地の一部が表れているのを見ることができ結構楽しめた。到着駅パナマ・シティには、チャーターバスが待っており、車窓からの市内観光と、カスコ旧市街の徒歩観光があった。大体人口3千万級の国の首都に、東京並みの1、200万人が集中すればひどい格差が生まれるのは当然と思われる。運河景気の到来で高層ビルがバンバン建っても、スラム街もバンバン広がっているのではないか? 世界遺産の旧市街も手入れ行き届かぬ建造物も少なからず見られ、土産物屋の商売意欲も熱気を感じられず、前途多難という印象を受けた。
  翌12日、いよいよ運河を通過する。「船内新聞」では、早朝4時ころからの予定と書かれ、また航路説明会でも早朝から放送を入れる了解をとりつけていたのだが、実際には5時半頃、今から運河通行するとの放送。デッキにはすでに結構な人が出ており、特に普段は立入禁止となっている7階前方の手すりには3重くらいの人垣、やがて例のガツン湖の閘門にさしかかると、若い子も起きだし頭上はカメラ、iパッドの花盛り。ロックと呼ばれる閘門の仕組みはこうだ。両サイドに大きめのフォークリフトのような機関車が並んでおり、船の前方2ケ所、後方1ケ所、船と綱で結ばれる。左右だから計6つの機関車が、エンジンを停止した船を引っ張り閉まっている閘門の前で止まる。すると後ろの閘門が閉まるので船を浮かべたプールができることになる。そこに注水(または減水)し、次のプールと同じ高さの水面になると今度は前の閘門が開くという作業で3つのプールを抜け出て行くことになる。ロック内で船が壁に当たると損傷しかねないので、小さなタグボートg大きな船の位置を突ついて調整する。しかし、それが実に時間がかかる。6台の機関車は人間が歩くより遅い上に、各動作の間が空くこと。ガツン・ロックを抜けたころは8時をまわっており、やおら食堂が混雑する。というわけで、太平洋に出たころはもう夕方6時、ほぼ12時間の作業で、じっと忍耐の子 を交替で皆さん繰り返したのでした。(80Km/12時間⇒jog以前の早歩き) でも、スエズより遥かにおもしろい。あの機関車も可愛いくて力持ち。日本製と聞いてちょっとニンマリ。日本なら、「パナッピー」とかなんとか、ゆるキャラ風の愛称をつけ、飾りなど土産物にしたら、当たるのになあ・・と俗世界を離れられないレダックでした。
 で、まだ追加コーナーがあるのです。大西洋から太平洋に抜けるのだから、パナマ運河は東から西へと思うでしょう? 海図で見ると北西から南東への斜めに近い感じなのです。それから、閘門の幅以上の船腹では通れませんから、ガツン閘門の近くに新たに掘り進める工事が始まっており巨大クレーンも見えました。また、21世紀の海洋覇権を狙う中国が、ニカラグアに新運河建設の話を進めているそうです。

レダック ピースボートに乗る 改訂版

2014-07-03 17:22:51 | 日記
⑧ スペイン モトリル(4/24 木)
 モンテネグロ コトルを出たピースボートは、南下してイタリア シチリア島の南側からほぼ西方に針路をとり、スペイン南部の太陽海岸(コスタ デル ソル)と呼ばれる地域に3日間かけてたどりついた。4月24日、その中のモトリルという港町から、内陸にバスで1時間半ほど北上すると、グラナダのアルハンブラ宮殿に行けるし、クロマニヨン人の住居遺跡や彼らが描いたとされる壁画のあるネルハという地へのOPもある。判断つかず申し込まなかったので自分らで散策することにした。どうもアルムニューカルと発音しにくい街まで行けばどちらの方面にも行けるようだ。30分ほどで着いたのだが、その道中がすごい。高速並みの気持ちいい道路の眼下に地中海―太陽海岸がひろがっている。 ここを歩くというOPもあったようだで、ピースボート軍団と思しき一行の姿も豆粒くらい遠くだが認められた。この街並みもなんとなくいい雰囲気だし、ネルハ行きバスが2時間待ちで行けても帰りが心配なので断念せざるをえず、この街を探索することとした。ブラブラ歩くうちに12時となり、カフェで食事も頼んだのだが、でも何となく勝手が悪い。客は私らだけなのに半時間近く待たされる。そうでした、昼食には早すぎるんですね。ラテンの時間感覚を忘れていた。料理のエビは新鮮でお得だったけれど、肝心のパエージャがべたついて少々期待外れ。時間感覚と言えば、続けて失敗することになる。食後、展望台から改めて太陽海岸のすばらしさを見た後、観光名所のお城にたどりつく。閉まっている??よく見れば小さな表示「14時~16時はシェスタ午睡の時間」。ホントに急峻な坂道をよたよた登ってきたというのに。思わず、大声で「殿、ご開門をー」と叫んだ。もちろん町全体が眠りこけているのか、まわりに人はいなかったけど・・嫁さんが、軽蔑の眼差しで見ている・・。ここを降りる道も、ミニ・ミコノス島みたい、入り組んで細い。観光地図頼りに降りていくと今度は植物園風(これも当然閉まってます)、Bonsaiとある、盆栽も世界語なんですネ。教会も外観を見るだけ、16時まで待てず15時のバスでモトリルに帰りました。
そこでタパスを食するためにBAR(バルと読む、バー 気軽な居酒屋のこと)に立ち寄りました。タパスとは、そこで出されるアテ、つまみの小皿のことで店ごとに自慢の品が出てくるという。ピルゼン(ピルスナー)ビールとともに、タパスを頼んだところ、生ハムとパンのお皿、オリーブのお皿の二つが出てきた。オリーブがおいしい、病み付きになりそう。そして、勘定を頼んだら、ビールと妻のコーヒーだけで、件クダンのタパスの分はついていません。サービスということらしい。感激! その店の他の席では、ピースボートのHさん(航路説明をするえらいさん)が船員と、さらにそのうち別の店の客(もと船員のようだ)と親交を深めていた。まっ赤な顔をしていたので、店を出るとき「帰船時間遅れないよう」と言い置いたら、最初キョトンとし、やがて豪快に笑っておられた。
 いい街だ。1日だけしかスペインには立ち寄らなかったが、逢坂剛の小説などから、ゆっくり来て見たいと思う国だ!可能性??

⑨ ジブラルタル(英領) (4/25 金)
アア、知らなんだ、知らなんだーー。ジブラルタルはただの海峡の名と思っていたのに港がありそれも英領、スペインの先っちょが英領?! おまけに反対側のアフリカ大陸はモロッコなのに、それも先っちょだけが今度はスペイン領でセウタという?!
この疑問も水先案内人と呼ばれるジャーナリストIさんによって事前講習を受けました。しかも、それを定めたのがユトレヒト条約とのこと。何世紀遡るのかな。いろいろ転変があり、またこの2、3年、英国とスペインの関係がこの地を巡って緊張気味だそうだが、まあいい、読者諸氏もいいかげん歴史の話に疲れたことでしょうから、早速、英領ジブラルタルの町に繰り出しましょう(狭いのでOPは申し込まず)。
軍事・交通の要衝でありますから南端に灯台があります。ヨーロッパ側の南端という意味でヨーロッパ・ポイントと言われます。そして△の岩山が特徴的で、海沿いに市街地が山にへばりついているように見えます。 変わっているのはスペインとの国境線に沿うように飛行機の滑走路が伸び、海上に少し突き出ています。辺野古もこんな風にやられるのでしょうか。離着陸は見れませんでしたがジェット雲が延びていくのを2回確認しました。その近くに船のターミナルがあるので、市の中心部までは20分ほど歩いて行かなければなりません。観光地としても人気があるようで欧米人が溢れかえり、昼時なんぞは肩の肌や胸元を露にし夏バカンスモードのおば(あ)さんたちが闊歩しています。ただ、ユーロも米ドルも使えますが、英領なので、この地独特のジブラルタル・ポンドが通貨として発行されており、郵便切手はこれでしか買えないために、両替をしたところ50€=40ポンドだから、1ポンド=170円といったところでしょうか。観光ポイントはケーブルカーで展望できるところに上がると地中海とジブラルタル湾が望めます。そして野生の猿が集い、観光客の人気を集めおり、時たま嬌声も聞こえます。「何が珍しいねん? 動物園でいつでも見られるやん。大阪では箕面に行けば・・」と内心毒づいていたのですが、そうです、ニホンザルではないのですネ。まあ、しかし、お天気にも恵まれ、地中海の海と空の美しさに昨日に続き感動ものです。でも、遅れて登ってきた同じピ-スボートの若者たちの「ワー すげえ」と何回も大声で繰り返しているのが聞こえてくると(このまわりくどい言い方は聞こうと思っているわけではないのに)「感嘆詞以外の言語感覚の乏しいやつらめ。しかも外国人いっぱいいる中で傍若無人に日本語わめき散らすな」と思ってしまいます。もうおじいさんなので、黙って離れるだけです。
デ、山をおりたところのカフェでお茶を兼ねてランチといたしましょう。サンドイッチのつもりが、サーディンが今日はおいしいというので、ついビールも・・。焼いた皮が香ばしくて、鰯を見直したわけです。ポンドではちょうどこのビール分くらいが不足するのでユーロ―を使い、土産物屋街をぶらぶらし、孫の土産をポンドで買いました。あと6ポンドと小銭が残りました。帰船リミットが近づいてきたので、最後に冷たいものを食べようとスムージーの店で「ハウ マッチ」とやると一つ3.5、二つだと7ポンドということです。6ポンド出し、小銭のポンドを全部見せ、これで1ポンドあるかと聞いたところ、3枚の硬貨を返してくれて、「Not 7、but our charity」ダッテ・・施しをうけたのです(昨日のタパスに続き連日のラッキー賞です)。残った3枚は2枚が2ペンス、1枚が1ペンス、あわせて5ペンス=8円くらいで、大道芸人にあげたらと言います。コーヒーとラズバリーのスムージーは入れたアイスクリームがいいのでしょう、とてもおいしく、冷たく、気分よく帰れました。でも、こんなに硬貨多いとはネ。日本で言えば1円、2円、5円、10円、20円、50円(ここまでペンス)に、やっと1ポンド(これも硬貨)、なんてややこしい。
この海峡を越えれば、そこはもう、大西洋!!

⑩ モロッコ カサブランカ・ラバト(4/26 土)
 もう大西洋に入ったのだから、ほんとは次の章に入れるべきだけれど、3連続の寄港で翌日からは長くクルージングが続くので、リズムで言えば地中海の最後となる。だから、映画でも有名なカサブランカに入港しても、なかなかアフリカという感覚をもちにくい。何といっても人口500万人の大都会、妻が数年前来た時には無かったというトラムも走っている。
 OPは、カサブランカと首都ラバト(バスで約1.5時間)の駆け足観光コース、だから多くの人が申し込んだようでバスは6台?仕立て。これでえらい目にあいます・・・。
カサブランカでは、何と言っても「ハッサンⅡ世モスク」、ミナレット(モスクに付随する尖塔)の高さ200m、礼拝者2万人以上を収容でき、世界第3位の大きさを誇るモスクという。大西洋の一部を埋め立て現代技術を駆使して建てたものだから、きれいで身を清めるシャワールームの設備や礼拝場などの空調なども完備とのこと。他に観光資源も少ないようなので、国家戦略としても、アフリカのメッカ的存在にしたいのかもしれない。ここで現地ガイドさんから、二本円柱のミナレットの地域もあるが、モロッコでは1本の四角柱であることを教えてもらった。もう1ケ所、歴代王の聖廟が美しい
その後、首都まで時間がかかるので、11時と超早めの昼食となり、ホテルのレストランに入ったのであるが、マ、あたしゃ呆れたね。次から次へとバス6台、250人くらいが詰めかけるのである。バイキングで、取れる料理の並ぶ場所は1ケ所・・、情報不足で、乗客を事前に仕切ることをしなかったため、右から左から群がる、紳士淑女もかくや・・・また、向かい合ったケースには同じ料理が入っているのだが1周ぐるりとまわり方向がぶつかり合う者が出てくる。お人よしが並んで待っているうちに一皿目を終えたものが隙間を狙って一品だけとっていく・・これがピースボートか?!それとも難民船か?!デ、おまえはどうしてたか?って。空いているデザートコーナーで5種類くらいのケーキをとってきて(一時にこんなにケーキ食べたの人生で初めて)、20分くらいたってやっと人の波がひいてから、やおら料理を取りに行きました。マ、何を偉そうに言っているのかとお叱りの声を受けそうであるが、修学旅行に連れて行く立場の教員出身だけに、こんな「想定内」の混乱は許せないのである。各バスに、旅行会社のスタッフが引率者、お手伝いでCC(通訳)が同行しているのだが、こういう「危機管理」には慣れていないようだ。
さらに首都ラバトについてからも、この混乱は続くことになる。自由時間をとった市場(スーク)見学(これは楽しかった、もっと時間がほしかった、皮のベルトを4ユーローで買う)の後、その向かい側の観光名所である砦の見学およびトイレ休憩があったのだが、これが長蛇の列、延々と待つこと、待つこと。およそ半時間以上のトイレ休憩、しびれが切れるころに、やっと移動したかと思ったら、門の外の民家見学の散歩は10分も無いなど要領の悪いことおびただしい。もちろん大勢の人間が溢れ、囲い込みをしておかないと大変という事情も分かるが、行くコースの順番を半数づつ逆にするとか、臨機応変の処置・工夫ができない。OPを企画・実行するジャパングレイスの問題ですナ
ト、モロッコのことがほとんど書けず、読者の皆さんには楽しくないレポートですみません。やっぱり仕事人間の癖はなかなか治らないんですね・・あと、写真は民家のところの少年。ちなみに、OPに行かなかったある夫婦は、カサブランカ市内観光で「寿司」を食べれて良かったとのこと。