レダック ピースボートに乗る 改訂版7

2014-07-03 00:31:45 | 日記
⑦ アドレア海2都市 クロアチア ドブロブニク  モンテネグロ コトル
4/19(土) バーリの港を夕方出港したピースボートは、夜中にアドレア海をほぼ北上し対岸バルカン半島のクロアチアはドブロブニクに着きました。ミコノス島の「白」に対し、こちらは橙に近いレンガ色の屋根で覆われた美しいたたずまいをみせる街です。世界遺産の一つで、旅行案内などで人気が出始めたようで、外国旅行好きで訪れた経験のある人と話していた時絶賛されていたので、何となく知っていたのですが、そもそも国名もピント来ません。私の場合だと、このあたりは第一次大戦の引き金となった火薬庫であり、戦後はナチスドイツを追い払ったパルチザンの指導者チトーさんが大統領として率いるユーゴスラビアでなかったのか? 東欧だから社会主義体制だったけれど、ソ連からの一定の自立性を持った国だったはずで、いつユーゴはなくなったのか?などなど不確かな知識しかありません。今、写真を入れた改訂版を作っている最中(2014/7/2)なので、FIFAで湧いていますが、前日本監督のオシムさんがクロアチア人であることをご存知のサッカーファンもおられるかもしれない。以下は船内の企画で水先案内人として乗船されたCさんがオシムさんの通訳をやっておられたとかで、以下はCさんに講演で教示してもらったことである。
・ユーゴスラビアのユーゴは「南の」、スラビアは「スラブ人の住む国」という意味だそうで、かつては6つの連邦共和国として形成されていた
・チトー死後、ユーゴは国際経済の危機に見舞われ連邦としては崩壊していく
・各連邦共和国ごとの選挙では当該連邦の民族政党が勝利し民族主義が台頭した
・そしてあほなミロシェビッチという大統領のせいで1991年から始まる5つの紛争・戦争が起こり、多くの犠牲者を出すという代償を支払い、今では7つの国になっている。
 クロアチアも、モンテネグロ(黒い山の意)も、このユーゴ紛争後の名前で「マケドニア」もその一つ。クロアチアもブーメランのような格好になっており、民族問題の複雑さがうかがえる
・このドブロブニクにも戦火の深い爪痕が残り、屋根を葺きかえて色調も微妙に違う。
・この時の教訓から学ぶことが多くある。言語・宗教などの面からなるほど民族は異なるにしても、ユーゴスラビアとして連邦をくんでいたように兄弟民族といえるほど近親性が高い、にもかかわらず、自民族が犠牲者・被害者であり、その回復・復権を叫ぶ民族主義がいったん台頭するとなかなかとどめることが難しい
(ついでながら、このCさんは、「旧ユーゴをめぐる紛争のあった20数年前と違うのは、日本も今や、すでに領土問題などで民族主義が煽られており、大変な時代に突入しているのではないか、ヘイトスピーチなどはその兆しだ、すでに紛争当事国になっているのではないか!? とりわけ安倍さんの矢継ぎ早のナショナリズムへの傾斜を警戒しなければならない」など強調されていました。そして今7/2 集団的自衛権の閣議決定という急旋回に戸惑っています)

4月19・20日の両日ともOPをとったところ、ワイン攻撃の2日間ではありました。19日のOP「コナブレ(地名)地方の陽気な生活体験とドブロブニク観光」、20日のモンテネグロはコトルという港街からのOP「モンテネグロ観光」も、バスが着いた先で10時くらいの朝ッぱらからワインを試飲するという嬉しくも、ホンノリ酔って歩くのがしんどいという贅沢な2日間でした。言い訳になりますが、OP案内ではワインのことなど書いていませんでした。特にドブロブニクでは、ワイナリーのオーナーは日本好きで5種類も試飲させてくれましたし、1時間半後の別の昼食会場ではいわば飲み放題、出されるものはボリュームが多いので食べ放題に近い状態の上、ギター・コントラバス・アコーディオンの弾き語り付きの大宴会・・。そして私が驚いたのは、乗船客の人で踊りだすのがアレヨ!アレヨ!と増え始め、10数人が踊り狂う。それも男性も・・・、そしてカメラのシャッターが切られる。20分もそんな喧噪が続いたでしょうか? いやあ、日本も変わってきたものです。というより、ピースボートの乗客が、特異なのでしょうか? (多分そうなのでしょう。
 赤い顔の人々を乗せたバス車中でも陽気な話し声が続くのですが、ひときわウルサイのが隣の座席の最初に踊りだしたおば(あ?)さん。旧市街に着くまで「アー楽しかった」と友人に話しています。ウルサイけれど、そんなに楽しいのなら、と博愛精神で文句を言いませんでしたが・・(このパワフルばあちゃんの相手をしたら、どんなことになるか予測がつかんというほうが当たっていますが・・)。
さて、ドブロブニクの旧市街は、遠望した街並みの赤い屋根とともに城壁都市としても有名だそうです。ピースボートの着いた港以外のもう一つの港を抱える形で城壁は、総延長距離2Kmも築かれており、その内部に教会、市庁舎、家などがあり、メインの通りは300mとのことですから、大体想像してもらえると思います。一通りガイドさんの説明を受け、自由時間ももらったのですが、城壁に登って歩くというほどの時間は無いので残念ながら断念することとし、広場のフリーマーケット風の店屋を覗いて回りました。野菜、土産物の香料や工芸品・ドライフルーツなど目移りするものが多くありました。残念ながら16時にバスは港に帰りましたが、タイムリミットは22時と帰船時間まで結構余裕があります。ワインのほろ酔いも薄まり、この機会を逃すはずはありません。もう一度土産の荷物を船室に置くや否や、取って返しました。しかしクロアチアではクーナという通貨が使われ、城壁歩きの料金はクーナでしか払えません。そこでカードで200クーナ分引き出しましたが、料金を聞くと一人100クーナと全額ピッタリ賞、買い物も食べ歩きもできません。よく考えれば、1クーナは約20円なので、料金一人2000円、それくらいはしますよねー。観光地をナメてはいかん。でも城壁散歩は、高低差があり、道幅も色々です。広くなったところは銃眼や大砲の設置してある砦風の場所があるかと思うと、壁のすぐ横が住居に使われており洗濯物に手が届きそうな場所など多彩なので40分ほどがあっという間に過ぎました。旧市街に降りて、クーナを持たぬままだったこともあり(何も「クーナ」ってこと)、フランシスコ会修道院という教会に入ったところ(クロアチアはカソリック中心)立派なパイプオルガンもあり、どんどん人々が詰めかけてきます。そうでした、イースターの儀式が始まるのです。こんな経験めったにないので、異国の異教徒(っていうか、確信的無神論者!そのほうが性質タチが悪いかな?)が参加したのです。ろうそくの灯をうつし、同じように立ち、讃美の歌か祈りの歌か知らないが皆の歌を聞き、区切りいい所で抜け出し、何も食わずに(シツコイ?)帰りました。
翌日のモンテネグロは国土の3/4が山で、25回同じような坂を登って海抜900mから下界を眺むれば風光明媚なはずなのに、天候不順でガスっている。おまけにワインの試飲の最中には雹が降ってきて、1Cm大の雹が飛び跳ねるのをはじめて見た。この地の王族ロマノ何世とかの館を見て、また城壁都市を見て・ということなので、特記事項はありません。ただこれは驚いた、イースターのデッカイ卵ということで教会の入口に

レダック ピースボートに乗る 改訂版6

2014-07-02 22:34:20 | 日記
⑥ イタリア バーリからマテーラ観光
アテネの外港ピレウスを出港したピースボートは、戦争の名前で憶えさせられたペロポネソス半島をグルッとまわり、アドリア海に入る。目指すはイタリアの長靴、というかハイヒールの踵の上、アキレス腱あたりのバーリBariという港町。ここでのOPは世界遺産洞窟の町マテーラ観光(13000円)。バーリからは、とんがり屋根にいたづら書きをしたような童話に出てくるような街並みのアルベルベッロというOPもあったのだが、洞窟の町といううたい文句にひかれた。4/18(金)は今までになく寒い日、天気予報では15℃~6℃でおまけに雲行きも怪しい。風に吹かれれば体感温度は真冬並み。桜の花びらに送られて出国してきたというのに、また2月の気候に逆戻り、だが、見学中は寒さも忘れるほど「スゴーイ」光景だった。高低差のある街並みを通り、教会前の広場から向こうを見やれば、想像を絶するような光景が広がっている。二つの谷沿いに家が埋めつくされており、その中にいくつか教会らしい建物も見える。その全貌は僕のデジカメではとらえきれない、写真もやがてアップするけれど、腕も悪いしそれでも分かりにくいだろう。 巨大なもの好きと以前書いたが、これも凄い、僕のBig5に入るでしょう。自然に依拠した人工物としては、ペトラとは違う意味で感動もんです。
何でも、10世紀のころ、イスラムの迫害を受けた人々が、このあたりの岩山の洞窟に居住するとともに、墓としても使用してきたらしい(トルコのカパドキアとの類似性からか?)。そして岩山は凝灰岩で柔らかいから、自由に掘り進み、教会や住居を建てていったということだ。しかし、このような形で住居を求めざるをえないということは、貧民窟化することを意味するわけで、1960年ころには3万人ほど居住するようになっていたという。市当局としては、合法的建築物ではないし、インフラ整備されていない、衛生面などの心配もあるなど、住民を強制退去させたという。しかし、あまりにも巨大な地域で、すでに観光地化し始めており、一定の環境整備したうえで一部住民?の帰還を認め、今では2千人ほどの住民が暮らしているという。その街中を少し歩いた、つまりは坂を登り下りし、博物館化された1軒?1穴?の洞窟の家を見学した。2mほどの高さの洞窟の形に合わせて3つくらいに分かれ、一番広い所にベッドと食卓、ちょっと低い所が馬小屋(馬の塑像もおいてある)、小さな区切りのところは一応台所というもので、人間と家畜が同居せざるをえないということ。ここ土産物屋に立ち寄って、少しぶらぶらしていくうちに、気がつけば教会前広場に戻ってきていたのだから、多分ごく一部にしか立ち入らなかったのだろう。
(閑話休題「ガイドさん、迷路みたいであんまりはやく行かないで、ちょっと待って、待ってーら、マテーラ」などと国辱的なダジャレなど言うはずがありません)
そして、今日は、カソリックのおひざ元の国でイースター復活祭の始まりの日に当たる(正教もたまたま今年は日が一致するそうだ)。この広大な丘の一方の頂に3つの十字架が建てられているのが見えますここ。イースターのお祭りの儀式として、今夕にマネキンを使い処刑を行う予定とガイドさんが説明していた。そのためか、イタリアの国営TVの中継車が狭い谷間の道を大きな音を立てて走り回っていたのも印象的だ。
(南イタリアへは行く機会は少ないだろうけれど)世界遺産指定され一見の価値があると思うが、よーく考えれば、目的有っての見学ならまだしも、観光などというのは、住民から言えば、傲慢で失礼な話だよネ


レダック ピースボートに乗る 改訂版5

2014-07-02 20:53:09 | 日記
⑤ ギリシャ ミコノス島 & アテネ
4/15(火) 朝から船内TV(そうTVもあるのです、この船専用で船の先頭デッキと船内ビデオ映画を流す)では、ジュディ・オングの「Wind is blowing from Asia」が流されていた。トルコからエーゲ海を南西?に突っ切り、ギリシャ最初の寄港地はミコノス島である。島の建造物全体がすべて白いことで有名で、デュロス島へのOP(オプショナルツアージャパングレース社によって様々なコースが用意されている)などもあるが、島内見学をしてから、自分らで独自にフェリーを使って行けるならデュロス島へも行こうという計画をたてOPは見送ったのだ。フェリーの乗り場を探し当てて得た情報では、一般客のフェリーはオフシーズンだからピースボートの特注以外は午前中の便はもうないとのこと。仕方なく、街に踏み入る。店・家の屋根が白一色で統一されているばかりか、迷路のようになった道も白く塗られている。規制がかかっているというより、これが観光資源だと認識し自主的に「白さ」を維持しているようだ。遊歩中に家の壁や道路を白く塗っている場面に3回も出くわしたのだから。道幅は3mくらいのところが多いが、やっと対向できるくらいのところもある。そこを車が通っていく。直線の道など無いに等しく見通しがつかない。ピースボートからバスで運ばれてきた千人ほどが、好き勝手に歩いているのだから、いたるところで遭遇しては、お互いにすれ違いながら、情報交換をする。
そうやって、ミコノス島のもう一つの目玉である風車小屋跡にたどり着いた。眼下の清澄なエーゲ海からきりたつ崖の上の一画に数軒の風車小屋が並ぶ。日本のそれと違って二重の円の枠に10本くらいロープが張ってある。「何だ、これは?」と訝ったが、そのロープに風をはらむ布を結びつけるのだ。穀物の臼ミルとして使っていたのだが、今は観光用のシンボルとしてしか機能しておらず、錠が下され布もはずされているのだ。街中を彷徨ううちに、妻が言った。「岩だけで、土がない」 そうなんですね。ペトラの砂岩、エフィソスも砂岩や石灰岩・大理石、そしてこの島、このあたりの文明は岩で築かれている(なんて言っちゃっていいのかな?)
エーゲ海でしておくべきは、ジエラート・ヨーグルトや、貝・お魚を食べること。先ほどの風車小屋跡を清澄な海の先に見ることのできるレストランで昼食をとった。コミニケーションがうまくいかなかったのか、辟易するくらいムール貝を食べ、腹ごなしに島中土産物屋かレストランの感のある細道をたどる。民俗博物館を訪問したがオフシーズンにつきお休みとのこと。それなら、帰りのバスの乗り場付近の博物館に寄ろうということにしたが、これが大正解。教科書にもよく出てくるギリシャ土器の復元したものや、彫像などが並べられている。私ら二人ともう一人英語を喋る女性の3人だけの入館者に、受付のおじさんが、多分かつての学芸員と思わせるような熱心さで説明してくれた。目の保養、話のタネになった。
デ、この日も爆睡。 
 翌16日の寄港地は、ミコノス島からギリシャ本土に向かい、アテネの外港として2500年の歴史を持つピレウスである。私は全く初めてなのでOPをとったが(11000円)、旅行経験のある妻は単独行動で博物館めぐりと、行動を別にした。このOPの参加者はバス5台分もいたが、単独行動なので、座席も一人でかけゆったりしていた。車窓からアテネ市内の至る所で神殿等の遺跡、モニュメント、人物の彫像等を見た。アテネ人のガイドさんはギリシャ神話を交えながら、要領よく説明してくれる。聞いた話で物知り顔に講釈するのが目的でないので、神話や名所案内は、例により省きます。ただ、アテネ神誕生のいきさつや、海神ポセイドンとの争いなどはおもしろかった。小高い丘の街を意味するアクロポリスにそびえるパルテノン神殿は、やはりとてつもなく巨大なものであった。僕が観光で感動するのは、人知を超えて圧倒する自然そのものか(私の中でのNO1はイグアスの滝と思う)か、それに立ち向かうかのような人工物だ(万里の長城は素直にスゴイと思っている)。古代から、人にはそのような巨大な物への畏怖、巨大なものを作りたいという願望は強くあったのではないか。僕もそういった意味では古代からの心性が宿っているのかもしれない。(ドバイや上海のように乱立すればやりすぎと思うが)。パルテノン神殿そのものもそうだが、登りきる途中で説明された眼下の街並みの中に見える神殿(名前は忘れた)のところではさすがに興奮した。その前のアゴラこそがかつてソクラテスもたむろしていた場所という。団体行動で残念ながら行く時間はなかったが、時空を超えて近接したという感動がある。20年間ほど「青年期の特徴」のあと「ギリシャ哲学」を教える際パラドックスで生徒たちを煙にまいた後、登場していただいたのがソクラテスだったわけで、いわば飯のタネの恩人の一人なのです。(ト、だんだん正体を自己暴露していきます)
 その後、アテネ市内の繁華街プラカでお食事ということだったのですが、博物館を探しあぐねている妻とバッタリあったのはお互いにびっくり。文化の源流の一つに触れることが出来、僕なりに満足しました。でも、3日連続の観光地回り、やっぱり疲れます。

レダック ピースボートに乗る 改訂版4 

2014-07-01 17:31:24 | 日記
④ トルコ クシャダス エフィソス遺跡観光 
4/14(月)アカバ乗船組にとって、エジプトに替わる最初の寄港地はトルコのクシャダスという港は、トルコ第3の人口のイズミールが近く、近くのエフィソス遺跡が有名(だそうだー知らなかった)。事前のオプショナルツアー(以下OP)募集に申し込み(6千円)。  以下、同じやり方だが、OP参加者は、知らされ時間に指定された場所(たいてい一番広いブロードウエイという間)に集められ、誘導されて舷門でIDカードを通し、バス乗車口でツアー参加を証するバウチャーを渡す。各バスごとにピースボートのスタッフ、現地ガイド、通訳がおり、例の赤組など行動単位としての色マークが渡される。
この遺跡は、1世紀前後につくられたものとのことだから、当然ローマ帝国の様式が主となり、図書館、共同トイレ(社交場でもあった)、野外音楽堂 、市場跡公衆浴場などの遺跡、彫像が割合保存状態よく残っている。頭がペトラと混乱しかけるが、ここでのおもしろいは二つ。
 ①スポーツのブランドのナイキはローマ字表記すればNIKEでニケとも読める。首の欠けたサモトラケのニケは有名な彫像だが、ローマ神話ではニケは勝利の女神。「レ」の後ろを引っ張るデザインはこの写真に明らか。
 ②世界最古の宣伝広告が足型。分かりにくいが右下の人の膝あたりを無視してハート形も見える? 足をもう少し延ばせば「売春宿」がありますよ、というデザイン、この時代からハートマークが使われていたというのもビックリ。
 朝8時からのコースであったので、港帰着は昼過ぎ、トルコ人ガイドに頼んで「ケバブのサンドイッチのおいしい店」を紹介してもらい、10数人が付き従う。確かに回しながら焼く牛肉と鶏肉の塊を切り取ってはさみ込んだサンドは旨かった。トルコリラは持っていないので支払いはドルかユーロ。先に払った夫婦は4ドルと言っていたのに私らの番になって「5ドル」と言う。抗議する。4ドルでよくなった。大阪をなめるなよ。スーパーを探しに街をぶらつくことにする。一緒にサンドイッチを食べていたおじ(い)さんがついてきて、「私はユーローで3ユーロ―支払った」と訴えかける。知らんがな! 確かに400円ちょっとと、500円以上でおかしいが、「抗議したらよろしいがな」と言ったら、「まあ、大したことないし・・」と言いいながら付いてくる。結局、スーパーで買い物をし帰り道の途中まで一緒に行動した。
船内のインターネットは衛星頼みでなかなかつながらないこともあり、一度帰船してWiFiフリーの店で食事をすることにした。カラマリや煮魚、サラダでなかなかのものだったが、おかげで作業途中で帰るべき時間となり、インターネットの悩みは解消されないまま、トルコから離れることとなった。もう少し時間の余裕があればなあ!

レダック ピースボートに乗る 改訂版

2014-07-01 17:12:01 | 日記
③ アカバ港乗船、スエズ運河航行
 4/10 ペトラから約2時間で我々はアカバ港に到着した。港ですごい豪華客船が目に入ったが、これではない。その先に「オーシャン ドリームOceanDream号」が待ち受けてくれていた。それでも約3.5万t、長さ?200m、定員1400人、10階デッキまである。船員やピースボートのスタッフが待ちかまえてくれ、バスから降ろされた荷物を予定の部屋まで運びこみ、そこでIDカードを含む書類をくれた。ヤレヤレ、やっと着いた。左右に備え付けベッド、窓付き(窓の有無によってもお値段が違います)のこの部屋がもう75日間の家となる。早速、船内生活についての説明会が開かれた。
このツアーはNGOピースボートの企画に基づき、ジャパングレースという旅行業者と共同実施の形をとり、パナマ船籍のこの船を長期間チャータ―しているということになる。かつての旅行記を読むと、「海上ではやはり船長さんが一番偉く、酒癖が悪い乗客に下船命令を出し、港に置き去りにできるほどの権限を持っている」ようだ。
 すでに3/13に横浜から105日間の600名ほどのフル・クルージング組の人から聞いた話を二つ。①出港直後から3日間は大揺れで大変、至る所にゲロ用袋がおかれ、苦しみぬいたらしい。そういえば過去の旅行記でも、黒潮に逆流して進むのだから、日本から旅発つときが一番揺れが激しいらしい。②アラビア半島をまわる時、ソマリアなどの海賊騒ぎで自衛艦による護送という話があったが、あれは誠。日本の商船など6艘が集められ船団を組み、先頭を海上自衛隊の艦船が進んだという。その時には客室の窓も外からブラインドがかぶせられていたという。
 アカバを出港後、本船は、シナイ半島をまわり紅海を北上し、スエズ運河から地中海へと向かった。11日は、初めてのフルの洋上生活を送る。
 4/12 早朝5時ころ、船内放送が流れる。「今からスエズ運河に入る。一方通行なので北上する船のグループの4番目として順番待ちしているところ、船間距離1マイル、運河航行中のスピード15ノット程度」というようなことが説明された。(後部デッキから 後ろで順番を待つ船 乗客は8~10F のデッキで必死に写真を撮る。航行しはじめて3時間ほど経ち朝食の時間になると、押すな、押すな状態であったデッキ前方も余裕がでてくる。待てよ、一方通行なら長時間反対側は待つの? ソウナンデスネ、単線電車と同じなんですね、大きな駅では複線にしているように、南下・北上の交差は湖2つの大きな湖で行っている。右舷側はシナイ半島の砂漠が続き、左舷側はエジプトの道路・住居・畑?などが見える。近い所では、甲板から「オーイ」と叫ぶ乗客に向かい手を振ったり、トラックの荷台に乗る兵士たちが声を発するのが聞こえる。ピースボートのスタッフも、写真撮影のサービスをしてくれる。夫婦で嬉しそうにとったのがコレ。 途中で日本が技術供与してできたという「友好橋」をくぐる。「スエズ運河を抜けた」という放送があったのは15時半頃であったのだから、9~10時間かかったことになる。地中海に入ったのダ。しかし、冒頭で書いたように、テロの続くエジプトの寄港は取りやめになったため、代わりにトルコのクシャダスという街に寄港することになった。