レダック ピースボートに乗る 改訂版2

2014-07-01 08:39:06 | 日記
 ② ヨルダン 
国土の西方を流れるヨルダン川を国名に。立憲君主国で王政のもと改革に着手しているので中東諸国の中で比較的政情安定しており、パレスチナ難民、近年ではシリアからの難民を受け入れている。
4月8日(3日目)、ドバイからヨルダンの首都アンマンへのフライト、そして死海のホテルまでバスによる移動日でした。着いた死海のホテルは豪華で広大で、そのプールは夜の闇の中に青色の照明の中に浮かび上がり、とても幻想的なものでした。そのホテルの庭の端にはエレベータが設置され、それを降りればそこはもう死海。プカリと浮遊体験したのです。変な感覚、運動神経の鈍い私は、下手をすればひっくり返りそうで、死海で溺死など不名誉なことはできまいと必死でバランスをとろうとしていましたら、監視人みたいな人が砂地の所まで押してくれました。全然愉快なことではない。おまけに、強烈な塩分に肌が負けそう!10分以上浸かってはいけないとの注意は正しいと思います。ましてや、高血圧の身には塩分は控えめに(意味違うか!)
ペトラ遺跡 紀元前1~後1世紀くらいに建設された古代アラブ民族の一つナバタイ人の首都の遺跡で、ローマ帝国もこの地を支配したが、地震で住民も減り、やがて廃墟となっていった。19世紀に探検家が「発見」し有名となり、1985年に世界遺産となっている。映画インディ・ジョーンズシリーズ「最後の聖戦」の舞台となる。
午後、ペトラへ向けて出発。砂漠ハイウエイをひた走る窓外の風景はどうにも馴染めない感じ、もっと言えば違和感を覚えた。灰白色が続く。土が茶色っぽいなら、まだホットする、どうやらリン鉱石を含んでいるらしい。まさに、荒野を行く、という感じ、やはりイエスはこのあたりの地に似合うのでしょう。羊や牛の放牧も何度も見ましたが、牧草地と言えるほどの緑などめったにお目にかかれない。やせてわずかな緑を求めるこの地こそ、羊飼いの話はふさわしい。「モーゼの谷」と呼ばれる地をドンドン降下していき、ホテルにたどり着く。
4月10日(5日目)、そもそも、今回の旅に行く決心をしたことの一つが、このペトラとマチュピチュがコースに入っていたからだ。その憧れのペトラについたが、秘境ではなく一大観光スポットであった。数十台のバスで満車に近いビジターセンター前が入り口であった。欧米人の団体客も多い。入場チケットを見れば50J.D(ヨルダンの通貨単位、1J.D=約150円)とされており、日本円換算すれば7500円というのにもびっくり。それくらい、見るところ一杯、満足度も高いということなんでしょう、と期待。この日は、片道約4.5Km先の昼食予定地まで、日本語のできる現地ガイドが引率してくれるが、昼食後は放し飼いで、14時20分までにバスに戻れとの強いお達し。入場するとほどなく、馬、ろば、馬車、ラクダの勧誘が激しく「オマ」「オマ」の声、実は「お馬」なのネ、そこにかぶせるように子どもたちの「ワンダラ」の叫び、もちろんこれは絵葉書や腕飾りなどの土産物売りが「1$」と言っているので、「秘境で彷徨うものwondererになれ」という呪詛の言葉ではない。マ、とにかく、アラブ人や欧米人に混じり、ピースボートのご一同様も砂ぼこりの中を行く。そのうち、まわりが岩になっていく。日本の岩石とはかなり異なり、赤っぽい、または薄汚れた茶色~ピンクの色とでも言えばいいか。砂岩なので、硬さはなく、長年の風雪に耐え、というのは嘘、風は激しいが雪はおろか雨も降らぬこの地で、風による見事な自然の造形物となっている、というのも嘘。遺跡の多くはもともとは墓、墓所として使われ、加工しやすいのでさまざまな人工の手が入っているというのがホント。もちろん、風化により奇妙な形になっている岩もある(例えば象岩)。そのうち、山の間を切り開いた道(シークSiqと言われる)に踏み込むと、場所によっては幅数mの狭小で日も当たらぬところもある。これで馬に乗ればジョージ・ハリスンの世界そのものだ。実際、その狭いシークを馬・馬車が行きかう。これが1.5Km続く。そのうち前方でどよめきが聞こえる。実際そこに達すると、「アアー」「オー」かはともかく、声をあげずにはいられない。一際狭くなった岩山の先から陽光が射し、その先に、そうその先に、エル・ハズネ(宝物殿)の一部を垣間見ることが出来るのだ。ローマ円形劇場があったり、大神殿であったり、写真を撮るのも飽きてきたころ、食堂にたどり着き昼食となる。
 さらに奥のエド・ディルと呼ばれる修道院跡も行きたいが、帰りの時間を考えれば難しい。しかし、せめて200mほど先に見ゆる神殿まで行きたい。妻は直接帰路に向かい私一人でそこまで登った。礼拝の間があったけれど、遠くから見た方がいいものもある。後は、ひたすら追いかけるうちにシークの途中で妻に会う。そこからが大変、行くときはガイドの説明に足を止め、それほど距離を感じなかった道のりが帰りは長い。おまけに陽射しはきつく、砂ぼこりが舞う。バスにたどり着いたのは定刻直前で、遅刻者がやっぱり出た。でも、満足。
 そして、いよいよアカバ港から乗船することになるのです。「アラビアのロレンス」は何歳に見た映画だったのでしょう?ほとんど記憶にないし、インターネットに接続できませんので調べることもできませんが、「アカバへ」というラクダ部隊(馬?)を疾駆させるシーンは記憶に残っています。でも我々は、バス車中で、それも足をマッサージしながら「アカバへ」向かいました。




レダック ピースボートに乗る 改訂版1

2014-07-01 01:06:05 | 日記
(改訂版)     レダック ピースボートに乗る
目次 
序                  2
はじめに                2
Ⅰ部 紀行または寄港編  3
      第1章  乗船前           3
① UAE ドバイ              3
          ② ヨルダン                6
      第2章 スエズから地中海へ 
① スエズ運河
② トルコ クシャダス
③ ギリシャ ミコノス島
④ ギリシャ アテネ
⑤ クロアチア・モンテネグロ
⑥ イタリア バーリ
⑦ スペイン モトリル
⑧ 英領ジブラルタル
⑨ モロッコ カサブランカ・ラバト
     第3章 ラテンアメリカ
          ① ベネズエラ ラグアイア・カラカス
          ② ペルー リマ・クスコ・マチュピチュ
     第4章 ポリネシア
          ① ラパヌイ(チリ イースター島)
          ② 仏領ポリネシア タヒチ・ボラボラ島
          ③ ハワイイ
    
Ⅱ部 船内生活編
      ・・・








 写真もなく、タラタラとした文章をお読みいただいた「レダック PBに乗る」の読者の皆さん。
辛抱強くお読みいただきありがとうございます。大洋をはじめて航海し、船上からいざ原稿を送ろうとしたら、多くの困難がありました。まずは、100分3800円のカードを買い、を接続する(これが結構大変で、衛星と離れている時にはなかなかつながらず成功するのは3回に1回程度)、おまけにどこをどう触ったのか分からないうちに(飛行)機内モードになり、Passenger Internetそのものがでてこない、写真などは重くて送れない、など、WiFiということがもう一つ理解できぬまま、初めてブログを開始した人間には厳しい環境からの送信でした。
  また、寄港地では当然観光を優先したいし、WiFiのできる喫茶レストランも、街によりすぐ見つけられた所と探しても容易に分からない地があり、マ苦労したわけです。執筆というか文章書きも、寄港が続くと翌日は休養日みたいな感じになるし、PBは盛りだくさんの企画をつきつけてくる、文章を練るなんどの余裕はない、等々の理由で日記風になる、そうすると紀行文なのか、レダックの日記なのか分からない、等の苦情もありますので、上記目次のように再整理したものです。
 また、インターネットが容易に使えないので、確かめられず不確かな記述があるかも知れないこと、船内生活については、ずいぶん私の記述に偏りがあったことが分かり書き直す必要を痛感していることなど、修正したところも多い。それでも、再度読んでいただけるなら幸甚です。


 はじめに
辻元清美らのすなるピースボートというものに我も乗ってみむとて、申し込むなり。
2014年3月13日の時に横浜船出の船が、内覧会のため前年10月に神戸の港に来るとて見に行く。冷やかし気分で行きたるも、勧誘によろめき 仮申し込み すなり。そのよし、いささかものに書きつく。

 私レダックは、教員リタイア後、民間企業の海外・帰国子女教育の相談員を経て、暫時休憩後、非常勤でNPO団体職員をこの3月末までやっていた。2013年10月ころだったろうか、オーシャン・ドリーム号という船の内覧会に妻に連れて行かれる。後学のため程度の気分だったが、まんまと勧誘にはまってしまった。横浜発着のフル船旅1周計画なら百日越えでかつ3月出発なら非常勤とはいえ仕事をやめなければならぬ。ところが、飛行機で船を追っかけて行き合流するという、フライト&クルーズのパタンもあると知った。このプランなら、4月6日飛行機で出発、ドバイ経由でヨルダンから合流ということになる。妻はアジアには何度も行っており、しかも、100日でなく80日と言われれば、グラッと傾いてしまったのだ。後は一直線、費用も払い込み、オプションのツアーに申込みしているうちに、お仕事も3月末で終わり。今は準備に大わらわ。何が大変か!
 コースはおいおい紹介するが、地中海―大西洋―太平洋のクルージング、おまけにマチュピチュなど高山を含むから、春先の服装から夏、そして寒さ対策ト、服装―荷物対策に悩まされる。下着は何セット?山はどうする?船内のジムやプールも使う? 行きはフライトだから、持参できる荷物も限られてる。
 二つ目は、身体そのもののメンテだ。50歳で脳動脈瘤オペをやり、以来降圧剤は一生欠かせぬ。今は90日分薬が出るようになって助かっている。もう一つ困るのは近年前立腺肥大で昼夜とわずオシッコに悩まされている。オプションツアーでは3~4時間の行程もある。
ニュージーランドのバスツアーで、えも言えぬ苦しさを味わったことを繰り返したくない。それで泌尿器科に通いだし、やっと薬の効果が出始めたかなあーという段階だが、副作用で口内・咽喉まで乾燥が激しく、ために高音が出なくなり(マ、加齢による声帯の劣化のせいもあるが)市民ゴスペルの会もやめざるをえなくなった。
 三つ目は、海上生活だから、ブログがいつでもできるわけではない。おまけにこの種の扱いは、おじいさんだから、心もとない。これで、第2信を送信できずに終わったらゴメンネ!! ということで船もブログも出発したのでした。
なお、観光地情報について、興味のある方はガイドブックを見てください。レダック紀行は、あくまでもレダックの関心を引いたことしか詳述しません。私的・主観的見聞記以外の何物でもありませんので、客観的情報は期待しないで下さい。

第一部 寄港地紀行 
□内の文章は、レダック調べ、または講座等からえたその地の情報
 第1章 乗船前
 ① UAE ドバイ
UAEは800余万の住民の内、UAE国民はなんと100万で、後は180ほどの国籍の外国人という。国民なら大学まで教育費はフリーで、大卒後は60万~80万の給与をとるそうだ。
ドバイは、30年以上前には、ただの港町であったが、あきれるまでに変貌を続けている。2020年(東京オリンピックの年)にはEXPO(万博)が開催されることが決まっており、さらなるインフラ整備ラッシュの真っただ中にあり、無限の発展!運動を止められないように感じられる。
4月7日(2日目)午前4時、ドバイの空港の一画に、我々はピンク組の一員として集められていた。前回書いたように、第83回ピースボートは、600人ほどの乗客を乗せ、既に3月13日に横浜を出港したとのことだ。私と妻が申し込んだのは、アジア各地に寄港しながら航海中のピースボートを追っかけ、関空・成田・羽田からのフライトで追いつきヨルダンのアカバからの乗船というコースなのだ。後で聞いたところによれば、関空からは140名ほど、成田・羽田あわせて300名強が合流したらしい。どうやら、初めて顔を会わせる連中を、バスでホテルまで移送するために、30数名の単位で分ける必要があるのだろう。デ、私らはピンクの組というわけだ。
昨日関空で、ピースボートのスタッフから「エジプトでは4月に入って2度もテロがあり、寄港しないことになった(エエー!)、代わりにトルコのグシャダスに行く(それってどこ?)」と波乱を予感させるような情報を知らされた。そして、搭乗手続の際、書類の入った封筒と、ピンクの色紙を入れたタグを4枚渡された。それを各自の荷物につけて、6日23時、エミレーツ航空機は関空を飛び立ち、10時間のフライトで無事ドバイ空港にまでは到着したわけだ。時差が5時間あるので、現地時間は、まだ明けやらぬ午前4時ということになる。入管をくぐり終えた私たちは、ただひたすら次の指示を待ち続けていたのでした。その間を、ピースボートのスタッフとジャパン・グレイスという旅行会社の職員が走り回っているが、半時間も待たされていたろうか、たまりかねたのか、隣にいた一人のオッチャンが大声を発した。「どない、なっとんねん、何分待たすねん」。走ってきたスタッフらしき者が「最後尾にいるスタッフが今確認している所なので」と言い訳をしている。関空を飛び立ってきた連中だから、「あー、かっこ悪、関西のがらの悪さ公開せんでもいいのに、先が思いやられる」と嫁さんと目と目で会話する(声に出せば聞こえるモン)。そのうち、別のスタッフと思しき若き女性が「揃いましたので、ピンク組の皆さんは荷物を持ってバスに移動して下さい。その前に、人数確認のためハイタッチさせて下さい」と言う。挙げた手をスタッフが「1」「2」「3」と数えながらハイタッチしていく。そう、我々は名前を持った個人ではなく、合計数だけが問題となる集団の一員なのだ。でもこの方法は、点呼より時間節約できるし、若き女性とのハイタッチをいやがる者はいないし、おまけに何らかの親密感が芽生えるなど、いいやり方ではある。よくよく見れば、この組は自分もそうだが、おじん・オバンが圧倒的に多いように見受けられる。
 さて、道路わきに停めたバスの横腹に荷物を詰め込んでいくわけだが、スーツケースを載せたカートをそのままにしておくと他の車と接触しかねないほど危険なので、自分のカートともう一人後ろで苦闘している人のカートも一緒に移動させた。そこで、レダックは驚くのであります。手荷物入れのところに、なんとパスポートが残されているではありませんか☆!※ 「おじさん、おじさん」、そのカートを託したおじさんはバス入り口の補助棒に手をかけているのです。大丈夫かいな、そんな場合違うで・・ 手にしたパスポートを開け名前を呼ぶ「○○さん、これ」。 さすがに、会ったたばかりの他人に後ろから名前を呼ばれ、大事な大事なパスポートを差し出されては、面目丸つぶれか?彼の眼鏡の奥はまさに「点」になっていたのでありました。怒鳴るオッチャン、パスポート置き忘れのおじさん、こんな組でこれから一緒に旅行するの?!と不安にかられるレダックではありました。
 何はともあれ、7時前にはホテルに到着、いったんフリーとなり、12時集合してドバイ市内の観光だそうな。その時、新たに「組替え」が発表され、今度は私らは「青組」さんとなった。妻は「ドバイのメトロ(日本が技術供与した)に乗っておきたい」というので、時間を有効活用することとする。世界一好きのこの国で一度に二つの世界一を見ることのできるメトロの駅をめざす。スカイツリーもあべのハルカスも到底及ばぬ820数mの高さの建造物「バージ カリフ」、1200以上の店舗のはいる「ドバイモール」へ行くこととする。午後のバスツアーでも当然まわるだろうが個人行動をしておこうというわけだ。しかし、ホテルからメトロの駅まで、そして目的の駅からモールまでが遠い。移動疲れと厳しい日差しにバテ気味の身には、往復で結局1時間近く歩いて消耗しただけだった。足を引きず
りホテル帰着後まもなく、バスでドバイ観光へ。
 斬新なデザインのビル群、海岸線から見えるデッカイ帆船型ホテル、金gold市場(スークというらしい)、そして先ほど駆け足でまわった塔とモール。かと思うと美しいモスク、かつての寒村の港の名残を残すダウ船と言われる渡し船、その歴史を展示した博物館など、記憶にとどめきれないほどの観光地巡り。語りつくせません。
金満国家というべきか。観光地を回るにつれ「分かった、分かった。すごいね、世界一たくさんあるね。オメデトウ。あのホテル1泊30万円からって。ハイハイ、すごいです」 昼食に立ち寄ったレストランのハイネケンのビールが11ドル・・、誰が飲むか・・・」若いころならともかく、この年になれば、この街は疲れる。
無論、素朴に感心したこともある。言うまでもなくモスリムの戒律が日常的に生きてお
り宗派争いもここでは安定していると思われる。メトロに乗った時、女性・子ども・老人には、例外なく人々は席を譲る(だから妻は往復ともすぐに座れた)。デモ、メトロ車内での飲食禁止は分かるとしても居眠りまで厳禁で罰金対象になるってやり過ぎじゃない。マ、現状の日本人の一員として、批判がましいことは言えないけど・・・
 夕食後、またメトロに乗って街に出かける気力とてなく、爆睡したのでありました。