歴タビ日記~風に吹かれて~

歴タビ、歴史をめぐる旅。旅先で知った、気になる歴史のエピソードを備忘録も兼ね、まとめています。

時を超えた伝言~広島の旅

2023-03-21 11:43:27 | 広島県

被爆直後、多くの人が家族や知人の消息を尋ねる伝言を遺した。
それが今でも遺っている。
夫と別行動をしての一人歩き・・・
まず、出かけてみたのが、ここだった。



かつての袋町国民学校、爆心地から460m。

今見ても洗練された雰囲気の建物は、鉄筋コンクリート造、
当時から、水洗トイレやダストシュートなど最先端の設備も持った、
モダンな小学校だった。


昭和20(1945)年8月6日8時15分、広島に原爆投下。
すさまじい爆風と熱線に、建物は外枠のみを残し廃墟と化した。
火災で、燃えるものは全て焼き尽くされ、
壁は黒くすすけたという。


その頃、児童は学童疎開のため大半は登校していない。
けれど学童疎開の年齢に達しない、低学年を中心にした子ども達と
出勤していた先生方が犠牲になった。
ちょうど、朝会の直後で校庭に出ていたそうだ。
約160名が、ほぼ全滅だったという。

生き残った児童は、遅刻したために、
まだ校舎内にいて無事だったとも・・・




外枠だけしかない校舎は、
被爆直後から、急ごしらえの、救護所となった。
やがて、安否を気遣う人びとが、床に散らばったチョークを使って、
黒くすすけた壁に伝言を書き残す。


外枠だけの建物を救護所にしなければならないほど、
原爆投下後は、何もかもが消えていた。
それが、うかがえる。
とりあえず建っていた校舎は、焼け野原の数少ない目印となり、
皆、ここを目指したのだろう。



黒い壁に残された、おびただしい伝言。

入館して、これを見たとき、わたしは黒板に書かれているのだと思った。
「黒板を運んできたのかな、学校だもんね」と。

黒板なんて、とっくに火災で燃えてしまっているのに、
何もわかっちゃいない。



この伝言は、長く、存在を知られていなかった。

というのも、
敗戦翌年の昭和21(1946)年6月から、学校では授業を再開し、
それに合わせ、黒くすすけた壁を白く塗り直している。
あの伝言は消えてしまった、と思われたのだ。


1999(平成11)年、校舎の建て替えを前に、
被爆当時のものが遺っているかどうかの調査が行われる。

その結果、白く塗られた漆喰の壁の下から、
かつての伝言が見つかった。
薄く読みにくくなった文字は、コンピュータ技術により
内容が読み取れるまでになった。


館内のビデオ映像では、伝言を探すために
ボランティアさんが壁の漆喰を剥がしている作業を見ることができた。
市民の思いがあってこそ遺されていくのだと、感じ入る。



また、先の館内ビデオでは、伝言を遺した人の遺族が
あの日、家族の書いた伝言と、初めて対面する場面もあった。

「これ、おかあちゃんの字ね、変わってないな」
(ビデオは広島弁)
「心配していたんだね」

伝言発見の頃は、今から約30年前。
ご健在の姉妹は、亡き母上が、
もうひとりの娘さんを案じて書いた伝言とむきあい、
涙していた。

結局、その姉妹の行方は確認されないままだったと思う。
(わたしの記憶が入り乱れているかも)




今も遺る、当時の地下へと下る階段、
破損したドアや窓枠を見ながら、あの頃を思い浮かべてみる。

どんな想いだったのだろう。
当時、書いた人も、その後、伝言と向き合った人も。

もちろん、わかるものではないけれど、
それでも。




このとき、小学生二人を交えた、四人家族が見学をしていた。
入館名簿で、私のすぐ上に書かれていた、そのグループは、
隣県から来館とのこと。

お子さん達は、親御さんと何やら話し合いながら
真剣に展示を見つめていた。

自分と同年齢の子ども達が被爆し、そして行方知れずになって・・・
必死で家族が探している伝言を見る。
強烈な印象を残すはずだ。

頼もしい。


***************************
最後まで、読んでいただき、どうもありがとうございます。

資料館HPや現地解説版と記憶を頼りにまとめた記事です。
間違いや勘違いもあることと存じますが、
素人のことと、どうぞお許し下さいませ。

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4 コメント

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fuhchan2399さま (ぴあ野)
2023-06-15 15:51:44
fuhchan2399さん、コメントをどうもありがとうございます。
おっしゃる通りだと思います。
日本の戦没者310万のうち、最後の1年間に
亡くなった人が200万人、
辞める決断をしていれば・・・といつも思います。
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Unknown (fuhchan2399)
2023-06-15 09:23:29
仙台の3.11の被害にあった小学校を訪ねたあと、この小学校を訪ねました。まず、感じたことは、戦争は人災だということです。防ごうとすれば防ぐことができるのです。
返信する
あたこさま (ぴあ野)
2023-03-23 06:19:39
お返事が遅くなり失礼致しました。
読んでいただけるだけでも嬉しいのに、
コメントまで頂戴できて、とってもありがたく
感謝しております。

あたこさ~ん、わたしは、本当に趣味なので・・・
しょせん観光客ですもんね。
広島で、市民ボランティアさんが漆喰をはがして、かつての伝言を発見したなんて聞くと
人の力って、本当にすばらしいなぁと思います。

隠岐さや香さんの論考、教えていただき、どうもありがとうございます。
まさに我が意を得たり、です。
配慮も必要ですが、事実のもつ力を見せず、どうするんだろう・・・と思います。
子どもの頃に見た、原爆や戦争の映像の悲惨な姿は、眠れなくなるほど怖かったぶん、
強烈な記憶として今でも残っていますから・・・

ボチボチと綴る、歴タビですが、
どうぞ、また、お立ち寄り下さいませ。
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Unknown (あたこ)
2023-03-22 00:13:55
近隣の、何度も訪れたことのあるわたしが知らない事実がいっぱい。いかに通りいっぺんの理解しかしてなかったか、反省するとどうじに、よくぞここまで突き詰める旅をなさったと、敬服しました。
最近、新聞で、科学史家 隠岐さや香さんの 「核被害の記憶 若者へ」という論説を読みました。筆舌にしがたい災厄の記憶こそ、平和を導く道しるべとなる。
というものでした。
伝えていかなければならないことがどんどんソフトな表現になつて伝わりにくくなっていることを危惧する意見でした。
本当にそうですよね。と言いながら何もしていない自分がいます。ぴあ野さんのような旅の記録、もっともっとたくさんの人に読んでほしいと思いました。
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