秋田での歴タビ日記。
本日は秋田市土崎みなと歴史伝承館にある
土崎空襲展示ホールの展示を紹介しながら、
土崎空襲について、備忘録を兼ね、まとめておきたい。
ここには、「被爆倉庫」の一部が移築、展示されている。
空襲で被災した旧日石秋田製油所の建物だ。
戦後も長く倉庫として使われていたが、解体されることになり、
ここへ移されたのだという。
ほんの一部だけなのに、焼けただれた壁や天井は
見学者から言葉を奪うのに十分だった・・・
さて、
前記事でも触れたように、本土空襲のため飛来するB29は
マリアナ諸島からやってきた。
展示によると、秋田市は、その北限で、
青森県八戸への空襲計画は、硫黄島が出発地だったそうだ。
だが、秋田には、大きなターゲットがあった。
土崎の日本石油株式会社(現ENEOS )秋田製油所だ。
昭和10年代から秋田市八橋油田、黒川油田では産油が盛んに行われ、
その製油をしていたのが土崎の日本石油だった。
ここは製油所の規模こそ、決して大きくはないのだが、
輸入された原油を使わずに製油ができ、
内地の製油生産量の四割近くを占めていたという。
そのため戦時中にもかかわらず、変わることなく、
製油が続けられていた。
ここをアメリカ軍が見過ごしていたとは思えない。
おそらく、マリアナ諸島から遠いことが大きかったのではないか。
実際、秋田県に、この土崎以外への大きな空襲は
管見する限り見当たらないからだ。
ところが・・・というか、やはりというか。
昭和20(1945)年8月14日、午後10時27分頃
とうとう土崎は攻撃された。
よりにもよって、玉音放送の前夜に。
しかも、「警戒警報」のないまま、いきなりの「空襲警報」。
警報と、ほぼ同時に爆撃は始まり、
さらに、およそ30分後には、本格的に攻撃される。
絶え間ない攻撃が続き、
製油所のある土崎港を中心として、
街中はもちろん田んぼにも爆弾が投下された。
爆撃機、およそ130機。
爆弾1万2千発以上。
翌15日の2時半頃、4時間に及ぶ攻撃が終わり、
ようやく爆撃機は去った。
土崎の被害は、製油所を除いても104戸が全焼。
日石製油所は、1週間にわたり燃え続けた。
負傷者の数はわからない。
だが、けがをした人は組合病院に運ばれたものの収容しきれず、
土崎高女(土崎南小)の校舎や、
近くの松林に設けられた臨時救護所に収容されたそうだ。
おびただしい人数だったことがうかがえる。
そして民間人93人、軍人160人前後が亡くなった。
夜10時半といえば、灯火管制の下、人びとは眠りに就いていただろう。
そこへ、「警戒警報」なしで、いきなりの「空襲警報」だ。
飛び起きたときには、攻撃も始まっており、
なすすべもなかったことだろう・・・
それが、この数字の中にいる人たち。
数字にすると、ただの数字だが、
一つ一つの数字が人間であり、普通に生きていた人たちなのだ。
フツフツと怒りが湧く。
爆撃機が去った、10時間後・・・
8月15日正午、土崎の人びとは玉音放送を聴くことになった。
このとき、どれほどの人が実際にラジオの前に集まれただろうか。
製油所は燃え続けており、
おそらく、まだ、あちこちで、火はくすぶっている。
けが人の手当や、救出だって続いていただろう。
犠牲者の収容という哀しい作業も続けられていたはずだ。
胸が詰まる。
解体された建築が一部とは言え、
残されていることは大事なことだ。
戦争体験者は、ますます減るばかり。
人ではなく「モノ」から戦争を伝えていく時代に入っている。
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おつきあいいただき、どうもありがとうございます。
以下を参考にまとめましたが、
間違いや勘違いもあることと存じます。
素人のこととお許し下さいませ。
◆参考
●土崎みなと歴史伝承館「土崎空襲被爆ジオラマ」「日本最後の空襲」
●土崎港歴史伝承館HP 「土崎空襲の記録」
◆8月28日追記
冒頭画像の被爆倉庫を見ていて、つくづく思う。
空襲は、やはり焼夷弾だったのだろう。
中は、あんなに黒焦げなのに、建物自体はコンクリート造りだったのか
残っている。戦後も倉庫として使えたほど傷んでいない。
焼夷弾の恐ろしさを、まざまざと見せつけられる。