8月17日。
台風が近づいているが、青空が広がり、真夏の太陽が南国を焼く。
朝食を摂り、10時にホテルを出発。
行き先を知るのは夫のみ。
「ぱぱ、どこに行くとー?」と子供達は何度も訊いているが、夫はのらりくらりと答えをはぐらかず。
私は昨晩から寝不足で、途中、気分が悪くなり、助手席のシートを倒して、バスタオルをかぶり目を閉じてくたばっていた。
峠に入ったようで、具合の悪さは徐々にピークに。
いかんいかん、こりゃまずいと、現実逃避するようにそのままとろとろと淡い眠りに入る。
「はぁ~、着いた」
ゆっくりと目を開け、座席を元に戻す。
・・・ここどこ?
時刻は11時半近くになっていた。
松が植わっている庭園の向こうに、平和祈念館の文字が。
「知覧じゃないな・・・」(過去に知覧に行った)
夫が「ここは加世田よ」と言う。
「ちゃんとよく見て、感じて帰ること」と息子に言っていたが、息子はどこまで理解できるのだろうか?
ここ加世田市平和祈念館は、万世飛行場から出撃した特攻隊員の遺品や遺影、当時の資料などが展示されている。
終戦4ヶ月間使用されたこの飛行場から、若き少年兵達がここから尊い命を散らした。
2階は飛行機の残骸(復元した物)がバーンと展示してあり、あちこちに千羽鶴が飾ってあった。
そして2階へ。
2階には、ここから出撃して亡くなった201名(3名は遺影がないので198名)の遺影が展示してあり、彼らの遺品や遺書、手紙等が展示してある。
一部、センサーがあり、人が近づくとライトが点灯するコーナーがあり、ここに展示してあったのが「血書」だった・・・。
知覧の時も思ったのだが、正直言って、見るのが辛い。
遺書にしろ、死亡通知書にしろ、ありとあらゆる物が、見ていて胸を締め付ける。
知覧の平和祈念館に行ったとき、私は24歳ぐらいだった。
当時は自分と年が変わらない人達が・・・と思い、涙をぼろぼろ流したが、今は「自分の子供には、絶対にこんな形で死んで欲しくない」という思いで一杯で、またしても涙があふれる。
私も36歳になり、亡くなった特攻隊員は、皆私よりも年下だ。
中には私の年齢の半分の特効隊員もいて、彼らのご両親の気持ちを思うと、やるせない。
こんな形で大事に育てた自分の息子が、「サヨウナラ」と言って、二度と帰ってくることがないなんて。
息子は、夫から色々と話を聞きながら、展示物を眺めており、彼なりになにか思うことがあったようで、珍しく静かにしていた。
娘は、まだピンと来ないようで、退屈そうにしていた。
祈念館をあとにし、再び鹿児島市内へ。
今の平和が、ずっと続いて欲しい。
ただ、「今、現在が平和なのか?」と訊かれたら、はっきり「YES」とは答えられない。
このきな臭い情勢の中、子供達に、さらにその子供達に、恒久的な平和を約束できるようにしていくのが、大人の、今の時代を生きる人間の、大きな課題だろう。
戦争で尊い命を落とした、たくさんの人達のためにも。
(8月22日記)
台風が近づいているが、青空が広がり、真夏の太陽が南国を焼く。
朝食を摂り、10時にホテルを出発。
行き先を知るのは夫のみ。
「ぱぱ、どこに行くとー?」と子供達は何度も訊いているが、夫はのらりくらりと答えをはぐらかず。
私は昨晩から寝不足で、途中、気分が悪くなり、助手席のシートを倒して、バスタオルをかぶり目を閉じてくたばっていた。
峠に入ったようで、具合の悪さは徐々にピークに。
いかんいかん、こりゃまずいと、現実逃避するようにそのままとろとろと淡い眠りに入る。
「はぁ~、着いた」
ゆっくりと目を開け、座席を元に戻す。
・・・ここどこ?
時刻は11時半近くになっていた。
松が植わっている庭園の向こうに、平和祈念館の文字が。
「知覧じゃないな・・・」(過去に知覧に行った)
夫が「ここは加世田よ」と言う。
「ちゃんとよく見て、感じて帰ること」と息子に言っていたが、息子はどこまで理解できるのだろうか?
ここ加世田市平和祈念館は、万世飛行場から出撃した特攻隊員の遺品や遺影、当時の資料などが展示されている。
終戦4ヶ月間使用されたこの飛行場から、若き少年兵達がここから尊い命を散らした。
2階は飛行機の残骸(復元した物)がバーンと展示してあり、あちこちに千羽鶴が飾ってあった。
そして2階へ。
2階には、ここから出撃して亡くなった201名(3名は遺影がないので198名)の遺影が展示してあり、彼らの遺品や遺書、手紙等が展示してある。
一部、センサーがあり、人が近づくとライトが点灯するコーナーがあり、ここに展示してあったのが「血書」だった・・・。
知覧の時も思ったのだが、正直言って、見るのが辛い。
遺書にしろ、死亡通知書にしろ、ありとあらゆる物が、見ていて胸を締め付ける。
知覧の平和祈念館に行ったとき、私は24歳ぐらいだった。
当時は自分と年が変わらない人達が・・・と思い、涙をぼろぼろ流したが、今は「自分の子供には、絶対にこんな形で死んで欲しくない」という思いで一杯で、またしても涙があふれる。
私も36歳になり、亡くなった特攻隊員は、皆私よりも年下だ。
中には私の年齢の半分の特効隊員もいて、彼らのご両親の気持ちを思うと、やるせない。
こんな形で大事に育てた自分の息子が、「サヨウナラ」と言って、二度と帰ってくることがないなんて。
息子は、夫から色々と話を聞きながら、展示物を眺めており、彼なりになにか思うことがあったようで、珍しく静かにしていた。
娘は、まだピンと来ないようで、退屈そうにしていた。
祈念館をあとにし、再び鹿児島市内へ。
今の平和が、ずっと続いて欲しい。
ただ、「今、現在が平和なのか?」と訊かれたら、はっきり「YES」とは答えられない。
このきな臭い情勢の中、子供達に、さらにその子供達に、恒久的な平和を約束できるようにしていくのが、大人の、今の時代を生きる人間の、大きな課題だろう。
戦争で尊い命を落とした、たくさんの人達のためにも。
(8月22日記)