9月28日は島津斉彬 生誕202年 -
篤姫の養父に当たる第11代薩摩藩藩主・島津斉彬(しまづ なりあきら)。斉彬は,文化6(1809)年9月28日,薩摩藩10代藩主主島津斉興(なりおき)の長男として生まれた。
島津斉彬は,藩主としての期間はわずか7年に過ぎなかったが,新日本建設の理想をいだき,幕政および藩政を改革し西洋文化の輸入に努めるなづ,先見性豊かな人物であったことから,幕末の名君といわれる。
殖産興業,開国貿易を促進し,日本初の溶鉱炉を建設するなど,富国強兵にも尽力した。当時の日本の最先端を行った集成館事業により洋式の軍艦や大船を建造し,紡績,硝子,陶器,などの近代的産業に着目,その製造に当たった。その科学的識見は後世に偉大な影響を与えた。
なお,身分を問わず有能な若手人材に志を説くとともに,小松帯刀,西郷隆盛,大久保利通といった人材を登用して維新回天の基礎を築いた。また,日章旗を国旗に制定に尽力した。
薩摩藩の跡継ぎとして育った斉彬(1809-1858)は,藩主へ階段を着実に上っていきました。元服,将軍謁見,位階授与,結婚と次々に積み重ねるなか,海外に強い興味を持つ曾祖父重豪(しげひで)の影響も受け,斉彬の目も海外に向けられました。
◆元服と結婚
斉彬は13歳になった21(文政4)年,元服して「又三郎忠方(ただかた)」と名を改めた。24年には11代将軍・徳川家斉(いえなり)に謁見。一字をもらい「斉彬」となり従四位を受けました。
同年,母周子(かねこ)34歳で病死。「もし健在であれば,25年後の異母弟久光との家督争いの発生は疑問だ」ともいわれています。徳川御三家の一橋家出身4歳の時に婚約した英姫(ふさひめ)とは26年に婚儀を挙げた。
斉彬は青年時代,学業や武芸で多忙な日々を送り,暇が惜しいと語ったていたという。器量が優れ,さすが大藩の跡継ぎだと称賛された。初の将軍謁見では居並ぶ諸大名らを前に,緊張しなかったか尋ねた祖父・斉宣(なりのぶ)には「将軍の前は,(斉宣の)御前よりも心安い」と答えて喜ばせたとの逸話が残る。
◆シーボルトとの会見
第8代藩主で曾祖父の重豪は26(文政9)年,江戸へ向かうオランダ商館の一行を江戸・大森の薩摩屋敷で出迎えました。中津藩に養子に入り藩主となった重豪の次男・奥平昌高(まさたか)と,18歳の斉彬も一緒であった。
随行していたドイツ人医師で博物学者のシーボルトを,時折オランダ語も織り交ぜながら質問攻めにする重豪や昌高に比べ,斉彬は目立たない存在だったようです。だが「当時斉彬はオランダの知識が未熟だったのであろうが,大きな刺激となり,その後におよぽした影響ははかりしれない」(芳即正「島津斉彬」)。
18歳頃の斉彬はこう語っています。「学問は詩歌を記憶するだけでは無益だ。実学こそが大事だ」とし,多くの蘭学者と親交を結んだ。
◆「篤姫」
篤姫の誕生日については,「島津氏正統系図」には天保6年(1835)12月19日,「源姓和泉氏嫡流系図」には天保7(1836)年2月19日と,異なる日が掲載されている。
「篤姫」は天保6年(1835年)島津氏の庶流今和泉家の島津忠剛(ただたけ)の長女として誕生した。名を於一(おかつ)・一子(かつこ)といった。父の忠剛は斉彬の叔父(斉宣の子)である。
篤姫-
島津家へ,家定の正室を迎えたいとの縁談が持ち込まれたのは,時の老中阿部正弘と斉彬が懇意であったことも背景にあるとされる。 嘉永6年(1853)に斉彬は於一を実子として幕府に届け,養女として於篤と改めさせた。ここに篤姫の誕生となる。篤姫はこのとき鶴丸城に入り,輿入れの準備のため江戸藩邸に移った。
ペリー来航・家慶の死去・開国といった問題のため,輿入れは延期されていたが,安政3年(1856)近衛家の養女となり近衛敬子(すみこ)と改名。安政4年(1857)に婚礼を上げた。
▼斉彬,50歳で急逝
斉彬は1858年7月,鹿児島湾を望む天保山の調練所での訓練観閲後に体調を崩し急逝。 死因についてはコレラ,毒殺説,赤痢説,あるいは食中毒と諸説あるが定かではない。
容体を記した藩医の記録によると,発熱と腹痛に始まり,1日に30回を超えるひどい下痢が続き,1週間後に息を引き取っている。自分で釣った魚を鮨(すし)にして食べた後,下痢をしたとも記録には残されている。