Yacht BrisaⅡ 日記

北海道の田舎暮らしで家庭菜園とヨット「BrisaⅡ(Catalina28 Mk2)」を楽しむ爺のぐうたら日記

廿日市市の菩提寺

2021年12月08日 | お出かけ日記
◎11月23日(火)、以前から予定して居た義父の三回忌(11月25日)に併せ、新型コロナ感染の恐れが高い事から二年間も延び延びとなって居た「納骨」を執り行う為、家内と二人で広島に行って来ました。
母の急逝から葬儀を終え、初七日を終えたので当初の予定通り遺骨を抱いての旅となりました。
義父の菩提寺は廿日市市にある「蓮教寺」と云う古刹です。
一日1便のJAL便に乗り、広島市のホテルに到着したのは19時過ぎ、すっかり暗くなって居ました。



予約して於いたホテルは「リーガロイヤルホテル広島」で、バスターミナルに隣接している利便性の高いホテルです。



窓からは「原爆ドーム」や「平和公園」が見渡せます。





チェックイン後はホテルのレストランで遅めの夕食、「シュラスコ・ディナー」をとりました。



◎24日は15時から墓地の清掃、16時から三回忌・納骨の打ち合わせの予定。
昼食は「うえの」の「あなご飯」と決めて、少し早めにホテルを出て、JRで「宮島口」まで。
11時前に着いたと云うのに既に長蛇の列、待ち時間は約二時間と云われ、取り敢えず予約を入れ近くの「藤い屋」へ、此処は宮島名物「もみじまんじゅう」の名店、続いては近くの「COCONCA」へ、此の二店舗で些少の菓子を買い、入り口で見つけた「やっぱ広島じゃ割・地域観光支援割クーポン券」が在る事を知り、どこで買えるかを訪ねたら「ファミリー・マート」で取り扱って居ると教えてくれたので、近くの「ファミマ」へ、ところが「ファミマ」では扱って居らず、今度は宿泊しているホテルで買えるとの情報。





その夜、ホテルのフロントで聞いたら「既に予定販売数を超えたので、ありません」と云う事に、残念でした。
2時間ほど待って、漸く席に案内されました。





私達は店お勧めの通り「あなご飯(上)」と「白焼」を注文、とても美味しく戴きました。







その後は広電で「廿日市」へ戻り、花屋さんに立ち寄って「供花」の確認をして、蓮教寺へ。





「蓮教寺」はとても古刹で本堂前には素晴らしい「ソテツ」植えられて在り、これは「廿日市市天然記念物」になって居るとの事。
墓地は本堂裏手の崖面にあり、階段が急で登るのが大変でしたが、無事に掃除を終え、お寺で住職さんから法事・納骨の手順を教えて貰い、ホテルに戻りました。
夕食はホテルから紹介された「安芸茶寮」と云う郷土料理の店で戴きました。
「カワハギのお造り」や「天ぷら」他にもとても美味しい料理を戴きました。
席がカウンターだったことが幸いし「花板」さんのお話しやお勧めの料理など、堪能できました。
オバマ前米大統領、ケネディ前駐日米大使も来広時に食事をとられた有名店、素晴らしい料理と接遇でした。
帰りには板長さん、女将さんが外まで出て来られ見送りしてくれました。

◎25日は遅めの朝食をホテルのダイニングでとり、13時から「三回忌法要」続いて「納骨」を執り行って貰いました。



万一のために石材店さんにも立ち会いを戴き、共に滞りなく済ませることが出来ました。
ご住職さん、奥様には大変良くして頂き、感謝しております。
次にお会い出来るのは五年後の「七回忌」です。
この夜は疲れも溜まっているので生ものは避け「中華」が良いと思い、ホテルのフロント係りに相談したら、コンシェルジュを紹介され、その方が勧めてくれた「中華料理店」は、なんとチェーン店の「万豚記(ワンツーチー)」、昨夜との落差が余りにもあったが、疲れている事もあり「妥協」しました。
コンシェルジュの女性に「貴女はその店で食事をした事がありますか?」と訪ねたら「ありません」と即答、呆れてしまいましたが「万豚記」で餃子や蒸し鶏など6種の料理と紹興酒・ビールを飲んで帰ってきました。

◎26日は土産の「がんす(蒲鉾)」を買いに、広電で「草津」と云う漁港の町に行きました。







「坂井屋」と云う小さな加工場で北海道まで「がんす(蒲鉾)」を送って貰うように段取りをして、来る途中気になった「日本酒の蔵元・小泉本店」に立寄って地酒を注文、ここは宮島の「厳島神社」に「御神酒」用の酒を納めている老舗。
店内には昔、「大八車(荷車)」の通り道として石を敷いて作った道が残っていて、往事を忍ばせて居ました。





市内に戻って来てから土産用にと考えて居た「桐葉菓」と云う菓子を買うべく店を探しに「広島そごう」や「福屋」に行ったが対応が悪く、製造元の「山田屋」の直営店が「広島・三越」に在る事が判ったので「三越」へ直行。
流石に「三越」は素晴らしい対応、お菓子だけで無く他の物も買ってしまい、7万円弱の支払いとなりましたが気持ちが良かった。
遅くなった昼食は地元の女性に人気の「広島アンデルセン」でビーフシチューとパスタ等を美味しく頂きました。
隣席の年配女性が「ホーク」を二度ほど床に落としたが、ホールの係は誰も来なく、拾い上げて拭いて使っていました。
幾ら忙しいと云い乍らも、もう少し客に気を遣って欲しいものです、残念!
広島最後の夕食は地元釜飯の有名店「酔心本店」、此処は全てが残念。
ネタも悪いし、接遇も最低。
経営者の驕りかなぁ、先が暗いと感じました。

◎27日、バスターミナル8時発の広島空港行きのバスに乗り、帰路に着きました。
飛行機は10時50分発のJAL便、多少の土産品を空港土産品店で買い、ついでに「空弁・あなごめし」を追加して機内へ。
来る時は満席だったが、帰り便には空席がありました。
定刻に到着して、自宅に着いたのが17時過ぎ。

家を留守にするので、何かあったら大変だと心配し、友人のNさんへ鍵を預けて出掛けました。
旅中、爆弾低気圧の影響で強風が吹き荒れたが家は「見回りましたが、大丈夫ですよ。」と連絡を頂き、とても感謝しています。

母の葬儀に続いて義父の三回忌、納骨ととても忙しい二週間で、途中血尿が出たりして体調を心配する程でしたが、全てをやり終えて今は人生の荷物を下ろせた気がして居ます。
此よりは夫婦二人で確実に人生を送って行きたいと話し合っています。




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母が逝去しました

2021年12月08日 | 老々介護の日々
11月15日(月)に母が逝去しました。
行年九十七歳でした。
母が「サ高住・ルピナス館」に入居以来、ほぼ毎週日曜日には日用品や好物の果物を持って母を訪ねており、14日もいつもの通り施設を訪ねました。



新型コロナ感染の危険性が高いため、会えなかったり、ドアのガラス越しにマイク・スピーカーを経由して話をする日が続いていましたが、この日は「15分間だけ会えるから通用口から入館して下さい。」と係の方から云われ部屋に母を訪ねることが出来ました。
前日から母は呼吸が荒く、意識も無いような状態で会話は出来ませんでしたが、耳元で呼びかけると聞こえているような反応が僅かにしました。
あっという間の15分間でしたが、脳裏には母に死期が迫っていることを確信して部屋を後にしました。
翌日は午後に入浴の予定でしたが、朝方は心拍数も落ち着いて居たとのことで特別に午前中に「入浴」をしてくれたそうですが、昼には昏睡状態に陥り、連絡を受けて駆けつけたときには既に心臓や呼吸も止まり、瞳孔も開いているおり主治医から「死亡」が告げられました。
令和3年11月15日、午後1時9分のことでした。
大正13年6月18日、新潟県三島郡出雲崎町で生を受け、昭和23年3月31日に北海道浦河郡浦河町の父の元に嫁ぎ、呉服商を興し苦労努力して軌道に乗せ、2男1女をもうけました。
辛抱と努力の人だったと思います。
葬儀は自宅で家族葬を以て執り行いました。



みなさまには本当にお世話になり、有り難う御座いました。



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