軍艦島の中でもよく知られた場所や有名なエピソードの数々は、
軍艦島関係の老舗サイトさんを初め、私たちオープロジェクトや
端島出身の方のサイトもで、沢山アップされているので、
このブログでは、あまり知られていない所を取り上げていきたいと思います。
かつて明治年間の僅かな期間に炭鉱として栄え、
その後軍艦島の姉妹島的な役割を担ってきた中ノ島の特集。
今日は北部海岸線に残る人工路盤跡です。
※画像はクリックすると拡大します。
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画像は、中ノ島の最北部の海岸線にある人工通路らしき跡です。
海の向こうに見えるのは高島です。
波打ち際には、殆ど岩礁と同じ色ですが、
明らかに人工的に作ったと思われる構造物があります。
中ノ島の特集では、何度となく海岸レベルより遥かに高く作られた、
人工地盤の話をしてきましたが、
この遺構はほぼ海面レベルで作られています。
更に人工通路の一部は、その作りが海の方向へ向かって
延びていたのではないかと思われる部分もあります。
ここで思い出すのは端島の旧船着場のことです。(このページの最下段の解説)
かつて端島には、島の最北端にも船着場がありましたが、
同様に中ノ島も、その昔、この最北端の場所に船着場があったのではないでしょうか?
高島の石炭資料館の中にある中ノ島の昔の写真を見る限り、
この付近に船着場と思われるようなものは確認できませんが、
あったとしても、恐らく岩礁の一部と見間違えるような構造だと思います。
(船が停泊していたりすればそれとわかりますが)
可成りの高さに構築した人工地盤に比べて、
この遺構のあまりの低さに、何らかの意味があるのではないかと思いました。
※画像はクリックすると拡大します。
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また画像は、すこし外海側へ進んだ所に残る、
これも人工路盤の一部と思われる遺構です。
かなり崩れていますが、逆にその崩れた断面から、
当時どのようにして路盤を作っていたかがわかります。
かなり大きめの石を詰め、回りをコンクリで固めただけの、
極めてシンプルなものです。
鉄筋もなにも入っていないので、時間とともに崩壊したのでしょう。
そしてこの先の外海側には、人工路盤的なものはみあたりませんでした。
船着場の話は別にしても、
この2つの地点は、まだ中ノ島が岩礁だった時代、
切り立った岩に海が鋭く入り込み。
人が行き来できない状態になっていたのではないかと思います。
この路盤をつくることによって初めて
島を一周できるようになったのではないでしょうか。
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【参考】蒟蒻煉瓦:小菅修船場
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