夏目漱石(そうせき)の書は何とも言えない気品があって、誰もが欲しがった。
漱石門下の某氏もその一人で、かねがね何度か所望(しょもう)したが、一向に書いてくれない。
ある時、夏目邸の書斎で某氏はついに口を切った。
「前から何度もお願いしているのに、どうして僕には書いてくださらないんですか。
雑誌社の瀧田(たきた)にはあんなにお書きになっているのだから、僕にも一枚や二枚は頂戴(ちょうだい)できそうなもんですな」
漱石は静かに言ったという。
「瀧田君は書いてくれと言うとすぐに毛氈(もうせん)を敷いて、一所懸命に墨をすり出す。
紙もちゃんと用意している。
都合が悪くていまは書けないというと、不満らしい顔も見せずに帰っていく。
そして次にやってくると、都合が良ければお願いします、とまた墨をすり出すんだ。
これじゃいかに不精なわしでも書かずにいられないではないか。
ところが、きみはどうだ。
ただの一度も墨をすったことがあるかね。
色紙一枚持ってきたことがないじゃないか。
懐手(ふところで)をしてただ書けという。
それじゃわしが書く気にならんのも無理はなかろう」
『小さな人生論 5』致知出版
なにか頂く際にもそれなりの準備が必要ですね。