みなさんほんといつも見守って頂いてありがとうございます。
心より感謝致します。
今まで出逢ってくれた人、共に歩んできてくれた仲間。
全ての出逢いに感謝致します。ありがとうございます。
人生どん底を経験した方が後の向上になるという意味がなんとなくわかってきた。
「自然」の力が一番最強といわれる意味も経験として理解できたような気がします。
すべてはたった一人、一つからの出逢い。
諦めずに、忘れずに前に進もう。
自分自身、信じてもらえるのかどうかは本当のところ、わからないけれど、
阪神淡路大震災の時、トータルで3日間~1週間位、地震から3日間前の期間だろうか、
気力も一番充実している時に自分自身、今までの人生で、後から振り返ってみても、おそらく「正体不明」の風邪?なのか病?という類のものに襲われた。
そしてさらに、震災が起こるそのほんの一瞬前、刹那の瞬間に、思いっきり眼が醒めた。
そしてなんでだろう?と思ってそのすぐ後にドーンという縦揺れの衝撃と共に、左右、横方向に思いっきり揺らされた。
地震とは思ってなくて、それ位の本当に「思いっきり」という感覚であった。
感覚的には、十二階建てのビルのちょうど中間位になり、ちょうど「支点」になるので大丈夫かな?と思っていてても予想を絶する揺れであった。
途中、「大丈夫かな」、から「大丈夫であって欲しい」、「大丈夫で居ていてくれ」などと、「安心「から「願い」、「希望」へと変わっていった時間があった。
約30秒から1分近くの揺れに感じた。
これが時間の流れであり、「本能」での流れでもある。
そして、今の自分の考え方にも、考えてみればまったく同じような「考え方の流れ」である。
例えば「人」と接する時には、誰それ構わず直感的にこの人は「大丈夫だろう」と最初直感的に思う。
そしてそこから時間の流れを経て、「大丈夫かな?」になり
「大丈夫であって欲しい。」
から「大丈夫で居てくれ」と本能で希望に変わっていく。
そして結果として「大丈夫でよかった」なのか「駄目だったか」に振り替えられる。
なので「大丈夫でよかった」の場合はものすごく、自分の心の中での「感動」があり、
「駄目だったか」の場合は、ものすごく、「悲しく」、「いたたまれなく」、「絶望感」に襲われる。
しかし、その後どうすればいいのかと深いところで考えると、相手を攻め立てて、その部分を「埋め合わせる」のでは決してなく、「自分の中に事実を一旦受け入れて呑みこむ」「我慢する」「耐える」もの、もっと深く言えば、「自分さえ死ななければいい」
「相手が助かればいい」
「人間としてそういう役割なんだ」
といった「感覚」で、人間の一番最も近い「本能」の部分で考えている。
自分はあの大震災によって「夢」を奪われた。
それから長い年月もの間、ずっと、ずっとそう思っていた。
もし、仮に、「運命」というものがあれば、「何か」を正直「恨んでいた」部分もあった。
子供の頃はそんな考えだった。
けど、周りからはもう「大人」と言われる年代にようやくなり、深く、深く考えると、それは間違っている事に「気付いた」
全て震災が悪いんだという自分自身への「言い訳」だった。
そして、それを本当の意味で気付かせてくれたのは僕の「父」そのものである。
そして、深く、深く、考えたらまた「母」でもあった。
雨の日も、台風の日もジムに向かい、風邪で学校を休んで回復したと思えばジムに向かっていた。
台風なので閉まっていて諦めて帰った時もあったな。
震災の後、何度もジムを訪れた。
たしか数えていたけど9回くらいかな。
そんな子供の頃だった。
けど思いは違う形で受け継がれるんやね、「願い」続ければ、「想い」続ければ必ず叶う。
自身が思うに、すべてに於いての「バランス」を大切にしている。
「右」をやったら今度は「左」をやりたくなるし。
マッサージ等でも例えば骨盤でも偏っているな~と感じるとなんだか違和感がある感じ。
どこでもなんとなくどこかで均等に扱いたいなぁ~とか
そんな感覚。
基本的に自分の中では誰でも「平等」に扱いたいな~という感覚にはどうしてもなってくる。
まぁ~人と関わりながらの中で「知識」を得たりする事や
色々お世話になった所や空間もあったりして
もちろん「挨拶」も同じで
色々考え出すとなかなか難しいなぁ~と思い
かなりの感じ違和感はあります。
ただ色々何かとつい最近まで忙しかったので
どこもちょこちょこバランスを程良く取って行きたいような感じです
人の発言を聞いてたら本当に「ネガティブ」な様にしかとても捉えてないな~という印象しかない。
そもそも「ウケテ」もない批判は言ったりしたらあかのちゃうかな~って常日頃から思うんやけど。
まぁ言わす方も悪いけど。
ダウンダウンの松っちゃんも言うてたけど、最低限のマナーとして、「ウケル」批判は笑いを起こすのでOKだとは思う。
言葉って使う事で意味がまるで変わってしまう事に意識した方がいいよね。
仕事でも何でも「人」を「使う」のではなくて「扱う」感覚が必要ですね。
それだけの、たった一文字で意味も「丸っきり」変わってくるし。
みんな最近それぞれ「かなり上手く」なってきたように感じますね~
この調子だとそろそろ自分ももうすぐ誰かに抜かれるかもしれませんね
ボクシングジムで練習していた初めて間もない頃、70歳位のおじいちゃんが屈みながらリングシューズの紐を結んでいた。
それが直感としてものすごくかっこいいなと瞬間的に感じた光景を未だに覚えている。
70まで動ける体が理想やねぇ。
ずっと欲しいなぁ~と思ってたCD、見つける時間と余裕がなかったんですが、知り合いの方がわざわざ探してくれてて、今日頂きました♪
かなり嬉しくてテンションが上がりました
早速ジムで使いますね~♪
最近風邪はなんとか落ち着いたものの、なぜだか喉がちょーイテーと思って色々試してたのですが
いつもお世話になってる方が色々差し入れ下さいました☆
ほんと自分の周りはすごいいい人が付いて、見守っていてくれてます。
感謝です
一般的によく「集中しろ」という人も居たりするが
本当の「集中」って何か?と言われれば
それはよく考えた場合、決して「一点」のみに眼を向ける事ではなかったりする。
本当の集中とは、一点のみに「囚われる」のではなく、全体を「ぼんやり」と俯瞰で見るという感覚での捉え方が大事である。
例えばパンチを避けるディフェンスの動作一つにしても、その部分「一点」のみを見るのではなく、全体に意識を「分散する」という感覚で捉えないと、上手く避けることはなかなか難しい。
何か一つの事に打ちこみ過ぎたりする人間には特にその傾向があって、集中していると言えば随分と聞こえはいいが、それはすなわち一点のみに「囚われて過ぎて」しまっているという風な考え方もできる。
本当の集中とはそんなものではなく、いつ、どこから来てもあらゆる対応ができるような、そんな「意識を分散する」感覚での捉え方が望ましいと思う。
それには常日頃から、一つの事のみを行うのではなく、「複数の事」を「同時に行う」という「ながら感覚」で、自分自身を訓練する事が必要である。
それが上手くできた時、一点に囚われるよりも広い視野が身に付き、自然とリラックスもできている。
一点のみに囚われてしまうと逆に、身も心も当然のように固くなってしまう。
自身が思う「本当の集中」というものはそんなところにあると思っている。
もちろん、最初からそんな事ができるハズはなく、頑張ろうとする人程まずは一つのことに悪い意味の集中をしてしまうが、いずれその事に気付いた時には、「本当の集中力」というものが身に付いていると思う。
また、「努力」と「本当の集中力」がないとそれ以上ボクシング技術が向上する事なんて事はまず有り得ない。
例えば「絶対」等とよく言葉にしてしまう人などがいるが、普段の生活で「絶対」である事なんて、実際のところほとんどなかったりする。
もし周りにもそういう人が居たり、自分自身もそういう言葉を使う時などは、一点の物事のみに囚われている場合が多いので、少し注意してみて欲しい。