『朝鮮教会史』
京免 史朗
シャルル・ダレ著『朝鮮事情』(1874)
クロード・シャルル・ダレ(仏語:Claude Charles Dallet、1829年 - 1878年4月25日)は、1874年『朝鮮教会史』(Histoire de L'Eglise de Corée.)を著したフランス人司祭、宣教師。
1852年にパリ外国宣教会の神学校を卒業したのち、インドをはじめアジア各地を任地としたが、朝鮮には入国していない。その後パリ外国宣教会本部に戻り、1872年から、第5代ダブリュイ司教(1866年に漢城で処刑)が収集・整理しかけていた資料を基礎にして『朝鮮教会史』の編述に着手し、1874年に完成、刊行をみた。その後ダレは、1877年に再びアジアへ出向き、ベトナムをへてトンキンにて病没した。
『朝鮮教会史』
原典は全2巻。ローマ教皇ピウス9世の祝辞のついた版とつかない版があり、献呈の辞は聖母マリアに捧げられている。
15章から成る「序論」(Introduction)は『朝鮮事情』として日本語に翻訳されている(平凡社東洋文庫所収)。序論は、『朝鮮教会史』(「本論」)を何の予備知識もなしに読まなくてはならない遠隔地の人びとのために、朝鮮とはどんな国であるかを簡潔に説明したもので、本論とは独立して編集されている。1876年の朝鮮開国に先立って、厳重な鎖国体制下の朝鮮にあえて潜入し、そこで生活したほとんど唯一の欧米人集団であるパリ外国宣教会所属のフランス人宣教師たちの通信を素材としている点できわめて資料的価値が高いとされる。なお、序論は第1巻の初めに収められ、全体の約5分の1を占める。
「序論」(『朝鮮事情』)では、以下のように当時の李氏朝鮮の様子を細かく伝えている。
ソウルは、人口が多い大都市であるが、見るべき建築物はなく、空気も流れることのない曲がりくねった路地ばかりで、足元にはゴミが散乱しているとし、道路を作る技術がほとんどないため、利用しにくい道は商取引の障害になっているとしている。また役人の地位は売買されており、その地位を購入した人は、その費用を取り戻そうと特権を濫用して体裁かまうことなく行動するという。女性の地位については極度に低く、男性の奴隷や労働力となっているだけとし、また学問については、書物はすべて中国のもので、学ぶ言葉は朝鮮語でなく漢語で、歴史に関しても朝鮮史でなく、中国史ばかり研究しており、科学技術については数世紀の間、まったく進歩していないと伝える。朝鮮人の衣服については、白衣が一般的であるが、多くの場合、汚れて色変わりしており、富裕な者でも不潔なことが多く、これは朝鮮人の特徴であるとしている。朝鮮は1871年、72年には酷い飢饉におそわれ、朝鮮人の中には娘を米一升で売る者もあらわれたほどであったが、朝鮮政府は己の利得のみのために、鎖国と固守し、中国や日本からの食料買い入れを許すよりも、むしろ国民の半数が死んでいくのを放置する道を選んだと伝えている。
朝鮮では、人びとが非常に高い声で話すので、集会はとくに騒がしい。できるだけ高い声で叫ぶことは、物腰が上品である証左となる(ママ)。社交界では、普通の声で話すのは、奇を衒おうとしている変わり者だと思われ、他人からは悪く見られる。朝鮮人が喧騒を好むのは、先天的である。彼らの考えでは、大騒ぎして、はじめて、ものごとは正されるのである。
朝鮮人は、男女とも、生まれつき非常に熱情的である。しかし、真の愛情は、この国には全く存在しない。彼らの熱情は純粋に肉体的なものであって、そこにはなんら真心がない。彼らは、自分自身を満足させるため、手に届く対象には何にでもやたらと飛びつくあの動物的な欲望、獣的本能以外は知らない。したがって、風紀の腐敗は想像を絶し、「人びとの過半数は、自分たちの真の両親を知らない」と、大胆に断言さえできるのである。異教徒の男に凌辱されようとした瞬間、キリスト教徒の女性は、しばしば次のように言って彼らを思いとどまらせた。「私に近づかないで下さい。私はあなた様の娘なのです」。すると異教徒は、それが真実ではないとしても、少なくとも非常にありそうな事実だと悟って、退くのである。さらにこの国では、いかなる宗教的拘束も、情熱を抑制することはできない。風習と物質生活上の必要のゆえに、貧しい人びと、すなわち人口の半分がしばしば貞操観念を忘れるように強いられるこの国では、これ以外にどんな方法があるだろうか?
ほとんどすべての子供は、九歳か十歳まで、あるいはそれ以上になっても、夏のあいだは裸のままで過ごすか、あるいは腰までの小さな上衣を身につけているにすぎない。
一人旅をしている女性が旅宿で夜を過ごしたりしたら、見知らぬ者の餌食になることは間違いない。ときには男の同伴者がいるときでさえ、男がしっかりと武装していなければ、彼女を十分に守ることはできない。売春が白昼いたるところで行なわれ、男色やその他の自然に反する犯罪が、かなり頻繁にある。
街道筋では、いたるところの村の入り口に身分の低い娼婦が米焼酎の瓶を手にしており、それを旅人に供する。おおかたの男たちが足を留めて、彼女たちに歌をうたわせたり、いっしょにふざけ合ったりする。仮にある男が彼女たちを無視して通り過ぎようとすれば、彼女たちはためらわずに男の服をつかんで道を塞ぐ。
朝鮮人は一般に、頑固で、気難しく、怒りっぽく、執念深い。それは、彼らがいまだ浸っている半未開性のせいである。異教徒のあいだには、なんらの倫理教育も行なわれていないし、キリスト教徒の場合も、教育がその成果をあらわすまでには時間がかかる。大人が不断の怒りを笑って済ませるから、子供たちは、ほとんど懲罰を受けることもなく成長し、成長した後は、男も女も見さかいのないほどの怒りを絶え間なく爆発させるようになる。
彼らは、怒りっぽいが、それと同程度に、復讐心に満ちている。たとえば、五十の陰謀のうち四十九までが何人かの陰謀加担者によって事前に暴露される。これらはほとんどいつも、個人的な恨みを満足させるためのものであったり、かつての少し辛辣な言葉に対する仕返しのためであったりする。敵対する者たちの頭上に懲罰を加えることができるならば、自分が罰せられることなど、彼らにとってば何でもないのである。
朝鮮人を、無気力で臆病だとは非難できない。彼らは、必要な場合には、答刑や杖刑その他の刑罰を、まったく平然と耐え忍び、いささかの感情も外に出そうとはしない。彼らは、病気のときでも耐える。彼らには、肉体を鍛練する多くの趣味がある。例えば、弓術や狩り等があり、決して疲労のために屈することはない。しかし不思議なことに、にもかかわらず軍隊は概して非常に弱く、彼らは重大な危険があるとさえ見れば、武器を放棄して四方へ逃亡することしか考えない。たぶんそれは、訓練不足か組織の欠陥のためであろう。有能な将官さえいれぼ、朝鮮人はすばらしい軍隊になるだろうと、宜教師たちは確信している。たぶん、適切な季節に十分に計画を練って虎退治をすれば、この動物を多く捕殺し、残りを人のほとんど住まない大山脈のなかに追いやることができるであろう。しかし、人びとは、当面の危険を排除することしか考えず、将来のこととか全体の利益とかには何も気をくばらない。
朝鮮人は、金儲けに目がない。金を稼ぐために、あらゆる手段を使う。彼らは、財産を保護し盗難を防ぐ道徳的な法をほとんど知らず、まして遵守しようとはしない。しかしまた、守銭奴はほとんどいない。いるとしても、富裕な中人階級か商人のあいだにいるにすぎない。この国では、現金の二、三万フランもあれば金持ちだといわれる。一般に彼らは、欲深いと同時に、無駄づかいも多く、金を持てば余すところなく使ってしまう。金さえあれば、豪勢な暮らしをすること、友人をよくもてなすこと、自己の気まぐれだけを考えている。数多くの人びとが、常に街道に出てきては好機をねらっている。ここに無くてもあそこでは出くわすかもしれない、何か宝物でも見付かるかもしれない、まだ開発されていない何か高価な資源でも発見できるかもしれない、何か金を稼ぐ新しい手段を発明できるかもしれない、などと期待している。ある道などでは、住民の半数がちゃんと定住しておらず、貧困から遁れるために一、二年もすると移住し、少しするとまた移住し、同じことをくり返しながら最上のものを探し求めるのだが、ほとんどいつも最悪なものに出くわしている。
大日本皇國
「平成元年一月、先帝陛下の崩御の直後に重い足をひきずって彼は東京にやってきた。」
先ず二重橋の砂利の上にひざまづいて、長い間頭を上げなかった。御大喪の日には、雨の中を早朝から皇居前の堵列に加わり、御見送り申し上げた。名も無き一韓国人が、瀕死の身を似て氷雨に濡れながら、泣いて先帝陛下にお別れしたその悲しい真心を、御神霊は必ずや御嘉納になったであろう。...
( 大正11年 韓国釜山生まれ 平成二年一月逝去・六十八歳 、韓日文化研究所 昭和四十二年十月)
大東亜戦争下に日本の皇典講究所を卒業。住吉神社に奉職。終戦後、韓国に帰国。李承晩大統領の反日政権下にあり、辛酸を嘗めさせられる。(日本の学校を出た者は「民族反逆者裁判条例」に引っ掛かり追放)朝鮮動乱をへて、昭和29年5月に「日本文科研究所」を設立。
その後、「日本と韓国」(韓国と日本ではない)という著書を南朝鮮で出版しましたが、「反共法」にひっかかり、朴氏は裁判にかけられ、三年半の刑が言い渡されました。著書もすべて没収、焼却されてしまいました。この著書は三分の二が日本への言及であり、日韓の恒久的安定が説かれていました。
ソウルから日本を眺めていると、日本が”心”という字に見える。北海道、本州、四国、 九州と、心という字に並んでいるではないか。日本は万世一系の御皇室(御をつけられる)戴き、歴史に断絶 がない。日本固有の神道が、現在にいたるまで相続されており、国家全体が調和された形で形成されている。”八校為宇”という考え方は、日本の大らかさの現れであって、これは積極的に世界に知らせる必要がある。
それに較べて韓国の歴史は、悲惨であって断層が深く、涙なくしてみることはできない。暗い場所から見れば、明るい所は余計にはっきりと判る。韓国は日本文化の豊かさの中から学ぶことによって、内面的支柱を確立するよう努力したい」
韓国の檀君神話といっても、あれは高麗時代、モンゴルの支配下に置かれた時、まとめたもので、高麗神話の性格が強い。
ほかに新羅や百済や駕洛にも神話がある。韓国は、日本のように統一した一つの神話になっていない。日本神話は、ギリシャやユダヤの神話に較べて明るく、ロマンの香りが高く親しみやすい。それに日本神話は檀君神話より400年も前にまとめられた。私が日本神話に内面的親しみを感ずるのは、日韓は同祖だと信ずるからである。それは民俗学的な立場からも立証できる。
韓国は古来から祖先信仰と自然崇拝の念が強く、山神霊廟があり、それらをまつるために、『鳥居』や『しめなわ』『ヒモロギ』を使ってきた。それに日韓両国には、『白衣』の思想があった(これらは中国にはない)
日本の神職は 、神に近づく時には白衣を着る。韓国民も霊廟に参拝する時には白衣を着るのが礼儀となっている。まず自らの身を浄める訳である
第二次大戦後の日韓関係は、李承晩政権の影響もあって、共産主義以上に日本を憎む傾向があった。そのため日韓にの氷山の一角を誇大に強調して、隠された部分を見落としていた。お互いの精神的歴史的豊かさを掘り起こす努力をしようではないか。そのために日本は自信を取り戻して、おおらかに民族形成の原点に立ち返ってほしい
現在の日本の自信喪失は敗戦に起因しているが、そもそも大東亜戦争は決して日本から 仕掛けたものではなかった。平和的外交交渉によって事態を打開しようと最後まで取り組ん だ。
それまで日本はアジアのホープであり、誇り高き民族であった。最後はハル・ノートを つきつけられ、それを呑むことは屈辱を意味した。”事態ここに至る。座して死を待つよりは、 戦って死すべし”というのが、開戦時の心境であった。それは日本の武士道の発露であった。
日本の武士道は、西欧の植民地勢力に捨身の一撃を与えた。それは大東亜戦争だけで なく、日露戦争もそうであった。日露戦争と大東亜戦争ーーこの二つの捨身の戦争が歴史を 転換し、アジア諸国民の独立をもたらした。この意義はいくら強調しても強調しすぎることは ない
大東亜戦争で日本は敗れたというが、敗けたのはむしろイギリスをはじめとする植民地を 持った欧米諸国であった。彼らはこの戦争によって植民地をすべて失ったではないか。戦争に 勝った敗けたかは、戦争目的を達成したかどうかによって決まる、というのはクラウゼヴィッツ の戦争論である。日本は戦争に敗れて戦争目的を達成した。日本こそ勝ったのであり、 日本の戦争こそ、”聖なる戦争”であった。
ある人は敗戦によって日本の国土が破壊されたと いうが、こんなものはすぐに回復できたではないか。二百数十万人の戦死者は確かに帰って こないが、しかし彼らは英霊として靖国神社や護国神社に永遠に生きて、国民尊崇対象と なるのである。」もっと見る
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作成: 京免 史朗
朝鮮人の迷信
朝鮮人は病気とかその他吉凶禍福の事など多くは皆迷信に支配させられて、医薬よりもた祈祷、勤勉よりも祈願、戒憤よりも呪いという有様で、為に身を損ない身代を失い困難に陥るものはドレだけか分からない。朝鮮人の恐れて居る天然痘は疱瘡の神が自分の飢えを凌ごうが為に、やって来るのであるという所から、一家内の中に天然痘で死ぬものがあると、その死骸を藁包みにして門外の塀に懸けて置いたり、又は山の樹の間などに懸けて置いて、その肉が腐れるままに打ち捨て置き、漸く骨の現れる時になってから弔いする。
朝鮮の山・川
釜山に上陸し、龍頭山に上りて四方の島山を望み、又草梁から汽車に乗って行きつつ、車窓から四方の山々の禿げて木の無い所、出水の度毎に田畑を荒らして居る所などを見ては、誰でも朝鮮には山も無いが川も無いという感じを生ずるであろう。朝鮮ではマダ治水という考えが無いらしい。全国一体に川は多いが、今ある川でも大水が出ればどう変わるか分からない。少し手を入れれば水流れが定まって、この辺り立派な土地が出来る。安心して稲や麦を作ることが出来ようと思う所でも、一向平気に打っちゃってある。朝鮮に川無しと申してもやむを得んでは無いか。山高きが故に貴からずで、朝鮮の山という山は殆ど禿げ山であるから、朝鮮に山無しと言うても差し支えなかろう。伐っては遣い取って炊き、そうして如何に禿げようが如何しようが構わず、植林など更に考えるどころか我一がちに互いに競うて伐り取りて顧みなかったものであるから、それで遂に今日のような哀れな有様を呈するに至る。従って川にも影響して来た次第であろうと思われる。
朝鮮の人
朝鮮人は一体に男子は顔が長くて、気の長いのを表している。しかし女の顔は短いのが多いようだ。口元や顔の按排式は何処と無く無頓着のたちが見えて、実に衛生だの病気だの無頓着千万、そこになると悪く言うようだが人間よりか獣に近いと言ってもよいようである。道を歩くにもノソリノソリ牛が歩むように、又わけもなく道ばたの名も知れぬ草の芽など取って食っている。大きな棒でなぐられてもシイて痛そうにもせず、あちらに行け邪魔になると追いまくられてもブラリブラリ愚図ついている有様などは、牛に近いと言ってよい。 雨の降る日には仕事はしない方で、又寒い日など終日家の中で、遊惰にふけり雑談して、人の責務とか、勤労とか、時間の大事な事など更に観念は無いらしい。
朝鮮人を雨の日にも働かそうと思えば、雨の関係を究めねばなるまい、即ち雨が降っても田野や道路が水にならないように、仕事をしようと思えば出来るように、治水即ち河川の修理をしてやらねばならないと思う。今日の有様ではまず雨の日には仕事をしようと思っても出来ない所が多い。もっとも何処も何処もそういう訳では無いから、その元は彼らの柔惰無気力によるのは言うまでも無い、雨水の氾(はび)こるのを打ち捨ておくのも実にその怠惰からである。五六人以上朝鮮人がいるうちには必ず一二人は痘痕(あばた)のものがある。これは衛生の思想の無い明らかな証拠で、天然痘が流行しても種痘をしてこれを予防するなどの考えもなければ、又その道も開けていない。朝鮮人の不潔と来たら随分ヒドイ。てんで清潔とか衛生とかいう考えは無いから、如何に不潔な家でも、如何に不潔な所でも一向に平気で、濁った水でも構わないどころか、小便や大便の汁が交じっていても、更に頓着せずにこれを飲む。実に味噌も糞も朝鮮人には一所である。家を造るに、壁土の中に馬糞などを混ぜて喜んでこれを塗る。その訳は馬糞をまぜると壁が堅くなって泥が落ちにくいと言うている。更に驚くべく信じがたい程であるのは、朝鮮人は小便で顔を洗い、気目がよくなると言うている。又小便は腎虚や肺結核や解熱等に有効だと言ってこれを用い、又強壮剤だと言って無病のものでも飲んでいる。いよいよ病気が重くて生きられまいという時は、大便を食べさすというとも聞いている。何と驚かしいことでは無いか。 塵やゴミがばらけてようが、物が腐って臭かろうが、食い物には蠅がたかって汚しても、更に何とも思わないで、年中風呂に入るの、湯を使うのいうことは無い。小便壺は大抵室の中に置いてあって、大人でも子供でも、客の前であろうが、誰が居ても構わずジャアジャアと小便する。又その小便器を口の側に持って寄せて唾を吐き込む。彼らは久しい慣習で、別に何とも思わぬらしいが、日本人の眼から見れば如何にも見苦しい、たまったもので無い。朝鮮人は又概して勤勉貯蓄の思想が極めて乏しい、チョット見た所では仕事をする者は無いか知らんと思われる程、用も無いのに長いキセルを持ってブラリブラリしているのを到る所に見るのである。朝鮮人は至って遊惰安逸をむさぼり、その日さえ過ごさるれば骨を折って仕事をしようという考えも無いから、雑談にも困り無事に苦しむことがあっても、田舎などには娯楽に供する寄席のような手軽い便利な遊覧場などの、耳や目を喜ばすものも無く、ようやく盆栽をいじくったり、将棋カルタを弄ぶ位が主な楽しみで、その他は昼寝やら煙草をふかしなどして、その日を送るのである。
朝鮮の国体
大韓国は他の国と違うて、その王室は決して国民とその休戚を共にするということは無く、只貴族のみは王室と利害を共にして居るようであるが、それでも国王の信任を得たものはその恩沢にも預かって利益もうけるが、その他はそうでない。であるから誰も彼も国王に取り入ろうとして、種々に魂胆をめぐらし、運動やら紛争軋轢実に醜状を極め、従ってその間に立って侍女や宦官、宦妓、巫女などが旨いことをやるのである。常民もまた国の為などいう観念は毛頭も無いので、余計に儲ければそれだけまた余計に取り立てられて手元には残らないからというので、怠けられるだけは怠け、遊ばれるだけは遊び、田や畑や山や林やなど、これを仕立てたり、手をかけて、確実な財産を作ろうなどという考えは無いらしい。この点が即ち朝鮮の今日の有様を致す所以でもあろうか。
荒川五郎 『最近朝鮮事情』 清水書店、1906年5月
●テキサス親父、実はテキサス州の海軍協会名誉大将
植村 成人
まぁ 知ってたけどwwwww
http://bit.ly/192abMq
http://p.tl/pekY
「テキサス州海軍協会」でググると出てくる画像
テキサス親父、実はテキサス州の海軍協会名誉大将『 If you kill someone, We will kill you back』有事の際にテキサス州の治安維持協力を目的とした団体…とんでもない人に殺害予告した韓国人
Wikiのテキサス親父より抜粋 ...
>2011年2月に、テキサス州知事の推薦でテキサス州海軍協会名誉大将に就任。
テキサス州海軍協会とは、テキサス州の歴史や環境保全、有事の州政府への治安維持協力を
目的とした、テキサス州が設立した州外郭団体。
>その名称は、1836年にメキシコから分離独立し、1845年にアメリカ合衆国に併合された、
テキサス共和国に存在した海軍に由来する。
*補足 テキサス州へようこそ
テキサス州に余計なちょっかいは出さないでくれるかな
1:テキサス州の住人は武器を隠し持ってる
2:もし君が誰かを殺したりしたら、殺しちゃうぞ
3:テキサスの人間は銃撃戦が大好き。これはテキサス州の伝統
4:テキサス州には刑務所が120か所ある。滞在を楽しんでくれ
●テキサス親父、実はテキサス州の海軍協会名誉大将
植村 成人
まぁ 知ってたけどwwwww
http://bit.ly/192abMq
http://p.tl/pekY
「テキサス州海軍協会」でググると出てくる画像
テキサス親父、実はテキサス州の海軍協会名誉大将『 If you kill someone, We will kill you back』有事の際にテキサス州の治安維持協力を目的とした団体…とんでもない人に殺害予告した韓国人
Wikiのテキサス親父より抜粋 ...
>2011年2月に、テキサス州知事の推薦でテキサス州海軍協会名誉大将に就任。
テキサス州海軍協会とは、テキサス州の歴史や環境保全、有事の州政府への治安維持協力を
目的とした、テキサス州が設立した州外郭団体。
>その名称は、1836年にメキシコから分離独立し、1845年にアメリカ合衆国に併合された、
テキサス共和国に存在した海軍に由来する。
*補足 テキサス州へようこそ
テキサス州に余計なちょっかいは出さないでくれるかな
1:テキサス州の住人は武器を隠し持ってる
2:もし君が誰かを殺したりしたら、殺しちゃうぞ
3:テキサスの人間は銃撃戦が大好き。これはテキサス州の伝統
4:テキサス州には刑務所が120か所ある。滞在を楽しんでくれ
●志式神社
◆志式神社の早魚神事 http://p.tl/RHdN
志賀島の東、奈多に鎮座する志式神社の秋の大祭では、「献魚包刀式」を中心に繰り広げられる独特の神事「早魚神事(はやましんじ)」が行われます。夜神楽のなかで「早魚舞」として行われ、福岡県の無形民俗文化財に指定されています。
献魚包刀式は二組の青年たちが、まな板の上に置いた塩鯛をさばく早さを競う競争神事で、若者から大人への通過儀礼でもあります。一組は包丁で鯛をさばく「料理人」、座元に鯛のヒレを差し出す「ひれさし」、さばいた鯛の身を入れるすり鉢をもつ「すり鉢持ち」、そして「提灯持ち」の4人で構成されます。出場者と役割は当日のくじ引きで決まり、2時間程の稽古で本番にいどみます。
さばいた鯛は古来「安産」の守りとされ、小さく切り分けて氏子たちに配られます。
◆志式神社 (3)早魚舞―乙太夫の天神尋ね― : ひもろぎ逍遥 http://p.tl/iRfM
舞台には紅白の垂れ幕があって、すでに神楽が始まっていました。
神楽を奉納するのは宇美神楽座の方々。
ここの神楽は明治時代に、宇美神社の氏子さんたちによる神楽に引き継がれたそうです。
◆志式神社 (2)万年願と早魚神事と神功皇后 : ひもろぎ逍遥 http://p.tl/qRKu
「境内横の大きな穴はどんど焼きでもするのですか。」
「そうですよ。毎年決まった日にしています。ここは、もともと、三良(さぶろう)天神が祀ってあって、祠の形でした。昔、奈多の町が大火災に遭った時に、この神が助けられてから、大きな拝殿を建てたそうです。」
といって、参道の左の足元にある、三良天神の鳥居の額を教えてくれました。
◆志式神社 http://p.tl/03NG
昔は沖向きに鎮座され、後年此の地に遷し奉る。後陽成天皇お御代、慶長二年、二社を合わせ祀り、志志岐三良天神と称し奉る。明治維新後、志式神社号となる。 火難、盗難、災厄を除き、家運を興こし、安産の神として、霊験あらたかなれば古くから広く世に知 ...
◆志式神社 (1)海と松林の宮 : ひもろぎ逍遥 http://p.tl/fOSd
福岡県東区の三苫の方面から志賀島に向かって車を走らせると、右側に深い緑の松林がずうっと続きます。
その向こうには美しさで屈指の奈多の浜があるのですが、豊かな松林のせいで、海の傍を走っている事も気づきません。
志賀島の海に向うゲートのようでワクワクして来る頃に志式神社の案内板が目に入ります。
◆志式神社 (4) 磯良神・七不思議・お潮井とり : ひもろぎ逍遥 http://p.tl/kaiY
安曇族(あずみぞく)と奈多の浜
さて、いそら舞の白髪の神さま、インパクトがありましたねえ。
宇美神楽座の方の話によると、
「磯良神は大和で40万年、常陸で40万年、勝馬(かつま、志賀島)で40万年過ごされた神という事で、御年120万歳。」
これはいったい何の暗号?
◆志式神社 (5) 哀しき神々たち : ひもろぎ逍遥 http://p.tl/Z-4d
三良(さぶろう)天神 と 志志岐(ししき)三神
『お宮の由来』の祭神の所を見てみました。
とても複雑なので御祭神の名を整理して書きます。
三良天神…三柱の天つ神
火明(ホアカリ)の神
火酢芹(ホスセリ)の神
豊玉姫神
志志岐三神…神功皇后の関係者
十域別(トキワケ)の神 (弟)仲哀天皇の兄弟
稚武(ワカタケ)王 (兄)仲哀天皇の兄弟
葉山姫神
◆志式神社(6)荒ぶる神 豊玉姫 : ひもろぎ逍遥 http://p.tl/s3QM
この絵は青木繁の「わだつみのいろこの宮」です。
山幸彦と豊玉姫の出会いのシーンです。
山幸彦の顔をしげしげと見ると、若くて迷いの多い年頃の青年として描かれているのが分かります。
桂の木の上にいますが、背景は海藻のようです。
豊玉姫は左の赤い薄衣の女性です。
横顔からは少し年上のように見えます。
いずれも下からの光を受けて独特の神秘性を醸し出しています。
◆志式神社(7)荒ぶる神 火酢芹神 大人になって読む海幸山幸 : ひもろぎ逍遥 http://p.tl/k5QM
神功皇后の祭祀した神々を見て行くと、天皇家の一員である皇后が畏れていた神々や、心の支えとした神々が分かり、彼女の生きた時代より前の筑紫の神々の分布が浮き彫りになるという思いがけない収穫がありました。
◆志式神社 http://p.tl/OO5U
紹介文
奈多集落の北側の松林に囲まれた砂丘上に鎮座する。祭神は火明神、豊玉姫神などで、農業と漁業の神社として信仰される。
一の鳥居をくぐった右手に建つ志式座(市指定文化財)は、間口16.3m、奥行5.27mの桟瓦葺切妻平入の農村舞台で、舞台下手には7.22mの常設の花道が付属する。
現在も神社の祭りで使用されている。境内には絵馬殿もある。11月19日(旧暦10月19日)の秋季大祭には、はやま行事(県指定無形民俗文化財)が奉納される。
◆御由緒いっぱい:志式神社・2 | 那珂川散歩帖 http://p.tl/-KCZ
福岡市東区の奈多。
地図で偶然見かけた志式神社は、予想よりずっと大きな神社でした。
知らぬは何とやら、、、ぶらり散策の続きです。
志賀島の東、奈多に鎮座する志式神社の秋の大祭では、「献魚包刀式」を中心に繰り広げられる独特の神事「早魚神事(はやましんじ)」が行われます。夜神楽のなかで「早魚舞」として行われ、福岡県の無形民俗文化財に指定されています。
●大蛇(おろち)
◆(だいじゃ) 大きなヘビのこと。
◆(おろち) 日本神話の八岐大蛇(やまたのおろち)ほか、各種神話、伝説に現れる伝説上の生物。うわばみとも。
◆おろち
・大蛇 - 八岐大蛇神話を題材として用いた石見神楽
・大蛇 (能) - 能の演目。五番目物の鬼退治物
・雄呂血 - 1925年製作の日本の映画。
・おろち (漫画) - 楳図かずおの恐怖漫画、およびそれに登場する超能力をもった長寿の美少女。
・大蛇 -オロチ(夏目義徳) - 夏目義徳の漫画。
・夏目義徳短編集 - Jコミ(外部リンク)
・OROCHI オロチ - エキスポランドにあるインバーテッド(宙吊り式)ジェットコースター
・OROCHI - ヒートパイプ10本の巨大CPUクーラーの商品名
・光岡・オロチ - 光岡自動車の製造するスーパーカー
・大蛇山酉之助 - 力士
・奥出雲おろち号 - 西日本旅客鉄道のトロッコ列車
・オロチ (天体) - 初期宇宙に存在する銀河。
・架空のもの
・特撮『仮面ライダー響鬼』の作中で起こるとされる現象。劇場版『仮面ライダー響鬼と7人の戦鬼』では魔化魍の一種。
・オロチ (KOF) - ゲーム『ザ・キング・オブ・ファイターズ』シリーズに登場する黒幕
・遠呂智 - ゲーム『無双OROCHI』に登場するキャラクター
◆ヤマタノオロチ(八岐大蛇、八俣遠呂智、八俣遠呂知)http://p.tl/X881
日本神話に登場する伝説の生物。
◆うわばみと http://p.tl/J7X6
大きなヘビのこと。
漢字では蟒蛇と書くこともある。
特にボア科のヘビを指す。
伝説上の大蛇(おろち)を指すこともある。
大きなヘビを指す日本語としては、古代の「をろち(おろち)」に代わって15世紀頃から使われるようになった。
俗語では転じて、酒豪、大酒呑み(常習的かつ一度に大量の酒類を摂取する人物)を指す。
大蛇が大きなものを丸飲みすることから、あるいは日本神話に登場するヤマタノオロチが酒に目が眩んで成敗された事から。
◆蟒蛇(うわばみ)の意味・語源・由来を解説。
【意味】 うわばみとは、巨大な蛇の俗称。大蛇。おろち。大酒飲みをいう俗語。
【うわばみの語源・由来】
うわばみは、15世紀頃から見られ、古代語の「をろち(おろち)」に代わって用いられるようになった語。
うわばみの「うわ」は、「上回る」「上手」などと同様の「うわ」とする説と、「大(おほ・うは)」が転じたとする説がある。
うわばみの「ばみ(はみ)」は、食物を食べたり噛んだりする意味の「食む(はむ)」の連用形から転じたとする説、蛇の古形「へみ」から転じたとする説、マムシの古語「はみ」から転じたとする説などあるが、ヘビの古形「へみ」やマムシの古語「はみ」の語源が「食む」なので、どれが正しいというわけではなく、同源と考えるべきであろう。
大酒飲みを「うわばみ」と言うようになった由来は、大蛇は大きな物でも大量に飲み込むためである。
◆石見神楽(いわみかぐら)http://p.tl/5PY3
神楽の様式のひとつである。
島根県西部(石見地方)と広島県北西部(安芸地方北部)において伝統芸能として受け継がれている。
日本神話などを題材とし、演劇の要素を持つ。
地元では「舞(まい)」「どんちっち」(囃子のリズムから)とも呼ばれる。
◆『雄呂血』(おろち)http://p.tl/N1J5
1925年(大正14年)製作・公開、二川文太郎監督による日本のサイレント映画、剣戟映画である。阪東妻三郎プロダクション設立第1作であり、日本に「剣戟ブーム」を起こした記念碑的作品である。
◆サイレント映画 http://p.tl/cn5p(サイレントえいが、英語: silent film)
音声・音響、特に俳優の語るセリフが収録されていない映画のことである[1]。無声映画(むせいえいが)とも呼び、対概念はトーキー(発声映画)である[1]。サイレント映画のフィルムには音声トラックが存在しないが、トーキーフィルム登場後に音声トラックに劇伴を収録したサイレント映画を「サウンド版」[2]、さらに日本では活動弁士による解説も収録したサウンド版を「解説版」と呼ぶ。
19世紀後期の映画の発明以降、1927年(昭和2年)に世界初のトーキー『ジャズ・シンガー』が発表され、実用化、トーキーへの完全移行までの約40年間、商業的に世界各国で製作・公開されていた映画はすべてがサイレント映画であった。サイレント期の劇映画は、パントマイム演技とカットタイトルの字幕によるセリフ・ト書きで表現する芸術であったが、日本では、各常設活動館(現在の映画館)に常駐した活動弁士による生の解説に負うところが大きかった[3]。
日本では、1930年代前半(昭和初年)にトーキーに移行し始めたが、剣戟映画を中心に1938年(昭和13年)まではサウンド版を含めたサイレント映画が製作・公開されていた。
◆剣戟映画 http://p.tl/gtYG
剣戟映画(けんげきえいが)は、剣戟を中心に据えた映画のジャンルである。1920年代から1940年代までの第二次世界大戦前、1940年代から1950年代までの戦後の時期に流行し、量産された。日本で製作された剣戟映画は、俗にちゃんばら映画と呼ばれ親しまれ、日本ではハリウッドやフランスの剣戟映画をも俗に同呼称を用いている。「ちゃんばら」の由来に関してはチャンバラの項を参照。
◆チャンバラ、ちゃんばら http://p.tl/u68d
刀で斬り合うこと、剣劇(けんげき)とも称される。
刀で斬り合う音、および様子を表す擬音に由来する副詞的語句ちゃんちゃんばらばらの略であり、剣戟シーンをクライマックスに置いた作劇をする日本の演劇・映画・テレビドラマ等を指す[1]。この場合、ちゃんばら芝居、ちゃんばら映画、ちゃんばらものと呼称される。
1920年代以降、日本で隆盛となった演劇・映画における「剣劇」やちゃんばら映画(「剣戟映画」)の剣戟シーンを真似た児童の遊戯についてを、本項で特に詳述する。⇒#遊戯
◆阪東妻三郎プロダクション http://p.tl/-hU9(ばんどうつまさぶろう-、1925年9月 設立 - 1936年12月 解散)
かつて京都、のちに千葉の東京湾岸に存在した映画会社である。当時の若手人気俳優阪東妻三郎が設立した、日本初のスタープロダクションであり、また当時なにもなかった「太秦」の地に初めて撮影所を建設、130本以上の映画を製作した。1927年(昭和2年)に株式会社化、1931年(昭和6年)からの正式社名は大日本自由映画プロダクション(だいにっぽんじゆうえいが-)であった。
◆オロチ(大蛇、Orochi )http://p.tl/PdHm
光岡自動車の乗用車(クーペ)である。 光岡ではオロチをファッションカーというカテゴリーに分類している。
◆大蛇山 酉之助 http://p.tl/HSXX(おろちやま とりのすけ、1897年12月26日 - 1956年5月24日)
秋田県羽後町出身の元大相撲力士。本名は茂木 酉之助(もぎ とりのすけ)。最高位は東前頭筆頭(1928年3月場所)。身長179cm、体重94kg。得意手は左四つ、寄り。
◆奥出雲おろち号(おくいずもおろちごう)http://p.tl/-ZkI
西日本旅客鉄道(JR西日本)が木次線で運転している臨時列車である。
◆オロチ(Orochi) http://p.tl/flOA
地球から見てくじら座の方向に224億光年離れたところにある銀河である。
2012年現在、最も明るいモンスター銀河である。
仮符号AzTEC-ASTE-SXDF1100.001
◆●おろち●オロチ●大蛇 http://p.tl/7WnZ
◆●ヤマタノオロチ(八岐大蛇)●「素戔嗚尊(スサノオノミコト)」●●http://p.tl/3-BY
◆●柳田國男 http://p.tl/a7dH
◆ねずさんの ひとりごと 大国主は日本最初のイジメ被害者だった http://p.tl/plvF
しかも大国主は、八岐大蛇(やまたのオロチ)退治で有名な、スサノオの7代目の孫でもある。 ...... 志葉楽(シバラク):【神風特別攻撃隊】 婚約者への遺書 (10/10) · 志葉楽( シバラク):ねずさんの ひとりごと 身分制 (10/08) · 志葉楽(シバラク):ねずさんのひとりごと ...
◆神々のふるさと・出雲紀行 - ねえ、どこか行こうよ http://p.tl/1cQH
八岐大蛇神話で有名な素戔鳴尊が大蛇を退治して-八雲立つ 出雲八重垣 妻籠みに 八重垣つくる その八重垣を-と詠い、奇稲田姫(くしいなだひめ)と新居を構えたのがこの八重垣神社が建つ地なの。所要時間:30分以上要 拝観料:境内自由 宝物館のみ入館 ...
◆『魏志倭人伝』を徹底的に読む - 邪馬台国の会ホームページ http://p.tl/ulMZ
附書、経籍志には晋代についても晋泰始起居注二十巻(李軌撰)ほか二十一部をあげ、日本国見在書目録の起居注家には晋起居注三十 .... 一方、大蛇を切った十拳(とつか)の剣(つるぎ)[斬蛇の剣]は奈良県石上神宮(いそのかみじんぐう)にまつられている。
◆志式神社 (Ⅲ)早魚舞―乙太夫の天神尋ね― : ひもろぎ逍遥 http://p.tl/iRfM
志式神社 (Ⅲ) ししきじんじゃ 夜神楽を見て来ました。 「早魚舞(はやままい)」―乙太夫の天神尋ね―. 11月19日 夜の11時半 ... 折敷の米が落ちないのが見どころ。 舞い終えたら、その米は人々に配られました。 もちろん、ゲット。 オロチ退治 スサノオノ命は嘆いている老夫婦に出会って訳を聞く。
すると、ヤマタノオロチがもうすぐ8番目の娘を奪いに来ると言う。
●やもめ(寡婦)・寡, 寡婦, 孀(やもめ)・鰥, 鰥夫(やもめ)・寡婦(かふ)
◆寡婦(やもめ)人口統計学辞書
結婚生活 1もしくは夫婦生活 1の終りにおける(両性間の)関係の終了 2は婚姻の解消 3、つまり配偶者の地位から発生するところのあらゆる法的義務の終了を意味し、それには新たな婚姻への法的障害の除去も含まれている。もし婚姻が配偶者の死亡によって解消された場合、生存している配偶者は、男性の場合は寡夫(男やもめ) 4、女性の場合は寡婦(やもめ) 5と呼ばれる。死別者 6とは、寡婦もしくは寡夫の状態 7にある人を指す。
◆鰥 隠語大辞典
読み方:やもめ
1.妻を亡くした男のこと。即ち鰥夫のことをいふ。又寡婦のことにも用ふ。俗に「女やもめに花が咲き、男やもめにうじがわく」といふ。〔情事語〕
2.妻を亡くした男のこと。即ち鰥夫のことをいふ。又寡婦のことにも用ふ。俗に「女やもめに花が咲き、男やもめにうじがわく」といふ。
3.妻を亡した男、夫を亡した女のことをいふ。やもめくらしとは一人暮のこと。
分類 俗語、情事語
◆やもめ『Wiktionary』
名詞1
・寡, 寡婦, 孀(やもめ)
夫を失った女。夫のいない女。
語源
翻訳
英語: widow
関連語
類義語: 独り者, 独身, 遺族, 未亡人, 後家, 寡婦(かふ、やもめ), オールドミス, ハイミス
名詞2
・鰥, 鰥夫(やもめ)
妻を失った男。妻のいない男。
語源
翻訳
英語: widower
関連語
類義語: 独り者, 独身, 遺族, 男やもめ, 寡夫, 鰥夫(やもお、やもめ)
◆滝の白糸 (1933) (EN/ES) .
http://www.youtube.com/watch?v=B74VapoUl1o
◆寡婦(かふ)http://p.tl/zM0n
夫と死別または離別し、再婚していない女性のことである。寡婦という表現は主に文語や法の条文に用いられ、口語では後家(ごけ)や未亡人(みぼうじん)[1]が用いられる。 今日、日本では、寡婦を支援するための、税制上の優遇や、公的な援助制度などが設けられている。
◆男やもめに蛆がわき、女やもめに花が咲く - 故事ことわざ辞典
【読み】 おとこやもめにうじがわき、おんなやもめにはながさく
【意味】 男やもめに蛆がわき女やもめに花が咲くとは、妻を失った男や一人暮らしの男は不精で不潔な環境にあるのに対し、夫を失った女や一人暮らしの女は身綺麗で華やかであること。
【注釈】 「やもめ」とは、本来は配偶者を失った者のことをいうが、適齢期を過ぎても独身の者に対してもいう。
妻を亡くした男性は、それまで家事をしてくれていた妻がいなくなって、自分が家事をするようになるが不慣れなため、家の中に蛆がわくように汚くなる。対して、夫を亡くした妻は、夫の世話から開放されてますます綺麗にする時間が増えることから、部屋の中も清潔になり身なりにも気を使う余裕が出るので、花が咲いたように華やかになるということ。
【類義】 「男やもめに蛆がわく」と略した形で使うことも多い。「男所帯に蛆がわき、女所帯に花が咲く」ともいう。【用例】 「男やもめに蛆がわき、女やもめに花が咲くで、離婚してから彼の家はゴミ屋敷のようになったそうだ」
◆寡・寡婦・鰥夫(やもめ) - 語源由来辞典
【意味】 やもめとは、夫のいない女。夫を失った女。未亡人。後家。女やもめ。妻のいない男。妻を失った男。男やもめ。やもお。
【やもめの語源・由来】
本来、独り身の女性を指す言葉で、男性は「やもお」と呼ばれていた。
「やもめ」の「め」は「女」、「やもお」の「お」は「男」の意味である。
「やも」は「止む」や「病む」の意味とする説や、「夜間守」の意味などあるが、独り家を守る意味で「屋守(屋守り女・屋守り男)」が妥当であろう。
魚のヤモメが群をなさないことや、古くは「やまめ」とも言ったことから、魚のヤモメに由来する説もあるが、「やもお」の語が考慮されていないことや、ヤマメ以外にも群をなさない魚はいることから考えがたい。
むしろ、「やまめ(寡婦・鰥夫)」は「やもめ」の転と考えた方が良いであろう。
男性に「やもめ」が用いられるようになったのは平安時代と古く、男女を区別して用いる際は「男やもめ」「女やもめ」などと言うようになった。
現代では特に男性に対して用い、「男やもめに蛆がわき、女やもめに花が咲く」の句も、「男やもめに蛆がわく」と略されることが多い。
また、古くは未婚者にも言ったが、現代では主に配偶者と別れた人に対して言う。
漢字は、女性には「寡」「寡婦」「孀」、男性には「鰥」「鰥夫」が用いられる。
◆おとこやもめにうじがわきおんなやもめにはながさく【男やもめに蛆がわき,女やもめに花が咲く】
男一人世帯は,どうしても日常生活や身だしなみが不潔になりがちだが,女一人の世帯は小ぎれいにしているので,男たちからもてはやされる。
◆おとこやもめにうじがわきおんなやもめにはながさく【男やもめに蛆がわき,女やもめに花が咲く】
■意 味: 男の独り暮らしは、家の中や身だしなみが不潔になりがちだが、女の独り暮らしは、小奇麗にして男たちからもてはやされるということ。
■読 み: おとこやもめにうじがわきおんなやもめにはながさく
■解 説: 「やもめ」は、連れ合いを失った者。また独身者。
■類義語: 男後家にはぼろ下がり女後家には花が咲く/男やもめに雑魚たかる/後家花咲かす
◆男やもめ- Yahoo!知恵袋 http://p.tl/RIp9
◆
◆
・ミナト湊(みなと)十三湊・十三湖・
◆ミナト湊(みなと)十三湊 http://p.tl/F1fG
◆み‐な‐と 【港/湊】
《「な」は「の」の意の格助詞。「水(み)の門(と)」の意》
1 海が陸地に入り込んだ地形を利用したり、防波堤を築いたりして、船舶が安全に停泊できるようにした所。港湾。「船が―を出ていく」
2 川・海などの水の出入り口。みと。「すみやかにこの―に往き、水をもちて汝(な)が身を洗ひて」〈記・上〉
3 行き着いてとどまる所。「暮れて行く春の―は知らねども霞におつる宇治の柴舟」〈新古今・春下〉
◆十三湊 - Wikipedia http://p.tl/tjp1
十三湊(とさみなと)は日本の中世から近世にかけて、青森県五所川原市の十三湖の 辺りにあった湊である。近世以降、「じゅうさんみなと」と呼ばれるようになる。また、十三 湊の遺跡である「十三湊遺跡」は国の史跡に指定されている。
◆十三湖 - 五所川原市観光協会 http://p.tl/-LqU
この1991年~1993年の調査によって、ほぼ当時のままの形で津軽十三湊の町並みや遺構が残っていることが明らかになり、これまでに確認された中世の都市としては東日本で最大規模とも言われ、西の博多に匹敵する貿易都市だったことが裏付られています
◆よみがえる十三湊遺跡 - 国立歴史民俗博物館 http://p.tl/KdR7
よみがえる十三湊(とさみなと)遺跡. 室町時代ころに成立した『御伽草紙』と呼ばれる物語の一つに、『御曹子(おんぞうし=源義経)島渡り』という作品がある。奥州平泉で義経をかくまっている藤原秀衡が、「ここより北に千島ともえぞが島ともいう国があり、その ...
◆十三湊の興亡 ―津軽で生まれる子らに - 水土の礎 http://p.tl/kHIv
北のまほろば. 十三湊の興亡. 冬の洪水. 津軽藩の大業. 新田開発の陥穽. ケガヅ(飢饉)と水争い. 古田放と土淵堰. 大地の改良. 津軽で生まれる子らに ... この線に囲まれたエリアに降る雨は、すべて北へ北へと流れ十三湖[じゅうさんこ]に集まる。
◆とさみなといせき【十三湊遺跡】国指定史跡完全ガイドの解説.
青森県五所川原市十三にある港湾を中心とする中世都市遺跡。13世紀初頭から15世紀後半に発展・繁栄した。津軽半島の日本海側ほぼ中央、十三湖(じゅうさんこ)の西岸に位置する。中世、北日本海交通の重要港として繁栄し、『廻船式目』には三津七湊の一つ「奥州津軽十三湊」として記述されている。津軽の豪族である安藤(安東)氏が拠点を置いて栄えたが、南北朝期に津波で壊滅したという伝承が残り、長く幻の港町とされてきた。1991年(平成3年)以降、国立歴史民俗博物館、当時の市浦(しうら)村および青森県教育委員会によって組織的な発掘調査が行われて、遺跡の概要が判明した。現在の十三湖は日本海に直接開けているが、かつては砂州をはさみ、そこにある水路で日本海とつながっていた。遺跡はその砂州の先端部、南北約2km、東西最大500mの範囲に広がっている。中心の地区は空堀をともなう東西方向の大きな土塁で南北に分けられている。土塁の北側は領主やその関係者などが住んだと考えられ、掘立柱建物、井戸、鍛冶・製銅の工房などの遺構が分布する。中国製の陶磁器や東北地方では珍しい京都系のかわらけも出土している。土塁の南側は、町屋があったと考えられている。側溝を備えた南北道路とその両側には掘立柱建物と井戸のある区画が広がり、墓跡や畑もあった。約300m南側には伝檀林寺跡もある。2005年(平成17)、国指定史跡となった。JR五能線五所川原駅から弘南バス「十三」下車、徒歩約5分。
◆十三湊(とさみなと)遺跡 【とさみなといせき】知恵蔵2013の解説.
青森県五所川原市の11〜15世紀の都市遺跡。1991年以降の調査で十三湖岸の砂州上に営まれた、約55haの豪族・安藤氏関係の遺構と判明。幅6mもの直線道路や高さ1.5mの土塁、武家屋敷、短冊形の町屋跡など、97年には一辺100mの安藤氏の館跡の全容、2002年に安藤氏の墓らしい15世紀前半の墳丘墓(直径約8m、高さ1.5m)が確認された。中国などからの貿易陶磁器もあり、国際交流が浮き彫りになった。
( 天野幸弘 朝日新聞記者 / 今井邦彦 朝日新聞記者 )
◆五所川原市の文化財 十三湊(とさみなと)遺跡 http://p.tl/2LQ9
十三湊遺跡は、本州最北端の津軽半島の日本海側ほぼ中央、岩木川河口に形成された潟湖、十三湖(じゅうさんこ)の西岸に位置しています。
戦国期に成立したと考えられる『廻船式目』に三津七湊の一つとして「奥州津軽十三湊」とみえ、中世北日本の重要港湾であったことがうかがえます。
津軽の豪族安藤氏が拠点をおいて栄えたとされながら、南北朝の津波によって壊滅したという伝承があり、長い間幻の港町とされてきましたが、平成3年度以降の市浦村・青森県教育委員会等による組織的な発掘調査の結果、13世紀から15世紀に営まれた広大な遺跡の実態がおおよそ把握されました。
◆.十三湊遺跡 .
http://www.youtube.com/watch?v=WU7wPOTwKSE
十三湖湖畔にある市浦歴史民族資料館では発掘成果を出土品を交えて紹介しています。
十三湊遺跡は中世において、博多や堺と並ぶ大規模な湊町であったことを物語る遺跡として知られています。
◆歴史ミステリー 青森の海底遺跡 .
http://www.youtube.com/watch?v=K_YhbsTWq7k
◆【中世・十三】青森県奥津軽観光サイト 奥津軽の旅案内 http://p.tl/AcrM
謎に包まれていた青森県の中世。 それが遺構や遺物の相次ぐ発見によって生き生きと現代に甦ってきました。 およそ600年前に十三湖ほとりに広がっていた港湾都市十三湊 。 訪ね歩けば、そのスケールの大きさや中世の景観が色濃く残る姿にきっと驚かされる
◆津軽十三湖の歴史(十三湊の歴史7) http://p.tl/oXrW
安東氏は戦に破れて十三湊を去る。それと同時に国際貿易港十三湊も終焉を迎えた。
江戸時代になって、津軽藩の米を集める港として復活したが、国際貿易港の面影は既に無かった。
◆津軽十三湖の歴史 - Hi-HO http://p.tl/FTnB
津軽一帯を流れる岩木川。かつてこの地方の流通において中心的役割を果たしていました。その川の河口に、十三湖という大きな湖があります。津軽中の川がここに流れ込んでいますが、湖の西口が小さく開いて日本海の海水が流れ込んでいるため、汽水湖になっています。太宰治の作品『津軽』に『気品はあるがはかない感じの湖』とかかれた十三湖は、その昔、「十三湊(とさみなと)」と呼ばれた博多クラスの国際貿易港だったのです。
十三湊とは、中世の昔、津軽半島にあった国際貿易港のことです。場所は現在の地名で言うと、青森県北津軽郡市浦村といい、今では小さな漁村になっています。十三湊に関する文献は少なく、謎が多かったのですが、1991年から国立歴史民俗博物館による発掘調査を契機に、かつての十三湊の様子が明らかになりつつあります。
◆十三湊安藤氏遺跡 -陸奥の城ー http://p.tl/7uLG
津軽十三湊は十三湖と日本海に流れ込む前潟(旧流路)に挟まれた南北に細長い半島状地形に築かれた中世の港湾都市です。町の規模は東西500m×南北1300mほど、内部は大きくは東西に方向に構築された大土塁と堀によって南・北の2ブロックに分割され、土塁の北側に安藤氏の居館・家臣の屋敷地が、南側に町屋・寺屋敷が設けられ、一定のヒエラルヒーの中で町は構築されていたと思われます。安藤氏の居館は北ブロックの南縁東寄りに構えられ、規模は100-120m四方ほど、堀と土塁で囲まれた方形館と推測されます。そして居館の西側に南北の基軸道路が敷設され、居館の北・西側をカバーするように家臣の屋敷地が設けられています。また南北の基軸道路は南ブロックを縦断し、道路に沿って幅の狭い短冊形の町屋が設けられています。なお十三湊の港湾施設は北ブロックの前潟沿いに設けられ、南西側の水戸口で日本海に繋がっていました。
◆青森・十三湊遺跡 - 邪馬台国大研究 http://p.tl/sN9k
東北の他の土地と同じように、ここ十三湖付近にも縄文時代から人は住み着いており、各種土器や石器も発見されている。
市浦村では、十三湊の遺跡を中心にしてこれらの遺跡からの出土品や、各種農機具などを歴史民俗資料館として展示している。
・在日朝鮮人の70%が、30兆円市場である日本のパチンコ産業に
フジテレビは2003年3月20日、ニュース番組「スーパータイム」の中で、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の金正日総書記との会談議事録を元に、金総書記が「在日朝鮮人の70%が、30兆円市場である日本のパチンコ産業に関わっており、その送金がわが国を支えている」という旨の発言を行ったと報じた。
米国のWSJ紙の報道によれば、パチンコ業界から北朝鮮への送金額は毎年数百億円に達する。朝鮮学校を運営する朝鮮総連の幹部は北朝鮮の政府幹部であり、現在、朝鮮総連直営のパチンコ店も20店舗以上存在していて、その利益は朝鮮学校の運営資金等に当てられているという。
☆以下は戦後史「コリアン世界の旅」 野村進 1996年講談社よりの書き抜きである。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
いま全国に約一万八千軒あるパチンコ店のうち、在日および帰化者(二世・三世を含む)が経営する店の割合は、六割とも七割とも言われる。三軒に二軒は、オーナーが韓国・朝鮮系ということなのである。パチンコ台の製造メーカーにも、最大手の「平和」を筆頭に、韓国・朝鮮系の経営者が名を連ねている。
パチンコが全国に広まり大衆的な人気を博するのは、明らかに日本の敗戦直後からである。身近に安価な娯楽がなかったためという理由ばかりではない。焼け跡闇市の時代の庶民を何よりも魅了したのは、景品に出されるタバコだった。配給制で常に不足がちなタバコが、強力な呼び水となって、戦後最初のパチンコ・ブームを巻き起こしたのである。
かくしてパチンコ店は雨後の筍のように増えていくのだが、当時、開店資金をどのようにして工面したのか、その経緯が在日自身の口からおおやけにされることも、私の知るかぎり絶無と言ってよかった。『こんなことを話す人間は、ほかにおらんだろうね』 と前置きして、キムが語る。
『闇市で儲けて、それからパチンコ(店経営)に走った人が多いんですよ。じゃあ闇市で何をして儲けたかというと、結局、ヒロポンと贓物故買(ぞうぶつこばい)だよね』 密造した覚醒剤を売りさばいたり、盗品の横流しをしたりして、短期間のうちに大金を作り、それをパチンコ店開業に振り向けたというのである。『そういううしろ暗い過去がなかったら、カネなんていうものはそんなに貯まらんですよ。うしろ暗い過去があるから、人にも言われんわけでね』(「コリアン世界の旅」 野村進 1996年講談社より)
日本のために「殺人予告」までされているテキサス親父の心意気を
署名サイトはこちら→ http://goo.gl/mnXO3Y
署名の仕方はこちらのサイトに
http://staff.texas-daddy.com/?eid=454
◆日本のために「殺人予告」までされているテキサス親父の心意気を無にしないためにも日本人の気持ちを見せてあげましょう。
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「親日米国人」ホワイトハウスに請願署名 慰安婦像撤去要求に韓国人から「殺害予告」
米グレンデール市の慰安婦像をめぐる「テキサス親父」ことトニー・マラーノさんと韓国社会のバトルが相変わらず続いている。像への「侮辱」騒動に韓国側の憤慨収まらぬ中、マラーノさんが今度はホワイトハウス宛に「像を撤去してくれ」と求める請願活動を始めたためだ。
韓国では大手紙やテレビ局が相次いで取り上げ、マラーノさんの元には「殺人予告」まで舞い込む。もっとも地元米国、そして日本ではほとんど報じられる気配がない。
「カリフォルニア州グレンデールの市立公園に建てられた『侮辱的な像』を撤去せよ」
米ホワイトハウスが設置している請願サイト「WE the PEOPLE」に、こんなトピックが投稿されたのは2013年12月11日のことだ。WE the PEOPLEに寄せられた書き込みには、期間内に一定数の同意を確保できさえすれば、どんな内容であれ政府から正式に見解が発表される。過去にも何度か韓国や日本のネットユーザーが、慰安婦や日本海表記問題をめぐり「投票合戦」を繰り広げてきた。
さて、11日に追加された請願は、以下のような内容となっている。
「カリフォルニア州グレンデールの市立公園に建てられた像を撤去してください。この慰安婦像は、平和への祈願を装っていますが、その銘文を読めばわかるように、その本質は日本国と日本人への憎悪を煽り立てるものです」
請願を開始したのは、テキサス州在住の動画投稿者トニー・マラーノさんだ。日本に好意的な政治的主張もあって、「テキサス親父」の呼び名で主に保守層を中心に人気が高い。慰安婦については、当時の米軍文書を元に「売春婦」だったとの立場を取っている。
先立つ3日、マラーノさんはグレンデールの慰安婦像を支持者らとともに訪問、像に紙袋をかぶせ、日章旗と旭日旗を膝の上に乗せるなどした写真を撮影し、フェイスブックなどで公開していた。これに韓国側は「極右ブロガー」による「侮辱」だとして敏感に反応、動画の日本語訳などを行っている「テキサス親父日本事務局」によれば、マラーノさんの元には韓国人とみられるネットユーザーから9日までに「殺害予告」も含む、実に3000通近い罵詈雑言が送り付けられたという。
その騒ぎも冷めやらぬ中での「請願」に、韓国の世論は再び激高している。最大手紙の朝鮮日報を始め、ニュース番組などでも、「慰安婦像侮辱の米ブロガー、またしても……」と相次いで報道された。ニュースサイトのコメント欄にも、「家族全員ひっ捕まえて、女は売り飛ばし、男は北朝鮮の炭鉱で強制労働させるべき」「こいつの肉を食ってやりたい」と過激な意見が並ぶ。
一方、日本では経済評論家の上念司さんなど保守派の論客を中心に、ツイッターなどを通じて署名運動の「拡散」が現在行われている。しかし国内メディアでは今のところ、前回の騒動も含め報じるところは皆無に近いようだ。また、慰安婦像問題をたびたび報じてきた現地紙グレンデール・ニュース・プレスなども含め、地元でも目立った反応は見られない。請願成立には、2014年1月10日までに10万筆の署名が必要となる。13日現在、約6000筆が寄せられている。(2013.12.13 J-CASTニュース)
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テキサス親父は日本人と日本の名誉のために命がけで請願をしてくれています。これを日本人が黙って見ていられましょうか。
しかも、本来は日本人がやらなければならないことを日本のために名前と顔を出してここまでやってくれているこの好意に対して日本のマスコミは一切取り上げないのです。反日左翼のデモは少数でも取り上げて取上げるくせに、日本の名誉のための保守の活動は国民に知らせない。本当に役立たずの日本のマスコミです。
「請願成立には、2014年1月10日までに10万筆の署名が必要となる」だそうです。署名は「テキサス親父日本事務局」にあります。
日本の名誉のために、そしてテキサス親父の心意気にこたえるためにも、我々日本人の「敷島の大和心」を見せてやりましょう。
「朝鮮進駐軍による首相官邸襲撃事件」
http://p.tl/58Tj http://p.tl/IHth
1946年12月20日、在日朝鮮人による暴動が起きました。
朝鮮進駐軍部隊2000人による首相官邸襲撃事件です。
約2000人 の在日朝鮮人、朝鮮進駐軍部隊が完全武装して首相官邸に突入。
日本の警官隊は当時武器の所持は禁じられていため、米軍憲兵隊に応援を要請しました。
米軍憲兵隊と朝鮮進駐軍との間で大銃撃戦闘へと発展。
戦後の在日朝鮮人は、自分達を「戦勝国民である朝鮮進駐軍」であると詐称し、3万人もの武装集団となって全国主要都市で暴動を起こしました。
在日朝鮮人集団は、武装解除された日本軍の武器と軍服を盗用して武装し、朝鮮進駐軍と名乗り、無差別に多くの日本人市民を殺害したのです。
戦後の治安が整っていない空白を良いことに、朝鮮進駐軍と名乗った在日朝鮮人は、土地の不法略奪、金品略奪、性暴行、銀行襲撃、殺略、警察襲撃など暴れ放題の限りを尽くしました。
朝鮮進駐軍と名乗る暴徒達は、個々に部隊名を名乗り、各地で縄張りを作り暴れました。
![京免 史朗さんの写真](https://fbcdn-sphotos-d-a.akamaihd.net/hphotos-ak-prn2/1470416_431921210268524_692525947_n.jpg)
![京免 史朗さんの写真](https://fbcdn-sphotos-g-a.akamaihd.net/hphotos-ak-frc3/1475796_431921240268521_1445669269_n.jpg)
【尋常小学修身書 巻四 】
大日本皇國
http://p.tl/WoqW
大正九年 文部省発行
《第三 靖國神社》...
靖國神社は東京の九段坂の上にあります。
この社(やしろ)には君のため國のために死んだ人々をまつつてあります。
春〔四月三十日〕と秋〔十月二十三日〕の祭日には、勅使をつかはされ、臨時大祭には天皇・皇后両陛下の行幸啓(ぎょうかうけい)になることもございます。
君のため國のためにつくした人々をかやうに社にまつり、又ていねいなお祭をするのは天皇陛下のおぼしめしによるのでございます。
わたくしどもは陛下の御めぐみの深いことを思ひ、こゝにまつつてある人々にならつて、君のため國のためにつくさなければなりません。
●いんげん 【隠元】
◆いんげん 【隠元】世界宗教用語大事典
中国明の福州の人。
日本の黄檗宗の開祖。号隠元、名は隆。
中国の黄檗山で修行、一六五四(承応三)年渡日、長崎・摂津・江戸を巡り、将軍徳川家綱から宇治に地を賜り万福寺を建立。
念仏禅を布教し、普茶料理を伝え、本国から持参の豆は隠元豆として有名。
その法流を黄檗宗という。
大光普照国師・真空大師。語録がある。(一五九二~一六七三)→ 念仏禅
◆ふくしゅう ―しう 【福州】
中国、福建省の省都。閩江(びんこう)下流北岸にある港湾都市。木材・茶の集散地。製紙工業が盛ん。フーチョウ。
◆おうばく-しゅう 【黄檗宗】
曹洞宗・臨済宗と並ぶ日本三禅宗の一。本山は黄檗山万福寺。1654年明の僧隠元によってもたらされた。宗風は臨済宗とほぼ同じだが、明代の仏教的風習が加味されている。1874年(明治7)に臨済宗と合併したが、二年後に独立して一宗派となった。
◆おうばく-さん【黄檗山】
(1)中国、福建省東部の福清県南西にある山。隠元の住した臨済宗の万福寺があった。
(2)黄檗宗の本山、万福寺の山号。
◆とにち 【渡日】
(名)スル
日本にやって来ること。来日。
◆まんぷくじ 【万福寺】
京都府宇治市にある黄檗(おうばく)宗の大本山。山号、黄檗山。1661年、明の帰化僧隠元の開創。中国の黄檗山万福寺にならった万福寺式伽藍(がらん)配置で有名。また、鉄眼(てつげん)開版の大蔵経の版木を蔵する。
◆隠元隆き http://p.tl/2YKE
隠元隆(いんげん りゅうき、特諡として大光普照国師、仏慈広鑑国師、径山首出国師、覚性円明国師、勅賜として真空大師、華光大師、万暦20年・文禄元年11月4日(1592年12月7日) - 寛文13年4月3日(1673年5月19日))は、中国明末清初の禅宗の僧。福建省福州福清県の生まれで俗姓は林である。
独特の威儀を持ち、念仏禅を特徴とする明朝禅を日本に伝え、道者超元と共に当時の禅宗界に多大な影響を与え、臨済・曹洞二宗の復興運動にも大きな影響を与えた。また日本における煎茶道の開祖ともされる。
◆ふちゃ-りょうり 【普茶料理】
黄檗(おうばく)宗の僧が江戸初期に伝えた中国風の精進料理。ごま豆腐・巻繊(けんちん)など一般化したものも多い。ふさりょうり。
◆念仏と禅はくっつくのでしょうか? | その他(学問・教育)のQ&A【OKWave】http://p.tl/FvMK
念仏禅というのは実際に行じられています。ただ、言葉のうえから想像されるような単純なドッキングではありませんので、少々説明が必要です。
そもそも、念仏というのは「南無阿弥陀仏」と名号を口に唱えることだけではありません。本来は「観想念仏」、つまり「仏の姿を思い浮かべること」が狭義の念仏の意味です。「仏様の姿を念じる」わけですね。
◆
◆いんげん‐まめ 【隠元豆】 デジタル大辞泉の解説.
1 マメ科の蔓性(つるせい)の一年草。葉は3枚の小葉からなる複葉で、軟毛がある。夏、白色・黄白色・淡紅色などの花を総状につける。さやは細長く、未熟果をさやのまま、あるいは熟した種子を食用とする。中央アメリカの原産。蔓のない栽培品種もあり、ツルナシインゲンという。五月ささげ。三度豆。《季 秋》
2 フジマメの別名。関西地方でいう。
●名は、伝えたという隠元禅師にちなむが、1のみを伝えたとも、また、1を関東に、2を関西に伝えたともいわれる。
◆いんげんまめ【隠元豆】大辞林
1.マメ科の一年生作物。南アメリカ原産。多くはつる性。葉は広卵形の小葉三個からなる複葉。花は白色または淡紫色の蝶形花で,葉腋(ようえき)から出た花穂上に数個つく。豆ざやは線形で細長く,未熟果のうちにさやごと,また熟した種子を食用にする。ゴガツササゲ。 [季] 秋。
2.フジマメの別名。隠元禅師が日本に伝えたものはこの種であるという。インゲンササゲ。
◆インゲンマメ(隠元豆、Phaseolus vulgaris)ウィキペディア http://p.tl/M8Jk
マメ科の一年草。別名、サイトウ(菜豆)、サンドマメ(三度豆)。
・歴史
中南米原産。16世紀末にヨーロッパを経由して中国に伝わり、17世紀に日本に伝わったと言われている。1654年、明からの帰化僧・隠元隆が日本に持ち込んだとされることからこの名がついた[2]。実際にはフジマメ(藤豆、フジマメ属)を持ち帰ったという説もある。このためかどうか不明だが、関西ではフジマメをインゲンマメと呼び、インゲンマメはフジマメ、サヤインゲンは三度豆と呼ぶ。
・生態
夏に、白またはピンク色の花をつけ、秋に長いさやをつける。つる性の品種とつるなしの品種とがあり、つる性の品種の方が収穫期間がつるなし品種よりも長い。
・産地
日本では全国の生産量の約90%が北海道で生産され、その中でも十勝平野が栽培の中心である。 特に、大正金時は、最も人気がある品種である。
しあわせの言霊 http://p.tl/r_YW
幸せには三つあるといわれます。
...
ひとつ目の幸せは『してもらう幸せ』
赤ちゃんのとき誰もが、
お腹が空けば泣いたし、
オムツが濡れれば泣きました。
すると、
おかあさんが飛んできて、
おっぱいを含ましたり、
オムツを替えてくれました。
そのとき、私たちは幸せでした。
これが『してもらう幸せ』です。
ふたつ目は、自分で『できる幸せ』
字が書けるようになった、
一人で自転車に乗れるようになった、
サッカーがうまくなった、
なんでも自分でできるようになると、
偉くなった気がしてうれしいものです。
これが「できる幸せ」です。
そして最後は、人に『してあげる幸せ』
人に物を差し上げる、
何かして差し上げる、
相手の喜びをわが喜びとする、
そんな人は、人から好かれ頼りにされます。
『してあげる幸せ』は、
三つの幸せのなかでも最高の幸せです。
私たちも『してもらう幸せ』から
『できる幸せ』へと進み、
そして『してあげる幸せ』を
味わえる人生を送りたいものです。