縄文人の反乱 日本を大事に

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★自衛隊「弾薬提供」に八つ当たりの韓国紙 「日本はいわば殺人犯、レイプ魔なのに…」

2013年12月24日 22時04分38秒 | 色んな情報

 

★自衛隊「弾薬提供」に八つ当たりの韓国紙 「日本はいわば殺人犯、レイプ魔なのに…」                  2013/12/24

南スーダンで国連平和維持活動(PKO)に当たる韓国軍に対し、自衛隊が弾薬1万発を提供したことが波紋を広げている。
そもそも、なぜ韓国軍が「SOS」を出す事態になったのか。2011年に独立したばかりの南スーダンでは、2013年12月15日
以降、キール大統領率いる政府軍と、マシャール前副大統領を支持する反乱軍が各地で戦闘を続けている。民族対立も
絡んでいるだけに、現地では残酷な殺戮が横行しているとも報じられる。

特に東部ジョングレイ州は、反乱軍がPKO部隊の基地やヘリなどを相次ぎ襲撃、PKO部隊のインド兵に死者が出るなど
極めて緊迫した状況だ。21日には民間人救出のため派遣された米軍のオスプレイも被弾、退避を余儀なくされた。
州都ボルに駐屯する韓国兵約280人は、まさにこうした状況の真っただ中に置かれている。しかも、その多くは復興
支援を目的とした工兵たちだ。

「自分たちの身を守る、あるいは脱出する、というだけなら十分な装備があるのだろうが、基地には1万5000人もの
避難民たちが逃げ込んできている。となれば、かなり広い範囲を守らねばならない」
軍事ジャーナリストの神浦元彰氏は、韓国軍が支援を求めた背景についてそう解説する。小野寺五典防衛相は24日、
「人道的にすぐに手当てが必要な状況だった」と説明したのも、無理からぬ話ではある。

とはいえ、多くのメディアはそうした現地事情よりも、安倍政権の「裏」の意図の方に関心が強い。
たとえば朴大統領の外交ブレーン役も務める韓国・世宗研究所の陳昌洙氏は聯合ニュースに対し、「国際社会で活動する
際には、韓国と日本がお互いに助け合うことが必要だということを見せてくれた」と述べている。今回の弾薬提供が、
日韓和解のためのシグナルでは、との見方を暗に示した形だ。

一方、安倍政権がこれを利用して「武器輸出三原則」を骨抜きにし、「積極的平和主義」の拡大を目指すのでは、
との懸念は特に大きい。

「今回は武器輸出三原則の『例外』だというが、これまで例外とされてきたのは中曽根政権時代の米国への技術提供、
小泉政権時代の弾道ミサイル防衛システムの共同開発、と2つだけ。そこに3つ目の例外が作られたため、『なし崩し』
にされるのでは、との懸念が出ているのです」(上述・神浦氏)

特にいらだちを隠さないのが、支援を受けた当の韓国だ。19日には日本の集団的自衛権の行使容認に「深刻な憂慮」を
示す国会決議をしたばかり。よりにもよってその直後に、その日本から弾をもらうことで、日本の「軍拡」に塩を送る
格好になってしまったのだから、面白いはずがない。

韓国国防省は24日、そもそも銃弾は不足していなかったとして、日本からの提供はあくまでも、事態の長期化に備えた
「予備」だと突っ張ってみせた。また外務省も、「国連を通じて弾薬の支援を受けた。それ以上でもそれ以下でもない」
と冷淡な態度だ。

メディアからも、不満の声が漏れる。韓国の大手通信社ニューシースは、24日付のニューヨーク特派員コラムの中で政府
の対応を批判しているが、その表現は非常に強烈だ。

「過去の日本を人間に例えるなら、何十年も町内でレイプと殺人を繰り返し、他人の財産を奪って奴隷として働かせて
いたような『極悪非道』の者である。(中略)一生保護観察しなければならないような要注意人物に武器を持たせた
ばかりか、それに私たちが『弾丸をちょっと貸してくれ』と言い出したのだから、世論に火がつくのも当然だ」(終わり)

 


「遺伝子組み換え小麦という悪ふざけ」

2013年12月24日 21時47分36秒 | 色んな情報
「遺伝子組み換え小麦という悪ふざけ」

アラン・トレーシーというと、古い方ならサンダーバードのトレイシー家の五男で末っ子のことを思い浮かべるだろう。このアランは「ロマンチストで思いやりがあるが、時折悪ふざけもする。」という性格らしい。

今日投稿する記事は、アラン・トレーシー氏の記事だがサンダーバードとは関係ない。全米小麦協会の会長である、アランだ。このアラン氏が「悪ふざけ」をしているらしい。...


アラン氏はこう断言する。「近い将来、小麦の生産を遺伝子組み換え小麦に切り替える」

遺伝子組み換え小麦というのは、過去に、米国国民や最大の輸出国の日本からの反対に合い、その開発を停止したことがある。それが2005年のこと。この時点で米国のFDAは既に安全審査を終了し、承認間近でもあったが、自国民の主食となる小麦が、たとえ家畜の飼料用とはいえ、遺伝子組み換えになることに躊躇したわけだ。

そもそも、小麦は遺伝子操作による品種改良(遺伝子組み換えとはその方法論が全く違う)が行われてきてはいるが、ここにきて遺伝子組み換え小麦の開発が加速している。

それというのも、米、豪、加の小麦生産組合が共同で遺伝子組み換え小麦開発を懇願したからだ。いわゆる除草剤耐性というもので、除草剤を撒いても枯れない小麦は、雑草処理が簡単であり、効率化できるからだ。それでなくても小麦の国際価格はかなり低下しており、最近は上昇も見られるが、低価格なのは否めない。ここで一気に効率化して低価格化に対抗したいのだろう。

この小麦は当然、基本的に米国内の家畜飼料になるか、海外に輸出することになる。これらの穀物栽培量というのは想像を絶するほどに大量であるため、遺伝子組み換えと非遺伝子組み換えとを明確に分別管理することは不可能に近い。それでなくても農業機械、穀物倉庫や運搬車両などにコストがかかっているのに、二系統用意することができず、必ずどこかで混ざってしまう。しかも大量に。

恐らく、日本は当初は遺伝子組み換え小麦に拒否反応を示すだろう。しかし、現実には大量に遺伝子組み換えが混ざり込んだものが輸入されることになる。下手をすれば、パンやラーメン、うどんの小麦が遺伝子組み換えに取って代わることになるやもしれない。

しかも遺伝子組み換え小麦は、中国にも大量に輸出されるため、たとえ表示義務があったとしても、どこかでその表示が消え失せる可能性は捨てきれない。

それを見越してか、もし日本がTPPに参加した場合、遺伝子組み換え小麦の表示義務が撤廃されるか、撤廃されないまでも、現在5%までの混入を認めている基準を大幅に緩和してくるだろう。今の日本の表示制度から考えれば、この基準が49%ギリギリまで許可するという可能性はありえる。つまり51%は国産の非遺伝子組み換え小麦、49%が輸入の遺伝子組み換え小麦の場合、国産小麦とだけ表示されるということだ。

アラン・トレーシー氏の悪ふざけは、悪ふざけのままでは終わらず、世界中の人間の健康を害する最悪な結果になるかもしれない。サンダーバード3号に乗って宇宙の果てまで飛んでいってもらえないものだろうか。


さくらの花びらの「日本人よ、誇りを持とう」 「修身」は国のために死ぬことを求めた皇民化教育?

2013年12月24日 20時27分38秒 | 色んな情報
京免 史朗さんの写真
京免 史朗さんの写真
 
さくらの花びらの「日本人よ、誇りを持とう」 「修身」は国のために死ぬことを求めた皇民化教育? 
教育は教師も含めて全面的に見直していくべきです。   「心のノート」と「修身」、どちらが日本人としてふさわしいか -------------------- 道徳教科化 皇民化教育の再来を危ぶむ個人の心の内面に国家が...踏み込む。国家が特定の人間像を強制する。そんな危惧を禁じ得ない。文部科学省の有識者会議が小中学校の道徳について、教科化と検定教科書の使用を提言すると決めた。国が一律に徳目を指定するのは戦前の「修身」を想起させる。国のために死ぬことを求めた皇民化教育の再来ではないか。 皇民化教育は、沖縄戦であまりに多くの犠牲を生じさせた。その痛切な体験で、国による特定の道徳の押しつけがどんな結果を招くか、われわれは骨身に染みて知っている。道徳教科化は避けるべきだ。 提言は、教育再生実行会議がいじめ問題への対応として2月に出した提言を繰り返した形だ。だが本当にいじめ対策なのか。道徳教科化は2007年の第1次安倍政権の教育再生会議が提唱した。当時は「わが国と郷土を愛するとともに国際社会の平和に寄与する態度を養う」とうたう教育基本法改正とともに論議された。つまり愛国心教育と一体だったのだ。 当時は中央教育審議会で「国家による特定の価値観押しつけにつながる」と異論が出て実現が見送られた。それを覆すのが今回の動機であろう。とすれば、いじめ対策に名を借りた、皇民化教育の復活が真の狙いということになる。 「道徳で子どもに点数を付けられるのか」という批判を避けるためか、5段階での数値評定はしないというが、記述式による評価はある。すると、「内申に響く」のを恐れる児童生徒は、教師の望む通りの発言や振る舞いをする。自分の頭で判断するのでなく、教師、ひいては国家の期待する人間像を「演技」することになる。これは道徳ではない。むしろ道徳の荒廃ではないか。 教科書を国が検定することは、何が道徳的に正しいかを国が決めることになる。国家への貢献を求めるのは必然だ。政府へ不満を言うのは「愛国心が足りない」ということにもなりかねない。道徳の教科化は「教育の中央集権化」、「教育の政治利用」だ。弊害はあまりに大きすぎる。(2013.11.12 琉球新報) -------------------- 特定秘密保護法案と同じく、反日左翼勢力と反日マスコミは道徳の教科化にも反対します。オスプレイも反対、原発再稼働も反対、米軍基地も反対、自衛隊も反対、憲法9条は絶対守れ、・・・、彼らの言うことすべて日本弱体化です。 「戦前の修身=国のために死ぬことを求めた皇民化教育」とはさすがに「特定秘密保護法案=戦争になる」と同じ発想です。 「教科書を国が検定することは、何が道徳的に正しいかを国が決めることになる。国家への貢献を求めるのは必然だ」と琉球新報は書いていますが、国が決めずに誰が決めるのでしょうか。現状の教育の荒廃と道徳観にない日本社会を見て何とも思わないのでしょうか。日本の教育をダメにしてきた日教組や全教などの反日教師にはまともな道徳など教えられるわけがないのです。それよりも正しい歴史観で国が主導して行かねば今の教育の荒廃は正せないのは明らかです。 そのために一番よいのが戦前の「修身」の教科書です。一度読めばよくわかりますが、国のために死ぬことを求めたものではなく、皇室、日の丸君が代、我が国、靖国神社、国民の務め、さらには親孝行、祖先と家族、兄弟、慈善、勤勉、勇気、勤労、忍耐、など日本人の先人や偉人を通して日本人としての心や精神を学び、先人のような立派な日本人になろうという希望と勇気と自信と正義を涵養するには最適な学びが凝縮しています。 日本の中心が「天皇陛下」であるように、教育の中心は「道徳」でなければなりません。なぜなら道徳心がある上で数学や科学が活かされるからです。不道徳で科学者になってもオウムのようになれば人類の不幸であります。 かつて明治初期、欧米化で日本の子供たちが自由放任でモラルもなくなっていた時、明治14年に「小学校教則要綱」が出来ました。これは全科目の中で「修身」を首位に置き、全学年で毎週6時間の「修身」を教えるようにし、歴史も世界史はやめて我が国柄である天皇陛下を中心とした「国史」だけにして教えました。そのためには教員もきちんと教えられる人でなければならないので「教員心得」が出来て「教員たる者は、殊に道徳教育に力を用い、生徒に皇室を忠にして国家を愛し、父母に孝にして、長上を敬い・・」としたのです。 戦後日本は「公職追放」で、GHQの自虐で戦前の日本は悪かったという教育を強制され、「そんなことは出来ない」という骨のある教師は皆クビになり追放されました。残ったのは戦前の共産主義者や占領軍に従う骨なし教師でした。占領軍に追従する教師からは正しい日本を学べず、結果、日本が悪い国だから革命を起こして変えなければならないと言って学生運動に導いて勉強もせずに破壊活動をやっていたのです。今もその延長線にあります。ですからかつての公職追放のように今度は反日左翼教師を追放しなければいくら正しい道徳教科書が出来ても正しく教えることはないのです。 道徳も歴史も国が定めて国定教科書とし中央集権化していかなければ、今のようにバラバラな教科書で地方に任せて教師の思想を押し付けさせてはまともな教育などできるわけがないのです。現代の日本の子供たちに必要なのは、我慢することや辛抱することを教え、小中学校では携帯持ち込み禁止やパソコンをやめさせ、英語も減らし、日本人として国語とともに徹底的に「字」を書かせることです。明治天皇の御製などたくさん書かせることです。そして、徳目を明らかにした「修身」のお話こそこれからの日本を背負う子供たちに必要なことであるのです。

韓国軍がベトナムで行った残虐行為の 被害者たちが真実を語りはじめた

2013年12月24日 20時14分28秒 | 色んな情報
韓国軍がベトナムで行った残虐行為の 被害者たちが真実を語りはじめた
私の村は地獄になった!

 今から33年前の1967年4月1日。グエン・バン・トイはびくびくしながら、ベトナム中部フーイェン省の水田で働いていた。
 当時、この地域では韓国軍が大規模な作戦を進めていた。韓国兵は農民を力ずくで追い立て、南ベトナム政権の支配下にあった沿岸部に無理やり移住させていた。
 だが、多くの村人は移住を嫌がった。トイのビンスアン村を含む5カ村からなるアンリン郡の農民も、先祖代々の土地を捨てるのは気が進まなかった。
 トイが農作業を続けていると、いきなり機関銃の銃声と手榴弾の爆発音が響いた。音がしたのはビンスアン村の方角。トイはあわてて身を隠し、あたりが暗くなるまで動かなかった。
 村に戻ったトイが目にしたのは、身の毛もよだつ光景だった。家は黒焦げになり、少なくとも15人の村人が血の海に倒れていた。多くの遺体は銃剣で腹を切り裂かれていたと、トイ(71)は言う。
 そのなかには、トイの妻と3人の子供の遺体もあった。生後4日の末の子は母親に抱かれたまま、背中を撃ち抜かれていた。4歳の娘ディエムは銃弾を5発受けていたが、奇跡的に命をとりとめた。
 トイは遺体を近くの防空壕に運び、入り口を泥で覆った。ここが、そのまま墓になった。トイも他の村人も、「あまりに悲しすぎて」犠牲者を改葬する気にはなれなかったからだ。

理由なき無差別の殺戮

 韓国軍がベトナムに派兵されていたのは1965~73年。こうした残虐行為のねらいは、ベトナム中部の3省(ビンディン、クアンガイ、フーイェン)から農民を移住させて人口を減らし、ベトコン(共産ゲリラ)の勢力伸張を阻止することにあったようだ。
 現地の自治体当局者によると、立ち退きを拒否した人々は、韓国軍の手で組織的に惨殺されたという。しかも犠牲者の多くは、老人や女性、子供だった。
 歴史の闇に葬り去られていた虐殺の事実に再び光が当てられたのは、勇気ある韓国人研究者、具秀ジョン(ク・スジョン)が行った調査のおかげだ。彼女は韓国軍による大量虐殺の詳細を記録したベトナム政府の文書を発見した。
 生存者の証言によると、虐殺は理由なき無差別殺人であり、多くはベトコンとの戦闘が行われていない時期の出来事だった。
 グエン・フン・トアイ(46)もビンスアン村の虐殺と同じころ、アンリン郡の別の村で危うく殺されかけた。
 当時13歳だったトアイは、韓国軍が家に近づいて来るのを見てすぐに逃げた。近くの畑に隠れて見ていると、韓国兵は村の家に次々と火をつけ、母親と祖父母、弟と妹、そして近所の人々に暴行を加えたという。
 韓国軍は、トアイの家族を含む11人ほどの村人に銃剣を突きつけ、防空壕に追い込んだ。残りの12人ほどは、穴の外に立たされた。次の瞬間、何の前ぶれもなく銃声がとどろき、手榴弾の爆発音が空気を引き裂いた。トアイはとっさに頭を隠した。
 硝煙が消えたとき、すでに韓国軍の姿はなかった。トアイは急いで家族がいた場所へ行った。
 防空壕の前には、穴だらけになった血まみれの死体が並んでいた。防空壕の中も、誰かが生きている気配はまったくなかった。トアイは恐怖に駆られて逃げ出した。戦争が終わった後も、ここへ戻ることはできなかったという。

見つかったのは肉片だけ

 「みんな、村を離れたくなかった。私たちにとって、家や土地や水田はかけがえのないものだ」。トアイはそう言って泣きだした。「でも、立ち去るのを渋った人間はみんな殺された。連中は村をめちゃくちゃに破壊してしまった」
 こうした残虐行為の結果、多くの人々がベトコンの陣営に加わった。67年、16歳のときに父親を韓国軍に殺されたブイ・タイン・チャムもその1人だ。
 チャムは数人の韓国軍がアンリン郡の家に押し入る直前、裏口から脱出した。韓国兵は70歳の年老いた父親を捕らえ、防空壕に押し込むと、すぐに手榴弾を投げ入れた。チャムは日が暮れてから村にこっそり戻り、崩れた避難壕を掘り返したが、「肉片しか見つからなかった」という。
 それから数週間、物ごいをしながらさまよったチャムは、山岳部にこもっていた共産ゲリラに加わる決意を固めた。「父を殺した奴らに復讐したかった。韓国兵が村でやったことを見た以上、そうせずにはいられなかった」
 グエン・ゴク・チャウは83歳になった今も、憎しみを忘れていない。67年5月22日、フーイェン省ホアドン郡のミトゥアン村で農業をしていたチャウは、たまたま親戚のいる近くの村に出かけていた。
 そこへ前夜、韓国軍が村を攻撃したという知らせが届いた。大急ぎで帰ったチャウが目にしたのは、村人が井戸からバラバラになった遺体を引き揚げている光景だった。犠牲者のなかには、妊娠中の妻と4人の子供も含まれていた。

「首を切り落としてやる」

 虐殺を隠れて見ていた老人の話では、韓国兵は女性や子供を井戸に落とし、助けを求める声を無視して手榴弾を投げ込んだという。チャウは、盛り土をしただけの簡単な墓に家族の遺体を葬った。
 「殺されたのは女や子供ばかりだ。共産主義者なんかであるわけがない」と、チャウは言う。「韓国人は人間じゃない。目の前に現れたら、首を切り落としてやる」
 ベトナムで虐殺行為を犯したのは、韓国軍だけではない。アンリン郡から海岸沿いに北へ向かえば、68年に米軍部隊が500人以上の村人を虐殺したクアンガイ省ソンミ村がある。
 それでも戦争体験をもつフーイェン省の村人の間では、米兵の評判は必ずしも悪くない。地方公務員のファム・トゥ・サン(47)は66年のテト(旧正月)のとき、米兵と一緒に遊んだりチューインガムやキャンディーをもらったことを今も覚えている。
 だが米軍はこの年、フーイェンから引き揚げ、代わって韓国軍がやって来た。それから「67年のテトを迎えるまで、韓国軍は殺戮を続けていた」と、サンは語る。「韓国兵に会ったら、死に出会ったも同然だった」と、今は地元の退役軍人会の会長を務めているチャムも言う。
 アンリン郡の村人によれば、韓国軍はとりわけ女性にとって恐怖の的だった。韓国兵は残忍なやり方で女性をレイプしてから、殺すケースが多かったからだ。
 こうした残虐行為が明るみに出てきたことに、ベトナム政府は神経をとがらせている。
 虐殺があったこと自体は、政府首脳も承知している。だがベトナム当局は、虐殺事件の報告書が国内で発表されることは望んでいない。友好関係にある韓国政府はもちろん、ベトナムに莫大な投資を行っている大宇や現代、三星といった韓国財閥の不興を買うことを心配しているからだ。

補償より謝罪の言葉を

 さらに政府当局には、観光客としてベトナムを再訪する韓国の元兵士が増えている状況に水を差したくないという思いもある。だが、韓国軍の残虐行為を目の当たりにした地元の当局者は、観光や経済発展のために真実を隠すべきではないと考えている。
 地元が望んでいるのは、韓国政府の公的な釈明だ。たとえば韓国側から謝罪や罪を認める発言があれば、両国の絆はむしろ強まると、地元の人々は考えている。
 「韓国軍は、この地域にかつてない災厄をもたらした。犠牲者は銃を持てない老人や女性、子供たちだ」と、フーイェン省のある当局者は言う。「私たちが望んでいるのは、物質的な補償ではない。それよりも共感と友好の姿勢を示してほしい。犠牲者が過去を忘れられるように」
 韓国軍のために流された罪なきベトナム人の血の量を考えれば、なんとささやかな要求だろう。

ニューズウィーク日本版

『正統史観年表』「マッカーサーの遅すぎた悔恨」

2013年12月24日 19時58分44秒 | 色んな情報
『正統史観年表』「マッカーサーの遅すぎた悔恨」

■マッカーサー
アメリカ陸軍の元帥で、開戦時は極東軍司令官を務め、...

後に西南太平洋方面連合軍総司令官として対日作戦を指揮
戦後は日本に進駐し、日本占領連合国の最高司令官を務め
東京裁判を主導した人物。

昭和26(1951)年5月3日。
米国上院軍事外交共同委員会で朝鮮戦争に於ける戦争方針で、

GHQ最高司令官を解任されたマッカーサーが、トルーマン大統領と対立し、朝鮮戦争において彼が主張した中国海上封鎖戦略についての答弁

●ヒッケンルーパー上院議員
では五番目の質問です。
「共産中国に対し海と空とから封鎖してしまえ」
という貴官(マッカーサーの事)の提案は、
アメリカが太平洋において日本に対する
勝利を収めた際のと同じ戦略なのではありませんか。

●マッカーサー
その通りです。太平洋において我々は彼らを迂回しました
我々は包囲したのです。

日本は八千万に近い膨大な人口をかかえ、
それが四つの島にひしめいているのだということを
理解していただかなくてはなりません。

その半分近くが農業人口で、あとの半分が工業生産に従事していました。
潜在的に、日本の擁する労働力は量的にも質的にも、
私がこれまで接したいずれにも劣らぬ優秀なものです。

歴史上のどの時点においてか、
日本の労働者は、人間は怠けている時よりも、
働き、生産している時の方がより幸福なのだということ、
つまり労働の尊厳と呼んでもよいようなものを発見していたのです。

これほど巨大な労働力を持っているということは、
彼らには何か働くための材料が必要だということを意味します。

彼らは工場を建設し、労働力を有していました。
しかし彼らは手を加えるべき原料を得ることができませんでした。

日本は絹産業以外には、固有の産物はほとんど何も無いのです。
彼らは綿が無い、羊毛が無い、石油の産出が無い、錫が無い、ゴムが無い。
その他実に多くの原料が欠如している。
そしてそれら一切のものがアジアの海域には存在していたのです。

もしこれらの原料の供給を断ち切られたら、
一千万から一千二百万の失業者が発生するであろうことを
彼ら(日本政府・軍部)は恐れていました。

したがって彼らが戦争に飛び込んでいった動機は、
大部分が安全保障の必要に迫られてのことだったのです。

(小堀桂一郎編『東京裁判 日本の弁明』より)

この発言は彼の証言から三日後の5月6日、
ニューヨーク・タイムズ紙に全文が掲載されました。

マッカーサーの爆弾発言
http://s03.megalodon.jp/2008-1211-1212-04/www004.upp.so-net.ne.jp/teikoku-denmo/no_frame/history/honbun/jiei_sensou.html
http://s02.megalodon.jp/2009-0209-1422-43/www004.upp.so-net.ne.jp/teikoku-denmo/html/history/honbun/daitoua_sensou.html
http://s03.megalodon.jp/2009-0209-1423-03/sakura4987.exblog.jp/3015674/
対訳 マッカーサー証言
http://s01.megalodon.jp/2009-0209-1423-33/www.chukai.ne.jp/~masago/macar.html

マッカーサーの遅すぎた悔恨・・・・
「侵略の世界史」清水馨八郎著(祥伝社)より引用

マッカーサーの占領政策が、敵対から途中で同盟に大転換したのは、
昭和25年に突如発生した朝鮮動乱からだ。

日本に自衛隊の創設を認め、防衛の協力者にすることに方針が一変した。

朝鮮戦争とは、共産圏のソ連と中国が
北朝鮮をそそのかし韓国に侵入させたもので、
中ソとアメリカの代理戦争であった。

米国はそれまで中ソは連合国側で仲間と考えて
北に対し何の防備もしていなかった。

ここで初めてマッカーサーは、
かって日本が戦った日清戦争と日露戦争を一緒にしたもの
日本に代わって米軍が戦わされているということに気が付くのだ。

そしてマッカーサーは、
日本の過去の戦争がすべて中ソに対する自衛のためのものであったと、
始めて確信するのである。

これを契機にアメリカもスターリンの罠に掛かっていたことに気が付くのだ。
大戦終了時から芽生えつつあった米ソ対立の冷戦が明確なものとなった。
米国の真の敵は日本ではなくソ連だったのだ。

せっかくアジアの防共の一大勢力となっていた日本を
米国が潰してしまった結果、中国大陸はほとんど全て共産圏に編入され、
朝鮮戦争とベトナム戦争という二つの戦争で
アメリカは日米戦争以上の数十万人という
手痛い被害を受けることになってしまった。

朝鮮戦争の反省から、アメリカはサンフランシスコでの対日講和会議に
ソ連の参加を拒否し、日本への賠償要求も放棄したのである。
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先日有る国会議員の秘書にお話した

2013年12月24日 19時40分42秒 | 色んな情報

先日有る国会議員の秘書にお話した
●「世界で最も貧乏な大統領」と言われているムヒカ大統領が、地球サミットで語った衝撃のスピーチ
http://p.tl/e76G に書いてあることに近いことだった。
ノーマイカー宣言をしてマイクロバスを導入する。
バカにされた用だけど。
マイカーをこれ以上させないように税沿いは優遇させる。
マイカー持つなら倍払いをさせる。
大型バスがまちなかを走るのでなくて小回りの効くマイクロバスを人権で何千第日何万代入れれば済む。
大型バスで一人も乗っていないのに空気を運んでいる。
福井ではこれはしょっちゅう。
夏は冷房 冬は暖房 ガンガン掛けて走らせれば燃費も悪い。
マイカーを走らせればメーカーやスーパーや病院は駐車場の維持に維持費が掛かる。
それが値段 料金に上乗せされる。
交通事故も多い。
土地が空けば そこに整備工場や車庫に出来る。
ムヒカ大統領は正にこのことを言っていたのではなかろうか。
先進国と一緒に後進国もマイカー持てばドウナルか。
車が世に出て半世紀以上立ってネコも杓子も持つように成って居る。
地方に来れば判るように一家で二台三台 成人した者の数だけ欲しい。
駐車場がほしいから敷地も大きくなる。
家も大きくなった。
三十年前よりも家は大きくて駐車場付けて昔に比べれば豪邸に近い。
おまけに日本は少子高齢化。
ワタシもそうだけど足はタクシーか交通機関に頼る。
バスも電車もそう走らない。
これから百年以上は子供の数が増える心配はない。
医療費も高くなる。
年寄りが増えてもそれを運ぶものがなければ歩いて行ける範囲は自ずと少ないから家にこもる。
足腰は弱るから寝たきりが多くなる。
安楽死もないから寝たきりで病気は増える。
医師の数は田舎ほど少ないから見放される。
右を見ても左を見ても病人ばかり。
ゴミと一緒でちりとりで救われて一処に集められる。
介護サービスで今日からワタシももうじきお迎えがくる。
 
 
今帰って来ました。
暖かいところで一日居ました。
家にいると少し鼻水が垂れる寒さし我慢して普段は居るのでなんとなくワタシより境遇の悪い生活をしているヒトに申し訳ないと何度か思った。
でもヒトとは切ないものです。
その境遇に入ると何も目にも入らないし思考は飛んでしまう。
デーサービスの建物の中にいてイロイロ考えさせられることも有りました。
帰って来て又自分の境遇に帰るといくつかの問題が見えてきた。
余り口に出すと周りの人や親戚の人は口々にワタシを批判する。
私が言っていることは自分を少なくとも自分を守れて初めて口にできることだと。
まっ皆さんはどう思いますか。


◆肉食を「にくじき」

2013年12月24日 19時22分15秒 | 色んな情報

◆肉食を「にくじき」
子供の時には、四足と言って普段は忌み嫌っていた。
デモ すき焼きの時は、ソウイウふうには考えることはなかった。
何と言っても正月と盆に食べるだけで今のように平常時でもアタリマエのように食することはなかった。
今は ソウイウ意味では幸せな時代とも言える。
でも現代ではものの大切さ 我慢強さというものは噛みしめることは出来無い。
何が幸せかは 時代で決まるのかもしれない。
デモ良い思い出はそんなに無いのではないかな。
それも時代のせいにしている現代人は幸せといえるのかな。

◆四足 【シソク】デジタル大辞泉の解説.
1 4本の足。また、4本の足のあるもの。よつあし。
2 けだもの。四足獣。〈和英語林集成〉
 
◆しそく【四足】大辞林
1.よつあし。机など四本の足があるもの。
2.四つ足の動物。けだもの。 〔日葡〕
 
◆四足  隠語大辞典
読み方:よつあし
畜生といふこと。人を罵るときに使ふ詞。
 
◆ホルモン焼き  
http://p.tl/vCUw
内臓肉(もつ)を焼く料理。狭い意味では、小腸、大腸を、広い意味では正肉以外のかつて廃棄していた部位をも含む臓物肉全般が含まれ、皮、胃、肝臓、心臓、腎臓、子宮、肺、腸などを用いる。かつては焼肉専門店や屋台などで供される料理であったが、味付けされたパック製品が販売されていることから一般家庭においても食される事もある。
 
「焼肉」や串に刺して「やきとん(焼き鳥)」としても食べられている。 また、鉄板を使用して焼いた料理は「鉄板焼き」などの「鉄板焼き料理」となる。
 
◆『トンチャン』
http://p.tl/PPT7
この語源には諸説あり、定かではない。
『トンチャン』は朝鮮語の「トン」(똥、ttong、糞)、「チャン」(장、jang、臓もしくは腸)で、小腸・大腸を意味するというする説がある。
『トン』は豚から。『チャン』は、北海道の名物料理で、魚を焼く類似の料理「ちゃんちゃん焼き」に由来するとする説がある。
岐阜県飛騨・奥美濃地方では『鶏ちゃん(ケイチャン)』と呼ばれる鶏肉料理があり、それと関連してトンチャンは「豚ちゃん」の意味だと解釈されており、地元の料理店のメニューでも「豚ちゃん」と表記される。
これらに起因して、「とんちゃん」の名を冠したホルモン(内蔵)料理がある。
 
山口県下関市では『とんちゃん鍋』という独特のホルモン鍋が名物の一つとなっている。
福岡県筑豊地方では、ホルモン焼きのことを「(筑豊)とんちゃん」と呼び、特に採炭地で栄えた田川において、近年では田川の名物として盛り上げようという気運が高まり、田川ホルモン鍋として「田川ホルモン喰楽歩」が2012年に北九州市で行われた「第7回B-1グランプリ」に初出場、6位に入った。
 
◆日本の獣肉食の歴史 
http://p.tl/oAFK
日本における獣肉食の歴史について述べる。
日本では古来、食用の家畜を育てる習慣が少なく、主に狩猟で得たシカやイノシシの肉を食していた。
仏教伝来以降は、獣肉全般が敬遠されるようになっていったが、日本人の間で全く食べられなくなったという時期は見られない。
獣肉食に関する嫌悪感も時代と共に変わっていったが、おおむね、狩猟で得た獣肉は良いが家畜を殺した獣肉は駄目、そして足が多いほど駄目(哺乳類>鳥>魚)と考えられることが多かった(タコ・イカは例外)。
獣肉消費量が魚肉を上回るのは第二次世界大戦後の高度成長期より後のことである。
 
◆江戸時代  
http://p.tl/MuNA
江戸時代には建前としては獣肉食の禁忌が守られた。特に上流階級はこの禁忌を守った。例えば狸汁は戦国時代には狸を使っていたが、江戸時代にはコンニャク、ごぼう、大根を煮たものに変わっている。

1613年(慶長18年)、平戸島に商館を開設したイギリスのジョン・セーリスは陸路で大阪(osaca)から駿河(Surunga)に向かう行程で書かれたとみられる日本人の食習慣に関する記述の中で、豚が多く飼育されていることに言及している[19]。1643年(寛永20年)の刊行とされる『料理物語』には、狸、鹿を具とした汁料理が紹介されている。1669年(寛文9年)に刊行された料理書『料理食道記』にも獣肉料理が登場する[3]。1686年(貞享3年)に刊行された山城国の地理書『雍州府志』には、京都市中に獣肉店があったことが記されている[3]。江戸後期の国学者喜多村信節は、著書『嬉遊笑覧』の中で、元禄前の延宝・天和の頃には江戸四ツ谷に獣市が立ったことを述べている。
 
◆明治時代から太平洋戦争前まで  
http://p.tl/qCzB
明治時代になると、牛肉を食べることが文明開化の象徴と考えられ、牛肉を使ったすき焼きが流行した。
すき焼き斎藤月岑日記には「近頃のはやりもの」として牛肉、豚肉などが挙げられている。食肉業者が増えたことにより、1871年(明治4年)には「屠場は人家懸隔の地に設くべし」との大蔵省達が出されている。
同年には天長節翌日の外国人を招いた晩餐会で、西洋料理を出している。
ただし明治天皇が初めて牛肉を食したのは1872年(明治5年)である。
同年、廃仏毀釈により僧侶を破戒させるため「肉食妻帯勝手なるべし」とされた。
明治初頭にはもっぱら和食の食材として用いられ、関東では味噌味などの牛鍋として、関西では炒めて鋤焼と称して食べられた。
生に酢味噌を付けて食べることも行われた。
牛肉の質は兵庫県産が最上とされ、ついで会津、栗原、津軽、出雲、信州、甲州などが優秀とされた。
ただし獣肉食を穢れとする考えは強く、これを迷信として打破するために近藤芳樹『屠畜考』、加藤祐一『文明開化』といった著作や、敦賀県からは牛肉を穢れとする考えを「却って開化の妨碍をなす」とする通達が出されている。
1906年(明治39年)には炭疽病を防ぐために屠場法が制定された
 
◆宗教による制限
・仏教
仏教では肉食を「にくじき」と読む。原始仏教では、比丘(僧侶)は糧(かて)をその日ごとで乞食(こつじき)することにより食を得、与えられた余り物の食べ物に肉が入っていようがなかろうが差別なく食べることになっていた。
とくに南伝(上座部のパーリ経典)および北伝(大乗仏教)のなかでも古い経典においては、釈迦その人が肉食をしたことが記述されている。
さらに、釈迦仏の弟子であった提婆達多が違背した原因は提婆達多が菜食主義を戒律に含める主張を釈迦が明確に否定したからであると記されているだけでなく釈迦が亡くなった原因は豚肉の食中毒であるとされている。
(肉食を否定する大乗仏教においては豚の好むキノコを使った料理とされている。)
 
生き物の殺生を禁止する仏教において肉食が禁止されていない事は矛盾であるとように思われるがこれは当時の肉食に関する宗教論争と関係する。
仏教の起こった当時のインドにおいては仏教だけでなくジャイナ教などの多くの宗派がアヒンサー(不殺生)を標榜していた。
特にジャイナ教においては畑を耕すことによって虫が殺されることなどを指摘し、肉食する、しないにかかわらず生存する限り間接殺を免れぬことを理由に、無食による自殺を最上の行とした。
これに対して仏教は間接殺を理論的に突き詰めることの限界を理由に中道を掲げ実際に生き物を殺す直接殺のみを明確に禁じ、間接殺においてはあくまでも貰い物の肉が、殺す所を見なかった肉、供養のために殺されたと聞かなかった肉、自分の為に殺された疑いの無い肉という「三種浄肉」であれば食しても問題はないとされた。
さらにここで重要なのは古代仏教において比丘はあくまでも家庭の余った食事を物乞いすることによってのみ食を得るため、肉食=肉の購買による間接殺という矛盾が成り立たないことにある。
 
これに対し、北方に伝来した大乗仏教の経典、『楞伽経』では「浄肉というものは存在しない」と明確に説く。
しかし、大乗の理論的基盤を提供した龍樹も肉食を禁ずるにおいて、肉食が殺生戒を破るという主張は行っていない。
代わり肉食は慈悲心に基づく菩薩道において勧められるとの主張を行っている。
すべての肉食を制限するという傾向が時代の経過とともにつれ強まり、中国では食物を「葷」(くん。肉や臭い野菜)と「素」(そ。精進料理)に分け、「葷」をはっきり禁制するようになった。したがって日本や朝鮮半島もこの影響を受けた。とはいえ、大乗仏教も上座部と同じく「悟りを得る」というのが最大の目的である。
そのため、そのような細かい制戒にこだわるのは、かえって悟りを妨げると考える僧侶も現れた。たとえば一休は周囲の仏教界に反発心の表れで肉食や飲酒した風狂な例として有名である。
また、特に親鸞は、戒律を守る人間が善人で救われるのであれば、戒律を守ろうとしても守れない悪人は救われない、悪人こそ救われるべきではないか、という疑問から自らを非僧非俗と呼んで、末法に戒律は不必要という立場から、ついに「肉食妻帯」を行った。
日蓮も末法無戒から肉食を禁制していない(ただし日蓮系各宗派の在家信者のみで、日蓮自身は菜食主義者であることを表明しており、記録によれば、日蓮が摂取したと思われる飲食物は全て植物性である。また、日蓮の弟子の日興は明確に肉食を禁止している)。
 
親鸞の遺訓から真宗各宗派ではこれが常となったが、他宗派では明治時代に至るまで、「寺院法度」により原則的には肉食妻帯の禁制を守ったが、明治政府が仏教放置政策を打ち出し、その「勝手たるべし」という語句を逆手にとって、なし崩し的に肉食妻帯することを事実上容認するようになった。しかしながら、一定の厳しい修行期間に修行僧は精進料理のみで、一切肉食することはないという宗派によってはある。
 
◆アイヌ料理 鹿肉・熊肉料理  
http://p.tl/aiet
 アイヌ民族の伝統的な食文化を解説する。
・狩猟
狩猟は盛夏〜晩夏を除いて1年の大半の時期に行われ、ユク(yuk エゾシカ)、キムンカムイ(kimun kamuy ヒグマ)、イソポカムイ(isopo kamuy ウサギ)、モユク(moyuk エゾタヌキ)、チロンヌプ(cironnup キタキツネ)、ホイヌ(hoinu テン)、ルオプ(ruop シマリス)などの獣、フミルイ(humiruy エゾライチョウ)、クスイェプ(kusuyep キジバト)、コペチャ(kopeca マガモ)、パラケウ(parkew カケス)、アマメチリ(amameciri スズメ)などの鳥類を狩った。
このうちではシカが最も主要な獲物であった。
往時の北海道には想像を絶するほどのシカが生息しており、「鍋を火にかけてから狩りに行く」という言葉もあったほど簡単に得ることが出来た。
クマやタヌキなどの「狩猟の対象となる動物」をアイヌは「カムイ(神)が人間のために毛皮と肉を土産に持ち、この世に現れた姿」と解釈していたが、シカに関しては「天空にユク(鹿)を司る神『ユクアッテカムイ』(yuk atte kamuy)がいて、大きな袋から人間のために投げ下ろしている」と理解し、それ自体に神格は存在しないものとしていた。
あまりの数の多さゆえ、ありがたみが薄れたものらしい。
北海道東部・本別町、足寄町、白糠町の境にまたがる標高745mのウコタキヌプリは土地のアイヌからユクランケヌプリ(鹿が下る山)と呼ばれ、山上で雷鳴が轟く際は天から神が鹿の入った袋を投げおろしているとの伝承があった。
周辺の住民は、この山にイナウを捧げて猟運を祈った。

 
◆沖縄料理   豚肉料理・山羊料理  
http://p.tl/dNRi
沖縄県の郷土料理のこと。琉球料理(りゅうきゅう りょうり)とも呼ばれるが、この場合は琉球王朝時代の宮廷料理を指すことが多い。
 
◆犬食文化(けんしょくぶんか、食犬とも)
http://p.tl/nLbm
食用として犬を飼育してその肉を食べる習慣、及び犬肉料理の文化の事である。
 
◆もつ  
http://p.tl/yU4X  食用に取られた動物の内臓
鳥獣肉の臓物(内臓)のこと。ホルモン、畜産副生物、内臓肉とも呼ばれている。
中国語では「下水」という。韓国語ではコプチャンなど、また欧米では「バラエティミート」「ファンシーミート」と呼ばれる。
 
◆レバー  レバー(ドイツ語: Leber、英語: liver) 「赤もつ」の一種    
http://p.tl/wyIE
肝臓のことである。日本でレバーというと、食用に用いる家畜や家禽の肝臓を指すことが多い。
 
◆砂嚢 
http://p.tl/QQKA 鳥類の内臓で俗にいう「鳥レバー(鳥もつ)」のこと、「砂肝」「砂ずり」の別名も
鳥類、爬虫類、ミミズ、魚類などに見られる消化器系に属する器官である。分厚い筋肉からなる袋状あるいは管状の器官で、食べたものをすりつぶす機能を持つ。小石などを利用して消化の助けとする種もある。昆虫や軟体動物では、砂嚢の中にキチン質の小板や歯のような構造を持つものもある。
 
◆もつ煮   煮込んだもつ  
http://p.tl/LeSC
牛、豚、鶏、馬など、鳥獣の内臓を煮込んだ料理の総称である[1]。
 
表記や呼称はもつ煮込み、もつ煮込などがあり、モツをカタカナ表記する場合もある。単に「煮込み」と呼び、臓物(ぞうもつ)(=内臓)を表す「もつ」という語句を省くことがある。この項では主にその歴史的な成り立ちと日本の関東地方で食されるもつ煮を中心に記述する。
 
◆ももんじ屋 江戸時代の獣肉店  
http://p.tl/qCD0
ももんじ屋(ももんじや)またはももんじい屋とは、江戸時代の江戸近郊農村において、農民が鉄砲などで捕獲した農害獣の猪や鹿を利根川を利用して江戸へ運び、その他犬や猿、牛、馬など牛肉、馬肉等を肉食させたり、売っていた店のこと。
表向きは肉食忌避があったから、これらを「薬喰い」と呼んだ。
猪肉を山鯨(やまくじら)、鹿肉を紅葉(もみじ)などと称した。
猪肉を「牡丹」、鹿肉を「紅葉」と称するのは、花札の絵柄に由来する隠語の説もある。
 
江戸では両国広小路、あるいは麹町にあった店が有名であった。
獣肉を鍋物にしたり、鉄板で焼いたりし食べていたようで、近代のすき焼きや桜鍋の源流と言える。
幕末には豚肉(猪肉)食が流行し、これを好んだ15代将軍・徳川慶喜は「豚将軍」「豚一殿」とあだ名された。
また、新撰組でも豚肉を常食していた記録が残っている。
これら肉食文化は明治初期の牛鍋の人気につながっていった。
 
百獣屋の字をあてて「ももんじや」としているが、一方で関東地方で妖怪を意味する児童語のモモンジイに由来しており、江戸時代には尾のある獣や毛深い獣が嫌われてモモンジイと呼ばれたことから、それらの肉を扱う店も「ももんじ屋」と呼ばれるようになったという説がある。
 
彦根藩では第3代藩主・井伊直澄のころ、反本丸(へいほんがん)と称して全国で唯一牛肉の味噌漬けが作られており、滋養をつける薬として全国に出回り、幕末まで幕府や他藩から要求が絶えなかったという。
これは近江牛が名産となるはしりとなった。
  
◆なんこ鍋 馬肉鍋(秋田県、北海道の鉱山地域の郷土料理)
http://p.tl/y0Xn
桜鍋の一種であり、馬肉(腸等のもつ)を味噌で煮込んだ鍋料理。
秋田県の料理や、北海道空知地方の郷土料理ともされている。長野県では「おたぐり」と呼ぶ。
 
「なんこ」とは方言であり、空知地方を中心に「馬の腸」の意味で使うこともある。それら馬肉を指す。
  
◆おたぐり 馬のもつ煮(長野県伊那地方の郷土料理)
http://p.tl/m9p5
馬の腸をじっくり煮込んだもの。
伊那谷はかつて大和朝廷へ馬を献上していた産地であり、馬の飼育や、馬による輸送が盛んであった。
明治時代後半に入ると伊那谷で馬の内臓を食べることが行われるようになり、大正時代へ入り飯田市松尾にあった肉屋が馬の内臓を煮て売り出した。
売り出された当時は「馬の煮付け」と呼ばれていた。
  
◆トドカレー 北海道で近年特産品として販売(他に熊カレー、えぞ鹿カレーなども) 
http://p.tl/Me4C
北海道で土産などとして売られている、トドの肉を使用したカレーである。多くは缶詰として販売されている。辛さはやや強めである。販売が好調なため缶詰だけではなく、レトルトパックの商品も登場している。知名度が上がるにつれ北海道以外でも入手可能となっている。
・姉妹品
 ・ヒグマの肉を使用した「熊カレー」
 ・アザラシの肉を使用した「アザラシカレー」
 ・エゾシカの肉を使用した「エゾ鹿カレー」
 ・ミンククジラの肉を使用した「ミンククジラカレー」
 
◆ジビエ 野生の鳥獣(肉)を指すフランス語  
http://p.tl/G3F0
本来はハンターが捕獲した完全に野生のもの(仏: sauvage、ソバージュ)を指すが、供給が安定しない、また入手困難で高価になってしまうといった理由で、飼育してから一定期間野に放ったり、また生きたまま捕獲して餌付けしたものもドゥミ・ソバージュ(仏: demi sauvage、半野生)と呼び、ジビエとして流通している。
 
◆ホルモン焼き 日本独自のもつ調理法  
http://p.tl/vCUw
 
◆から揚げ 日本独自の調理法について詳述  
http://p.tl/IWwC
から揚げ(空揚げ、唐揚げ、からあげ)は、食材に薄い衣をつけて多量の揚げ油で揚げる調理方法。
またはその調理法を使用した料理を指す。
 
食材に下味をつけ、小麦粉や片栗粉またはプレミックス(調整粉)のから揚げ粉などを薄くまぶして油で揚げたものである。天麩羅とは衣が異なる。
日本で主要な料理の一つである。弁当や食事のおかずで酒の肴、定食屋の献立など幅広い場で食べられる。
 
漢字では「空揚(げ)」または、「唐揚(げ)」と書かれ、特に後者が一般化しつつある。
古くは「虚揚」とも書かれた。本項では固有名詞(団体名等)や引用元のあるものを除き「空」「唐」を問わず「から揚げ」と記述する。
 
◆食のタブー  
http://p.tl/Ss0c
飲食において宗教、文化上の理由でタブー(禁忌)とされる特定の食材や食べ方である。
 
特定の食材がタブーとされる理由としては、大別して
1.宗教上、文化上、法律上食べることが禁止されている
2.心理的な背徳感から食べることができない
3.食材と考えられていないから食べない
の3種があげられる。
 
なお、純粋に医学的な理由から、ある特定の食材を避ける必要がある人もいる。一例としては食物アレルギーを有する人の場合、特定の食材がアレルギー症状(場合によっては生命にも関わる)を引き起こすために、該当する食材を避けなければならない。
 
◆熊肉料理   
http://p.tl/MaJP

 


『ぼやきくっくり』

2013年12月24日 08時34分49秒 | 色んな情報
『ぼやきくっくり』
先月号の「SAPIO」です。

 というのも、この良記事、ネットに全文載っていると思い込んでいたんですが、よ~く確認したら違っていました。
 ネットに載ってるのはおよそ半分で、残り半分は未掲載です。

 その残り半分に実は大変興味深い記述があるんです。
 元朝日新聞サイゴン支局長の証言です。

 それも含めてこの際、全文転載させていただくことにします。

 WEB転載&一部起こしここから___________________
 
「SAPIO」2013年12月号
特集【韓国が背負う「嘘の代償」】より

<歴史認識>
“強姦したら必ず殺せ”が戦地の合言葉だった
ベトナム女性を輪姦後に焼き殺し
混血児「ライダイハン」を残した韓国軍の蛮行

本誌編集部

 旧日本軍による「慰安婦強制連行」を捏造した韓国は、もともと売春婦であるはずの慰安婦を「Sex Slave」として国際社会に浸透させた。その傍らで、ベトナム戦争(1960~75年)に参戦した韓国軍による現地婦女子への性的暴虐は史実から消し去ろうとしている。

 *

 2000年6月27日、韓国・ソウルの『ハンギョレ新聞』本社が2000人を超える迷彩服姿のデモ隊に包囲された。社屋に侵入したデモ隊の一部は暴徒化し、同社幹部らを監禁、暴行を加え、オフィスや地下駐車場の車を破壊した。デモ隊は「大韓民国枯葉剤後遺症戦友会」のメンバー、つまり退役ベトナム参戦軍人である。

 発端は、同社発行の週刊誌『ハンギョレ21』(1999年5月6日号)に掲載されたベトナムにおける韓国軍の民間人虐殺特集だった。「通信員」として記事を書いたのは、当時、ベトナム留学中だった大学院生の具秀姃(ク・スジョン)氏。ベトナム当局から虐殺の資料を入手し、徹底した現地取材と生存者へのインタビューを重ね、韓国軍による無差別殺戮の実態を白日の下に晒したのである。記事は、ベトナム中部のビンディン省の村々で起きた凄惨な虐殺事件を生々しく伝えている。

 〈1966年1月23日から2月26日までの1か月間、猛虎部隊3個小隊、2個保安大隊、3個民間自衛隊によってこの地域だけで計1200人の住民が虐殺され、その中には1人残らず皆殺しにされた家族が8世帯もあった。(中略)生存者の証言を元に韓国軍の民間人虐殺方式を整理してみると、いくつかの共通したパターンが見られた。

●子供たちの頭や首を切り落とし、手足を切断して火に投げ込む
●住民をトンネルに追い詰め毒ガスで窒息死させる
●女性たちを次々に強姦したあと殺害
●妊婦の腹から胎児が飛び出すまで軍靴で踏みつける〉――。

 韓国史のタブーに踏み込んだこの特集を皮切りに、同誌は韓国軍の戦争犯罪を糾弾する「ベトナムキャンペーン」を継続的に展開。冒頭の事件はそれに猛反発する退役軍人の凶行だった。

 しかし、ベトナム戦を経験した退役軍人の中には当時の非人道的行為を悔いる者もいた。元韓国海兵隊員の金栄萬氏は、『戦争の記憶 記憶の戦争-韓国人のベトナム戦争』(金賢娥(キム・ヒョナ)著・三元社刊)でこう証言している。

 「越南に到着して、私が聞いた話は、『強姦をしたら必ず殺せ、殺さなかったら面倒が起きる、子供もベトコンだからみな殺さねばならない』といったものでした」

 韓国は1964年から73年まで延べ32万人を南ベトナムに派兵。ダナンに海兵隊第2旅団(青龍部隊)、クイニョンに首都ソウル防衛師団(猛虎部隊)、ニンホアに第9師団(白馬部隊)が駐屯した。白馬部隊の連隊長には後に大統領となった全斗煥、猛虎部隊の大隊長には盧泰愚が就いていた。

 前出・具氏の調査によると、韓国軍によるベトナム民間人の虐殺被害者は少なくとも9000人以上と見られている。村人65人が犠牲になったビンディン省・タイビン村では、韓国兵士に輪姦された女性が焼き殺される惨たらしい事件も起きている。そうした史実は国際的には知られているが、韓国の教科書にはもちろん載っていない。

 かわりに日本の軍隊が、慰安婦として若い朝鮮人女性を無理矢理連れ去ったという証拠のない話が大々的に書かれている。

 韓国兵によるレイプなどでベトナム女性との間に生まれた子供は「ライダイハン」と呼ばれた。ベトナム語で「ライ」は混血、「ダイハン(大韓)」は韓国を意味する蔑称だ。韓国『釜山日報』によると、現在、ベトナムにいるライダイハンは最大3万人と推計される(諸説あり、数千人とする指摘もある)。

 その多くは戦争終結後、ベトナムに流入した韓国人ビジネスマンと現地女性の間に生まれた子供と言われているが、韓国兵のレイプにより生まれたライダイハンが少なからずいるのは事実だ。レイプされた被害者数はその何百倍、何千倍にも及ぶ可能性がある。

↓↓↓ネット未掲載分ここから ↓↓↓

 ベトナム問題に詳しいフォトジャーナリスト・村山康文氏が語る。

 「09年9月、ビンディン省に住むライダイハンの家族を初めて取材しました。母親のマイ・ディンさんは17~18歳で韓国兵に輪姦され、男の子を身ごもりました。それが、現在43歳の息子・テオさんです」

 ディンさんは15歳でビンディン省・クイニョンの韓国軍基地に就職。150人ほどの韓国兵が駐留する施設の食堂でメイドとして働いていた。

 「働き始めてから2~3年経ったころ、彼女はいつものように仕事を終え、人気(ひとけ)のない食堂で後片付けをしていました。すると突然、背後から複数の兵士が襲いかかり、テーブルの下に彼女を引きずり込んだ。4~5人の兵士が次々と彼女の中に入ってきたそうです。話してくれたのはそこまでです。彼女にはその後計4回取材していますが、『韓国兵のことは思い出したくない』と口を閉ざす。それだけ怖い思いをしたのでしょう」

[韓国軍基地でメイドをしていたマイ・ディンさん。複数の韓国兵に性的暴行を受け、子供を身ごもった。左上はマイ・ディンさんと韓国兵の間に生まれたテオさん。「ライダイハン」として虐めを受けることもあった。(写真:村山康文)]
 
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 今年8月、韓国国防部の報道官は、米・ニュースサイト「グローバル・ポスト」の取材に「韓国軍が組織的に民間人を虐殺することは不可能。わが軍隊は厳しい規律と命令系統の下で任務を遂行しており、ベトナム人女性の性的搾取もまったくない」と答えたが、それを証明する調査も史料も示さなかった。ここでも日本に対する態度と自国のやり方に大きな乖離がある。

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戦争難民の美少女が韓国軍高官の慰み者に

 当然、ベトナムでは戦時中から韓国への憎悪が燃え盛った。元朝日新聞サイゴン支局長の井川一久氏が振り返る。

 「72年にサイゴンに赴任した直後、私の車がベトナム人青年のオートバイと接触事故を起こし、100人近い群衆に取り囲まれるハプニングがありました。興奮した群衆は『ダイハン!』と口々に叫びながら、憎悪に満ちた眼でこちらを睨んでいる。私を韓国人と勘違いしたのです。パスポートと記者証を見せて難を逃れましたが、現地でどれほど韓国人が嫌われているかを痛感する出来事でした」

 サイゴン(現ホーチミン)など旧南ベトナム地域では、韓国は友軍だったはずだ。しかし、韓国軍による同胞の虐殺、婦女子への暴行、凌辱はベトナム国民なら誰もが知るところであり、むしろそれらの地域で反韓感情は強かったようだ。

 「韓国軍のベトコン掃討作戦で破壊された村の女性たちは、運良く逃げ出しても戦争難民になるしかなかった。そうした女性を売春ビジネスに送り込んだのが、民間の韓国人業者だったのです」(井川氏)

 ベトナム戦争では、軍属の技術者や建設、運送業者のほか、特需に肖(あやか)ろうとする商人や暴力団など総計1万5000人の民間韓国人がベトナムに渡った。そうした者たちがサイゴンやダナンなど軍事基地周辺で、韓国兵や米兵相手の売春クラブを経営していたのだという。井川氏が続ける。

 「親しくしていた在ベトナム韓国軍高官の公邸で開かれた夕食会では、アオザイ姿の美しいベトナム人少女数人が甲斐甲斐しく給仕してくれました。少女をどこで集めたのか訊くと、高官は答えをはぐらかし、『気に入った娘がいたら持ち帰って構わない』と笑うのです。少女たちが戦争難民なのは明らかでした。軍民一体の管理売春が公然と行なわれていたのは間違いない。ニンホアの白馬部隊の基地には慰安所もあった」

 韓国教育省は先ごろ、既に検定を通過している高校歴史教科書の一部にベトナム派兵における「民間人虐殺」の記述があることを問題視し、「民間人の被害」に書き換えるよう勧告した。都合の悪い史実を改竄する露骨な歴史修正主義であり、そのような国が日本に「過去を直視せよ」と迫っても、世界で眉をひそめられるのは当然である。

 韓国の有力紙記者は語る。

 「一時はベトナムでの韓国軍の蛮行を断罪する機運が高まったが、退役軍人会などの圧力で尻すぼみになってしまった。最初にこの問題をリポートした具秀姃女史も、度重なる迫害を受け海外生活を余儀なくされている。韓国軍によるベトナム人虐殺やレイプの究明は、韓国人にとってとてもナーバスな問題だ」

 ライダイハン問題は、単なる日本から韓国への意趣返しの材料ではない。韓国が歴史を学び、真の先進国として世界と周辺国から尊敬を受ける国になれるかの試金石なのだ。

↑↑↑ネット未掲載分ここまで ↑↑↑

 ___________________WEB転載&一部起こしここまで

 元朝日新聞の井川一久氏という人を私は初めて知りました。
 退社済みとはいえ、元朝日新聞の人が韓国軍の蛮行(それも慰安婦も絡めて)を証言しちゃってよいの?(^_^;

 井川氏は、最近もzakzak(夕刊フジ)12月16日付で韓国軍の残虐行為について証言しています。
 上のSAPIOの記事と内容は多少ダブっていますが…。

(前略)米国の要求に応えて、韓国がベトナム戦争に参戦したのは64年。朴氏の父親である朴正煕政権(当時)が、世論の反対を押さえて決断した。以降73年までに、米軍以外では最大規模の延べ30万人以上を派兵。「青龍部隊」「猛虎部隊」「白馬部隊」という先鋭部隊が、激戦区のベトナム中部の海岸地帯に送り込まれ、“拠点防衛”を任されたという。

 インドシナでの取材経験が豊富な戦争ジャーナリスト、井川一久氏(79)は“拠点防衛”の実態をこう話す。

 「いわゆる『農村無人化作戦』。最初は敵を探し出し、集中的に攻撃する作戦だったが、なかなか降参しないベトナムの武装ゲリラを掃討するため、民間人が住む農村部を攻撃することにした。事前通告して村から離れないものはすべて敵とみなして殺害する。米軍と規模こそ異なるが、韓国軍の手口は残虐さを極めた」

 井川氏が取材した海岸地帯のフーカイン省トイホア県では、9つの村落で計約900人が虐殺されたとされる。韓国軍による民間人の虐殺被害者数の全容は不明だが、韓国の雑誌によれば、少なくとも9000人以上との情報がある。

 「兵士である男は村にいないので、実際に殺害されたのは女性と子供、そして、老人ばかり。防空壕に逃げ込んだ村民を引っ張りだして片っ端から射殺したり、手榴弾を投げつけたりした。生き残った村民からは『韓国軍は事前通告をしなかった』という証言も得た」(井川氏)

 残虐方式にはパターンがあり、「子供たちの頭や首を切り落とし、手足を切断して、火に投げ込む」「妊婦の腹から胎児が飛び出すまで軍靴で踏みつける」など、筆舌に尽くしがたい生存者の証言内容が、韓国の雑誌などで報告されている。

 韓国軍による慰安婦問題もベトナム戦争の傷跡として重く残る。

 井川氏は「韓国軍や韓国の民間人は、村を追われて戦争難民であったベトナム人女性を『売春婦』に仕立てた。これは事実上の強制連行といえる」と強調。当時、南ベトナムの至る所に韓国人経営の性的慰安施設があり、戦闘地には軍人専用のものがあったという。

 「ある韓国軍副司令官の家に呼ばれた際に、10代のベトナム人女性が出てきて『今夜はお宅に連れていっていいですよ』と言われて非常に驚いた。まさに占領国意識の塊だった。韓国人男性とベトナム人女性の混血児『ライダイハン』は1万5000人いるといわれるが、セックス・ビジネスと無関係ではない」

 こうした負の遺産は、韓国国内で長い間、封印されてきたが、90年代後半から韓国の市民団体などが調査、報道して顕在化した。(以下略)

 韓国軍のベトナム民間人大量虐殺が韓国で報道された経緯に関しては、実は12年前、2001年の「SAPIO」でも取り上げられていました。

■10/12/16付:韓国軍によるベトナム民間人虐殺問題「SAPIO」01.9.26号

 韓国では長年タブーだったこの問題。
 2001年といえば、自軍のこの蛮行にどう向き合うべきか激しい議論が起きている最中でした。

 当時の記事を読み返すと、若い韓国人のこういった声も掲載されています。

 「教科書や靖国で激しい日本批判があるけれど、自分たちだって同じようなことをやったじゃないか、日本だけを責められるのか、という気持ちにもなる」
 「日本を非難するなら、韓国ももっとベトナムに謝罪するべき。きっぱりした態度をとらないと、逆に日本につけこまれる恐れがあるのではないでしょうか」

 ここから前へは残念ながら進まなかったわけです(*´Д`)=3ハァ・・・

 それどころか、教科書の記述を改竄させたり、この問題を告発した勇気ある同胞(しかも女性)を迫害する始末……┐(´д`)┌ ヤレヤレ

 人には「過去を直視せよ」と言うくせに、自分たちの過去は見ないふり。
 いつものこととはいえ、本当に呆れます。

 SAPIOの記事は「ライダイハン問題は、韓国が歴史を学び、真の先進国として世界と周辺国から尊敬を受ける国になれるかの試金石」と締めくくっていますが、おそらく無理でしょうね。
 韓国人には歴史に対する謙虚さもなければ自浄能力もありませんから。

 というより、歴史を学んでしまうと、韓国人がこれまで“よすが”としてきた「日本=加害者」「韓国=被害者」という図式が崩れてしまいますからね。
 このままファンタジー国家の住民として生き続けるしかないのでしょう。