縄文人の反乱 日本を大事に

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朝鮮各地を旅した イザベラ・バード 

2013年12月17日 19時44分49秒 | 色んな情報
朝鮮各地を旅した イザベラ・バード 
京免 史朗
最初の朝鮮訪問は1894年。以降3年のうちに、バードは4度にわたり朝鮮各地を旅した。時おりしも東学党の反乱、閔妃暗殺事件が起こるころ。『朝鮮紀行』は、国際情勢に翻弄される李氏朝鮮の不穏な政情、伝統的封建的伝統、文化など、バードがじかに見聞きした朝鮮の情勢を伝える。以下、『朝鮮紀行』より。
釜山に上陸したバードは、高台にある外国人居留地の周りの杉林が1592年からの文禄・慶長の役の際に豊臣秀吉日本軍による植林によるものと記し、また釜山の旧市街が同じく文禄・慶長の役の占領の際に、日本人によって手がけられたと記している。「砦はとても古いものの、中の市街は三世紀前の構想に沿って日本人の手によって近代化されている」
バードは韓国併合以前の当時のソウルに関して、道は牛がすれ違えないほど細く迷路のようであり、家から出た汚物によって悪臭が酷く、北京を見るまで「ソウルこそこの世で一番不潔な町」だとし、「紹興へ行くまではソウルの悪臭こそこの世で一番ひどいにおいだ」「都会であり首都であるにしては、そのお粗末さは実に形容しがたい」と記している。また、人工の道や橋も少なく、「あっても夏には土埃が厚くて、冬にはぬかるみ、ならしてない場合はでこぼこの地面と、突き出た岩の上をわだちが通っている。道と言っても獣や人間の通行でどうやら識別可能な程度についた通路に過ぎない」と記している。
また、ソウルには芸術品や公園や劇場、旧跡や図書館も文献もなく、寺院すらないため、清や日本にある宗教建築物の与える迫力がソウルにはないとしている。他方、金剛山の長安寺では「天国にいるような心地の二日間」を過ごすことができたと賞賛している。
貨幣・通貨の流通については、銀行が町にないと記しており、また日本の円がソウルと条約港で通用したことを記している。
朝鮮とロシア国境部の沿海州では水路が整備され、衛生にも配慮され、家屋は朝鮮半島におけるものより立派だとし、「朝鮮人というのはくずのような民族でその状態は望み無しと考えてた」がその考えを正すべきかもしれないとしている。
身分制度に関して、「両班は究極に無能であり、その従者たちは金を払わず住民を脅して鶏や卵を奪っている」としている。「両班は公認の吸血鬼であり、ソウルには「盗む側」と「盗まれる側」の二つの身分しかない」と述べている。朝鮮の官僚については、「日本の発展に興味を持つ者も少数はいたものの、多くの者は搾取や不正利得ができなくなるという私利私欲のために改革に反対していた」とし、「堕落しきった朝鮮の官僚制度の浄化に日本は着手したが、それは困難きわまりなかった」と述べている。

●震災後なぜ日本人は冷静なのか

2013年12月17日 18時37分52秒 | 色んな情報

●震災後なぜ日本人は冷静なのか
◆震災後なぜ日本人は冷静なのか
 http://www.youtube.com/watch?v=2fOw626-zYM
 
◆日本に集まる世界の称賛とエール 日本人の精神性・建物の耐震性の高さ ...http://p.tl/zSGb
震災下の日本で守られる規律は、地域社会への責任を何より重んじる文化のたまも のか――。 ... 米ボストン大学で日本文化を研究する人類学者のメリー・ホワイト教授は、「米国社会で略奪が起きたり秩序が乱れたりするのはなぜかを考える必要がある」と話す。 .... 過去の戦争や原爆被害などを踏まえ「過去の世代が惨事を経験している」として、非常時の冷静な行動が「日本人のDNAに組み込ま ..... 関係者によると、キーンさんは震災後、多くの外国人が日本を離れていることを残念に思っているという。
 
◆海外記事 - 気遣いと礼儀:巨大地震に傷ついても、失われない日本人の国民性 -
しかし、神戸の震災後、そのヤクザですら、被災者たちに物資を供給するカウンターを設置したのを見たときは衝撃だった。日本社会の ... なぜこうしたことをするのかと言えば、これが人間を作るのだという考え方からなのだ。 当時、私 ... これとは対照的に、日本 人は、人間は単純に自然の一部なのだと考える。自然の .... とはいえ、他の場所では、秩序と冷静さという根っからの本能が、厳しい最中にも保たれた。東京や ...
 
◆■日本人が冷静な理由は  http://p.tl/ChGh
 アメリカのテレビ局ABC(※1)では、被災者が協力して瓦礫を取り除いたことや避難所でさえゴミ分別の規則を守ることを「一体」というキーワードで括り、「日本では神道、仏教、そして儒教が『自分のことを考えるときには地域社会についても考えるように』と教えています」と紹介している。
 フランスのテレビ局F2(※1)は、「なぜ日本人は冷静なのか」という特集を放送した。大きな自然災害に遭っても冷静さを失わない理由を、CNRS(フランス国立科学研究センター)の社会学者ジャン=フランソワ・サブレは「日本人は悲観的でない運命論者」で「自然の力を崇拝する神道が教えるところの態度」であろうと分析した。そして、西洋では人間は自然の主人とされるが、日本では人間は自然の一部なのだと解説した。
 
   イギリスの『デイリー・テレグラフ』(Web版2011年3月14日)は、日本社会の秩序は「日本文化を構成する神道や禅と表裏一体である」という。さ らに復興に関して、20年ごとに社殿を建て直す伊勢神宮の式年遷宮の伝統を例に挙げて、「日本人は再建に不慣れではない」と期待を寄せる。
 
◆なぜ日本は震災後も治安のいい国なのか? http://p.tl/EwKR
... 震災後、知り合いのフランス人たちにはこう言われることが多かった。 ... 今回の震災によって、多くのモノが壊れたり失ったりしたが、日本人に『他人を思いやる精神』が根付いているおかげ ... もし移民が集団で略奪をしていたら警察も自衛隊も被災者もこんなに冷静ではいられない。
 
◆震災後 なぜ日本人は冷静なのか?  あるフランス人の洞察 http://p.tl/kcUm
このフランスのおじさんは、ほんとに日本人のことがよく分かっている。
ひょっとして最近の日本人よりよっぽど日本人のことが分かっている?
でもまさか、まさか、天皇陛下の玉音放送まで取り上げるとは・・・
(あなた、いつから日本にいるんですか? (^_^;))
 
◆【一覧】外国人から見た日本と日本人  http://p.tl/4TsE
・11/3/15付:【東日本大震災-1】外国人から見た日本と日本人(22) http://p.tl/t4Pd
 アメリカ、中国、韓国、ロシア、イギリス、インド、ベトナム、パキスタン、台湾、トルコ、ポーランド、その他(カナダ、チリなど)

・11/3/22付:【東日本大震災-2】外国人から見た日本と日本人(23) http://p.tl/DqMv
 アメリカ、台湾、チベット、中国、韓国、シンガポール、インドネシア、バングラデシュ、タイ、パラオ、リトアニア、ロシア、クロアチア、アフガニスタン、オーストラリア、フランス、スペイン、カナダ、イギリス、イスラエル、ドイツ

・11/3/28付:【東日本大震災-3】外国人から見た日本と日本人(24) http://p.tl/PVzh
 アメリカ、台湾、韓国、中国、香港、ロシア、モンゴル、タイ、スリランカ、パキスタン、ペルー、ブラジル、パラグアイ、イギリス、エジプト、ギリシャ、マレーシア、メキシコ

・11/4/16付:【東日本大震災-4】外国人から見た日本と日本人(25) http://p.tl/SVV1
 アメリカ、イギリス、中国、フィリピン、タイ、インドネシア、ロシア、セルビア、ポーランド、イタリア、チュニジア、その他(韓国、マレーシア、カナダなど)

・11/4/25付:【東日本大震災-5】外国人から見た日本と日本人(26) http://p.tl/NjYs
 アメリカ、グルジア、トルコ、エジプト、台湾、タイ、パキスタン、モルディブ、クウェート、サウジアラビア、カタール、イタリア、フランス、ブラジル、パプアニューギニア、その他(フィリピン、スペイン、ベトナム、シンガポール、スペイン、ドイツ、スロバキア、イギリス、アイルランド、中国、スリランカ、インド、ウクライナ、ロシア、インド)

・11/6/6付:【東日本大震災-6】外国人から見た日本と日本人(27) http://p.tl/Ok2b
 モルディブ、インドネシア、パプアニューギニア、タイ、台湾、チベット、ウイグル(東トルキスタン)、中国、アメリカ、オーストラリア、フランス

・11/7/11付:【東日本大震災-7】外国人から見た日本と日本人(28) http://p.tl/-pvb
 アメリカ、インドネシア、台湾、中国、ロシア、イギリス、フランス、デンマーク、ギリシャ、ルーマニア他、カナダ

・11/8/6付:【東日本大震災-8】外国人から見た日本と日本人(29) http://p.tl/525Z
 アメリカ、ドイツ、イギリス、エチオピア、スウェーデン、香港、中国、台湾、その他(オランダ、南アフリカ)

・11/10/18付:【東日本大震災-9】外国人から見た日本と日本人(31) http://p.tl/5TMA
 ドイツ、トンガ、マリ、エチオピア、モルディブ、アメリカ、イギリス、スペイン、韓国、イラン、ネパール、中国、台湾

・12/1/7付:【東日本大震災-10】外国人から見た日本と日本人(32) hhttp://p.tl/ZnEb
 アメリカ、イギリス、台湾、カナダ、トルコ、ブータン、イタリア、レバノン、他

・12/3/17付:【東日本大震災-11】外国人から見た日本と日本人(33) http://p.tl/cbb6
 イギリス、アメリカ、スウェーデン、メキシコ、カナダ、イスラエル、台湾、スイス、オーストラリア、ウクライナ、インドネシア、シンガポール、ジャマイカ、ドイツ、他

・13/3/18付:【東日本大震災-12】外国人から見た日本と日本人(36) http://p.tl/ZvrV
 台湾、パレスチナ(ガザ)、イラク、エジプト、南アフリカ、インドネシア、マレーシア、EU、ウクライナ、イタリア、アメリカ、キューバ、オランダ、他
 
◆【東日本大震災】日本人被災者のマナーの良さに世界が驚愕 http://p.tl/RrXP
地震多発国で東日本大震災への関心が高い中国では12日、非常事態にもかかわらず日本人は「冷静で礼儀正しい」と絶賛する声がインターネットの書き込みなどに相次いでいる。
短文投稿サイト「ツイッター」の中国版「微博」では、ビルの中で足止めされた通勤客が階段で、通行の妨げにならないよう両脇に座り、中央に通路を確保している写真が11日夜、投稿された。
「(こうしたマナーの良さは)教育の結果。
(日中の順位が逆転した)国内総生産(GDP)の規模だけで得られるものではない」との説明が付いた。
この「つぶやき」は7万回以上も転載。
「中国は50年後でも実現できない」「とても感動的」「われわれも学ぶべきだ」との反響の声があふれた。
大震災を1面で報じた12日付の中国紙、環球時報も「日本人の冷静さに世界が感心」との見出しで報じた。(共同)
 
◆冷静な日本人・・・なぜ? http://p.tl/rGHv
さて、1995年の阪神・淡路大震災の時にも全世界で話題になった「日本人の冷静さ」ですが、今回の大震災における日本人のことが海外で称賛されていることはご存じの方も多いと思います。
 
 「生死を左右する水を配給しているというのに整然と並んでいる・・・」
 このような写真を見た海外の人が、自国では我先にと水や食料に群がるのに信じられない、という声が1995年当時、世界のいたる所で上がったとか・・・


●震災後なぜ日本人は冷静なのか

2013年12月17日 18時37分52秒 | 色んな情報

●震災後なぜ日本人は冷静なのか
◆震災後なぜ日本人は冷静なのか
 http://www.youtube.com/watch?v=2fOw626-zYM
 
◆日本に集まる世界の称賛とエール 日本人の精神性・建物の耐震性の高さ ...http://p.tl/zSGb
震災下の日本で守られる規律は、地域社会への責任を何より重んじる文化のたまも のか――。 ... 米ボストン大学で日本文化を研究する人類学者のメリー・ホワイト教授は、「米国社会で略奪が起きたり秩序が乱れたりするのはなぜかを考える必要がある」と話す。 .... 過去の戦争や原爆被害などを踏まえ「過去の世代が惨事を経験している」として、非常時の冷静な行動が「日本人のDNAに組み込ま ..... 関係者によると、キーンさんは震災後、多くの外国人が日本を離れていることを残念に思っているという。
 
◆海外記事 - 気遣いと礼儀:巨大地震に傷ついても、失われない日本人の国民性 -
しかし、神戸の震災後、そのヤクザですら、被災者たちに物資を供給するカウンターを設置したのを見たときは衝撃だった。日本社会の ... なぜこうしたことをするのかと言えば、これが人間を作るのだという考え方からなのだ。 当時、私 ... これとは対照的に、日本 人は、人間は単純に自然の一部なのだと考える。自然の .... とはいえ、他の場所では、秩序と冷静さという根っからの本能が、厳しい最中にも保たれた。東京や ...
 
◆■日本人が冷静な理由は  http://p.tl/ChGh
 アメリカのテレビ局ABC(※1)では、被災者が協力して瓦礫を取り除いたことや避難所でさえゴミ分別の規則を守ることを「一体」というキーワードで括り、「日本では神道、仏教、そして儒教が『自分のことを考えるときには地域社会についても考えるように』と教えています」と紹介している。
 フランスのテレビ局F2(※1)は、「なぜ日本人は冷静なのか」という特集を放送した。大きな自然災害に遭っても冷静さを失わない理由を、CNRS(フランス国立科学研究センター)の社会学者ジャン=フランソワ・サブレは「日本人は悲観的でない運命論者」で「自然の力を崇拝する神道が教えるところの態度」であろうと分析した。そして、西洋では人間は自然の主人とされるが、日本では人間は自然の一部なのだと解説した。
 
   イギリスの『デイリー・テレグラフ』(Web版2011年3月14日)は、日本社会の秩序は「日本文化を構成する神道や禅と表裏一体である」という。さ らに復興に関して、20年ごとに社殿を建て直す伊勢神宮の式年遷宮の伝統を例に挙げて、「日本人は再建に不慣れではない」と期待を寄せる。
 
◆なぜ日本は震災後も治安のいい国なのか? http://p.tl/EwKR
... 震災後、知り合いのフランス人たちにはこう言われることが多かった。 ... 今回の震災によって、多くのモノが壊れたり失ったりしたが、日本人に『他人を思いやる精神』が根付いているおかげ ... もし移民が集団で略奪をしていたら警察も自衛隊も被災者もこんなに冷静ではいられない。
 
◆震災後 なぜ日本人は冷静なのか?  あるフランス人の洞察 http://p.tl/kcUm
このフランスのおじさんは、ほんとに日本人のことがよく分かっている。
ひょっとして最近の日本人よりよっぽど日本人のことが分かっている?
でもまさか、まさか、天皇陛下の玉音放送まで取り上げるとは・・・
(あなた、いつから日本にいるんですか? (^_^;))
 
◆【一覧】外国人から見た日本と日本人  http://p.tl/4TsE
・11/3/15付:【東日本大震災-1】外国人から見た日本と日本人(22) http://p.tl/t4Pd
 アメリカ、中国、韓国、ロシア、イギリス、インド、ベトナム、パキスタン、台湾、トルコ、ポーランド、その他(カナダ、チリなど)

・11/3/22付:【東日本大震災-2】外国人から見た日本と日本人(23) http://p.tl/DqMv
 アメリカ、台湾、チベット、中国、韓国、シンガポール、インドネシア、バングラデシュ、タイ、パラオ、リトアニア、ロシア、クロアチア、アフガニスタン、オーストラリア、フランス、スペイン、カナダ、イギリス、イスラエル、ドイツ

・11/3/28付:【東日本大震災-3】外国人から見た日本と日本人(24) http://p.tl/PVzh
 アメリカ、台湾、韓国、中国、香港、ロシア、モンゴル、タイ、スリランカ、パキスタン、ペルー、ブラジル、パラグアイ、イギリス、エジプト、ギリシャ、マレーシア、メキシコ

・11/4/16付:【東日本大震災-4】外国人から見た日本と日本人(25) http://p.tl/SVV1
 アメリカ、イギリス、中国、フィリピン、タイ、インドネシア、ロシア、セルビア、ポーランド、イタリア、チュニジア、その他(韓国、マレーシア、カナダなど)

・11/4/25付:【東日本大震災-5】外国人から見た日本と日本人(26) http://p.tl/NjYs
 アメリカ、グルジア、トルコ、エジプト、台湾、タイ、パキスタン、モルディブ、クウェート、サウジアラビア、カタール、イタリア、フランス、ブラジル、パプアニューギニア、その他(フィリピン、スペイン、ベトナム、シンガポール、スペイン、ドイツ、スロバキア、イギリス、アイルランド、中国、スリランカ、インド、ウクライナ、ロシア、インド)

・11/6/6付:【東日本大震災-6】外国人から見た日本と日本人(27) http://p.tl/Ok2b
 モルディブ、インドネシア、パプアニューギニア、タイ、台湾、チベット、ウイグル(東トルキスタン)、中国、アメリカ、オーストラリア、フランス

・11/7/11付:【東日本大震災-7】外国人から見た日本と日本人(28) http://p.tl/-pvb
 アメリカ、インドネシア、台湾、中国、ロシア、イギリス、フランス、デンマーク、ギリシャ、ルーマニア他、カナダ

・11/8/6付:【東日本大震災-8】外国人から見た日本と日本人(29) http://p.tl/525Z
 アメリカ、ドイツ、イギリス、エチオピア、スウェーデン、香港、中国、台湾、その他(オランダ、南アフリカ)

・11/10/18付:【東日本大震災-9】外国人から見た日本と日本人(31) http://p.tl/5TMA
 ドイツ、トンガ、マリ、エチオピア、モルディブ、アメリカ、イギリス、スペイン、韓国、イラン、ネパール、中国、台湾

・12/1/7付:【東日本大震災-10】外国人から見た日本と日本人(32) hhttp://p.tl/ZnEb
 アメリカ、イギリス、台湾、カナダ、トルコ、ブータン、イタリア、レバノン、他

・12/3/17付:【東日本大震災-11】外国人から見た日本と日本人(33) http://p.tl/cbb6
 イギリス、アメリカ、スウェーデン、メキシコ、カナダ、イスラエル、台湾、スイス、オーストラリア、ウクライナ、インドネシア、シンガポール、ジャマイカ、ドイツ、他

・13/3/18付:【東日本大震災-12】外国人から見た日本と日本人(36) http://p.tl/ZvrV
 台湾、パレスチナ(ガザ)、イラク、エジプト、南アフリカ、インドネシア、マレーシア、EU、ウクライナ、イタリア、アメリカ、キューバ、オランダ、他
 
◆【東日本大震災】日本人被災者のマナーの良さに世界が驚愕 http://p.tl/RrXP
地震多発国で東日本大震災への関心が高い中国では12日、非常事態にもかかわらず日本人は「冷静で礼儀正しい」と絶賛する声がインターネットの書き込みなどに相次いでいる。
短文投稿サイト「ツイッター」の中国版「微博」では、ビルの中で足止めされた通勤客が階段で、通行の妨げにならないよう両脇に座り、中央に通路を確保している写真が11日夜、投稿された。
「(こうしたマナーの良さは)教育の結果。
(日中の順位が逆転した)国内総生産(GDP)の規模だけで得られるものではない」との説明が付いた。
この「つぶやき」は7万回以上も転載。
「中国は50年後でも実現できない」「とても感動的」「われわれも学ぶべきだ」との反響の声があふれた。
大震災を1面で報じた12日付の中国紙、環球時報も「日本人の冷静さに世界が感心」との見出しで報じた。(共同)
 
◆冷静な日本人・・・なぜ? http://p.tl/rGHv
さて、1995年の阪神・淡路大震災の時にも全世界で話題になった「日本人の冷静さ」ですが、今回の大震災における日本人のことが海外で称賛されていることはご存じの方も多いと思います。
 
 「生死を左右する水を配給しているというのに整然と並んでいる・・・」
 このような写真を見た海外の人が、自国では我先にと水や食料に群がるのに信じられない、という声が1995年当時、世界のいたる所で上がったとか・・・


在特会、京都裁判の真相!

2013年12月17日 17時59分49秒 | 色んな情報
在特会、京都裁判の真相!

在日特権を許さない市民の会会長 桜井誠
聞き手◉ 作家・ジャーナリスト 西村幸祐

判決をマスメディアがミスリード

西村幸祐氏
――10月7日に京都地裁で、在特会に対し学校法人京都朝鮮学園が起こした訴訟の判決が出ました。結果、在特会側に1226万円の支払いと、学校周辺での街宣活動の禁止が命じられました。あれだけ大きな話題になって、メディアにも随分取り上げられたにも関わらず、桜井さんには取材が来ていないそうですが、まずこの事についてはどう考えていますか。

桜井 マスコミが異常だってことがよく分かりますよね。今回の判決自体、マスメディアはミスリードしたんです。要するに、朝鮮学校への抗議が人種差別に当たる、だから賠償金を支払いなさい、そういう判決だと報じていた。

――どこもそういう報道をしていましたね。

桜井 それは、判決文を読んでない証拠なんです。あくまでも、名誉毀損、あるいは威力業務妨害という形で、賠償金を支払いなさい、となっているんですよ。判決文のどこにも、「抗議活動が人種差別にあたるから賠償を命じる」とは書いていないんです。なのに、そういう事実をメディアは伝えようとしない。

――判決文には人種差別など、どこにも書いていません。

桜井 私は以前に、新大久保の件で「Nスタ」という番組の取材を受けたことがあるんです。その時にはっきり言っていたんですよ、テレビ局には2つだけ触れてはいけない問題、タブーがあると。その1つが問題、もう1つが在日問題なんです。私たちは、その在日問題に真正面からぶつかっているわけですから、マスメディアとしては取り上げにくいんです。しかしその一方で、記事として、話題性から取り上げざるを得ない。

――これだけ注目を浴びている訳ですからね。
桜井誠氏

桜井 メディアが触れてはいけないタブーではある、しかしそれをニュースソースとして流さなければならないという、そのジレンマなんじゃないですかね。それが今回は極端に結果として出た。全国の支部から報告があったのですが、一週間、日本全国ほぼすべての地域の新聞に載っていたそうです。

――地方紙でも扱ったのですね。

桜井 WEB配信ですけどね。新聞だけでなく、テレビ、ラジオにも出ました。

――しかし、その報道が、要するに京都の朝鮮学校に対しての人種差別デモをやり、それに対して、1200万円の賠償金を払えとの判決が下った、という内容なわけでしょう。それからして、情報操作が行われています。

桜井 そもそも日本の場合は平成8年(1995年)に人種差別撤廃条約に署名はしていますが、表現の自由との兼ね合いから条項の一部を留保すると宣言しています。そのため、条約に基づく法律がないんですよ。例えばヘイトスピーチ、この言葉には概念がないんですが、例えば憎悪的な発言に対して、「これをしてはいけない」という法律は無いんです。無いもので人を裁くことは出来ません。

――それで判決文にしても、威力業務妨害と名誉毀損となっています。

桜井 そうなんですよ。

――判決文には書かれていないにも拘わらず、「名誉毀損の部分がヘイトスピーチにあたる」と、反ヘイトスピーチデモをやっている国会議員、在日韓国人・朝鮮人は言っているわけですね。

なぜ抗議の原因を報道しないのか
桜井 今回マスメディアの報道を見ていて一番問題だと思ったのは、抗議の背景をきちんと伝えていない事なんです。我々は、何の理由もなく突然朝鮮学校に抗議に行った訳ではないんですよ。もともと朝鮮学校側が学校前にある勧進橋児童公園を、半世紀以上ずっと占拠していたのが発端だったんです。もちろん公園の周りに住んでいる人たちは本当に迷惑なわけです。話を聞いたところによると、例えば勝手に彼らが公園で運動会を開き、児童公園の中を占拠するんですよ。 そこで勝手に酒の販売をやったり、焼き肉をやったりと、やりたい放題をしている。他にも普段から、禁止されているはずの球技を平気で行う。それもサッカーの時など勝手にゴールポストを置いてやる訳です。それで日本の子どもたちが遊ぼうとすると「お前ら、出て行け」と追い払っていた。それを近所の人たちが、役所や警察に「なんとかしてくれ」と訴えたんですね。

――それを最初に訴えたのは何年ぐらい前なんですか。

桜井 7、8年前だと思いますよ。しかし役所も警察も相手にしなかった。ですから「もし助けていただけるなら」と、近隣に住んでいる人達から要請が来たんです。何とかしてほしいと。ここの部分をマスコミは一切伝えない。

――原因を全く報道していないんですよね。

桜井 そうなんです。この件に関しては当時の朝鮮学校の校長が略式起訴されて、都市公園法違反で有罪が確定したんですよ。結果は年以上不法占拠して罰金がたった50万円でしたが。この事が原因で抗議に行っているわけです。ここを全く報じないものだから、ある日突然朝鮮学校に行ってワアワア騒いでいると思われてしまう。

――在特会が「お前らはスパイの子供だ」と叫んだとか、そういう部分しか報道されていませんでした。

桜井 そのあたりの事情を知らない人たちがたくさんいるわけです。知らないままテレビ特集などで抗議の様子を見たら、「なんでそこまで怒っているんだ」となります。ただ単に相手を差別したいから怒り、言葉が荒くなっていると思われているから、「ヘイトスピーチ反対」と言っているのだと思うんです。完全にマスコミのミスリードなんですよ。普通だったら原因を必ず報道するはずですが、ここが触れちゃいけないタブーになっている。

――例えばオウム真理教の時と比較すると、あの時はむしろなぜ信者が増えたかなど、宗教学者まで出てきて掘り下げていました。

桜井 オウムの時は犠牲者が日本人だったからあれだけ報道したと思うんです。ところがこの場合、対朝鮮人になるわけですね。そうなるとタブー扱いで、どうしてもそこに手がつけられない。ちょっとでも在特会を擁護するような発言をしてしまうと、一斉にバッシングが来るわけですから。

――その良い例が、大阪の読売テレビの人気番組、「たかじんのそこまで言って委員会」という番組の一件ですね。番組で竹田恒泰さんが非常に客観的な視点で言葉を述べました。要するに在日特権の存在を明らかにしてくれた在特会を、ヘイトスピーチなどで全く否定してしまうのは間違いだと。ただそう言っただけで、韓国のNGOから抗議がきました。

桜井 新大久保にあるNGO、在日コリアの団体が、読売テレビに「訂正放送を流せ」と言ったんですよ。

――しかしネット上では、読売テレビに対し「抗議声明に従うな」という意見を送ろう、という運動が起きました。テレビ局として言論の自由を守れ、ということです。ネットを通して正しい情報を得て、実際に行動している人達が出てきているわけです。

<全文は「ジャパニズム16」で!>

韓国がダンマリを決め込む歴史上の“負の遺産” ベトナムの惨劇に謝罪なし 2013.12.16

2013年12月17日 17時41分01秒 | 色んな情報

韓国がダンマリを決め込む歴史上の“負の遺産” ベトナムの惨劇に謝罪なし

             2013.12.16

 従軍慰安婦など歴史問題を盾に執拗な反日政策を展開する韓国の朴槿恵(パク・クネ)大統領。だが、実は、自国の“負の遺産”についてはダンマリを決め込んでいる。1960~70年代のベトナム戦争で、凄惨を極めた韓国軍による大量虐殺や性ビジネス。自国のこととなると知らぬ存ぜぬ一点張りの朴氏。その理解し難き精神構造と身も凍る残虐行為の実態とは-。

 今年2月の就任以降、日本に「過去を直視せよ」と迫り、安倍晋三首相との会談を拒み続ける朴氏。日本の戦争責任を厳しく追及しているが、韓国軍が犯したベトナム戦争での蛮行に目を向けると、「過去を…」という言葉をそのまま返したくなる。その残虐さは、近代戦争史のなかでも群を抜き、突出しているからだ。

 米国の要求に応えて、韓国がベトナム戦争に参戦したのは64年。朴氏の父親である朴正煕政権(当時)が、世論の反対を押さえて決断した。以降73年までに、米軍以外では最大規模の延べ30万人以上を派兵。「青龍部隊」「猛虎部隊」「白馬部隊」という先鋭部隊が、激戦区のベトナム中部の海岸地帯に送り込まれ、“拠点防衛”を任されたという。

 インドシナでの取材経験が豊富な戦争ジャーナリスト、井川一久氏(79)は“拠点防衛”の実態をこう話す。

 「いわゆる『農村無人化作戦』。最初は敵を探し出し、集中的に攻撃する作戦だったが、なかなか降参しないベトナムの武装ゲリラを掃討するため、民間人が住む農村部を攻撃することにした。事前通告して村から離れないものはすべて敵とみなして殺害する。米軍と規模こそ異なるが、韓国軍の手口は残虐さを極めた」

 井川氏が取材した海岸地帯のフーカイン省トイホア県では、9つの村落で計約900人が虐殺されたとされる。韓国軍による民間人の虐殺被害者数の全容は不明だが、韓国の雑誌によれば、少なくとも9000人以上との情報がある。

 「兵士である男は村にいないので、実際に殺害されたのは女性と子供、そして、老人ばかり。防空壕に逃げ込んだ村民を引っ張りだして片っ端から射殺したり、手榴弾を投げつけたりした。生き残った村民からは『韓国軍は事前通告をしなかった』という証言も得た」(井川氏)

 残虐方式にはパターンがあり、「子供たちの頭や首を切り落とし、手足を切断して、火に投げ込む」「妊婦の腹から胎児が飛び出すまで軍靴で踏みつける」など、筆舌に尽くしがたい生存者の証言内容が、韓国の雑誌などで報告されている。

 韓国軍による慰安婦問題もベトナム戦争の傷跡として重く残る。

 井川氏は「韓国軍や韓国の民間人は、村を追われて戦争難民であったベトナム人女性を『売春婦』に仕立てた。これは事実上の強制連行といえる」と強調。当時、南ベトナムの至る所に韓国人経営の性的慰安施設があり、戦闘地には軍人専用のものがあったという。

 「ある韓国軍副司令官の家に呼ばれた際に、10代のベトナム人女性が出てきて『今夜はお宅に連れていっていいですよ』と言われて非常に驚いた。まさに占領国意識の塊だった。韓国人男性とベトナム人女性の混血児『ライダイハン』は1万5000人いるといわれるが、セックス・ビジネスと無関係ではない」

 こうした負の遺産は、韓国国内で長い間、封印されてきたが、90年代後半から韓国の市民団体などが調査、報道して顕在化した。

  韓国政府はいまだ正式に調査を行っていないものの、2001年に金大中大統領(当時)がベトナム訪問の際に「不本意ながらもベトナム国民に苦痛を与えたことを申し訳なく思う」と謝罪した。

 これに対し、「金大統領の歴史認識を憂慮せざるを得ない。参戦勇士の名誉を傷つけるものだ」とかみついたのが当時、野党でハンナラ党副総裁だった朴氏。今年9月のベトナム訪問でも朴氏は一切、謝罪をしていない。

 「朴氏の発想の原点は『国軍の名誉』というところにある。要は、事実には目をつむるということ。自分の国の悪いことは一切言わないが、同じようなことが日本にあると攻撃する。大統領からマスコミ、国民までみんな同じ思考で、朴氏は韓国を映し出す鏡といえる」

 本紙の連載などをまとめた『呆韓論』の著者でジャーナリストの室谷克実氏はこう語り、朴氏が抱える矛盾を指摘する。

 「事実をねじ曲げて『慰安婦は性奴隷』と日本を批判している韓国人は、ベトナム戦争を体験した世代。自分たちがやったことは、日本もやったはずだと思い込んでいる」

 自国の歴史に直面せず「日本は慰安婦を侮辱している」などと繰り返す朴氏。虚偽をかたり、他者をおとしめ、都合の悪いことには、目をそむける。侮辱しているのは一体、どちらなのだろうか。


若き米国人女性宣教師マーガレット・バラが見た幕末日本

2013年12月17日 17時33分47秒 | 色んな情報

若き米国人女性宣教師マーガレット・バラが見た幕末日本
「古き日本の瞥見」 (有隣新書)

神奈川県の歴史について色々調べている過程で、図書館で幕末に日本を訪れた女性宣教師の手紙をまとめた本を見掛け、読んでみたら結構面白かったので軽く紹介してみる。まぁ、20年以上前の本で絶版のようだし、amazon見てもランキング115万位でレビューも無し、google検索結果も約 1,950 件(うち関係するのは三ページ目までで、しかもほぼ全てネット書店)、著者マーガレット・T・K・バラについての日本語wikipediaページも無し、と殆ど注目されていないものなので興味がある方は図書館なり古書店なりで探してみてください。まぁ版元の有隣堂も神奈川ローカルの出版社なので、他の地域で手に入るかは不明ですが。

著者のマーガレット・テイト・キンニア・バラ(1840-1909)が夫で同じくプロテスタント宣教師のジェイムズ・ハミルトン・バラとともにアメリカから船旅で日本を訪れたのは1861年11月、21歳のときのこと。夫ジェイムズは後に日本初のプロテスタント教会「日本基督公会」を設立し、やはり日本人初のプロテスタント信者となる矢野隆山に洗礼を与えた。夫妻は開港直後の横浜村からほど近い外国人居留地の一角となった寺院成仏寺に、後にヘボン式ローマ字の創始者でお馴染みのヘボン博士や、後に明治学院大学へと発展する私塾を開く宣教師サミュエル・ブラウンたちとともに住み、宣教師らしい宗教的使命感と、20代前半という若さゆえの旺盛な好奇心で当時の日本の様子を色々手紙に書き記している。手紙は1861年から1866年と明治維新直前の間のものだ。

日本に到着するや否やバラ夫妻は後に洗礼を受ける医師矢野隆山を雇い日本語を習いはじめた。習い始めて一ヵ月目で日本語について彼女は簡単にまとめている。

『日本語のアルファベットは最初とても易しく見えます。たった四八文字ですから「簡単にマスターできる」と思って張り切ってやり始めるのですが、その四八文字を覚えたところで各文字に三つから四つの書体があることを知らされます。女文字の仮名は男文字とはっきり違わなくてはならないし、勉強を進めてゆくと今度は漢字が出てきます。漢字は一つおきくらいに出てきますから日本文を読むには漢字も勉強しなくてはなりません。日本語の本は学問的にも風変わりなものです。日本語のアルファベットは「シラバリー」つまり全部の音節を示す一覧表にすぎませんから、表意文字である漢字を書くことにはつながらないのです。普通用いられている漢字と純粋な日本語との関係は、ほぼラテン語と英語の関係と同じです。仮名で「ヨコハマ」と書くには四音節の文字が必要ですが漢字ではたった二文字です。それで「浜辺を横切る」という意味がすぐ分かります。』(P64)
『日本の女性は文明開化が進行している国々のなかでは注目すべき存在です。女性のために「ひらがな」(草書体)で書かれた本があります。この文字は日本で考案された四八文字のことでそれぞれの文字にさらに四つから六つの書体があります。「ひらがな」と呼ばれるのは、こまかく角張った「カタカナ」と区別するためです。カタカナはおもに学術的な論文を書くのに用いられます。』(P65)
『日本語の辞書にはたいていその語の仏教的意味が別にのせてあります。でも、これらの借用漢語はどれもその書体と意味だけを取り入れたもので、音声には関係ありませんから、中国語の発音や抑揚には神経を使わなくていいのです。日本語の文語体は「ひろがりすぎた」口語よりずっと簡明です。口語は間投詞や動詞の活用形らしい語があふれ、また言葉に奥ゆかしさを添えはしますが、翻訳することのできない敬語や丁寧語がいっぱいあります。欲求や感情を表す言葉は一般的に単純で素朴なものですが、日本でも同じことで特に女性の言葉がそうです。日本が世の人々をおどろかせ喜ばせたもののなかで、女性が残した書簡文学は特筆に値すると思います。』(P66)
日本語を習い始めて一ヶ月目の21歳とは思えない日本語分析の緻密さには非常に驚かされる。当時の日本を訪れた宣教師たちが抜群の知性を備えたインテリ揃いであったことがよくわかる。また「おはよう」は『オハイオ州と同じ発音』(P71)と書いていてちょっとくすっときたのと、召使の男性に「薪(マキ)」を頼んだら、小さな女の子を連れてきて、何かと思ったらその子の名前が「マキ」だという、マンガのような勘違いエピソードが微笑ましかった。

当時の日本の民衆の生活も色々書いている。

『話は変わりますが、ここでは「ヤオヤ」(八百屋)さんがやってきます。ヘボン博士に食事の野菜や果物を頼まれたときには出て行ってその買い物をします。そうですねえ、先ずはほうれん草、あまりやわらかくないんです。かぶ、かぼちゃ、お芋はアイルランド産のものとさつま芋と両方あります。ナッツ類としては大粒の栗、一種のくるみ、柿、オレンジ、ぶどうなど。いまはこういった冬物ですね。私は欲しいものを選び、わらで編んだ紐に通してある銅貨を支払います。すると八百屋さんは丁寧に頭を下げ、かしこまってお金をささげ持ち、自分のおでこに押しつけてから籠のなかに放りこみます。それから籠を棒の両端にぶら下げて肩にかつぎ、急ぎ足で次の家のほうに行ってしまいます。新鮮な魚もいろいろ手に入ります。アメリカのものと種類は違うようですが、野菜と同じように買えますから、買い物はそれほど苦労しなくてすみます。それでも口にあう牛肉ということになれば横浜まで人をやらなくてはなりません。豚肉もときどき買いますが、マトンは値段が高すぎて宣教師の身ではお目にかかることもまれです。日本人は羊を飼わないで中国から輸入しますから高価になるわけです。』(P61)
『入れ墨は別当つまり馬丁のような庶民がしています。下の階層の人々は裸に近い格好をしていることが多いものですから、首から足のかかとまで入れ墨をしているのをよく見かけます。赤や青の竜、武者絵などが彫られています。これらの模様は走るときには着物のかわりになります。別当などは腰帯だけであとは裸なのですから。』(P92)
『日本人も夢については特異な信仰を持っていて、夢は魂の行動だと考えています。人が眠ると魂はすぐ身体を離れて遊びに出かけるというのです。ですからもし睡眠中に急に起こされたりすると、魂は遠くにいて戻ることができませんから、その人は死んでしまいます。また魂は種子のような、何か丸くて黒っぽい小さな粒だとも考えられています。日本人はけっして頭を北にして寝ないで、いつも東になるように心がけています。旅館などには客の便宜をはかって東西南北の方位を示した図表が貼ってあります。』(P103)
『日本のおおかたの猫には尻尾がありません。大きくてつやつやと肥えていますが怠惰で、ネズミをとって食べる気はないのです。ここのネズミは猫と同じくらい大きいものですから、猫のほうは飛びかかっても無駄だと知ってるのでしょう。ネズミはおかげでしたい放題、とても横暴です。ときどきイタチが出てきて助けてくれなかったら、人間が身体ごとさらわれてしまいそうです。なぜ猫に尻尾がないのかまだ満足な説明を聞いたことがありませんが、白と黒の毛がもじゃもじゃの可愛いプードル犬がなぜ獅子鼻をしているのかというのと同じようなものでしょう。この二つの動物が最も愛玩されています。首に派手なリボンを付けてもらい、体にはエプロンを巻いて着飾っています。』(P105-106)
『若い娘については、平たい鼻とかしいだ眼が気にならなくなってからなら、とてもかわいく見えます。娘たちはきれいな白い歯ときらきらした黒い瞳をしていて、血色が良くいつも快活です。でも、ぞっとするような習慣があって、娘たちは婚約したり結婚したりすると眉毛を剃り落とし歯を黒く染めなければなりません。ですから一度に容色を失ってしまいます。
(中略)

婦人はアメリカと同じように外出するのも人を訪問するのもほとんど自由です。ほんとに、日本では婦人の交際上の自由が広く認められていますよ。食事の世話をして家のなかが片付いたら、婦人はどこへ出かけてもかまいませんし、火鉢を囲んでお茶を飲みながら気のあう人とおしゃべりするのも自由です。』(P124-125)
夫妻に日本語を教えていた矢野隆山は医師であったので日本の医療制度について彼から聴いたことをまとめている。

『医療制度は三つのクラスに分かれています。一つは専属の宮廷医。次は軍医で、一般市民の治療をすることもあります。それから町医者いわゆるドクターで、市民全般を担当します。医者まがいのクラスもあって、これはアメリカと同じです。薬草、蛇、トカゲなどから薬を作り、かならず奇妙な予備治療があります。たとえば皮膚病とか、かかり易くて治りにくい慢性の病気などの場合は、先ず熱いお風呂に入ります。それではかばかしくないときは鍼とかお灸をします。』(P91)
彼女は川崎大師や鎌倉の鶴岡八幡宮、鎌倉大仏などの観光地を訪れたり東海道を馬で散策したりとかなりアクティブに色々な名所を見て回り、それぞれの場所の様子やその場所にまつわる伝承や歴史などを細かく書き留めている。鎌倉大仏の手のひらの上に住職に薦められて乗せてもらった話とかうらやましい。その中の一つ神奈川の法華宗寺院豊顕寺でのお祭りの様子をかなり活き活きと描いている。

『今日はこの寺院のお祭りの日で神奈川一帯は大にぎわいです。寺院には幅一〇フィートほどの切り石の参道が通じていて、その両側に小屋掛けの売店がびっしりと並んでいます。玩具やお人形があふれ、子供が喜びそうなものはなんでもあります。大きな「マツリ」の日とか宗教上の休日に、派手に着飾った老若男女が群れをなしている光景には圧倒されます。「マツリ」を見るまでは日本人の生活は語れないと言われるのももっともです。
(中略)

売店ではいろいろなゲーム用具、玩具、髪飾り、安価で素朴なきれいな櫛、ちりめんの替え襟、帯、下駄、草履、縄、番傘、お祭りの数珠、鉛や真鍮の木の仏像、寺社の模型、家庭用仏壇、経本、お鈴、ローソクなどを売っています。売店の一つからスポンジケーキを焼くいい香りがただよってきます、「カステラ」と呼ばれているものです。そのほかホットケーキのような菓子、煎った木の実などもあり、魚を油で揚げるむかつくような臭いもしています。麦芽糖の飴ん棒をひっぱりあっているおチビさんがいるかと思うと、老婆と孫らしい娘が、木をすりほぐしたような薄っぺらなものを地べたに並べて売っています。これはお湯のなかに落とすと、花や鳥や木や動物の形になって開きます。』(P114-115)
目まぐるしく動く幕末の政情、治安が悪化し流動化する社会の様子についても、彼女は冷静な観察眼で分析している。

文久三年(1863)六月、相次ぐ外国領事館焼打ち事件を受けて外国人の安全保護を名目に幕府は神奈川の居留地に住む外国人を横浜に移すことを求め、これが実行されることになったが、これについて彼女は鋭く幕府の意図を洞察する。

『横浜は運河ですっかりかこまれて本土から切り離されていますから、兵糧攻めにするのも簡単ですし、援軍が来るまえに町を焼き払ってしまうこともできるでしょう。それなのに外国人側では、貿易の自由を制限するのが幕府の目的だろうぐらいにしか考えていないんですよ。』(P150)
元治元年(1864)の手紙より。

『開国以来、革命と反革命とが連続しているように見えます。これらの動乱の根本は、新しい発展の時代のためにはもっと自由な政策が必要だとする人々の側にあるようです。
幕府の保守的な人々は、こういう進歩的な対策は帝国の安定を乱すおそれがあるとして嫌いますから、国全体が北と南に分裂しそうな状況です。北部の将軍にくみする進歩的な大名は、もっと自由に貿易を広げた方が新しい国造りになると考えているようです。これに対して天皇にくみする南部の大名は、外国人を国内に入れることや、将軍側が必要としている新施策に対して反感の目を向けています。天皇政府がすべての外国人は日本から退去するか、さもなければ六月末に外国人を攻撃して一掃するつもりだから、それに備えるかするようにという通告を出していたから、横浜にいる民間人はまったくのパニック状態に陥ってしまいました。ただちに中国にいた軍隊が駆けつけて警備にあたっていますが、まだまだ不安で何が起こるのか心配です。』(P158-159)
『現在はイギリス人が優位に立とうとしています。幕府へのすべての請願は、自分たちを支持している勢力から圧力をかけてもらう必要があります。貿易上の日本の最恵国は港に最も多くの軍艦を停泊させている国だと、わたしは見ています。イギリスは日本に軍隊を駐留させていますから、要求どおりに土地を手に入れています。横浜に目を付けて商人たちと組んだのはイギリスの領事でした。そしてアメリカよりも二年早くここに腰をすえましたから、役人にも顔がきくわけです。
(中略)

アメリカ人は全体としてもっと親しみやすく、対等に付きあえると日本人は認めています。でも東洋にアメリカの占有地はなく軍隊を要請することもできません。軍艦はみな本国の戦争(南北戦争)に必要でしょうから。そんなわけで、私たちはただイギリスに光を奪われてゆくのを甘受しているだけなのです。』(P160-161)
『裏工作をすることと真実を無視することは日本の役人の特性のようですが、信条や国籍を問わず破廉恥な外国人が冷酷非道な行いをしたり、裏切り行為をするのと同じようなものかもしれません。いまはこういう人間が横浜の人口の多くを占めています。こういう日本の政治の転換と動乱は、国民にとっても、この文明の先駆者となる運命にある人々にとってもまさに大きな試練の時です。
(中略)

朝食のときも、昼食会のときも、夕食のときも、食べ物がわりのように聞かされるのは、暗殺、砲撃、地方大名の裏切りなどのことです。それで私たちは外国人だけがこの動乱の原因ではなくて、外国と条約を結ぶ以前から、日本には革命の機運が熟していたという事実に目を開き始めています。私たちは公然と反乱を起こすための格好な口実にされているらしいのです。』(P162-163)
生麦事件や薩英戦争、下関戦争について、軍事力を背景に徳川幕府から賠償金を得た米国も含めた諸列強の政策についてもこう批判する。

『このような時期にこのようなことを強要するのは、自国を向上させてキリスト教国と対等になろうと悪戦苦闘している人々を勇気づけ励ますものだったでしょうか。これらの報復行為を正当化する人たちは、この世に「審判の日」がないとでも思っているようです。いままさに革命の陣痛と戦っている小さな国を圧迫して、その弱みにつけ入るのは、自らの欠点ばかりか卑劣さをも示すものですね。たとえその行為が本国の議会や新聞できびしく告発されないまでも、こうした強欲は許されてはなりません。』(P163-164)
慶応元年(1865)一月の手紙

井伊直弼暗殺以降、何かにつけて「浪人」が現在の政情不安の諸悪の根源のように言われる日本社会の風潮について。

『ご存知のとおり、同時代の出来事を根本から動かしている力がはっきりするのは、いつの場合も年月が経過した後のことです。その時代にあっては表面に出た者が最高責任者と見なされがちですが、本当は官僚機構のほんの一部の力にすぎなかったかもしれませんね。』(P168)
二十代前半の女性である彼女の洞察にはある種の透徹したリアリズムが感じられる。丁度同時期(1870年代)のアメリカで後にプラグマティズムと呼ばれる実証的な思想潮流がプロテスタンティズムの神学を前提として誕生するが、その土壌となるような共通の教養――あるいは時代精神とでも呼ぶようなものかもしれないが――を、彼女も身に着けていたのかもしれない。また、二十世紀になるとラインホールド・ニーバーらのクリスチャン・リアリズムの潮流も生まれてくるし、当時のプロテスタント宣教師たちが持っていた、ある種の客観主義・相対主義的な視点はもっと注目されてしかるべきなのかも、などと思ったりもした。

勿論、こうしたリアリズムの視点と、日本の宗教文化を偶像崇拝として嫌悪し、その啓蒙という宗教的使命感に基づいてキリスト教を布教しようという情熱と、日本の異教的慣習に染まってしまうことの恐れや、それを受け入れつつある自身の倫理観への疑問と苦悩の吐露も多く見られ、「近代」を生きた人々の空気が非常によく伝わってくる書簡集だ。

まぁ、著者も無名だし、何か歴史的事件に関ったわけでもないし、時期も1861年~1866年と明治維新前で終わっているしで今後も注目されることはない史料だと思うが、同時代の日本を訪れた宣教師たちの手紙やメモなどは少なからぬ量が未邦訳のままなのだろうから、貴重ではあると思う。多分、同様のリアリスティックな視点で当時の日本を眺めていた人はたくさんいたのだろうから、それらの未邦訳であろう宣教師関連資料の邦訳は、重要な気はするなぁ。

歴史上時々現れる、激動の渦中で冷静に状況を俯瞰し、それを書き留める観察者の思考の土台となっているものは何か、というのは常々気になっているところだったので、個人的に興味深く読めた。


『ねずさんのひとりごと』「唐辛子とキムチのお話」

2013年12月17日 16時28分20秒 | 色んな情報
『ねずさんのひとりごと』「唐辛子とキムチのお話」

日本人は誰しもカレーライスが大好きですが、それを日本の「伝統食」だなどとは思ってる人は誰もいません。
日本人は、カレーはインド生まれだと誰もが知っているし、本家インドカレーも美味しいと楽しむし、味をさらに日本化することで、さらに美味しくして、ただみんなで喜んで食べているだけです。
昔、日本のカレーライスを食べて、「あまりの美味しさにインド人もびっくり!」などというCMもありましたが、あくまでそれは工夫の問題であって、カレーを日本生まれだなどと言う人は、おそらく子供でも、いません。

これと比較するのもおかしな話ですが、実はキムチは、朝鮮族にとって外来文化です。
そもそもキムチは朝鮮半島の伝統食ではありませんし、使われている唐辛子も白菜も、朝鮮原産ではありません。
キムチが現在のような辛味の強い真っ赤な食品として朝鮮半島に定着したのは、実は日韓併合後のことです。

キムチの主役の唐辛子は、そもそも南米のチリ産です。
だから唐辛子ソースのことをチリソースといいます。

もともと唐辛子は、南米のチリで、現地の人たちが、すりつぶして下剤として使っていました。
それをコロンブスが薬品としてスペインに持ち帰り、そのスペイン人によって、ほとんど日をおかずに日本にもたらされたのが、戦国時代の終わり頃のことです。

ですから当初は日本でも、唐辛子は、漢方薬と呼ばれていました。
ちなみに江戸時代初期まで、外来の薬品や薬草は、それが支那からのものであれ、スペインやオランダからのものであれ、すべて「漢方」です。
オランダのものだけが、蘭方とされるようになったのは、江戸中期以降のことです。

そもそも漢方薬の「漢」という国は、3世紀初頭には滅びてなくなっています。
それを日本人が丁寧に「漢」と呼び続けたのは、日本人がただ律儀なだけのことです。

唐辛子は、薬品として、秀吉の朝鮮出兵のときに朝鮮半島に伝わりました。
これをキムチの発祥としている本などもありますが、違います。
この頃の唐辛子は、あくまで下剤や寒さ対策の塗り薬でしかありません。食用ではないのです。
秀吉の朝鮮出兵から、80年ほどあと、日本でいったら江戸中期にあたる1670年に書かれた朝鮮の料理本の「飲食知味方」に、漬け物としてのキムチは出て来るのですが、ここに唐辛子を用いたものは、ひとつも書かれていません。
そこにあるのは、ただの漬け物です。

朝鮮半島で唐辛子を用いた料理が登場するのは、江戸時代後期にあたる文化6(1809)年の「閨閤叢書」で、ここには漬け物に、千切りにした唐辛子を少量入れることが書かれています。
日本でも、浅漬けに少量の唐辛子を千切りにして入れますが、要するにそれとおなじものです。

キムチがいまのような辛味主体のものに近いものとして書かれているのが、「林園十六志」で、これは文政10(1827)年の書です。
ではなぜ、文政年間に、あの辛いキムチが広がったのか。
これに実におもしろい歴史があります。

江戸の町の両国に薬研掘(やげんぼり)というところがあります。
ここの町名がどうして薬研掘というかというと、これが読んで字の如くで、お堀の形状が、漢方医が使う「薬研(やげん)」に似ていたからなのだそうです。

この地名からなのか、その薬研掘界隈には、不思議なことに薬屋さんや薬品問屋さんが集まりました。
また薬屋さんが近いからと、漢方医たちもここにたくさん開業しました。
いまでも調剤薬局などは病院の近くにありますが、それと同じです。

寛永2(1625)年といいますから、徳川家光が三代将軍に、まだなったばかりくらいの頃、この江戸の両国薬研掘に、中島とくえもんという人が薬種商の「やげん堀」を開業しました。

この頃の江戸で流行っていたのが、お蕎麦屋(そばや)さんです。
なにせ簡単にツルツルっと食べれてお腹がふくれるから、気の短い江戸っ子には大流行でした。
そこで、とくえもんさん、この蕎麦の薬味(やくみ)に、唐辛子が使えないものかと考えたのです。

ところが唐辛子をすり潰しただけでは、ただ辛いばかりであじけない。
そこで唐辛子に、麻の実、青しそ、山椒、黒ゴマ、白ゴマ、みかんの皮を入れて、一緒にすり潰したものを、開業の翌年「七味唐辛子、やげん堀」として売り出したのです。

なんと、これが大ヒット!
なにせ風邪の妙薬で元気が出て、しかも蕎麦汁(つゆ)に入れると美味しい。
またたくまに、とくえもんさんのお店は大繁盛するし、徳川家光の菊の宴に献上したら、これが家光にいたく気に入られて、なんと徳川家の「」の一字まで賜って、おかげで名前もあらため、中島右衛門。
このお店は、代々続いていて、いまでも七味唐辛子本舗となっています。

江戸で流行ったものは、全国に波及します。
蕎麦やうどんに、唐辛子をちょっと入れておいしくいただくという習慣は、こうしてはじまりました。
ただし、その唐辛子は一味ではなく、七味です。
唐辛子は、日本で、七味になることで、一般の食用に供されるようになったということを、ひとつ押さえてください。

そして江戸中期、第11代将軍家斉の時代、その襲封祝賀(将軍就任の祝賀)のために、第12回朝鮮通信使が、日本にやってこようとしました。
あくまでも、「やってこようとしました」。文化8(1811)年のことです。

この朝鮮通信使というのは、隣国からの慶賀の使者という意味においては、ありがたい存在だけれど、なにせ相手は儒教の国です。自国を立派に見せるためにと、いちどきに600人からの一個大隊でやってきます。
それが朝鮮半島から対馬を経由して、福岡に上陸し、そこから半年がかりで陸路はるばる江戸までやってくるわけです。
対馬から先の旅費は、祝賀を受ける側、つまり日本側の負担です。一回の通信使で、100万両(約6億円)の接待費がかかります。

当時の幕府の経済力からしたら、金額自体はたいしたことはありません。
勅使下向の接待は毎年のことですが、同程度の経費がかかります。

問題は、朝鮮通信使が、そこが日本であることをまったくわきまえず、沿道の民家を襲って農作物や鶏を泥棒するし、大声で騒ぐ。
さらに指定された旅館では、そこいらにある器物が軒並み泥棒される。
宿泊させれば翌朝には、朝の大きな御用を、日本人ならちゃんと厠でするのに、彼らは彼らの国の風習で、一斉に街道の路上でこれをする。
600人が路上でするのです。後始末がどんなに大変か。

要するに、野生の猿のような野蛮人たちが、延々江戸までやってくるわけで、これは民衆にしたら、たいへんな迷惑なのだけれど、いちおうカタチは国賓です。粗略には扱えない。

そんなわけで、毎度迷惑千万な使いだったわけで、ついに徳川家斉は、この朝鮮通信使について「易地聘礼」といって、江戸までやってこさせるのではなく、対馬藩で挨拶を受けるだけの簡便な方法に切り替える(ようするにカンベン(勘弁)してほしいということ)よう求めました。

こうしてやっとのことで第12回朝鮮通信使は、対馬藩足止めとなったわけです。
この足止め成功によって、対馬藩はなんと2万石が加増されています。
どんなにホッとしたか、ということです。

この第12回朝鮮通信使の際に、お土産(みやげ)となったのが、当時、日本国内で大流行していた七味唐辛子でした。
食事の際に、ちょっとおつゆに七味を入れるだけで、食事がめちゃくちゃおいしくなる。
「これは何か」と聞かれて、帰りのお土産に持たせたのが、七味唐辛子と、唐辛子の実です。
おかげで、その後の李氏朝鮮王朝の貴族の高級食品として、唐辛子が大流行する。

けれど、この段階では、朝鮮では、あくまで唐辛子は貴族の宮廷料理としてだけのものです。
なにせ庶民は食事の際に箸(はし)もスプーンも使わない。

実は朝鮮半島で、一般の庶民が食事の際に、箸やスプーンを使うようになったのは、明治43(1910)年以降のことです。
それまでは、朝鮮半島における庶民の食事は、インド式(手づかみ)です。

このように書くと、「そんなはずはない。日本文化は食事の作法まで、支那から朝鮮半島を経由したものだし、箸も朝鮮が日本に教えてやったものだ」という反論がどこかから聞こえてきそうですが、それが事実がどうかは、下の写真を見たら、一目瞭然です。

この写真は、日韓併合の少し前の平壌辺りの庶民の食事の写真ですが、お椀はあるけれど、どうみても箸もスプーンもありません。

日本が朝鮮を統治した時代、朝鮮総督府が何度も出したお布令に、「路上脱糞禁止令」があります。
それまでの半島には、トイレがなく、路上脱糞があたりまえの習慣だったのですが、これではあまりに衛生面でよろしくない。

そこで朝鮮総督府が路上脱糞を禁止したわけですが、ところが人間、食べれば必ずもよおすわけで、ところが路上では禁止されてしまっている。
そこで朝鮮ではじまったのが、室内で穴を掘り、そこで脱糞するという習慣でした。

穴が満タンになると、そこに土をかけ、室内の別な場所に別な穴を掘って、そこでする。
これを何年か繰り返しますと、室内の縁の下が全部有機物になり、地面が自然発熱してたいへんに温かくなる。
その生暖かいところに野菜を入れた甕(かめ)を、頭だけ出して埋め、その中で漬け物をする。
すると、おいしい漬け物ができる。

ところが雨が降ると、雨水があふれる。
甕の中に、その・・・有機物の汚水がはいる。
こうなると、せっかくの漬け物に、妙な臭いがついてしまいます。
そこでこれを食べるために、唐辛子をどっさりと入れて臭みを消した食品が、いまのキムチになったわけです。
おかげでキムチは、各家庭ごとに味が違うのだとか。

もうひとつ、キムチに使われる白菜です。
これも、白菜が一般に栽培されるようになったのは、名古屋の野崎徳四郎が大正時代の初め頃に栽培に成功したことがきっかけです。
それまでは、白菜は栽培されていません。

こうしてキムチは、日本から渡来した箸文化と、唐辛子、これに日本の統治時代の「路上糞便の禁止令」に、大正時代の白菜の普及が加わって、いまのカタチとなりました。

つまりキムチは、朝鮮の伝統食などではぜんぜんなくて、ほぼ、大正時代にいまのキムチのカタチとなったものにすぎません。
要するに、キムチはあくまで「朝鮮名物」であって、「伝統食」ではないのです。

韓国の歴史教科書では、オクレていた日本に、あれも教えてやった、これも教えてやったなどと、様々な文化を日本に教えてあげたのだと記載しているのだそうです。
けれど、日本が韓国から教わったものって、何があるのでしょうか?

仏教ですか?
仏教は、韓国発祥ではありません。
陶磁器ですか?
陶磁器は、日本では縄文時代から長くつくられています。
キムチですか?
もともとは漬け物でしかありません。しかも発酵食品文化というのは、日本古来の食文化です。
文字ですか?
ハングルを朝鮮族の公式な文字として採用したのは日本です。
他に何がありますか?
『ねずさんのひとりごと』  「唐辛子とキムチのお話」    日本人は誰しもカレーライスが大好きですが、それを日本の「伝統食」だなどとは思ってる人は誰もいません。  日本人は、カレーはインド生まれだと誰もが知っているし、本家インドカレーも美味しいと楽しむし、味をさらに日本化することで、さらに美味しくして、ただみんなで喜んで食べているだけです。  昔、日本のカレーライスを食べて、「あまりの美味しさにインド人もびっくり!」などというCMもありましたが、あくまでそれは工夫の問題であって、カレーを日本生まれだなどと言う人は、おそらく子供でも、いません。    これと比較するのもおかしな話ですが、実はキムチは、朝鮮族にとって外来文化です。  そもそもキムチは朝鮮半島の伝統食ではありませんし、使われている唐辛子も白菜も、朝鮮原産ではありません。  キムチが現在のような辛味の強い真っ赤な食品として朝鮮半島に定着したのは、実は日韓併合後のことです。    キムチの主役の唐辛子は、そもそも南米のチリ産です。  だから唐辛子ソースのことをチリソースといいます。    もともと唐辛子は、南米のチリで、現地の人たちが、すりつぶして下剤として使っていました。  それをコロンブスが薬品としてスペインに持ち帰り、そのスペイン人によって、ほとんど日をおかずに日本にもたらされたのが、戦国時代の終わり頃のことです。    ですから当初は日本でも、唐辛子は、漢方薬と呼ばれていました。  ちなみに江戸時代初期まで、外来の薬品や薬草は、それが支那からのものであれ、スペインやオランダからのものであれ、すべて「漢方」です。  オランダのものだけが、蘭方とされるようになったのは、江戸中期以降のことです。    そもそも漢方薬の「漢」という国は、3世紀初頭には滅びてなくなっています。  それを日本人が丁寧に「漢」と呼び続けたのは、日本人がただ律儀なだけのことです。    唐辛子は、薬品として、秀吉の朝鮮出兵のときに朝鮮半島に伝わりました。  これをキムチの発祥としている本などもありますが、違います。  この頃の唐辛子は、あくまで下剤や寒さ対策の塗り薬でしかありません。食用ではないのです。  秀吉の朝鮮出兵から、80年ほどあと、日本でいったら江戸中期にあたる1670年に書かれた朝鮮の料理本の「飲食知味方」に、漬け物としてのキムチは出て来るのですが、ここに唐辛子を用いたものは、ひとつも書かれていません。  そこにあるのは、ただの漬け物です。    朝鮮半島で唐辛子を用いた料理が登場するのは、江戸時代後期にあたる文化6(1809)年の「閨閤叢書」で、ここには漬け物に、千切りにした唐辛子を少量入れることが書かれています。  日本でも、浅漬けに少量の唐辛子を千切りにして入れますが、要するにそれとおなじものです。    キムチがいまのような辛味主体のものに近いものとして書かれているのが、「林園十六志」で、これは文政10(1827)年の書です。  ではなぜ、文政年間に、あの辛いキムチが広がったのか。  これに実におもしろい歴史があります。    江戸の町の両国に薬研掘(やげんぼり)というところがあります。  ここの町名がどうして薬研掘というかというと、これが読んで字の如くで、お堀の形状が、漢方医が使う「薬研(やげん)」に似ていたからなのだそうです。    この地名からなのか、その薬研掘界隈には、不思議なことに薬屋さんや薬品問屋さんが集まりました。  また薬屋さんが近いからと、漢方医たちもここにたくさん開業しました。  いまでも調剤薬局などは病院の近くにありますが、それと同じです。    寛永2(1625)年といいますから、徳川家光が三代将軍に、まだなったばかりくらいの頃、この江戸の両国薬研掘に、中島とくえもんという人が薬種商の「やげん堀」を開業しました。    この頃の江戸で流行っていたのが、お蕎麦屋(そばや)さんです。  なにせ簡単にツルツルっと食べれてお腹がふくれるから、気の短い江戸っ子には大流行でした。  そこで、とくえもんさん、この蕎麦の薬味(やくみ)に、唐辛子が使えないものかと考えたのです。    ところが唐辛子をすり潰しただけでは、ただ辛いばかりであじけない。  そこで唐辛子に、麻の実、青しそ、山椒、黒ゴマ、白ゴマ、みかんの皮を入れて、一緒にすり潰したものを、開業の翌年「七味唐辛子、やげん堀」として売り出したのです。    なんと、これが大ヒット!  なにせ風邪の妙薬で元気が出て、しかも蕎麦汁(つゆ)に入れると美味しい。  またたくまに、とくえもんさんのお店は大繁盛するし、徳川家光の菊の宴に献上したら、これが家光にいたく気に入られて、なんと徳川家の「」の一字まで賜って、おかげで名前もあらため、中島右衛門。  このお店は、代々続いていて、いまでも七味唐辛子本舗となっています。    江戸で流行ったものは、全国に波及します。  蕎麦やうどんに、唐辛子をちょっと入れておいしくいただくという習慣は、こうしてはじまりました。  ただし、その唐辛子は一味ではなく、七味です。  唐辛子は、日本で、七味になることで、一般の食用に供されるようになったということを、ひとつ押さえてください。    そして江戸中期、第11代将軍家斉の時代、その襲封祝賀(将軍就任の祝賀)のために、第12回朝鮮通信使が、日本にやってこようとしました。  あくまでも、「やってこようとしました」。文化8(1811)年のことです。    この朝鮮通信使というのは、隣国からの慶賀の使者という意味においては、ありがたい存在だけれど、なにせ相手は儒教の国です。自国を立派に見せるためにと、いちどきに600人からの一個大隊でやってきます。  それが朝鮮半島から対馬を経由して、福岡に上陸し、そこから半年がかりで陸路はるばる江戸までやってくるわけです。  対馬から先の旅費は、祝賀を受ける側、つまり日本側の負担です。一回の通信使で、100万両(約6億円)の接待費がかかります。    当時の幕府の経済力からしたら、金額自体はたいしたことはありません。  勅使下向の接待は毎年のことですが、同程度の経費がかかります。    問題は、朝鮮通信使が、そこが日本であることをまったくわきまえず、沿道の民家を襲って農作物や鶏を泥棒するし、大声で騒ぐ。  さらに指定された旅館では、そこいらにある器物が軒並み泥棒される。  宿泊させれば翌朝には、朝の大きな御用を、日本人ならちゃんと厠でするのに、彼らは彼らの国の風習で、一斉に街道の路上でこれをする。  600人が路上でするのです。後始末がどんなに大変か。    要するに、野生の猿のような野蛮人たちが、延々江戸までやってくるわけで、これは民衆にしたら、たいへんな迷惑なのだけれど、いちおうカタチは国賓です。粗略には扱えない。    そんなわけで、毎度迷惑千万な使いだったわけで、ついに徳川家斉は、この朝鮮通信使について「易地聘礼」といって、江戸までやってこさせるのではなく、対馬藩で挨拶を受けるだけの簡便な方法に切り替える(ようするにカンベン(勘弁)してほしいということ)よう求めました。    こうしてやっとのことで第12回朝鮮通信使は、対馬藩足止めとなったわけです。  この足止め成功によって、対馬藩はなんと2万石が加増されています。  どんなにホッとしたか、ということです。    この第12回朝鮮通信使の際に、お土産(みやげ)となったのが、当時、日本国内で大流行していた七味唐辛子でした。  食事の際に、ちょっとおつゆに七味を入れるだけで、食事がめちゃくちゃおいしくなる。  「これは何か」と聞かれて、帰りのお土産に持たせたのが、七味唐辛子と、唐辛子の実です。  おかげで、その後の李氏朝鮮王朝の貴族の高級食品として、唐辛子が大流行する。    けれど、この段階では、朝鮮では、あくまで唐辛子は貴族の宮廷料理としてだけのものです。  なにせ庶民は食事の際に箸(はし)もスプーンも使わない。    実は朝鮮半島で、一般の庶民が食事の際に、箸やスプーンを使うようになったのは、明治43(1910)年以降のことです。  それまでは、朝鮮半島における庶民の食事は、インド式(手づかみ)です。    このように書くと、「そんなはずはない。日本文化は食事の作法まで、支那から朝鮮半島を経由したものだし、箸も朝鮮が日本に教えてやったものだ」という反論がどこかから聞こえてきそうですが、それが事実がどうかは、下の写真を見たら、一目瞭然です。    この写真は、日韓併合の少し前の平壌辺りの庶民の食事の写真ですが、お椀はあるけれど、どうみても箸もスプーンもありません。    日本が朝鮮を統治した時代、朝鮮総督府が何度も出したお布令に、「路上脱糞禁止令」があります。  それまでの半島には、トイレがなく、路上脱糞があたりまえの習慣だったのですが、これではあまりに衛生面でよろしくない。    そこで朝鮮総督府が路上脱糞を禁止したわけですが、ところが人間、食べれば必ずもよおすわけで、ところが路上では禁止されてしまっている。  そこで朝鮮ではじまったのが、室内で穴を掘り、そこで脱糞するという習慣でした。    穴が満タンになると、そこに土をかけ、室内の別な場所に別な穴を掘って、そこでする。  これを何年か繰り返しますと、室内の縁の下が全部有機物になり、地面が自然発熱してたいへんに温かくなる。  その生暖かいところに野菜を入れた甕(かめ)を、頭だけ出して埋め、その中で漬け物をする。  すると、おいしい漬け物ができる。    ところが雨が降ると、雨水があふれる。  甕の中に、その・・・有機物の汚水がはいる。  こうなると、せっかくの漬け物に、妙な臭いがついてしまいます。  そこでこれを食べるために、唐辛子をどっさりと入れて臭みを消した食品が、いまのキムチになったわけです。  おかげでキムチは、各家庭ごとに味が違うのだとか。    もうひとつ、キムチに使われる白菜です。  これも、白菜が一般に栽培されるようになったのは、名古屋の野崎徳四郎が大正時代の初め頃に栽培に成功したことがきっかけです。  それまでは、白菜は栽培されていません。    こうしてキムチは、日本から渡来した箸文化と、唐辛子、これに日本の統治時代の「路上糞便の禁止令」に、大正時代の白菜の普及が加わって、いまのカタチとなりました。    つまりキムチは、朝鮮の伝統食などではぜんぜんなくて、ほぼ、大正時代にいまのキムチのカタチとなったものにすぎません。  要するに、キムチはあくまで「朝鮮名物」であって、「伝統食」ではないのです。    韓国の歴史教科書では、オクレていた日本に、あれも教えてやった、これも教えてやったなどと、様々な文化を日本に教えてあげたのだと記載しているのだそうです。  けれど、日本が韓国から教わったものって、何があるのでしょうか?    仏教ですか?  仏教は、韓国発祥ではありません。  陶磁器ですか?  陶磁器は、日本では縄文時代から長くつくられています。  キムチですか?  もともとは漬け物でしかありません。しかも発酵食品文化というのは、日本古来の食文化です。  文字ですか?  ハングルを朝鮮族の公式な文字として採用したのは日本です。  他に何がありますか?

京免 史朗Options for this story産経新聞

2013年12月17日 10時07分32秒 | 色んな情報
産経新聞

 米カリフォルニア州グレンデール市に設置された慰安婦を象徴する少女像をめぐり、米国人男性がこのほど米ホワイトハウスのホームぺージ(HP)の請願コーナーでオバマ大統領に像撤去を求める請願活動を始めた。請願が正式に受理されるには、来年1月10日までに10万件の署名が必要だが、16日の時点で集まったのは2万件余り。達成は容易ではない。(田北真樹子)

 「グレンデール市の公園に設置された侮辱的な像の撤去を」と題した請願を始めたのは、米テキサス州在住のトニー・マラーノさん(64)。反捕鯨団体「シー・シェパード」(SS)による調査捕鯨への抗議活動で日本が不当におとしめられていると問題意識を持ったのをきっかけに、動画サイト「ユーチューブ」を使い告発を続けている。「テキサス親(おや)父(じ)」のあだ名で知られる。

 請願コーナーで取り上げられる案件のほとんどは実現していないとされるが、マラーノさんは産経新聞の取材に「慰安婦像が平和よりも憎悪を助長するものだと感じる人にとって、請願が不快感を示す手段になればと思った」と請願活動を始めた動機を説明した。
 請願の正式受理に必要な署名はこれまで2万5千件だったが、最近になって10万件に引き上げられた。米国内で複数の都市が慰安婦像の設置を検討しているといわれる中、10万件のハードルを越えられれば、グレンデール市以外の都市に「安易な決断をしないように働きかける事になる」(日本国内のマラーノさんの代理人)と期待する。

 慰安婦像撤去を求める署名サイト(英語)
http://goo.gl/mnXO3Y

署名の仕方はこちらのサイトに解説がある。
http://staff.texas-daddy.com/?eid=454

●いも●芋●

2013年12月17日 09時55分00秒 | 色んな情報

●いも●芋●
◆●エビ●えび●海老●蝦  
http://p.tl/rt0h
芋棒の名前が一般的である。江戸中期、大坂方面から物資を積んで北海道に運んだ船は、帰りにコンブ、ニシン、サケ、タラなどの水産物を積んできた。コンブの加工品は大坂の名物になり、ニシンは京都名物のにしんそばになった。開かずに ...
 
◆忠臣蔵 ◆赤穂浪士 考察 
http://p.tl/D19V
「石焼き~いも いも」 なんて懐かしい。 年が明けると萬歳が来た。 年中ではないけれども旬になると必ず何かの物売りの声が聞こえたもの。 竹竿売 鍋治し はさみ研ぎ などは時期はなかった。 アイスクリーム等は時期があった。
 
◆●小倉百人一首◆カルタ  
http://p.tl/MriJ
 ... 江戸いろはかるたの場合では、表現が難解あるいは死語となっている(「月夜に釜を抜く」→「月とすっぽん」、「総領の甚六」→「損して得取れ」など、「芋の煮えたもご存じない」「 ...
 
◆芋(いも) ウィキペディア 
http://p.tl/LWrt
植物の根や地下茎といった地下部が肥大化して養分を蓄えた器官である。
特にその中で食用を中心に人間生活の資源として利用されるものを指すことが多い。
但し、通常はタマネギのような鱗茎は含めない。
 
◆芋(いも)焼酎・泡盛用語集  
http://p.tl/pVVc
ヒルガオ科の匍匐(ほふく)性植物。サツマイモ・リュウキュウイモ・カライモ・ウム・ハンスなど地域により様々な呼び名がある。暑さと乾燥に強く荒地にも平気で育つ。原産地は中央アメリカ。1492年、新大陸を発見したコロンブスがスペインへ持ち帰りこれが世界各地に広まったという説と、フンボルト海流に乗って太平洋を横断したという説がある。今日ではアジアとアフリカが二大産地であり、中でも中国は世界の全生産量の4分の3を占める。中国へは1594年、福建省びんの陳振龍が呂宋(るそん)から蔓(つる)を持ち帰り広めた。琉球への渡来は1605年のことで、尚寧(しょうねい)王の命を受けて明へ渡った野国総官(のぐにつがん)がびんから鉢植の芋を持ち帰った。儀間親雲上真常(ぎまぺーちんしんじょう)はこの芋を栽培普及させ、琉球での救荒食量を確保した。薩摩へは17世紀初頭ルソンなどの南方諸国より伝来したと伝えられ、同じころ(1615年)ウイリアム・アダムスは琉球から平戸の英国商館へ芋一袋を送っている。この当時は栽培や保存の方法が充分に分かっていなかったため、普及には至らず、広く栽培されるようになるのは1700年代になってからである。元禄一一(1698)年、琉球王尚貞からカンショ一篭(かご)が種子島の領主、種子島久基に贈られ、栽培された。これより七年後の宝永二(1705)年、南薩摩の揖宿(いぶすき)郡山川郷の漁民前田利右衛門が琉球からカンショを持ち帰り、急速に普及していく。利右衛門は唐芋翁(からいもおんじよ)と崇められ、明治一二年徳光(とくこう)神社に祀(まつ)られた。享保二〇(1735)年には救荒作物としての重要性が幕府に認められ、青木昆陽(こんよう)により普及が図られる。この後、カンショは救荒作物としてではなく、徐々に日常の重要食糧となっていく。カンショが焼酎原料となるのも1700年代に入ってからのことである。
 
◆いも
贈り物の表書きに書く平仮名の文字。熨斗鮑(のしあわび)の形に模したもので、主に女性が用いる。
★★★★★
・いも 2 【芋/薯/藷】
(1)植物の根や地下茎が養分を蓄えて肥大したもの。食用となるサトイモ・ジャガイモ・ヤマノイモ・サツマイモなどをさす。園芸用の球根をいうこともある。[季]秋。《ぐいと引抜く―の出来のよし/松本長》
(2)取り立てて言うほどのことはない物や人をあざけっていう語。
「―侍」
» (成句)芋の煮えたも御存じない
» (成句)芋を洗うよう
★★★★★
・いも 【妹】
(1)男性から見て、同腹の女のきょうだいをいう語。年上にも年下にもいう。
⇔兄(せ)
「言問はぬ木すら―と兄(せ)ありといふをただ独り子にあるが苦しさ/万葉 1007」
(2)男性が自分の恋人や妻をいう語。
⇔兄(せ)
「旅にあれど夜は火灯し居る我(われ)を闇にや―が恋ひつつあるらむ/万葉 3669」
(3)一般に、女性を親しんで呼ぶ称。女性からもいう。
⇔兄(せ)
「風高く辺には吹けども―がため袖さへぬれて刈れる玉藻そ/万葉 782」
★★★★★
・いも 【〈痘痕〉/〈痘瘡〉/痘】
〔「いもがさ」の略〕痘瘡(とうそう)。また、そのあと。
「―・はしか軽々(かろがろ)と/仮名草子・浮世物語」
 
「妹」に似た言葉»  小妹
 
◆妹  隠語大辞典
読み方:いも
男が女を親しみ呼ぶ語。又妻のこと。貫之集に「おもひかねいもがりゆけば冬の夜の河風さむみ千鳥鳴くなり」とある。〔情事語〕
分類 情事語
★★★★★
・芋
読み方:いも
リンガのこと。バナナである。「芋の味などと吸付く蛸の痴話」などは如何。〔風流〕
リンガのこと。バナナである。
 
◆いも【芋】
1.植物の根や地下茎が肥大化し、でんぷんなどの養分を蓄えているものの総称。薯。藷。(秋の季語)
2.都会的でない、野暮なものを侮蔑する言い方。
 
◆ばれいしょ  【馬鈴薯】
ジャガイモの別名。[季]秋。
「馬鈴薯」に似た言葉» 類語の一覧を見るジャガタラいも  じゃが  ジャガタラ芋  ポテト
 
◆馬鈴薯
読み方:バレイショ
ナス科の多年草、薬用植物
 
◆ジャガイモ  薬用植物一覧
科名: ナス科
別名: バレイショ・ジャガタライモ
生薬名: バレイショ(馬鈴薯)
漢字表記: じゃが芋
原産: ペル-
用途: 南米原産の一年草で、塊茎を食用とします。澱粉の原料として、世界中で栽培が行われています。
学名: Solanum tuberosum L.
 
◆馬鈴薯   季語・季題辞典
読み方:バレイショ
ナス科の多年草。塊茎はデンプンに富み、食用とする
季節 秋
分類 植物
 
◆ジャガイモ 
http://p.tl/pBxp(馬鈴薯、英名:potato、学名:Solanum tuberosum L.)
ナス科ナス属の植物。地下茎を食品として利用する。
ジャガイモは地下の茎の部分(塊茎)を食用にする。加熱調理して食べられるほかに、デンプン原料としても利用される。比較的保存がきく食材であるが、暗くても温度の高いところに保存すると発芽しやすいため、涼しい場所での保管が望ましい。芽や緑化した塊茎には毒性成分ポテトグリコアルカロイド(ソラニンなど)が多く含まれ中毒の元になる。
 
ジャガイモの原産は南米アンデス山脈の高地といわれる。16世紀には、スペイン人によりヨーロッパにもたらされた。このとき運搬中の船内で芽が出たものを食べて、毒にあたった為「悪魔の植物」と呼ばれた。日本には、1600年ごろにオランダ船によりジャカルタ港より運ばれた。日本では当時は観賞用として栽培されたという。
 
日本では、男爵薯およびメークインの二大品種が広く栽培されている。北海道が最大の生産地で、夏の終わりから秋にかけて収穫される。九州の長崎では冬に植え付けて春に出荷する。


◆鍋物 

2013年12月17日 09時23分01秒 | 色んな情報

◆鍋物 
◆鍋料理(なべりょうり)http://p.tl/c4Ry
惣菜を食器に移さず、調理に用いた鍋に入れたままの状態で食卓に供される日本の料理。鍋物(なべもの)、あるいはただ鍋(お鍋)と呼んで指す場合もある。
複数人で鍋を囲み、卓上コンロやホットプレートなどで調理しながら、個々人の椀や取り皿あるいはポン酢やタレなどを入れた小鉢(呑水という)に取り分けて食べるのが一般的である。特に冬に好まれる。
通常は複数人で囲んで食べるため一抱えほどの大きさの鍋を用いるが、宴会や会席料理では小鍋で一人前ずつ供される事もある。
近年[いつ?]では一人用の鍋も市販されており、これを用いる場合は椀などに取り分けず、鍋から直接食べることもある。
 
◆おなべ-志葉楽の日記    http://p.tl/JwtA
 
◆●恵方巻き●鍋焼きうどん  http://p.tl/eTK6
鍋焼きうどん(なべやきうどん)は、うどんを用いた料理の一種。鍋焼きとも。
「焼き」の名を持つが、いわゆる焼きうどんとは全く異なり、実態は鍋料理の範疇に入る。一人用の小型の土鍋や鉄鍋に醤油味のだし汁とうどんを入れ、その上にシイタケ、かまぼこ、ニンジンやネギなどの野菜類、エビの天ぷら、生卵、麩などの具を乗せて煮たもの。グツグツと沸騰したまま供し、鍋から直接食べる。具材は多様で卵を伊達巻に代えたり、つみれや蒲鉾を入れる店もある。
使い捨て可能なアルミ箔製の鍋に、麺とだし汁、具材をひとまとめにパックした商品も作られている。近年ではIH調理器に対応した商品も登場している。
蕎麦屋やうどん屋でも定番のメニューであるが、調理に時間や手間がかかるため、立ち食い形式の店ではほとんど見られない。また大部分の店は冬期間のみの提供である。
 
◆アンコウ(鮟鱇) http://p.tl/G8e5
冬、肉のほか皮や内臓などを鍋料理などにして美味。肉が柔らかく扱いにくいので、つるして調理する。熱帯から温帯にかけての深海に広く分布。日本産の種ではアンコウ(クツアンコウ)・キアンコウが代表的。アンコ。[季]冬。《―の骨まで凍て ...


◆かぶ 【蕪】

2013年12月17日 08時26分43秒 | 色んな情報

※ おやおや (゜д゜)民主党政権時にも こんな論調でしたかしら?
それとも "自虐" に喜びを感じる方々なのでしょうか?
いつまでも女々しくダラダラと!(女性に失礼か?)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

■週刊プレイボーイ52号「自民党政治家たちの驕りたかぶり、チョーシ乗りすぎ!!大放言録!!」より

万能感に浸っている安倍首相の「驕りたかぶり」の正体
          週プレNEWS 12月16日(月)10時0分配信...

衆参両院で圧倒的多数の議席を占め、自民党の"独裁"を印象づけた2013年。その増長ぶりは、日が経つごとにひどくなっている。

その代表が、特定秘密保護法の採決だ。テレビ朝日コメンテーターの川村晃司氏も、「所信表明で触れなかった法案を抜き打ち的に提出し、十分な審議をしないまま、数の力で強引に押し通す。自民党の過去の歴代政権に比べても、かなり異常な国会運営」と厳しい評価を下す。

「修正協議もめちゃくちゃで、当初30年だった秘密解除の年数がなぜか倍の60年に。修正は法案をよくするためのものなのに、逆に『倍返し』で悪くしているのだからひどいものです。

しかも強行採決後の首相会見で、『もっと時間をとって丁寧に説明すべきだった。反省している』なんてセリフをしれっと口にする。そんな反省をするくらいなら、国会を延長してでも論議を尽くすべきです。安倍首相は国会と世論をなめているとしか思えません」(川村氏)

えたいの知れない万能感に浸っていて、誰の意見にも耳を傾けようとしない--、それが現在の安倍政権だ。川村氏が続ける。

「明らかに安倍官邸は驕(おご)っています。今の自分はなんでもできると思い込んでいるようです。三権分立のなかで、行政だけが飛び抜けて強くなっている。秘密保護法案をめぐる国会運営を見ても、行政権の独裁、安倍独裁がスタートしたという印象を強く持ちます」

実は、安倍首相の驕りは参院選勝利後に始まったものではない。今年の春の時点で、「首相にはすでにその兆候が見え隠れしていた」と指摘するのは、政治評論家の浅川博忠氏だ。

「今年3月の通常国会のこと。民主党の海江田さんや細野さんが年金、原発、尖閣などのテーマで、安倍首相に論戦を挑んだことがありました。ところが、首相はその質問にろくに答えず、『あなた方の政権で実行できなかったじゃないか。なぜ、やらなかったのか』と一刀両断に切り返すんです。すると、野党側の質問者は絶句して二の句が継げなくなってしまう。そんなシーンが目につきました。

しかし、安倍首相の答弁姿勢は憲政、民主主義の観点から言えば、あまり褒(ほ)められたものではありません。権力の座にある者はいくら多数を占めていても、丁寧に論議に応じるべき。ところが、安倍首相はそうせずに、質問者を一刀両断にして勝ち誇ってしまう。この程度の野党、民主党なら上から叩いて潰してしまえという気持ちがありありです。私はそんな光景を見るにつけ、『ああ、安倍さん、驕ってきたな』と感じたものでした」

驕る平家は久しからず--、安倍首相がこの言葉を知らないとは思えないのだが。もっと見る


※ おやおや (゜д゜)民主党政権時にも こんな論調でしたかしら?

2013年12月17日 08時26分43秒 | 色んな情報

※ おやおや (゜д゜)民主党政権時にも こんな論調でしたかしら?
それとも "自虐" に喜びを感じる方々なのでしょうか?
いつまでも女々しくダラダラと!(女性に失礼か?)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

■週刊プレイボーイ52号「自民党政治家たちの驕りたかぶり、チョーシ乗りすぎ!!大放言録!!」より

万能感に浸っている安倍首相の「驕りたかぶり」の正体
          週プレNEWS 12月16日(月)10時0分配信...

衆参両院で圧倒的多数の議席を占め、自民党の"独裁"を印象づけた2013年。その増長ぶりは、日が経つごとにひどくなっている。

その代表が、特定秘密保護法の採決だ。テレビ朝日コメンテーターの川村晃司氏も、「所信表明で触れなかった法案を抜き打ち的に提出し、十分な審議をしないまま、数の力で強引に押し通す。自民党の過去の歴代政権に比べても、かなり異常な国会運営」と厳しい評価を下す。

「修正協議もめちゃくちゃで、当初30年だった秘密解除の年数がなぜか倍の60年に。修正は法案をよくするためのものなのに、逆に『倍返し』で悪くしているのだからひどいものです。

しかも強行採決後の首相会見で、『もっと時間をとって丁寧に説明すべきだった。反省している』なんてセリフをしれっと口にする。そんな反省をするくらいなら、国会を延長してでも論議を尽くすべきです。安倍首相は国会と世論をなめているとしか思えません」(川村氏)

えたいの知れない万能感に浸っていて、誰の意見にも耳を傾けようとしない--、それが現在の安倍政権だ。川村氏が続ける。

「明らかに安倍官邸は驕(おご)っています。今の自分はなんでもできると思い込んでいるようです。三権分立のなかで、行政だけが飛び抜けて強くなっている。秘密保護法案をめぐる国会運営を見ても、行政権の独裁、安倍独裁がスタートしたという印象を強く持ちます」

実は、安倍首相の驕りは参院選勝利後に始まったものではない。今年の春の時点で、「首相にはすでにその兆候が見え隠れしていた」と指摘するのは、政治評論家の浅川博忠氏だ。

「今年3月の通常国会のこと。民主党の海江田さんや細野さんが年金、原発、尖閣などのテーマで、安倍首相に論戦を挑んだことがありました。ところが、首相はその質問にろくに答えず、『あなた方の政権で実行できなかったじゃないか。なぜ、やらなかったのか』と一刀両断に切り返すんです。すると、野党側の質問者は絶句して二の句が継げなくなってしまう。そんなシーンが目につきました。

しかし、安倍首相の答弁姿勢は憲政、民主主義の観点から言えば、あまり褒(ほ)められたものではありません。権力の座にある者はいくら多数を占めていても、丁寧に論議に応じるべき。ところが、安倍首相はそうせずに、質問者を一刀両断にして勝ち誇ってしまう。この程度の野党、民主党なら上から叩いて潰してしまえという気持ちがありありです。私はそんな光景を見るにつけ、『ああ、安倍さん、驕ってきたな』と感じたものでした」

驕る平家は久しからず--、安倍首相がこの言葉を知らないとは思えないのだが。もっと見る


財務省は13日にインドネシア、フィリピン、シンガポールと

2013年12月17日 08時00分02秒 | 色んな情報

財務省は13日にインドネシア、フィリピン、シンガポールと
通貨スワップの拡充・再締結で合意したと発表しています。
日=インドネシア間の二国間通貨スワップ取極を拡充しました
日=シンガポール間の二国間通貨スワップ取極の再締結に係る基本合意に達しました

日=フィリピン間の二国間通貨スワップ取極の拡充に係る基本合意に達しました
(3件とも12月13日財務省報道発表)

対中を睨んでのこうした連携強化は評価してよいと思います。
徹底的に中韓をはずした外交を行っています。

ただ、残念なのはこうした対中包囲網を展開する外交や
国内の多くの問題に対応していて余裕がないために
麻生政権で止めたはずの「中国遺棄化学兵器処理事業」が
鳩山内閣で復活されてからいまだ止められていません。

安倍内閣は自民党内で決して強固な基盤があるわけではないので
この隙にと党内の媚中派がかなり巻き返しているという実情があります。

ついでに野田聖子とかいうどうしようもないのが
(野田と付く政治家にロクなのがいない)
カジノ法案を維新や民主などの有志議員と組んで提出しています。
(案の定、民間企業を前提としている内容)

内閣がせっせと仕事をする事も大切ですが、
こういうよくない動きについて
有権者の側から声を上げて反対していかないとならないと思います。