「最近の若い人は知らないんですよ」。安倍総理の靖国参拝の支持率の高さを若者の無知と言うTBS岸井
安倍総理が誕生して「日本を取り戻す」と言ったら、こう言う人たちがいました。「取り戻して戦前の軍国主義になるのか」「昔の日本は戦争をした悪い国だ。しかも戦争賛美で国民は軍国主義者たちに抑圧された封建主義で暗黒時代だった。そんな時代にさせてはいけない」・・・。昔の日本は悪いものだと決め込んでいる人たちです。こういう人たちがマスコミの解説員や大学教授、弁護士、官僚となり、天皇崇拝と靖国参拝といえば悪の権化としか思い浮かばないのです。...
これは戦後教育を受けてきた日本人が真実の歴史を習っていないからです。だから日本は革命を起こして変えていかなければダメになると言って学生運動に立ち上がり、多くがその意味することさえ分からずに破壊活動をしていたのです。そしてその残党が初老に差し掛かった今もデモや抗議活動をして日本をダメにしようとしています。
安倍総理の靖国参拝を受けて12月29日のTBSのサンデーモーニングは安倍総理の靖国参拝に対する批判一色の報道をしていました(画像)。しかも彼らの言っている間違いを出演者の誰も指摘せずに、そのまま公共の電波に乗って多くの日本人が見ていたのでしょう。
毎日新聞の記者で現在は特別編集委員の岸井成格の発言は自分がどれほどのものか知りませんが、視聴者、特に若い世代の安倍総理の靖国参拝支持の高さに対する「お前ら若造が何を知っているのか」と言わんばかりの言い方でした。
以下、岸井某の発言。
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「結論から言うと、皆さんが仰っているとおり(安倍首相は)判断を誤ったと思いますね。それからやっぱり、(安倍総理の)歴史認識は基本的に間違っていますね。そこがやはり外国から見ると懸念。中国、韓国、あるいは今度の国際的な反応というのは予想された範囲だとしても、そもそも何で靖国参拝が問題かということが、最近の若い人は知らないんですよ。
まず第一点は憲法違反の疑いが非常に強いと言う事なんですよ。政教分離というのは憲法の原則なんです。政治は宗教に直接関わってはいけないんです。特にその中でも靖国神社というのは特殊中の特殊な神社なんです。靖国神社というのは幕末から始まった軍国のための、戦争のための神社なんです。だから国民が国のために犠牲になればそこに祀ります、ということをずっとやってきたわけです。そういう特殊な神社に総理が参拝するということは、正に憲法違反である疑いが強いから駄目ですよということ。ややこしく『公式参拝じゃないから』とか、『私的なんです』とか、玉串料もポケットマネーで払ったとか、非常にややこしいやり方をしているのは、憲法問題があるからです。
第二はやっぱり35年前にA級戦犯を祀ってしまった問題、日本の戦争の責任者をそこに祀っちゃったと…そこへお参りするということはいくら(安倍首相が)『分離して考えてます』と言ってもそうはいかない。各国が懸念を表明したのはソコがまずある。大事な事は、当時の昭和天皇が靖国参拝を止めた事。今の天皇皇后両陛下も参拝されないんです。それは行ってはいけないと思っているから行かないんです。その事を今の若い人は知らないんですよ」
イメージ 2
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岸井:「(靖国は)軍国のための、戦争のための神社なんです」
靖国は戦争のための神社ではなく、御国のために命を捧げた方々をお祀りするため、戦前は別格官幣社として国が護持していた神社でしたが、戦後は宗教法人とされてしまいました。
岸井のような間違った認識の者が恥ずかしくもなくテレビで堂々と論じていることが日本をダメにしてきた要因なのです。
岸井:「政治は宗教に直接関わってはいけないんです」
これを言うならばまずは公明党に言ってから言うべきです。創価学会の聖教新聞がスポンサーのTBS のお抱え岸井某が何を言っているのか、であります。
岸井:「玉串料もポケットマネーで払ったとか、非常にややこしいやり方をしているのは、憲法問題があるから」
これは憲法問題があるからではありません。単にマスコミが騒ぐからです。1977年の津市地鎮祭訴訟でも最高裁は市の公金による地鎮祭の玉串料支出は憲法違反ではないとの判決が出て、時の政権はこの判決を受けて総理の靖国参拝や玉串料の公費支出も合憲で問題ないとの見解を出しました。当時の藤波官房長官は靖国懇を設けて玉串料や祝詞奏上を「供花料」として公費支出することにしました。
岸井:「35年前にA級戦犯を祀ってしまった」
日本にはA級戦犯なるものは存在しません。日本はサンフランシスコ講和条約発効後の主権を回復して真っ先に取り組んだのが戦犯といわれる方々の名誉回復です。時の法務院総裁(現法務大臣)が国会で「戦犯と呼ばれた方は国内法では犯罪人ではない」と発言しました。それをいまだにA級だとか言っているのは歴史を知らないシナと韓国であり、それにおもねる反日日本人や無知な政治家なのです。
岸井:「当時の昭和天皇が靖国参拝を止めた事。今の天皇皇后両陛下も参拝されないんです。それは行ってはいけないと思っているから行かないんです。その事を今の若い人は知らないんです」
これは昭和天皇最後の御親拝となった1975年11月21日の前日、20日に内閣法制局長官・吉国一郎が「天皇陛下の靖国神社への御親拝は憲法違反とはならないが大きな問題となる」と発言されてそれ以降、御親拝されなくなったのです。陛下の御親拝は憲法違反ではないと明確に答えています。また同年8月15日には三木武夫総理が公人か私人かで政治問題化していたことも要因にあったことでありましょう。
陛下の御心は畏れ多くも我々ごときが忖度してはいけませんが、岸井某があまりにも勝手なことを言っているので、あえて言わせて頂くと「行ってはいけない」から行かないのではなく、政治が決断しないから、と言うことでありましょう。岸井某は若い者に対して「知らないくせに」という言い方ですが、岸井某よりもネットで事実を知った若い者の方が余程、真実を知っているのではないでしょうか。
以上のことから、歴史認識が間違っているのは安倍総理ではなくて、恥知らずな岸井本人であるのです。
「英霊は、「日本国民の総意」として、靖国神社に祀られている」
終戦後、社会党の堤ツルヨ衆議院議員は、...
「遺族は国家の補償も受けられないでいる。
しかもその英霊は、靖国神社の中にさえ入れてもらえない」と発言。
英霊達を靖国神社に合祀するよう、強く訴えました。
そして1953年8月、遺族援護法が改正され、
敵国による軍事裁判で有罪とされた方々は、
日本の国内法では罪人と見なされないという判断基準が明確に示され、
遺族に年金と弔慰金が支給されることとなりました。
これは、与野党全会一致での可決でした。
戦勝国により、戦犯とされた方々は、
当時、1860名いましたが、日本国内で、
戦犯釈放署名に4000万人が署名され、釈放が実現しました。
靖国神社合祀については、終戦までは陸軍省、
海軍省が祭神名票を作成し、靖国神社が受理していました。
戦後は、厚生省が戦没者を個別審査し、祭神名票を作成し、
靖国神社が受理、合祀しています。
つまり英霊は、靖国神社が決めているのではなく、
「日本国民の総意」として、靖国神社に祀られているのです。
アジア解放の為、愛する日本を守る為、
そして、後世の私達、日本国民が幸せに生活出来る為、
大東亜戦争に命を捧げた英霊達の為にも、
現代の私達が、
先人達が守りぬいた日本を守り続けなければなりません。
メキシコ… 共存できない民族と報道
フィリピン… 当局が自国女性に韓国人警戒令
カンボジア…国民に韓国人男性との結婚禁じる
ベトナム… 国民に韓国人男性との結婚禁じる...
ネパール… 「韓国人はささいなことですぐ殴るから」という理由で
「今後、韓国人登山客の道案内はしない」と公式に表明
キリバス… 性が乱れた人たちを「コレコレア」と呼ぶ。
アメリカ… 韓国人によるレイプ注意警告を公式に出した。
黒人紙で「韓国人は下劣、貪欲、傲慢、差別主的」と報道。
NASAが韓国人と韓国系アメリカ人の出入り禁止。
イギリス… 「韓国はW杯開催してはいけない馬鹿な国」と報道された。
台湾… 国交を餌に韓国車輸入させた直後に断交。韓国に対する感情は最悪。
パラオ… 手抜きのKBブリッジが崩落。 韓国は損害賠償など一切せず。
スイス… 「韓国人を見たら犯罪者と思え」と報道。
ナイジェリア…「呆れる人種差別する韓国人」と報道
カンボジア…「韓国人の空港マナーは最悪」と報道
フランス… 国民の40%が韓国を知らない、60%が韓国を知りたくない。「ジャパンエキスポをコリアンエキスポなんて名前にしたら誰も来なくなる」
イタリア… 韓国の誇るPSY()に国民一斉に大ブーイング
ドイツ… 国民の過半数が一番嫌いな国は韓国。
「韓国人見ると殴りたくなる」「韓国人は目が小さくて気持ち悪い!死ね!」
イラン… 韓国ベンチに近づいたイランのサッカー選手が、
韓国のコーチングスタッフに2度殴打される。親善試合を拒否
キルギス… 韓国人男性との結婚を禁じる法案検討中
●初詣(はつもうで)
◆初詣 http://p.tl/7GnW
読み方:ハツモウデ(hatsumoude)
大晦日の夜半から元日にかけて、所の氏神に初参りすること。
◆がんじつ ぐわん― 【元日】
一年の最初の日。一月一日。国民の祝日で、年のはじめを祝う。[季]新年。
★★★★★
・がんにち ぐわん― 【元日】
〔呉音〕がんじつ。正月一日。
「―、なほおなじとまりなり/土左」
◆元日(がんじつ)http://p.tl/A0q8
年の最初の日、日付は1月1日(改暦前は旧暦1月1日)。日本では国民の祝日に関する法律(昭和23年7月20日法律第178号)第2条により年のはじめを祝う日として国民の祝日とされている。日本以外の国でも祝日となっている国は多い。
◆うじがみ うぢ― 【氏神】
(1)古代の氏族が共同でまつった祖先神、あるいはその氏と特に縁故のある守護神。また、それをまつった神社。藤原氏の祖先神としての天児屋根命(あまのこやねのみこと)、守護神としての鹿島神宮・香取神宮、忌部氏の太玉命(ふとたまのみこと)、源氏の八幡宮など。一門一族の神。
(2)室町時代以降、同一の地域内に居住する人々が共同でまつる神。産土神(うぶすながみ)。
(3)屋敷神のこと。
◆うじがみ 【氏神】世界宗教用語大事典
日本で、氏(血縁関係のある家族群で構成された集団)の祖先の霊を神として祀ったもの。または、土地の鎮守の神(産土神)。そこの住人を氏子という。→ 産土神
◆氏神(うじがみ) 神道用語
氏子が住んでいる地域をお守りする神社。古くは同じ一族(氏族)が祀っていた神さまを氏神さまといったが、のちに主として地域の守り神を意味するようになった。氏神に守られている地域の人々すべてを氏子といい、住所によって氏神・氏子の関係が決まる。
◆氏神 神社用語集
読み方:うじがみ
古代に氏族が祖先神や守護神を一族一門の神として祭ったものです。その後、氏族制度の崩壊で同じ地域に多数の氏族が住むようになり、土地の神である産土神 (うぶすなかみ) と混同して用いられることが多くなりました。
◆氏神(うじがみ)http://p.tl/Dbpy
日本において、同じ地域(集落)に住む人々が共同で祀る神道の神のこと。
同じ氏神の周辺に住み、その神を信仰する者同士を氏子(うじこ)という。
現在では、鎮守(ちんじゅ)ともほぼ同じ意味で扱われることが多い。
氏神を祀る神社のことを氏社という。
◆元旦・初詣 ご贈答マナー
元旦(がんたん)について
元旦は年の最初の日「元日(1月1日)の朝」のことを言いますが、現在では元日そのものを表わす言葉として元旦が一般的に用いられてます。
正月の最初の日(第1日目)のことを言いますが、正月3日間のことを「元三日(がんさんにち=または、げんさんにち)=年の初めの3日間との意」といい、「旦」とは朝や明け方という意味で、「年が明けた3ヵ日の最初の日」ということを表しています。
年の初め・月の初め・日の初めであることから「三始(さんし)」とも言われます。
初詣(はつもうで)について
本来は大晦日の夜半(または元日の早朝)に、恵方参りと言って「恵方(えほう=その年の歳徳神の方角=干支により定められる)」に位置する社寺に詣でる習慣がありました。
現在では大晦日にお寺に参拝して除夜の鐘を聞いて、その足で神社に詣でる人が増えつつあるようです。
一般的には正月三ヶ日間のいずれかに、1年間の厄払いと無病息災を願って、地域の神社に詣でることが多いようです。
神社での正式な参拝の仕方
お賽銭を賽銭箱へ投げ入れます。
神殿に垂れ下がっている縄紐を振って鈴を2縲怩R回鳴らします。
二拝(二礼=両手を合わせたまま頭を二回下げる)・二拍手(二回柏手を打つ)・一拝(一礼=再び両手を合わせて頭を一回下げる)の順に拝礼をします。
※喪中の場合は初詣を避け、4日以降または松の内以降か小正月以降に参拝するのが良いとされています
◆初詣 季語・季題辞典
読み方:ハツモウデ(hatsumoude)
元日に氏神に参り、またはその年の恵方に当たる神社仏閣に参詣すること
季節 新年
分類 宗教
◆初詣(はつもうで)http://p.tl/7GnW
年が明けてから初めて神社や寺院などに参拝する行事。
一年の感謝を捧げたり、新年の無事と平安を祈願したりする。
初参り(はつまいり)ともいう。
◆がんじつ ぐわん― 【元日】
一年の最初の日。一月一日。国民の祝日で、年のはじめを祝う。[季]新年。
★★★★★
・がんにち ぐわん― 【元日】
〔呉音〕がんじつ。正月一日。
「―、なほおなじとまりなり/土左」
◆元日 短編小説作品名辞典
作者夏目漱石
収載図書漱石全集 第12巻 小品
出版社岩波書店
刊行年月1994.12
収載図書夢十夜 他二篇
出版社岩波書店
刊行年月2003.4
シリーズ名岩波文庫
収載図書夢十夜 他二篇
出版社岩波書店
刊行年月2007.1
シリーズ名ワイド版岩波文庫
◆元日(がんじつ)http://p.tl/A0q8
年の最初の日、日付は1月1日(改暦前は旧暦1月1日)。
日本では国民の祝日に関する法律(昭和23年7月20日法律第178号)第2条により年のはじめを祝う日として国民の祝日とされている。
日本以外の国でも祝日となっている国は多い。
◆
◆一月一日 短編小説作品名辞典
作者永井荷風
収載図書荷風小説 1
出版社岩波書店
刊行年月1986.5
収載図書あめりか物語
出版社講談社
刊行年月2000.5
シリーズ名講談社文芸文庫
◆1月1日(いちがつついたち)http://p.tl/U6wW
グレゴリオ暦で年始から1日目に当たり、年末まであと364日(閏年では365日)ある。誕生花は松(黒松)。又は福寿草。
◆正月(しょうがつ、しょうがち)http://p.tl/Z-0T
各暦の年初のことである。文化的には旧年が無事に終わった事と新年を祝う行事である。正月飾りをし、正月行事を行ったり正月料理を食べて、盛大に祝う。
日本では、1月1日の元日のみを国民の祝日としているが、実際には少なくとも3日までの三箇日は事実上の祝日と同じ状態となる。
◆元旦 http://p.tl/zGsm
元日の朝のことを特に元旦(がんたん)、元朝(がんちょう)とも呼び、今でも小学校の書き初めや年賀状などに使われる。
「旦」は「日」と地平線(一)からなる指事文字で、一日のはじめ、朝を表す。「元」も「はじめ」の意味があり、熟語の「元旦」とは本来「一年のはじめ」である「元日の朝」を意味するが、「一年のはじめ」の意味が転じて「元日」そのものを表すようにもなった。国語辞典には「元日(の朝)」と両方の意味を表すように書いてある物もあり、どちらの意味でも誤りとはいえない。「元旦」は元日の何時から何時までを指すといった細かい決まりはもとより存在しない。
●除夜の鐘
◆じょや-のかね ぢよや-のかね 【除夜の鐘】
大晦日の午後一二時頃から元旦にかけて、仏教寺院で打ち鳴らす鐘。百八煩悩(ぼんのう)を除く意味をこめて一〇八回つき鳴らす。百八の鐘。[季]冬。
◆除夜の鐘(じょやのかね)http://p.tl/k7lF
日本仏教にて年末年始に行われる年中行事の一つ。
12月31日の除夜(大晦日の夜)の深夜0時を挟む時間帯に、寺院の梵鐘を撞(つ)くことである。
中国から宋代に渡来した習慣とも言われる。
梵鐘自体のことではない(通常の梵鐘が使われる)。
・108つの由来
除夜の鐘は多くの寺で108回撞かれる。この「108」という数の由来については次のような複数の説がある。格別にどれが正しいということはないが一般には煩悩説が有名である。
なお、寺により、撞く回数は108回と決まらず、200以上の場合等がある。
1. 煩悩の数を表す
眼(げん)・耳(に)・鼻(び)・舌(ぜつ)・身(しん)・意(い)の六根のそれぞれに好(こう:気持ちが好い)・悪(あく:気持ちが悪い)・平(へい:どうでもよい)があって18類、この18類それぞれに浄(じょう)・染(せん:きたない)の2類があって36類、この36類を前世・今世・来世の三世に配当して108となり、人間の煩悩の数を表す。
2. 一年間を表す
月の数の12、二十四節気の数の24、七十二候の数の72を足した数が108となり、1年間を表す。
3. 四苦八苦を表す
四苦八苦を取り払うということで、4×9+8×9=108をかけたとも言われている。
・作法
鐘を撞く前には鐘に向かって合掌する。108回撞く寺院においては、多くが108回のうち107回は旧年(12月31日)のうちに撞き、残りの1回を新年(1月1日)に撞く。ただし、静岡県富士宮市の大石寺では例外的に年明けと同時に1つ目が撞かれる。
・除夜の鐘と放送[編集]上野・寛永寺にて1927年(昭和2年)、JOAK(NHK東京局の前身である社団法人東京放送局)のラジオによって史上初めて中継放送された。
NHK総合テレビ『ゆく年くる年』で、日本各地の寺院にて除夜の鐘が撞かれながら年が明ける様子を全国中継しているが、『ゆく年くる年』の番組開始当初のタイトルこそ『除夜の鐘』であった。
・その他の鐘
・朝夕の鐘
108回の鐘は本来、除夜(大晦日の夜)だけでなく、平日の朝夕にも撞かれるべきものである。しかし、普段は略して18回に留められる。
・初夜の鐘(そやのかね)
午後8時、その日最初に撞かれる鐘。正岡子規が詠んだ「柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺」の「鐘」は、奈良・東大寺の初夜の鐘であった。
◆除 夜 の 鐘(じょやのかね)
大晦日の夜(よる)(除夜)に、0時の前後に108回鳴らす(ならす)鐘(かね)。旧年に107回、新年に1回撞かれる。
発音
じょ↘やのかね
関連語
除夜
行く年・来る年
初詣
初日の出
◆煩悩 http://p.tl/0aSB(ぼんのう、梵: क्लेश, kleśa, クレーシャ、巴: kilesa, キレサ)
仏教の教義の一つで、身心を乱し悩ませ智慧を妨げる心の働き(汚れ)を言う。英語では、Kleshasと表記する。同義語として、「漏」(ろ、梵: aśrava, アーシュラヴァ、巴: asava, アーサヴァ)が用いられたりもする(例:漏尽通)。
原始仏教では、人の苦の原因を自らの煩悩ととらえ、その縁起を把握・克服する解脱・涅槃への道が求められた。部派仏教の時代になると、煩悩の深い分析が行われた。
大乗仏教の時代でもこの分析は続けられ、特に唯識が示した心と煩悩の精緻な探求は仏教が到達した一つの究極点といえよう。またこの時代には、煩悩を否定しないというそれまでの仏教には無かった発想も生じてきた(如来蔵)。この両者の思想はその後の大乗仏教に深く影響を与えた。
このように煩悩の観念は時代を経るに従い、様々な意味を付加して深化しているといえよう。
◆数珠(じゅず、ずず)は穴が貫通した多くの珠に糸の束を通し輪にした法具。
仏を念ずる時に用いる珠との意味から「念珠」(ねんじゅ)とも呼ばれる。
字の前後を入れ替えて「珠数」と書く場合もある。
◆珠の数 http://p.tl/B7Yt 数珠の珠(たま)の数 / 撞かれる除夜の鐘の数
数珠の珠の数については、『木槵子経』などの経典に説かれている。珠の数については108珠を基本とし、さらに1080、54、42、27、21、14のものが説かれている[注 1]。
またこれらの数字は、百八煩悩あるいは金剛界百八尊、五十四位、四十二位、十八学人と九無学、二十七聖賢、二十一位、観音十四無畏などを象徴するものとして意味づけられている。
●大晦日
◆おおみそか おほ― 【大晦日】
一年の最後の日。一二月三一日。おおつごもり。[季]冬。
◆大晦日 ご贈答マナー
大晦日について
月の終わりを晦日(30日=みそか)といい、1年の終わりの日を大晦日(おおみそか)という。 除夜の鐘を鳴らして1年のけがれを清め、延命と幸せが長く続くことを祈って年越しそばを食べ、新しい年神様を迎える準備をする日とされている。
・除夜の鐘
大晦日のことを別名で除日【その年を除く(終える)日の意】といい、その夜に鳴らす鐘という意 味から除夜の鐘という。人は108つの煩悩を持つといわれ、その煩悩を百八尊(108の仏や菩 薩)の功徳によって、一年間の苦悩や迷いを洗い流して貰い、新しい気持ちで新年が迎えられるこ とを願って、百八つの鐘を撞き鳴らす習わしが定着している。
・除夜の鐘の数と煩悩の数について
元々、除夜の鐘を108つ撞くという風習は中国から伝わったものですが、108つという数そのものの根拠はまちまちで、人間の煩悩数説の他に太陰暦の暦数説などが伝えられています。
・人間の煩悩数説
人間の煩悩数説では、煩悩というものが「自己中心の考えやその考えに基づくモノごとへの執着から生ずる感情や感覚=欲望」という定義は共通しているものの、その煩悩の数は中国古来の仏教宗派によっても異なっており、108つの煩悩の中身そのものも異なっているようです。
その一つに、六根【6つの感覚=眼・耳・鼻・舌・身体・意思】にそれぞれ三不同【3つの感情=好(好き・良い)・平(普通・無感)・嫌(嫌い・悪い)】があり(18)、六塵【6つの感情=色・声・香・味・触・法】にそれぞれ三受【3つの感情=楽・捨・苦】があり(18)、それぞれ(18+18)が三世【3つの時空=過去・現在・未来】に生じる(36×3)ことから、108つの煩悩があるとされている説があり、六根の三不同に(18)、それぞれニ状態【清浄・汚染】が(36)あり、その三世【3つの時空=過去・現在・未来】で108つとする場合もあるようです。
・太陰暦の暦数説
太陰暦の暦数説というのは、「一年の12ヶ月」に「72候(太陽の黄道を5度ごとに分けた候)」と「24節気(3候を1気とした節)」を積算した数が108になるとした説をいいます。
◆大晦日(おおみそか)http://p.tl/yjqY
1年の最後の日。天保暦(旧暦)など日本の太陰太陽暦では12月30日、または12月29日である。
現在のグレゴリオ暦(新暦)では12月31日。翌日は新年(1月1日)である。
大つごもりともいう。日本では、年神を迎えることにちなむ行事が行われる。
・名称[編集]旧暦では毎月の最終日を晦日(みそか)といった。晦日のうち、年内で最後の晦日、つまり12月(または閏12月)の晦日を大晦日といった。元々“みそ”は“三十”であり、“みそか”は30日の意味だった。ただし、月の大小が年によって変動するので、実際には29日のこともあった。後の新暦の12月31日を指すようになった。
大晦日を大つごもりともいった。「つごもり」は、晦日の別名であり、「月隠り(つきごもり)」が転じたものである。
・文化
日本における大晦日という慣習は、日本文化に古くからある「歳神様」(としがみさま)、または「歳徳様」(としとくさま)への信仰に基づく儀礼から生じており、これらは歳徳神などとも呼ばれるその年一年間を司る神様である。年の初めから来られるため、「正月様」(しょうがつさま)とも呼ばれ、各年によって来られる方向が異なり、その方角は「恵方」と呼ばれる。この神様は神社のような宗教施設ではなく各家々に訪れると昔から信じられていたため、神様をお迎えし食事を共にしたりするために大晦日から「年籠り」(としごもり)をして(元旦に恵方にある近所の神社へ参拝する恵方詣りをすることもあるが)元旦も家で過ごすことが一般的であった。後に歳神様が家に来られるという観念がほとんど無くなり、一般庶民が正月三が日などに神様に願いを伝えるためにこちらから神社へ参賀する「初詣」を行うようになっているが、そのきっかけは、明治20年代に官公庁から始まった元旦に御真影を拝む「新年拝賀式」と、1891年(明治24年)の「小学校祝日大祭日儀式規定」により元旦に小学校へ登校する「元旦節」などを経て、関西の鉄道会社が正月三が日に(恵方とは無関係な方角の)神社へ初詣を行うというレジャー的な要素を含んだ行事を沿線住民に宣伝しこれが全国にまで広まったことで、年籠りという習慣は次第に失われたとされる[2]。
日本の平安時代に行われていた大晦日の宮廷儀礼の1つに「鬼やらい」とも呼ばれる「追儺」(ついな)がある。年の変わり目という最大の節分において、「鬼」で表現される良くない何かを追い払うために方相氏(ほうそうし)と呼ばれる恐ろしい扮装・いでたちの導士によって執り行われる古い行事であるが、これが後の節分行事に変化したとされる。恐ろしい姿の演者としては、日本の郷土文化として大晦日や旧正月などに「なまはげ」などが行われている。
・大晦日の行事
大晦日には、様々な年越しの行事が行われる。年越しの夜のことを除夜(じょや)とも言う。かつては、除夜は年神を迎えるために一晩中起きている習わしがあり、この夜に早く寝ると白髪になるとか、皺が寄るとかいった俗信があった。
また、大晦日の伝統的な風習には以下のようなものがある。
・年越し蕎麦(地方によっては他の食事)
・除夜の鐘(108つの煩悩を祓う)
・二年参り(初詣)
・雑煮(古くは、大晦日の夜から一日が始まるため既に新年であり、正月の食事をとる家庭もある)
・お年取り(長野県などで行われるごちそうなどを食べる行事)[4]
神社仏閣や各地方では伝統的な行事が行われ、その他にも年越しを祝うイベントが行われる。また、そういった行事やイベント、初日の出など元旦のイベントの為に移動する人が多いため、電車などの交通機関が日常は営業時間外となっている深夜に営業する事もある
◆おおつごもり おほつごもり 【大つごもり】
小説。樋口一葉作。1894年(明治27)「文学界」発表。薄幸の少女お峰の女中生活を通じての哀感を、大つごもりを背景に描く。
◆つきごもり 【月隠り/晦】
〔「つきこもり」とも。月が隠れる意から〕月の末日。みそか。つごもり。[新撰字鏡]
★★★★★
・つごもり 【晦/〈晦日〉】
〔「月ごもり」の転。月が隠れて見えなくなる頃の意〕
(1)月の末の日。みそか。
「水無月の―に」
(2)陰暦で月末の数日もしくは月の下旬の一〇日ほどの間。
「かくて―になりぬれど…二十八日にぞれいのひもろぎのたよりに/蜻蛉(下)」
★★★★★
・つもごり 【晦】
「つごもり(晦)」の転。
「まづ今日は―でなし/浮世草子・禁短気」
◆大阪弁 訳語
つごもり みそか(晦日)
解説 晦。月末。「おおみそか」は、「おおつごもり」となる。年越しそばなんぞ食べんと、つごもりうどん食べや。
◆晦日(かいじつ、つごもり、みそか)http://p.tl/Y4ug
太陰太陽暦の暦法である中国暦、和暦の毎月の最終日のことである。
具体的には、小の月では29日、大の月では30日となる。翌月の朔日の前日となる。
月相を表す弦・望・晦・朔に由来するもので、「朔」が月が現れることを意味するのに対し、「晦」は月が隠れることを意味する。
・つごもり、みそか
晦日にあてられる訓のうち、「つごもり」は「月隠り(つきごもり)」が転じたもので、本来は月相の「晦」の意味である。
「みそか」は本来は「三十日」の古い表現(ふつか、みっか、…と続く先にある言葉)だが、実際の日付にかかわらず月の最終日を指す。「みそか」が29日を指す月には30日は存在しないので、混乱が起こることはない。
日本の戦争犯罪:ごめんなさい?
Adrian Salbuchi (政治評論家・コメンテーター / アルゼンチン)
...
日本の安倍首相の靖国神社参拝に、中国と韓国が激怒している。
靖国神社は250万人の戦没者を祀る東京の神社だ。多くの人が怒っているのは、この19世紀創建の神社に祀られている人々の中に、米国の占領軍によって「戦争犯罪人」という烙印を押された第二次大戦時のヒーローらが含まれているためだ。その中には、米国によって1948年に処刑された戦時指導者東條英機大将など、「戦争計画」に関わったとされる14人の「A級戦犯」も含まれている。
戦勝国が敗戦国に対して当然に獲得する権利は、領土要求に関するものだけではない。敗戦国の都市や土地、国民、資源、工場、特許権、軍事装備、そして国際法上の諸権利に対しても、完全かつ欲しいままに支配する権利を、戦勝国は獲得する …… 悲しむべきことだがこれが現実だ。
そして戦勝国は、戦争の端緒となった対立に関する歴史記述を書く(あるいは書き直す)「権利」をも獲得する。
自国の見解・論理を「真実」とする権利を獲得し、敗戦国を「間違った国・邪悪な国・戦犯国・ 侵略国」だと非難するのである。
「俺たちは善人、相手は悪者だ。」「私たちの息子らは英雄。向こうは殺されて当然の悪魔だ、2歳の幼児までも。」という考えは人類の歴史を同じほど古い。
第二次大戦後の70年間のプロパガンダが明瞭に示しているとおり、20世紀と21世紀も例外ではない。
だが日本は今なお屈しようとしない。これは賞賛すべきことだ。
平身低頭して世界に再三再四赦しを請うているドイツの姿とは対照的だ。だがドイツ自身も良く了解しているとおり、たとえ何度謝罪しようと、
世界のメディア・出版・教育を支配する人々は決してドイツに赦しを与えることはあるまい。
歴史認識についてハラキリしたドイツとは違って日本は顔を伏せず、敢然として軍事的敗北の結果に 耐え続けている。倫理面で屈服してはいないのだ。
なるほど確かに、連合国による極東国際軍事裁判、いわゆる「東京裁判」の結果、日本の多くの軍事・ 政治指導者らが「A級戦犯」だとされた。だが安倍首相は、2006年にJapanTimesで報じられたとおり、「靖国神社に祀られた14人のA級戦犯は国内法上の犯罪者ではなく、東京裁判の結果を日本が受け入れたのは独立を回復するためのものだった。<中略>A級戦犯の起訴理由となった『平和と人道に対する罪』は連合国によって戦後に作られた概念で、法律に定められたものではない」と考えている。
日本よ、良くぞ言ってくれた。もし我々が、戦勝国・敗戦国を問わず全ての国の戦争犯罪を真摯に罰しようとするなら、とんでもない規模の国際軍事裁判所が必要だろう。そしてその裁判所は、ダブルスタンダードと検閲から自由でなければならない。そう、ダブルスタンダートから、だ。
<後略。ドレスデン空襲や原爆投下で連合国が多数の民間人を殺傷しているが戦争犯罪とはされていない点など。>
●四方拝(しほうはい)
◆四方拝 - Wikipedia http://p.tl/C60y
宮中で行われる一年最初の儀式。
戦前には四方節とよばれていた。皇室令が廃止された戦後においても、皇室の私的な行事とされる以外は旧皇室令に準拠して行われている。
元日の午前5時30分に、今上天皇が黄櫨染御袍と呼ばれる束帯を着用し、皇居の宮中三殿の西側にある神嘉殿の南側の庭に設けられた建物の中に入り、伊勢の神宮の皇大神宮・豊受大神宮の両宮に向かって拝礼した後、続いて四方の諸神を拝する。ただし、2009年の四方拝は今上天皇の高齢化に伴う祭祀の簡略化により、皇居の御所において行われた。
この時に天皇が拝される神々・天皇陵は伊勢神宮、天神地祇、神武天皇陵・先帝三代(明治天皇の伏見桃山陵、大正天皇の多摩陵、昭和天皇の武蔵野陵)の各山陵、武蔵国一宮(氷川神社)・山城国一宮(賀茂別雷神社と賀茂御祖神社)・石清水八幡宮・熱田神宮・鹿島神宮・香取神宮である。
旧暦元旦の寅の刻(午前4時ごろ)に、みかどが綾綺殿で黄櫨染御袍(こうろぜんのごほう:みかどの朝服)を召され、清涼殿東庭に出御して「嘱星御拝御座」に着座して天皇の属星に拝礼、次に「四方御拝御座」に着座して天地四方の神霊に拝礼、最後に「山陵御拝御座」に着座して父母の天皇陵(父母が健在の場合には省略)などの方向を拝し、その年の国家・国民の安康、豊作などを祈った[2]。「嘱星御拝御座」・「四方御拝御座」・「山陵御拝御座」は“三座”と称された。明治以前においては、院政を行っていた院が四方拝(「院四方拝」)を行う例もあった。なお、天皇が行う他の拝礼では、摂関や神祇伯が代拝することがあったが、四方拝は天皇本人の守護星や父母に対する拝礼であるため、代拝は行われなかった。江戸時代に雅喬王(白川雅喬)が著した『家説略記』には四方拝は守護星・祖廟を拝礼する儀式であると述べて神道儀礼であることを否定している(「非神祭」)ことから、四方拝が道教や陰陽道の下に成立した儀式であって、本来神道とは無関係な儀式であった可能性もある。
このとき唱えた言葉は、『内裏儀式』・『江家次第』に掲載されている。
これらによると、
“ 賊寇之中 過度我身、毒魔之中 過度我身、危厄之中 過度我身、五危(厄とも)六害之中 過度我身、百病除癒、所欲悩心、急々如律令 ”
とある。
天皇の四方拝に倣って貴族や庶民の間でも行われ、四方を拝して一年間の豊作と無病息災を祈っていたが、時代を経るごとに宮中行事として残るのみとなった(ただし、江戸時代においても摂家など一部の公家の間でも四方拝が行われていた記録も残されている)。
◆史上初!天皇陛下の正月祭祀 【四方拝】 http://p.tl/NRXF
◆しほう‐はい〔シハウ‐〕【四方拝】 http://p.tl/p7N7
《近世は「しほうばい」とも》1月1日の早朝に行われる皇室祭祀(さいし)。天皇が清涼殿の東庭に出て、属星(ぞくしょう)・天地四方・山陵を拝し、五穀豊穣・天下太平を祈る。明治以降は神嘉殿で、皇大神宮・豊受大神宮・四方の神々を拝することに改められた。
《季 新年》「―果ててや木々に風渡る/鳴雪」
◆元日 四方拝 しほうはい 元日 朝賀 元日 小朝拝 こちょうはい 元日 元日節
◆しほうはい【四方拝】 世界大百科事典
年の初めに天皇が天地四方および山陵を拝して,年災をはらい,幸福無事を祈る儀式。清涼殿東庭に屛風八帖を立て,なかに高机三所を置き,香炉と灯台(燭台のこと),造花を供え,天皇は元朝の寅刻,屛風のなかに入り,北に向かって属星(しよくじよう),ついで天,西北に向かい地,次に四方,山陵を拝する。天皇は,これより以前に理髪,湯浴をすまし,式場に進む。その起源は642年(皇極1)8月に皇極天皇が南淵の河上で四方を拝し雨を祈ったのを例とするが,これは正月ではない。
【北極星】より
…密教の北辰北斗信仰はやがて日本にもたらされたが,東密では北辰を妙見菩薩,台密では尊星王と呼び,北斗法,妙見供,尊星王法などと称する修法を盛んに行って,国土安寧,玉体安穏を祈願した。宮中では,平安時代以後,元日の四方拝に際して天皇みずから北斗の神号を称え,北辰に向かって属星を拝し,毎年3月3日と9月3日の両日には北辰に灯を献ずる御灯,北辰祭を行った。また,陰陽寮では病気や天変地異に当たって北辰を祭る玄宮北極祭をしばしば行うなど,密教,道教の北辰北斗信仰に基づく行事が盛んであった。…
◆四方拝 【しほうはい】 百科事典マイペディア
年のはじめに天地四方を拝して年災をはらい豊作を祈る儀式。古くから行われたが,平安に入って年頭恒例の儀式となり,天皇以下広く庶民の間でも行われた。天皇は元朝寅(とら)の刻,清涼殿東庭に設けた座で行った。
※本文は出典元の用語解説の一部を掲載しています。
◆しほうはい【四方拝】大辞林
一月一日に行われる皇室祭儀。四大節の一。明治以前は元旦寅の刻に天皇が清涼殿の東庭で属星(ぞくしよう)を唱え,天地四方・山陵を拝して年災を払い,五穀豊穣・宝祚(ほうそ)長久を祈った。現在は神嘉殿の南座で伊勢皇大神宮・天地四方に拝礼する。陰陽道(おんようどう)に由来。 [季] 新年。
◆
◆「神奈川新聞」の番記者に一言とお礼を http://p.tl/KSMg
◆●今上天皇の誕生日 http://p.tl/4i62
四方拝(しほうはい)とは、宮中で行われる一年最初の儀式。 ... 束帯を着用し、皇居の 宮中三殿の西側にある神嘉殿の南側の庭に設けられた建物の中に入り、伊勢の神宮の 皇大神宮・豊受大神宮の両宮に向かって拝礼した後、続いて四方の ...
◆●ビートたけしの日本人の天皇陛下の正月祭祀【四方拝】 編集再掲載 http://p.tl/9YoW
●お焚き上げ
◆光輪寺 (朝日村) http://p.tl/uSuq
*お焚きあげ・祈願会 12月31日
長野県東筑摩郡朝日村西洗馬にある高野山真言宗の寺である。
光輪寺は長野県東筑摩郡朝日村西洗馬にある高野山真言宗の古刹。山号は青壺山(せいこざん)。
本尊は不動明王。本堂の南側に薬師堂がある。春は墓所の桜、秋の紅葉などで有名。
伝承によれば奈良時代に行基が開いた古薬師が始まりとされ、現在の光輪寺十王堂のそばにある入村集落の上に古薬師があったとされる。
中興を木曽義仲とする伝承もある。
明治期の寺社明細帳には当寺の由緒は不詳とある。
◆五社神社(ごしゃじんじゃ) http://p.tl/IHsq
長野県東筑摩郡朝日村に鎮座する神社である。
五社神社は、朝日村西洗馬に鎮座し、この西洗馬区の産土神である。
1878年(明治11年)に近くの天狗社、社宮司社、そして境内社の浅間社、天王社を合祀した。
それまでは、下諏訪社管轄の諏訪神社だったとされる。本殿は延享2年(1745年)に、諏訪の宮大工・渡辺元右衛門によって建てられた一間社流造りである。社宝には奈良時代のものとされる鉄鐸と、木製の翁面がある。5月5日の例祭は、拝殿横の御輿倉から御輿が出され、西洗馬(原新田、下洗馬、三ヶ組、上組、双葉)のいずれかの1地区を、1年に1回子供たちによって担がれ回される。また、拝殿前の土俵で奉納相撲が地区の子供たちによって行なわれる。
◆たき‐あげ 【焚き上げ】 デジタル大辞泉
1 神社の庭でかがり火をたくこと。お焚き上げ。
2 護摩(ごま)の火に札をくべ、その燃えがらの昇りぐあいで吉凶を占うこと。
3 江戸時代以来の富士講の行事。浅間(せんげん)神社や富士塚の上で、先達(せんだつ)の行者が護摩の火を焚き、無病息災・家内安全などを祈る。
◆たきあげ【焚き上げ】大辞林
1 神社で,神楽などの際に庭火をたくこと。
2 護摩をたき,その火に御札をかざし,もえがらの昇り具合で吉凶を占うこと。
3 江戸時代,富士講の行者が護摩をたき,病気平癒・家内安全などを祈願したこと。
◆お札・お守りのお焚きあげ http://p.tl/CQIz
何年も前におまつりしたお札・古くなって色あせたりヒモが
切れたりしているお守り・ほこりをかぶった縁起物などはどうなさっていますか?
おまもりやお札は、神様の魂が込められています。
いただいてからおまつりしていくうちに少しずつご利益が抜け出ていくといわれています。
ですから、何年もおまつりしておくことは、魂の抜けきった状態でおくことになります。
お札・お守りなどは1年たったら新しいものに交換する習慣をつけましょう。
◆浅草神社 | 年中行事 | お焚き上げ http://p.tl/m5Il
新しい年を迎えるにあたり、一年間お祀りした御札や御守り、また古い神棚や注連縄そして正月飾り等を粗末にならぬよう、お受けになった神社(仏閣)また氏神様にお納めし、浄火によって燃す事を「お焚き上げ」と言います。
これにより今までお守り頂いた神々に感謝の心を捧げ、諸願成就を改めて祈念する神事であり、我々日本人が永年培ってきた大切な風習の一つです。
◆「お焚き上げ」のタグが付けられた質問 http://p.tl/zMd2
◆たき‐あげ【焚き上げ】.
1 神社の庭でかがり火をたくこと。お焚き上げ。
2 護摩(ごま)の火に札をくべ、その燃えがらの昇りぐあいで吉凶を占うこと。
3 江戸時代以来の富士講の行事。浅間(せんげん)神社や富士塚の上で、先達(せんだつ)の行者が護摩の火を焚き、無病息災・家内安全などを祈る。
◆お焚き上げ|お香典返し http://p.tl/qiH4
思いを込めたものには気持ちが宿ると考えられ、必要としない状況になったときには、「ありがとうございました」という御礼を捧げ、浄火することによって天上へ還す・・・。その行いを「お焚き上げ」と言います。
古くから神棚や仏壇、人形などのお焚き上げを、神社や寺院で行っていました。
現代では、環境問題への配慮から境内での焼納や、野焼きを控える神社や寺院が多くなっております。 私どもでは、故人の大切なお品の処理に悩まれている方のために、「お焚き上げ供養」と名付け、寺院にてにより供養し、基準にそって適切に焼却処理をさせていただきます。
◆お仏壇のお焚きあげ(引き取り供養) http://p.tl/4peg
古いお仏壇の処分に困ったら、大野屋で「お焚き上げ」をしませんか。
「お焚き上げ」とは、伝統的な仏壇の処分方法として、菩提寺にて閉眼供養(魂抜き)を行い、仏壇を燃やしてもらうことを言います。
このような伝統的な方法も、菩提寺を持たない(特定のお寺の檀家となっていない)ご家庭では、お寺を探してお願いすることが困難です。また現在は、野外焼却がほとんどの地域で禁止されていたり、「供養品」の引き取り処分を行わない自治体が多く、なかなかできない状況にあります。
大野屋では、こうしたご家庭でお困りのお仏壇を引き取り、閉眼供養を僧侶にしていただいく
「お焚き上げ」を承っています。(ご供養の後は素材に応じて法令に従った処分となります。)
離韓元年だそうだ。早く断韓元年にしたい。
《皇室祭祀》
皇室祭祀には、「大祭」、「小祭」、「旬祭」とあります。大祭は天皇陛下自らが祭典を行う祭祀です。これだけでも元始祭(一月三日)、先帝祭(一月七日)、春季皇霊祭(春分の日)、神武天皇祭(四月三日)、秋季皇霊祭(秋分の日)、神嘗祭(十月十七日)、新嘗祭(十一月二十三日)とあります。
...
小祭も多くあり、祭儀は年間で全部あわせて三十前後ぐらいでしょう。紀元節(二月十一日)には臨時御拝を別途行われます。天皇陛下は国民の安寧、五穀豊穣を祈り続けておられるのです。祭祀が天皇陛下の本質です。
「大祭」:天皇陛下ご自身で祭典を行われ,御告文おつげぶみを奏上されます。
「小祭」:掌典長が祭典を行い,天皇陛下がご拝礼になります。
「旬祭」:毎月1日・11日・21日に掌典長が祭典を行い,原則として1日には天皇陛下のご拝礼があります。
《天皇陛下の正月三が日》
天皇陛下は毎年一月一日(元旦)の午前五時半、皇居内の南西部にある「宮中三殿」の近くにある、「神嘉殿」という建物前の庭に出御します。
陛下は平安時代から伝わる古式の装束のお姿で庭の中央にある屋根だけの東屋のような場所へ移動され、そこに敷かれた畳の上で、まず伊勢神宮(祖先神)、そして四方の神々に向かって、国の安泰や農作物の豊作を祈って礼拝を行います。これが「四方拝」と呼ばれる皇室祭祀です。
この後、陛下は年始を祝う「歳旦祭」を行われ、拝礼されます。皇太子殿下も続いて拝礼されます。こうして、およそ二千七百年の歴史と伝統をもつ日ノ本の国の一年が始まります。
天皇陛下は続いて「晴の御膳」という儀式を行います。実際には箸をつけるだけで口には入れないそうです。
午前十時になると「松の間」で各皇族からの祝賀を受けます。十一時になると「梅の間」で首相、大臣、官房副長官、副大臣・・・の各夫妻から祝賀の挨拶を受けます。再び「松の間」に移動して衆参両議長、副議長、議員・・・夫妻から祝賀を受けられます。次に「竹の間」で最高裁判官、同判事、・・・司法関係の各夫妻からの祝賀を受けられます。次は中央官庁の事務次官、各都道府県の知事・・・そしてお昼です。午後は各国大使の祝賀を受けられます。
二日は一般参賀があり、天皇皇后両陛下は五回長和殿ベランダにお出ましになります。一回目は午前十時十分ごろ、最終回の五回目は午後二時二十分ごろになります。
三日は元始祭(げんしさい)という大祭が三殿で行われます。年初に皇位の元始を祝い、国家の安泰を祈るもので、こちらのほうは歴史は浅く、明治五年に行われて以来の祭儀になります。天皇陛下のご拝礼の後、皇后陛下、皇太子殿下、同妃殿下のご拝礼があります。そして天皇陛下ご自身がお告げ文を奉せられます。
このように正月三が日、天皇陛下は大変な激務をこなされているわけです。諸行事をこなされ「国平らかに、民安かれ」と祈られているです。
●菅原道真
◆すがわら-のみちざね すがはら― 【菅原道真】
(845-903) 平安前期の学者・政治家。是善の子。菅公(かんこう)・菅丞相(しようじよう)と称される。宇多・醍醐両天皇に重用され、文章博士・蔵人頭などを歴任、右大臣に至る。この間894年遣唐大使に任命されたが建議して廃止。901年藤原時平の讒訴(ざんそ)で大宰権帥に左遷、翌々年配所で没した。性謹厳にして至誠、漢詩・和歌・書をよくし、没後学問の神天満天神としてまつられた。「類聚国史」を編し、「三代実録」の編纂(へんさん)参与。詩文集「菅家文草」「菅家後集」
◆菅原道真 (すがわらのみちざね)防府歴史用語辞典
9世紀後半の学者・政治家で、宇多天皇[うだてんのう]に重く用いられ、右大臣[うだいじん]という要職にまでつきました。しかし、901年藤原氏をはじめとする勢力の陰謀により大宰府[だざいふ](福岡県)に左遷され、その地で903年に亡くなりました。 北野天満宮や太宰府天満宮、そして防府天満宮で「学問の神様」としてまつられているのが、この菅原道真です。
◆菅原 道眞 http://p.tl/JijF(すがわら の みちざね / みちまさ / どうしん、承和12年6月25日(845年8月1日) - 延喜3年2月25日(903年3月26日))
日本の平安時代の貴族、学者、漢詩人、政治家。参議・菅原是善の三男。官位は従二位・右大臣。贈正一位・太政大臣。
忠臣として名高く、宇多天皇に重用されて寛平の治を支えた一人であり、醍醐朝では右大臣にまで昇った。
しかし、左大臣藤原時平に讒訴(ざんそ)され、大宰府へ権帥として左遷され現地で没した。
死後天変地異が多発したことから、朝廷に祟りをなしたとされ、天満天神として信仰の対象となる。
現在は学問の神として親しまれる。
◆
◆てんまんぐう 【天満宮】
菅原道真をまつる神社。大阪北区の天満宮、京都の北野天満宮、福岡県の太宰府天満宮などのほか各地にある。学問の神として広く信仰されている。天満社。天満神社。てんまぐう。
◆天満宮 歴史民俗用語辞典
読み方:テンマングウ(tenmanguu)
菅原道真をまつる神社。
別名 天神さん
◆天満宮 歌舞伎・浄瑠璃外題辞典
読み方:テンマングウ(tenmanguu)
初演 文政11.1(大坂・中村歌女座)
◆天満宮(てんまぐう)http://p.tl/GBqW 菅原道真を祭神とする神社である。
天満宮は「天神」(てんじん)、「天神さま」「天神さん」とも呼ばれる。社名は、天満神社(てんまんじんじゃ)、祭神の生前の名前から菅原神社(すがわらじんじゃ)、天神を祀ることから天神社(てんじんしゃ)などとなっていることもあり、また、鎮座地の地名を冠していることもある。ただし、「天神社」については、天津神を祀る神社という意味のものもあり、これは菅原道真とは関係がない。
政治的不遇を被った道真の怒りを静めるために神格化し祀られるようになった御霊信仰の代表的事例である。明治から昭和にかけての神道国家管理時代は、「宮」号は祭神が基本的には皇族であり、かつ勅許が必要であったため、例えば太宰府天満宮が太宰府神社と改称させられたように、「天満宮」と称していた神社も「神社」・「天神社」・「天満神社」などと改称させられていた。
道真を「天神」として祀る信仰を天神信仰という。
◆由来など
道真が亡くなった後、平安京で雷などの天変が相次ぎ、清涼殿への落雷で大納言の藤原清貫が亡くなったことから、道真は雷の神である天神(火雷天神)と同一視されるようになった。「天満」の名は、道真が死後に送られた神号の「天満(そらみつ)大自在天神」から来たといわれ、「道真の怨霊が雷神となり、それが天に満ちた」ことがその由来という。
道真が優れた学者であったことから天神は「学問の神様」ともされ、多くの受験生が合格祈願に詣でる。参拝して筆を買うと受験に利益があるともいう。道真が梅を愛し、庭の梅の木に
「東風(こち)吹かば 匂ひをこせよ 梅の花 主なしとて 春な忘れそ」
と和歌を詠み、その梅が大宰府に移動したという飛梅伝説ができたことから、梅を象徴として神紋に梅鉢紋などが多く使用されている。また道真と牛にまつわる様々な伝承から、天満宮では牛を神使としており、境内に臥牛像など撫牛が置かれている。
各地の天満宮のうち、特に道真と関係が深いという北野・太宰府の二つに防府あるいは大阪などを入れた三つの天満宮が日本三大天神と呼ばれる。北野天満宮は道真が好んだという右近の馬場に朝廷が道真の怨霊を鎮めるために造営され、太宰府天満宮は道真の墓所・廟に造営された。この両社が信仰の中心的役割を果たしている。
さらに、京都から九州(太宰府)まで道真を祀る天満宮の中から、由緒深い25社を選んで順拝するという「菅公聖蹟二十五拝」という風習がある。
◆天神信仰(てんじんしんこう)http://p.tl/dPRp
天神(雷神)に対する信仰のことである。特に菅原道真を「天神様」として畏怖・祈願の対象とする神道の信仰のことをいう。
本来、天神とは国津神に対する天津神のことであり特定の神の名ではなかったが、道真が死後火雷天神と呼ばれ雷神信仰と結びついたことなどを由来とし、道真の神霊に対する信仰もまた天神信仰と称するようになった。
◆天神祭(てんじんまつり、てんじんさい)http://p.tl/geJl
全国の天満宮(天神社)で催される祭り。
祭神の菅原道真の命日にちなんだ縁日で、25日前後に行われる。
一年のうち1月の初天神祭など、ある月に盛大に行われることがある。
各神社で行われる天神祭の中では、大阪天満宮を中心として大阪市で行われる天神祭が有名である。以下より大阪天神祭のことについて記述する。
日本三大祭(他は、京都の祇園祭、東京の神田祭)の一つ。また、生国魂神社の生玉夏祭、住吉大社の住吉祭と共に大阪三大夏祭りの一つ。
期間は6月下旬吉日 - 7月25日の約1ヶ月間に亘り諸行事が行われる。特に、25日の本宮の夜は、大川(旧淀川)に多くの船が行き交う船渡御(ふなとぎょ)が行われ、奉納花火があがる。
大川に映る篝火や提灯灯り、花火などの華麗な姿より火と水の祭典とも呼ばれている。
他に鉾流神事(ほこながししんじ)、陸渡御(りくとぎょ)などの神事が行われる。24日宵宮、25日本宮。
◆初天神 http://p.tl/e1Sz(毎年1月25日に天満宮で行われる、年の初めの祭りが描かれた作品)
『初天神』(はつてんじん)は、古典落語の演目。元々は上方落語の演目の一つである。毎年1月25日に天満宮で行なわれる年の初めの祭りに出かけた、父親と息子の絆を描いている。松富久亭松竹の作と伝わっており、3代目三遊亭圓馬が大正期に上方落語の作品を東京落語に移植した。また、上方落語でもこの演目は演じられ続けている。
正月に好んで披露される作品である。
息子に振り回されて困惑気味の父を、やや冷めた目線でシニカルかつ風刺的に描いている。ダスティン・ホフマン主演の名作映画『クレイマー、クレイマー』(1979年)にも通ずる世界観が秀逸である。
またそれぞれのエピソードごとにオチがあり、どの箇所でもサゲられるようになっていて、時間調整が効く噺という利点もある。このため最後のエピソードまで演じられることはそれほど多くはない
・物語
良く晴れた1月25日、男が天満宮に参拝に出掛けようとした。すると女房は息子も連れていってくれと頼む。男は息子が物を買ってくれとうるさくせがむのが分かっており、乗り気ではなかったのだが折悪しく外から息子が帰ってくる。どうしても付いていきたいと懇願する息子をつっぱねると、ヘソを曲げた息子は隣の親父のうちへ出かけて行く。『面白い話聞きたくな~い?あのね、昨日の夜の、うちのおとっつぁんとおっかさんの、おはなし』そんな事を外で話されては堪らないと、大慌てで息子を連れ戻した男は、渋々息子を初天神に連れていくのだった。
天満宮への道を歩きながら、父は息子に買い物をねだるなと念を押す。しかし息子は「ね、おとっつぁん、今日はおいらあれ買ってくれーこれ買ってくれーっておねだりしないでいい子でしょ」「ああ、いい子だよ」「ねっ。いい子でしょ。ごほうびに何か買っておくれよ!」これではいつもと同じである。様々な果物を買えと催促するが、父は「体に毒だから」と無理な理屈で拒否する。しかし、息子が余りに煩いので口塞ぎの為に、止むを得ず飴玉を買い与える。店先で売り物の飴を散々ねぶり回して吟味する父に飴屋の親父もあきれ顔。飴を与えられて御機嫌の息子は、飴を舐めながら歌を歌う。
二人は天満宮の参拝を終えた。息子は、凧を買ってくれるよう催促する。「あの1番大きいのがいい」「馬鹿だな、ありゃあ店の看板だい」「売り物ですよ。坊ちゃん、買ってくんなきゃあすこの水溜りに飛び込んで着物汚しちまうってお言いなさい」「変な入れ知恵すんねえ!」しぶしぶ凧を出店で買い与え、天満宮の隣に有る空き地に息子を連れて行く。
凧揚げに関しては子供時代腕に覚えがあったと息子に自慢しつつ、父はまず自分がと凧を揚げる。そのうちすっかり夢中になってしまい、凧を揚げさせてくれと脇から催促する息子を「うるせえっ!こんなもなァ、子供がするもんじゃねえんだい!」と一喝して凧を渡そうとしない。無邪気に遊ぶ父の姿を見て呆れた息子は「こんな事なら親父なんか連れてくるんじゃなかった」とぼやくのだった。
日本人に少しの便利と少しの贅沢を与えておけば、重要なことには気づかないとされ、今まで良いように使われてきたのだ。...
これは戦後、アメリカの植民地となった日本の宿命だろう・・・
だが、早くここに氣付き、洗脳教育から脱出するべきだ。
一例としてあげるのであれば、皆さんもよくご存じかと思うが
『ギブミーチョコレート』
『ギブミーキャンディー』
戦後、アメリカ人が日本人に大量のお菓子を与えた事があった。
お菓子の文化はあそこから始まったと言ってもおかしくない。
白砂糖の危険性をいくつかご紹介しているが、その側面から考えてみると、あれは仕組まれていたことが容易に分かる。
白砂糖の弊害は、アドレナリンやノルアドレナリンなど、興奮ホルモン、うつホルモンを過剰に分泌させる効果がある。その結果、キレやすくなったり、うつになりやすくなったりする。
また、もっと欲しくなると言う中毒性も備えているのだ。
これで武士道を培ってきた日本人の思考を破壊する事が出来ると考えたのだ。
それを仕組んだのはマッカーサーである。
他にも、3S政策と言うものがある。
Sports
Screen
Sex
スポーツ、映画、セックス、この3つを与えておけば、日本人は余計な事を考えたりはしない。
という考え方から仕組化されて行った。
日本の大手企業は沢山のスポーツ大会を主催している、日本はハリウッド映画が大好きだ、海外にも日本人専用風俗店があるほど、日本人には需要がある・・・
もっと怖いのは、日本だけではなく、世界的にそれは活用されている。
オリンピックの裏には、重要な機密事項が進んでいると言う話も・・・
今、中国と日本、韓国の関係が問題となっているが、TPPやACTA、秘密保護法、その他重要な話題が明るみになってこない、テレビでは報道されない。これはなんとも怖い事である。国民の知らない所で重要な事は進んでしまっているのだ。
少し周りの当たり前だった物事に意識をしてみよう。
そこから不可解な事が見えてくるかもしれない・・・。
これがばれてしまうと朝日新聞が大ウソつきってことが
ばれちゃうから拡散するなよ!
サンフランシスコ講和条約第十一条の
手 続 き に 基 づ き、関係十一カ国の同意のもと、
「A級戦犯」は昭和三十一年に、
「BC級戦犯」は昭和三十三年までに赦免され釈放された
さらに
1952年
戰犯在所者の釈放等に関する決議
これによって全ての戦争犯罪人とされた人たちは
「公務死」と扱われることとなった
これは日本政府及びサンフランシスコ講和条約に則った手続き
この決議に真っ向から反対し、
今にいたるまで「戦犯」と呼び続けているのが
“朝日新聞” です
この事実は絶対に拡散するなよ!
朝日新聞が大ウソつきだってばれちゃうからな!
絶対に拡散するなよ!
●三十日●30日●ミソカ●晦日
◆みそか 【晦日/三十日】
毎月の最後の日。つごもり。
» (成句)晦日に月が出る
◆名字 読み方
三十日 みとうか
◆みそか 【密か】
(形動ナリ)
人に知られないようにこっそりとするさま。ひそか。
「難波に―にもて出でぬ/竹取」
〔漢文訓読文に用いられる「ひそか」に対して、主に和文で用いられた〕
◆晦日(かいじつ、つごもり、みそか)http://p.tl/Y4ug
太陰太陽暦の暦法である中国暦、和暦の毎月の最終日のことである。具体的には、小の月では29日、大の月では30日となる。翌月の朔日の前日となる。
月相を表す弦・望・晦・朔に由来するもので、「朔」が月が現れることを意味するのに対し、「晦」は月が隠れることを意味する。
・つごもり、みそか
晦日にあてられる訓のうち、「つごもり」は「月隠り(つきごもり)」が転じたもので、本来は月相の「晦」の意味である。
「みそか」は本来は「三十日」の古い表現(ふつか、みっか、…と続く先にある言葉)だが、実際の日付にかかわらず月の最終日を指す。「みそか」が29日を指す月には30日は存在しないので、混乱が起こることはない。
・大晦日
一年で最後の晦日、つまり最後の日を「大晦日(おおみそか、おおつごもり)」という。これは通常は十二月晦日だが、閏年でしかも閏月が閏十二月のときは、閏十二月晦日である。
◆大晦日(おおみそか)http://p.tl/yjqY
1年の最後の日。天保暦(旧暦)など日本の太陰太陽暦では12月30日、または12月29日である。現在のグレゴリオ暦(新暦)では12月31日。翌日は新年(1月1日)である。大つごもりともいう。日本では、年神を迎えることにちなむ行事が行われる。
・由来
・名称
旧暦では毎月の最終日を晦日(みそか)といった。晦日のうち、年内で最後の晦日、つまり12月(または閏12月)の晦日を大晦日といった。元々“みそ”は“三十”であり、“みそか”は30日の意味だった。ただし、月の大小が年によって変動するので、実際には29日のこともあった。後の新暦の12月31日を指すようになった。
大晦日を大つごもりともいった[1]。「つごもり」は、晦日の別名であり、「月隠り(つきごもり)」が転じたものである。
英語では「New Year's Eve」と呼ぶ。また西ヨーロッパを中心にシルウェステル1世 (ローマ教皇)が由来の「ジルベスター(Silvester)」とも呼ばれる。
・文化
日本における大晦日という慣習は、日本文化に古くからある「歳神様」(としがみさま)、または「歳徳様」(としとくさま)への信仰に基づく儀礼から生じており、これらは歳徳神などとも呼ばれるその年一年間を司る神様である。年の初めから来られるため、「正月様」(しょうがつさま)とも呼ばれ、各年によって来られる方向が異なり、その方角は「恵方」と呼ばれる。この神様は神社のような宗教施設ではなく各家々に訪れると昔から信じられていたため、神様をお迎えし食事を共にしたりするために大晦日から「年籠り」(としごもり)をして(元旦に恵方にある近所の神社へ参拝する恵方詣りをすることもあるが)元旦も家で過ごすことが一般的であった。後に歳神様が家に来られるという観念がほとんど無くなり、一般庶民が正月三が日などに神様に願いを伝えるためにこちらから神社へ参賀する「初詣」を行うようになっているが、そのきっかけは、明治20年代に官公庁から始まった元旦に御真影を拝む「新年拝賀式」と、1891年(明治24年)の「小学校祝日大祭日儀式規定」により元旦に小学校へ登校する「元旦節」などを経て、関西の鉄道会社が正月三が日に(恵方とは無関係な方角の)神社へ初詣を行うというレジャー的な要素を含んだ行事を沿線住民に宣伝しこれが全国にまで広まったことで、年籠りという習慣は次第に失われたとされる。
日本の平安時代に行われていた大晦日の宮廷儀礼の1つに「鬼やらい」とも呼ばれる「追儺」(ついな)がある。年の変わり目という最大の節分において、「鬼」で表現される良くない何かを追い払うために方相氏(ほうそうし)と呼ばれる恐ろしい扮装・いでたちの導士によって執り行われる古い行事であるが、これが後の節分行事に変化したとされる。恐ろしい姿の演者としては、日本の郷土文化として大晦日や旧正月などに「なまはげ」などが行われている。
・大晦日の行事
大晦日には、様々な年越しの行事が行われる。年越しの夜のことを除夜(じょや)とも言う。かつては、除夜は年神を迎えるために一晩中起きている習わしがあり、この夜に早く寝ると白髪になるとか、皺が寄るとかいった俗信があった[1]。また、
大晦日の伝統的な風習には以下のようなものがある。
・年越し蕎麦(地方によっては他の食事)
・除夜の鐘(108つの煩悩を祓う)
・二年参り(初詣)
・雑煮(古くは、大晦日の夜から一日が始まるため既に新年であり、正月の食事をとる家庭もある)
・お年取り(長野県などで行われるごちそうなどを食べる行事)
神社仏閣や各地方では伝統的な行事が行われ、その他にも年越しを祝うイベントが行われる。また、そういった行事やイベント、初日の出など元旦のイベントの為に移動する人が多いため、電車などの交通機関が日常は営業時間外となっている深夜に営業する事もある
◆大晦日を題材とした作品
・古典落語
・掛取萬歳
・芝浜
・小説
・一杯のかけそば
◆掛取万歳(かけとりまんざい)http://p.tl/O7Ij
落語の演目の一つ。上方落語では天下一浮かれの掛け取り(てんかいちうかれのかけとり)。
現在は東西とも、省略形の掛け取り(かけとり)という題で演じられることが多い。
主人公のもとに4人の人物が登場する構成のうち、ひとり目が登場する場面だけ演じるものを狂歌家主(きょうかいえぬし、きょうかやぬし)、ふたり目の人物までを借金取り撃退法(しゃっきんとりげきたいほう)の題で演じることがある。
◆『芝浜』(芝濱、しばはま)http://p.tl/NA01
古典落語の演目の一つ。三遊亭圓朝の作とされるが不確か。
3代目桂三木助の改作が有名。三木助による名演以降、夫婦の愛情を暖かく描いた屈指の人情噺として知られるようになった。
◆『一杯のかけそば』(いっぱいのかけそば)http://p.tl/QZmP
栗良平による日本の短編小説、および同作を原作とした映画作品。
小説は「涙なしでは聞けない」話として、一時は日本中で話題となり、社会現象にまでなった。
・ブーム
発端は1988年の大晦日にFM東京の「ゆく年くる年」の中で朗読されたことである。
翌1989年1月には産経新聞や共同通信社が一杯のかけそばを取り上げ、2月には衆議院予算委員会審議において公明党の大久保直彦が竹下登首相に対する質疑で当時話題となっていた本作のほぼ全文を朗読・紹介して、リクルート問題に関する質問をしたことからブームに拍車がかかった。
その後、5月にブームはピークを迎えた。特に短編小説として発表された本作が「実話であるか、創作であるか」という点が大きく取り上げられ、次第に作者の実生活など「作品外の事情や実話」にスポットがあたるようになったことから、「出来すぎた創作話と、作者の実体」というようなパッケージ化がされてワイドショーなどを賑わせた。
中でもフジテレビ「タイム3」は中尾彬、武田鉄矢、森田健作などの有名人を迎え、連日「一杯のかけそば」を朗読するまでに至った。
ブームの最中、5月19日放送のフジテレビ「笑っていいとも」にて、司会のタモリが一杯のかけそばを批判した。
タモリは「その当時、150円あったらインスタントのそばが3個買えたはず」「涙のファシズム」と作品を批判した。
栗良平の逮捕やこの発言などを機に翌6月にはブームが終焉。
・後援会
作者が『一杯のかけそば』を口演して日本各地を行脚したため、物語に感動した有志達による「一杯のかけそばを読む会」、「栗っ子の会」が結成され、これが日本中へ作品を広めるきっかけとなった。
・あらすじ
1972年(昭和47年)の大晦日の晩、札幌の時計台横丁(架空の地名)にある「北海亭」という蕎麦屋に子供を2人連れた貧相な女性が現れる。閉店間際だと店主が母子に告げるが、どうしても蕎麦が食べたいと母親が言い、店主は仕方なく母子を店内に入れる。店内に入ると母親が「かけそば(つゆが入った器に茹でた麺を入れただけの、種を入れていない蕎麦)を1杯頂きたい(3人で1杯食べる)」と言ったが、主人は母子を思い、内緒で1.5人前の蕎麦を茹でた。そして母子は出された1杯(1杯半)のかけそばをおいしそうに分け合って食べた。この母子は事故で父親を亡くし、大晦日の日に父親の好きだった「北海亭」のかけそばを食べに来ることが年に一回だけの贅沢だったのだ。翌年の大晦日も1杯、翌々年の大晦日は2杯、母子はかけそばを頼みにきた。「北海亭」の主人夫婦はいつしか、毎年大晦日にかけそばを注文する母子が来るのが楽しみになった。しかし、ある年から母子は来なくなってしまった。それでも主人夫婦は母子を待ち続け、そして十数年後のある日、母とすっかり大きくなった息子2人が再び「北海亭」に現れる。子供達は就職してすっかり立派な大人となり、母子3人でかけそばを3杯頼んだ。
◆口上【コウジョウ】あいさつ http://p.tl/rkUk
口上【コウジョウ】あいさつ師走(しわす)である。 師が走るから師走(しわす)としたと言われている。 晦日(みそか)は月の終わり。 最終日を大晦日という。 昔 今の時期になると焼き芋売りが来た。 「石焼き~いも いも」 なんて懐かしい。
◆● し わ す http://p.tl/vnEZ
◆●師走(しわす)
●しわす【《師走》】
〔「しはす」とも〕陰暦一二月の異名。極月(ごくげつ)。臘月(ろうげつ)。[季]冬。
●12月:師走(しわす) ご贈答マナー
師僧も走る多忙な月との意。
誰もが年の瀬をひかえて何かと気忙しく慌ただしくなる時期で、どっしり構えて読経をする師僧までも走り回らなければと思わせる程の多忙な月であるとされています。
●師走 隠語大辞典
読み方:しわす
陰暦の十二月のことをいふ。歳の暮れで忙しく師匠までが走り廻る月であるから。万葉集に「師走にはあわ雪ふると知らぬかも梅の花咲くつつめらずして」とある。
●しわす(歴史的仮名遣い:しはす)【師走、十二月】
(古語・雅語)十二月
・語源
年末で法師すら走りまわる月とするのは附会。語源は未詳、「しはつ」で「はつ(=果てる)」に関連か。
・類義語
極月
●ふかい ―くわい 【付会/附会】
(名)スル
(1)付け加えること。つなぎあわせること。
(2)関係のない事柄を理屈をつけて結びつけること。無理にこじつけること。
「牽強(けんきよう)―」「自家の感情をもてこれに―する/即興詩人(鴎外)」
●けんきょう ―きやう 0 【▼牽強】
(名)スル
道理に合わないことを無理にこじつけること。こじつけ。
「歴史上より論ずれば少しく―なりと雖も/希臘思潮を論ず(敏)」「彼の源語をさへ―して勧懲主意なるものなりなど/小説神髄(逍遥)」
●そっきょう-しじん【即興詩人】
(1)昔、西欧の王侯の宴会などで、その雰囲気などに応じて即興的に詩を作り歌った詩人。
(2)書名(別項参照)。
★★★★★
・そっきょうしじん【即興詩人】
小説。アンデルセン作。森鴎外訳。詩人と薄幸な歌姫との悲恋を南欧を舞台に描く。翻訳は1892年から1901年にかけて「しからみ草紙」「めさまし草」に連載され、浪漫性豊かな訳として、次代の作家に影響を与えた。
●即興詩人
作者森鴎外
収載図書 森鴎外集
出版社 岩波書店
刊行年月 2004.7
シリーズ名 新日本古典文学大系 明治編
★★★★★
・即興詩人
作者 ハンス・クリスチャン・アンデルセン
収載図書 JUNICHI新絵物語集
出版社 国書刊行会
刊行年月 2007.8
●『即興詩人』(そっきょうしじん、丁: Improvisatoren)http://p.tl/eGUt
デンマークの童話作家として知られるハンス・クリスチャン・アンデルセンの出世作となった最初の長編小説で、イタリア各地を舞台としたロマンチックな恋愛小説である。原書は1835年刊行。
●12月(じゅうにがつ)(師走から転送) http://p.tl/27tv
グレゴリオ暦で年の第12の月(最後の月)に当たり、31日ある。
日本では、旧暦12月を師走(しわす)または極月(ごくげつ、ごくづき)と呼び、現在では師走は、新暦12月の別名としても用いれ、その由来は僧侶(師は、僧侶の意)が仏事で走り回る忙しさ(平安後期編『色葉字類抄』)からという平安期からの説がある。また、言語学的な推測として「年果てる」や「し果つ」等から「しわす」に変化したなどという説もある。
英語での月名、December(ディセンバー)は、「10番目の月」の意味で、ラテン語で「第10の」という意味の「decem」の語に由来している。 実際の月の番号とずれているのは、紀元前46年まで使われていたローマ暦が3月起算で(そのため年末の2月は日数が少ない)、3月から数えて10番目という意味である。
グレゴリオ暦の12月1日はその年の9月1日と同じ曜日になる(→365日)。
明治時代に日本が太陰暦から太陽暦に変更した際に、政府が年末の給料を削減するために12月の日数を2日とした(明治6年12月3日を明治7年1月1日とした)。
・異名
おうとう(黄冬)、おとづき(弟月)、おやこづき(親子月)、かぎりのつき(限月)、くれこづき(暮来月)、けんちゅうげつ(建丑月)、ごくげつ(極月)、しわす(師走)、はるまちつき(春待月)、ばんとう(晩冬)、ひょうげつ(氷月)、ぼさい(暮歳)、ろうげつ(臘月)
●12月の年中行事
12月13日 - 正月事始め
12月23日 - 天皇誕生日(日本)
12月24日 - クリスマス・イヴ(各国、主にキリスト教圏)
12月25日 - クリスマス(各国)
12月25日 - 終い天神
12月25日 - スケートの日
12月31日 - 大晦日(日本)
●ごくげつ 【極月】
〔年の極(きわ)まる月の意から〕十二月の異名。しわす。ごくづき。[季]冬。
★★★★★
・ごくづき 【極月】
⇒ごくげつ(極月)
●ろうげつ【臘月】
陰暦一二月の異名。
●
●シワス【Sivas】 世界大百科事典
トルコ中部,アナトリア北東部にある都市。同名県の県都。人口24万(1994)。歴史は古くその起源は紀元前のヒッタイト時代にさかのぼり,ギリシア語ではセバステイアSebasteiaと呼ばれた。カイセリやエルズルムを結ぶ鉄道の要衝で,アンカラとの間に空路の便もある。農産物の集散地で,同時にセメント,タイル,精粉,じゅうたんの生産も行われる。ケマル・アタチュルクが1919年9月にトルコの独立のために祖国解放運動を呼びかけた会議を開いた場所として有名である。
●シワス 百科事典マイペディアの解説.
トルコ北部,クズル・ウルマク川河岸にある都市。標高1270mにあり,気候は健康的。綿布や毛織物を産する。交通の要地で各地と鉄道で連絡。13世紀,ルーム・セルジューク朝により建設された学校は小アジアのイスラム芸術の面影をよく残している。
※本文は出典元の用語解説の一部を掲載しています。
●スィヴァス(Sivas)はトルコ東部の都市。スィヴァス県の県都。人口は約251,776人(2000年)。標高1,275mで、中部アナトリアでもっとも高地にある。
ローマ帝国時代から、交易の中継地として重要な都市であった。古くはセバステイア(Sebasteia)と呼ばれた。1919年9月4日に、ムスタファ・ケマル・アタテュルクが祖国解放を目指して抵抗運動を呼びかけた会議を開いた場所として知られる。
12世紀に建てられたウル・ジャミイ(大モスク)が市内に残る。