アカペラな日々 - "Sakata Coro a Cappella" Since April 9, 2009

合唱団"Sakata Coro a Cappella"で指揮の傍ら作曲・編曲,たまに歌に励むOyaji。の活動&日常

思い出のアルバムその4,昭和60年度? S混声合唱団第14回定期演奏会リハーサルでの指揮光景

2013年04月19日 | 音楽系(合唱,作曲・編曲など)
写真は昭和59か60年度(たぶん60年度)、地元の山形県酒田市をリードしてきたと言われるS混声合唱団の定期演奏会があり、定期では初指揮の頃…直前のリハーサルでのひとこま。
曲としては、高校時代に満足いかなかった、大中恩(めぐみ)の混声合唱曲「島よ」(6章編成)を、親の仇でも討つかのように演奏したころだった。
撮影者は、当日、酒田市民会館の向かい角にあった(今は会館が近所に移転)喫茶店「さざんか」のマスターのY氏。
モノトーンが瞬間の深みを捉えていて、真に好きな一枚で今も変わらず、リビングの客の視線の延長線上に掲額しています。
高校から指揮はしていたものの、常任の田中先生から昭和57年に初めて若くして指揮者に氏名されたときは、責任の重さを痛感、寝る間を惜しんで合唱漬けだったように思います(一生懸命さが故にアンチも多いですが)
さて、直後に高卒で「理系で事務職」の私は、パソコンを使い、必要な法律も学び、業務の圧倒的合理化を図り、嘱望していただいた先生に背を向けて昭和62年の夏に仙台へ赴任したのでした。
数年後、新たな土地である仙台で圧倒的に力を発揮?するのですが、それはまた、別に記事にいたします。

[追記]
当時のカセットテープがあり聴いてみました。
恐ろしいくらいに音楽が緩く動きがないものです。
それは音楽的にも「時勢」だったのでしょうが,もう現代の我々は,その音楽には戻りたくないと思います。
その前の世代は緩いよりも薄いというのもあるでしょうか。
ともかく,聴いてしまったすぐさま,それは「消したい過去」に変わっていました。
ピアノの恩師でもあり伴奏をしていただいた田中先生(前記「田中先生」夫人)には,いろいろとお導きをいただくばかりで,本当にご迷惑さまでした。
今なら理解できますが,ピアノは他団体の上でしたが「指揮者がついて行っていない」ということだったと思います(表現がおかしいのですが,要は「指揮者をするべきレベルでない」との意味です)
常任でもコントロールが難しかった団体で,冷静に当時の私にはかなり大変。
ましてや代替わりしないメンバー中心で,その団体は現在の指揮者でギリギリやっている状況なのでしょうね。

思い出のアルバムその3,昭和60年度合唱コンクール東北大会に指揮者で出るも大惨敗(涙)

2013年04月19日 | 音楽系(合唱,作曲・編曲など)
昭和60年10月は合唱コンクールに指揮者で出て、混戦の県大会は銀賞でギリギリ抜けたが、東北大会もやはり指揮者、見事に大惨敗を喫した(木っ端微塵っていう感じ)
課題曲は、中田喜直「午後の庭園」より、野に出でよ。
中田喜直あまり高校の頃から得意ではないんです。なーんて...
未消化でした。拍は4/4だったが、今なら2/2のように流れるような曲作りをするだろう。ともかく指揮者(私)が悪かった。
同曲で圧巻だったのは、まだ東北では銀賞(絶対王者の福島FMC全盛の頃)だった思うが、後にお世話になる今井邦男先生のグリーンウッドハーモニー(仙台市)。
非常に滑らかで、ブレスを感じさせないフレージングと曲の構成。
当時、鶴岡土曜会も後塵を拝しつつ頭角を現した頃だが、グリーンウッドの「野に出でよ」はともかく絶品で、課題曲では一番だと思った。
そして直後から、グリーンウッドは全国大会上位の常連となり、最近では一度の全国制覇を挟んで平成22,23年度には全国大会を2連覇している。
にしても、いつもかなり多い(はず)の女声がいつになく少く(普段6:4位だが、当日だけ逆転している位)バランスは悪く聴こえていただろう。
ま実際には「それ以前」の演奏だったと思うが、ともかく、このメンバーを見ると、今だったら東北大会は入賞させなくては、な感じです(どうもすみません)
後に今井先生の代理で(以前書いた)全国大会レベルの団体を招待演奏する「東日本合唱祭」で指揮した時も肩がこったが、このコンクール東北大会もハンパなくテンパっていた。
まあ、今考えれば、これも私なりの現在に続く「この道」なのであろう(たぶん)