不信感を持つ人の悩みは、人に裏切られたり、傷ついたりして、不信感に苛まれて苦しんだ経験のある人にしか分からない。
不信感をもったまま、必死に信じよう信じようと努力して、それを乗り越えて行けるのか?と言えば、それはかなり苦しい道のりで、ふとした弾みに伝わってしまう。
その時に、本当は信じてなかったんだ。疑われていたんだ。と、知った時の悲しみや憤りは、どんなに相手を苦しませてしまうものだろう?と思う。
不信感を持つ事で、これ以上傷つかないで、せめて自分の心を守る事は出来る。どこかに、不信感をもったまま幸せにもなれないし、成功だって導き出せないでしょう。
信じられなくなったと言う思いを伝えるのは勇気がいるけれども、拭えなくなって、裏切られた時は裏切られた時。と割り切って、楽観的に捉えると言うのもひとつの方法かも知れない。
けれど、その痛みに耐えられない自分がいるとしたならば、「信じられなくなってしまった。」と、先に伝えるのも、大人の判断なのかもしれない。
不信感を隠して、付合い続けるのは不信感を増幅させてしまう。
私は素直に不信感と向き合った。相手の事が嫌いになったわけじゃない。多分、好きな気持ちの方が強くて、相手にもこうあって欲しいと望む気持ちもあったのかも知れない。
不信感を癒していくのも、簡単な事ではない。けれど、自分は同じ事をしないようになる。と言うメリットが増える。それは、相手を不安にさせない優しさに繋がってゆくような気がする。
痛みは経験した人にしかわからない。深く傷付いた経験がないと人を傷付けることを当たり前のようにしてしまう人になってしまう。
痛みを知る事は、大人として大切な事だと思う。私も痛みのわからない人とは、長くは付き合えない人間なのだと思う。
直ぐに人を信じてしまうのは、なかなか治らない悪い癖だけど、不信感を持つ事で、人への配慮や、相手の気持ちを察してゆく事は、上手になってゆくのかも知れない。
私の場合は、優しくされればされるほど、何かあるんじゃないか?と、猜疑心が消せない程に増幅してしまった。
このまま、不信感を隠して平静を装えるほどの図太さはどうやら、持ち合わせていないみたい。
今の自分が信じられる場所。信じられる人の元へと多く訪ねて行こう。と思う。
そうしているうちに、きっと、また人を信じられる心を取り戻す事は出来る。
私は人を裏切ったり、悲しませたりしない人間でいたい。
不信感を手離して、遠くから、誰かの幸せと成功を願って生きて行く事の方が自分らしく自然な事なのかも知れないと思った。