幻でも恋をしたほうが
いいと思うわ」
恋の苦しさなんて
今だけの話じゃない
ひとは大昔から ずっと
恋に泣いたはず
声さえあげて もっと
泣いたはず
「会いたいから」
「さっきは、驚かなかったなんて
言ったけど、ほんとはすっごく驚
いてた。心臓が止まりそうなくら
い」
「驚かせてごめんなさい。でもどう
しても会いたくなって」「会いたいから」
「さっきは、驚かなかったなんて
言ったけど、ほんとはすっごく驚
いてた。心臓が止まりそうなくら
い」
「驚かせてごめんなさい。でもどう
しても会いたくなって」
「俺も。もう、どれだけ会いたいか
ったかというと」
言葉はそこで途切れて、長い両腕を
持てあますようにしながら、ぎこち
なく、それでいて、まるで電流のよ
うに容赦なく、あのひとは、わたし
の躰を抱きしめてくれた。
好きだからいっしょにいる。
それが始まりで終わりなの
かもしれない、と思った。
そのシンプルさがうれしか
った。そのストレートさが
強さだった。
せつなさというのは不思議
な気持ちだと思う。
淋しさや悲しさのよにわか
りやすくはないし、言葉で
説明を求められてもはっき
り答えられないから困って
しまう。
それに人によって受けとめ
方もさまざまで、ある人は
淋しさによく似た気持ちか
もしれないし、
ある人にとっては悲しみの
ひとつの形になっているか
もしれない。
私は・・・・と言うと、こ
れが曖昧。
たとえば触れられそうで触
れられない、その指先と何
ものかの距離をせつなさと
呼ぶのかもしれない。
抱きしめているのに、どう
しても手に入らないもの。
ひとつになりたいのに、決
して体も心もひとつになれ
ないこと。
取り戻せない時間。なのに
昨日のことのように輝いて
いる出来事。そんあどうに
もならない何ものかとの隙
間が、とても愛しくて、とて
も素敵で、とてもとてもせつ
ない。
時の流れという縦糸といろん
な出来事や気持ちの横糸が描く
つづれ織り。
せつさなは言葉では表せない。
ただただ、心にしんと感じる
もの。
人間はしょせんひとりだという
覚悟を持てば、たいていのこと
はがまんできてしまう。
一遍上人にこんな法語がある。
生ぜしも独りなり
死するも独りなり
熱烈な恋愛をして、
「私とあなたは一生涯はなれ
ない。共に歳をとり、死ぬと
きも一緒で、同じお墓に入りま
しょうね」
と違い合って結婚しても、同じ
時に死にはしません。
どちらかが先に死に、どちらか
があとに残る。
恋人といい夫婦というのもしょ
せんは旅の道づれ。
ある地点から地点まで、何かの
縁で同じ道をたどる物同士が、
お互いに肩を並べて、長旅の退
屈さや、心細さや、不安や喜び
を、慰めあったり分けあったり
してみますが、必ずどこかで別
離のときが訪れます。
やがてひとりで“あの世”と
らに旅だっていきます。
たとえ身のまわりに何事が起こ
っても「人間は独りだのだ」
という思いに徹すれば、さばさ
ばします。
そして自分は孤独だということ
を知覚している人ほど、他の人
の淋しさがわかるのであり、
人の心の痛みやつらさがわかる
のではないでしょうか・・・・。
芹沢光治朗の自伝的大作
『人間の運命』
の中で、主人公の次郎は
こう語っている。
「子ども心に、財産とは
何であろうか、
その財産を神に捧げたい
ということはどういうことか、
貧乏になって不幸だ
と大人の言うのはどういう
意味か、
必死に考えた。自分は
貧乏であると知っているが、
そのために裸足で
学校に行き、一片のさつま
いもを弁当にしても、
教室で学んだり、
運動場で騒いだり、下校の
途上喧嘩をしたりして、幸せ
である。
貧乏のために、学校から
帰っても、
海辺へ打ち上げられる
木片を拾いに行き、林や
山へ落ち葉をかきに行か
なければならないが、
未開人のように自然の中に、
自由に生きていて、幸せである。
それなのに、大人はなぜ不幸
であろうかと、真剣に考えた・・・・」
今私たちは、確かに物質的には豊に
なりました。食べ物は、世界中のもの
が季節に関係なく食べられます。
寒さ暑さも、エアコンのお蔭で快適
にしのげるようになりました。
移動も、車や電車、飛行機で世界中
を簡単にできます。
でも、豊かな自然は消え、人間関係は
ギスギスしています。それが本当の
幸せなのでしょうか?