“さるかに合戦”  臼蔵 と 蜂助・栗坊 の呟き

震災や原発の情報が少なくなりつつあることを感じながら被災地東北から自分達が思っていることを発信していきます。

総選挙にあたっての民主党の言い訳。

2012年11月18日 15時00分00秒 | 臼蔵の呟き

福島県土湯温泉風景

福島県土湯温泉風景

自民党型政治への逆戻りをゆるさないとする民主党、野田の主張があります。また、解散総選挙が「近いうち」といった野田総理としての約束を守ったと=民主党、野田は誠実に国民との約束を守ったとする民主党主張は欺瞞に満ちた、許すことの出来ない主張です。

逆戻り=自民党政治を一番やったのが野田民主党政権です。その理由は、消費税率の引き上げを主張していた自民党政策を菅、野田政権が掲げて公約違反を強行したのが菅、野田政権です。この点では、彼らこそが逆戻りした自民党型政治の具現者です。原子力発電所再稼動、アメリカの恫喝で従来型原子力政策に逆戻りしたのも野田政権です。社会保障の一体改革と称して、消費税率を引き上げ、その一方で、社会保障制度を切り下げようとしている点でも自民党型政治への逆戻りです。自公との談合で、国会審議を軽視している点でも、自民党にとって都合よいという点で、自民党型政治の逆戻りそのものです。

野田「近いうち」とする発言の約束を守ったとする主張について。馬鹿なことを言うなといいたい発言です。彼らは、国民の声、要求に反した行動を通して政治的立ち往生に直面し、解散総選挙に追い込まれた。それが現実です。総理大臣の権限を行使したから解散総選挙だ。約束を守ったとの屁理屈は物事の本質を偽る彼らの体質、姿勢を鮮明に表しています。

約束を言うなら09年総選挙で掲げた「選挙公約民主党マニュフェスト」をことごとく反故にしたのが菅、野田内閣です。国民との約束を言うならば、このことに対する責任を取って、選挙、総辞職が筋です。しかし、野田、谷垣、山口談合の約束は、談合政治の象徴であり、国民に対する裏切りであって、約束ではありませんし、国民が約束した、されて歓迎などといっている問題ではありません。民主党の失政は、どんな言い訳、理屈をこねても正当化は出来ないことです。
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私たちを侮辱するな

2012年11月18日 11時00分00秒 | 臼蔵の呟き

福島県土湯温泉で閉鎖した温泉ホテル

観山荘の今。3.11震災、福島原子力発電所事故を受けて閉鎖となっています。

東京新聞の社説です。なかなか面白い考察です。大江健三郎さんの講演時の内容を引用しての政治状況への批判、分析です。この中で、現代は闘うべき相手が明確でないーーあいまいにしか分からないとしています。しかし、本当にそうでしょうか?原発問題を例にとれば、その中心にいたのは自民党のよる原子力エネルギー中心、依存政策です。その意味では闘う、批判すべき相手は自民党型政治、政治家、政治勢力であることは明確です。また、東京電力、電力会社、原子力産業から利益を得た日立、東芝、大手ゼネコン、大手金融機関です。彼らこそが原子力産業の中心に位置し、利益をむさぼり、安全対策を軽視した組織、企業、勢力です。彼らの責任追及、民主的な規制こそが政治的な課題です。原子力産業を理論的、科学技術の面から保証した原子力村の科学者も彼らに手を貸した、偽善者、悪魔の科学者として断罪することが必要です。

したがって、闘うべき相手があいまいなわけではありません。そのことを大手マスコミはしっかり、事実調査、分析を行い、国民に知らせるべき役割があるのだと思います。その社会的責任を自覚して、歴史的な役割を果たしてほしいと思います。それでも、このような政治的問題を真正面から取り上げ、論じたことは評価できると思います。

<私たちを侮辱するな>

 見出しの「侮辱」とは極めて強い言葉です。ひどい扱いを受けた者の発する言葉です。政治にせよ、原発にせよ、私たち国民は、侮辱されてはいないか。
 手元に一通の手紙があります。学校で国語を担当されていた元先生からです。この夏、東京であった脱原発の市民集会に出かけた時のことが記されていました。
 こんな内容です。
 …何人もの演説の中、一番心に響いたのは作家の大江健三郎さんが述べた「私たちは侮辱の中に生きている」という言葉でした。

◆大江さんのスピーチ
 その言葉は、大江さんも紹介していたそうですが、福井生まれの昭和の作家、中野重治の短編小説にある文句です。中野はプロレタリア文学で知られ、大戦前の思想統制では自身も激しい国家弾圧に遭っています。
 その短編小説は、昭和三(一九二八)年、全日本無産者芸術連盟(略称ナップ)の機関誌に掲載された「春さきの風」。検挙された同志家族をモデルにしています。
 思想をとがめられた検束で父とともに母と赤ん坊も警察署に連行される。その赤ちゃんの具合が悪くなる。ろくな手当ても受けられずに亡くなってしまう。母親はもちろん医師を頼みましたが、無視された。理由のない平手打ちを受けるばかり。
 小説はそれらの動きを、きびきびとした文体で描き、最後は母親が留置場の夫に手紙を書く場面で締めくくられます。母親は砂を巻く春風の音の中、死んだ赤ん坊はケシ粒のように小さいと思う。そしてこう書く。
 「わたしらは侮辱のなかに生きています。」(「中野重治全集第一巻」筑摩書房より)
 中野重治が実体験として記した侮辱という言葉、また大江さんが原発に反対する集会で引いた侮辱という言葉、その意味は、もうお分かりでしょう。

◆デモクラシーの軽視
 権力が民衆を、国家が国民を、ほとんど人間扱いしていないのではないかという表現にちがいありません。
 つまり倫理違反なのです。
 先日、東京電力は、原発事故時のテレビ会議記録を新たに公開した。二回目の公開です。
 その中に自家用車のバッテリーを集めるというやりとりがありました。原子炉の圧力が上昇し、蒸気逃がし弁を動かすためバッテリーをつないで電源を確保しようというのです。しかも足りなくて買うお金にも困る。
 備えも何もなかったわけですから、社員らの苦労も分かります。しかし、これを知った福島の被災者らはどう思ったでしょう。
 東電も国も、その程度の取り組みと真剣さしかなかったのか。住民の守り方とはそのぐらいのものだったのか。言い換えれば、それは侮辱に等しいでしょう。
 侮辱は継続しています。しかもデモクラシー、民主主義の軽視という形で。
 原発で言えば、大飯の再稼働はろくな検証もなく、電気が足りなくなりそうだという理由だけで決まりました。国民の安全がかかわる問題なのに、これほど非民主的な決定は前例がないでしょう。
 沖縄へのオスプレイ配備も、米兵事件に対するその場しのぎの対応も侮辱にほかなりません。国家が人間を軽視しているのです。
 原発から離れれば、一票の格差を放置してきた国会とは、デモクラシーの不在も同然です。立法府だけではなく、最高裁が「違憲状態」と判示しつつ、違憲であると踏み込めなかったことは、憲法の番人としての責務を果たしえたか。疑問は残ります。
 今の政治には、ほとほとあきれたと多くの人が口にします。それはおそらくはデモクラシーの軽視に起因していることで、国民は自分の権利の蹂躙(じゅうりん)を痛々しく感じているのです。政治に侮辱されていると言ってもいいでしょう。
 その状況を変えるには、何より変えようという意思を各人がもつことです。デモや集会はその表れの一つであり、選挙こそはその重要な手段です。

◆戦うべき相手はだれ
 冒頭の国語の先生の手紙は今、自分の抱える恐ろしさをこんなふうに表していました。
 …(中野重治の)戦前と違って現代は戦うべき相手の姿が明確に浮かび上がらない分、かえって恐ろしさを感じます…。
 戦うべき相手は広範で、しかも悪賢く、しっぽすらつかませないかもしれません。政財官などにまたがる、もやもやとした霧のようなものかもしれない。
 しかし、こう思ってその相手を見つけようではありませんか。一体だれが私を侮辱しているのか、と。私たち自身の中にそれは忍び込んでいないか、と。投票の前に見つけようではありませんか。
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学校でのいじめ問題

2012年11月18日 08時24分38秒 | 臼蔵の呟き


全国のいたるところで「いじめ」があり、問題となっています。また、いじめの結果、自殺者まで出ています。本当に異常な学校環境、現場実態があり、その状態を改善できていないのはなぜなのか考えさせられます。
大手家電産業における解雇、肩たたき、希望退職募集を見ていて本当に、すさまじい退職強要が企業社会、職場、大人社会で行われていることと共通しているように思います。大人社会の反映が子供社会、学校教育の場にも影響を与えて、そのひずみ、マイナス面がこども「いじめ」につながっているのでは考えられます。

新自由主義、市場万能論の政治経済学者が基本としている考え方は、強者の論理、徹底した自由競争を信奉しています。利益をあげるために何を行ってもよしとする競争論理は、社会的弱者=子供、高齢者、失業者、片親世帯、身体障害者などへの配慮、支援を容認せず、政治的に無視、攻撃を行います。彼らは自らを優越的地位におき、能力的に優れていると認識して、だから、収入が多いのは当然、豊かな個人的な生活が保障されても当然とする狭い人権意識、自らの行動、配慮の狭さを当然視=正当性があるとしています。

競争論理、強者優越、などの論理が学校現場、教育に持ち込まれた結果、文部科学省の指導方針自身が競争論理をあおり、強者優先になり、教職員組織にそのような管理体制をもたらしています。教育委員会→校長→教頭―――などの指導層、管理者が日常的にそのような思考、論理で教育業務の管理を行っています。その現実を無視して、現場で教育を行う教師だけが、倫理的弱者配慮、人権擁護、公平な教育など正しい行動をとるように要求しても困難ではないかと思います。教師は上司、管理者から評価されたいので、上司の指導、管理行動に逆らってまで、「いじめ」問題を自らの教育課題とは認識しないと考えられます。

その結果、子供たちの人間関係は、表面的な他校との競争、学習、学力向上とは直接的に関係がないとして軽視、切り捨てられる関係です。また、教師自らが競争社会で競争し、精神的にストレスを抱えているために、子供たちのいじめ、こころの動きを受け止めること、余裕がなくなっているのだと思います。

このような状況を改善することは、簡単ではないと思います。自民党型教育、そのゆがみが学校現場に貫かれています。その変更を迫る、変更することが最も重要です。その上で、文部科学省の指導方針を抜本的に変えること。また、学校教育に偏差値、競争論理、過剰な受験競争是正などを政治的にも要求し、対応することが必要と思います。当面は、大人、親が教師と協力しながら、教育現場の競争論理に立ち向かい、是正する取り組みを地域社会の協力を得ながら行うしかないのでは思います。大人社会の退職強要、リストラも止めさせることも大きな社会的な課題だと思います。
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