宮本常一著「忘れられた日本人」岩波文庫 を気まぐれで買ってみた。
1950年代の日本各地へ民俗学研究で歩いた記録である。
まだ読み始めたばかりだけど、ある意味、なかなか面白い。
1950年代に各地の古老たちに、その地の話を訊いたりするのだが、その古老たちは明治の半ば生まれだったりする。
その古老たちが聞いた話なので、幕末の話が出てきたりするわけだ。
農作業の話やら、馬車が用いられるようになった話とか、行灯からランプへ「進化」する話とか。
そんな時代の話など、歴史上の物語でしか知らない事が、古老たちには「体験談」として語られるのでリアルである。
そのリアルさが、想像でしか読めない現代人との断絶を実感させる。
明治までの時代は、たぶん何百年間も同じ生活様式の繰り返しだったのだろう。
その最後の時代を生きた明治人は、急激な「文明開化」の波に乗って、あるいは押し流されて、アッという間に大正、昭和と過ごしてきた。
まことに希有な体験であったろう。
現在では想像を遥かに超えるものであったろう。
しかし、その生活習慣は昭和、平成になっても、時代と共に変化はしつつ、生きながらえて、現在にも受け継がれているものもあろう。
ただそこには、明治以前の”必然性”は薄れ、「習慣」として取り入れられているだけの”形骸化”が見られるのではないか。
宮本常一が調査した1950年代も、現在とはまったく異なる時代で、当時の「現在」が今は「レトロ」なわけで、ものごとのとらえ方も違っているはずなのだ。
現在から過去を振り返る場合、常に現在とはものごとのとらえ方が違っているはず、という前提を意識しないと、トンチンカンな理解となってしまう。
明治、大正、戦前昭和以前の日本は、現在の日本とは断絶した世界であると思わないと、「理解」出来ないのではないか。
そう戒めながら、ページを読み進めているところだ。
取り上げられた地域へ、今行ってみて「変化」を見てみたいものだ。
花見小路 京都市東山区
山陰本線 鎧ー香住 兵庫県香美町
1950年代の日本各地へ民俗学研究で歩いた記録である。
まだ読み始めたばかりだけど、ある意味、なかなか面白い。
1950年代に各地の古老たちに、その地の話を訊いたりするのだが、その古老たちは明治の半ば生まれだったりする。
その古老たちが聞いた話なので、幕末の話が出てきたりするわけだ。
農作業の話やら、馬車が用いられるようになった話とか、行灯からランプへ「進化」する話とか。
そんな時代の話など、歴史上の物語でしか知らない事が、古老たちには「体験談」として語られるのでリアルである。
そのリアルさが、想像でしか読めない現代人との断絶を実感させる。
明治までの時代は、たぶん何百年間も同じ生活様式の繰り返しだったのだろう。
その最後の時代を生きた明治人は、急激な「文明開化」の波に乗って、あるいは押し流されて、アッという間に大正、昭和と過ごしてきた。
まことに希有な体験であったろう。
現在では想像を遥かに超えるものであったろう。
しかし、その生活習慣は昭和、平成になっても、時代と共に変化はしつつ、生きながらえて、現在にも受け継がれているものもあろう。
ただそこには、明治以前の”必然性”は薄れ、「習慣」として取り入れられているだけの”形骸化”が見られるのではないか。
宮本常一が調査した1950年代も、現在とはまったく異なる時代で、当時の「現在」が今は「レトロ」なわけで、ものごとのとらえ方も違っているはずなのだ。
現在から過去を振り返る場合、常に現在とはものごとのとらえ方が違っているはず、という前提を意識しないと、トンチンカンな理解となってしまう。
明治、大正、戦前昭和以前の日本は、現在の日本とは断絶した世界であると思わないと、「理解」出来ないのではないか。
そう戒めながら、ページを読み進めているところだ。
取り上げられた地域へ、今行ってみて「変化」を見てみたいものだ。
花見小路 京都市東山区
山陰本線 鎧ー香住 兵庫県香美町