Nonsection Radical

撮影と本の空間

個性という隙間

2015年02月06日 | Weblog
まあいつものように写真の話なんだけど、なんで写真かというと、”アート系”のジャンルでどうしてか写真というのが”個性”の感じられない部類に入るからで、深い意味はない。
今は「ストレート写真」っていうの?身の回りの目についたものをパシャリと撮影して、ハイ出来上がりっていうのが目につくんだけど、昔は(あ~イヤだイヤだ昔話だよ)「ブラパチ写真」って言ってたんだよね。
女性の下着を盗撮する写真じゃないよ。
ブラブラ歩いてパチリと撮ったような写真って意味。
みんな同じような写真。
そういうのを会場を借りて「個展」ですって出されて、それを見ても「あ~どこにでもある写真ですなぁ」って思うだけで、どうしてこんな「ストレート写真」を撮るんだろうと疑問がわくだけ。
この場合のストレート写真っていうのは、真っ向勝負で討ち死にという事。
他人との違いも感じられないし、ありきたりの視点、ありきたりのモチーフ、そもそもありきたりの考え方!

ひとつに、他人の写真を見ないので、他の人がどんな写真を撮っていて、自分はどの位置にいるのかって事に無関心でいるからなんだろうね。
それでいて、あわよくば写真業界(あるのか?)で名を挙げたいと思っていたりして、どうして俺の(私の)写真が評価されないのかと不満に思っていたりね。
でもそれって「撮影会」での写真と同じで、同じようなものばかりの中での評価を求める行為じゃないのかな。
評価のひとつに「個性」って事があるのなら、個性って人と違うって事だから。
違うってことは、同じでないって事だから。
どうすれば他人と同じでない写真が撮れるのか。
同じでない写真ってどんなものなのか。
そういう事って考えないとイケナイんじゃないの。
そんな”不純”な考えはしたくないという人は、”ストレート写真”で撃沈ね。
どういう事を他人はしていて、何をしていないか、そういう隙間にもぐり込まないと個性って出せないんじゃないのかな、現在は。
もっと戦略的にならないと、他の人との違いが出てこないんじゃないのかな。
この人がこうするから俺も(私も)そうする、ではなくて、あの人がこうするなら俺は(私は)こうする、って考えるのは不純じゃないと思うんだけど。
そういう考えをしないと、森山大道風とか〇〇風って事にしかならないよね。
そういう写真を見せられても、「あ~〇〇風ね」で終わりだもの。
まあ他人と違うと風当たりの強い世の中だから大変だろうけど、そう思うのなら「表現行為」なんてやらなきゃイイわけだしね。




泉町の街並み 2
兵庫県豊岡市泉町,元町,小田井町
撮影 2014年8月2日 土曜日 14時15分
コメント
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