震災後に「絆」という言葉とともに盛り返してきたのは「集団意識」だろう。
家族、地域、会社、社会、国・・・
モノゴトを考える基準が「集団」単位になって当たり前という意識が広がっている。
また、誰かが親の面倒を見なくて、親が生活保護を受けている事を社会的に国会議員から庶民までが批難し、子どもが親を、あるいは親が子どもを養育するのは、たとえそれが成人であっても当然であると合唱する。
一見これらの趣旨は正当であると思えるのだが、ちょっと何かを忘れていませんか?
開国以来封建主義的思想から否応なく西欧主義的思想を取り入れて、西欧諸国と同様な体制で世界で生きていく事を選んだので、現在では生活様式も思想的基準も西欧と同列の基準を用いる事になっている。
権利、義務、法律、社会的規範も何かと西欧の先進国と比べるし、それで日本の立ち位置を確認する事にもなっている。
その結果、西欧先進国の基準で”アジア”とか”後進国”を論じたりしているわけだ、「あの国は遅れている」と。
その西欧先進国の基準のひとつに”個”の確立というものがあるだろう。
まあ、封建的な家族、社会制度に対するものと言えないかな。
でまあ、憲法でも個人というものを大切にとなっているわけだが、”個”は”集団”と対峙するものではない。
”個”の確立があってこその”集団”なのだ。
しかしこの頃、なんか”個”に対する価値観が”集団”の前にかすんできて、あたかも”集団”さえあれば何とかなるという空気が広がっているように思える。
会をめざしていたのが、垂直社会(家父長制)でいる方が正しいんだ、”個”は”集団”があってのものなのだ、という空気がないか?
みんなで頑張ろう、みんなで我慢しよう、みんなでみんなになろうと思っていないか?
そこに”個”を置き去りにしていませんか?
親と子はいつまでも一心同体、最小単位は”家族”、最小単位は”地域”、最小単位は”国”で一心同体に一心不乱に結局一進一退。
最小単位は”個”だろ?
でなきゃ、これまで努力してきた”個の確立”はどこへ消えてしまったんだ?
個を確立できてこそオトナで社会人であるはずだったろう。
結婚したから、子どもが出来たから、「お前も”一人前”」という集団単位主義をとらずに、個の確立を個の単位としようとしていたのではないのか?
それがいつの間にか「みんなで主義」に戻ってしまい、その結果”責任”というものが集団に薄められ、いつものように所在が曖昧になって、いつもの通り”無責任”という社会になっている。
そういう世の中の方が、ぬるま湯につかっているようで楽でいい、と思うのは勝手だが、一方で世界で経済的に競争していこう、新しいものを創りだして勝とう、中国や韓国になんか負けるものかと声だかに叫ぶのと同調してしていけるのか考えなければならない。
オリンピックや世界選手権でみんなが”国”を意識して”応援”しているかもしれないが、行なっているのは”個人”である事を忘れがちだ。
しかし、基準は”個”なのだ。
”個”を基準にすすめていかないと、きっと上手くいかなくなると思うよ。
有馬温泉 温泉寺から
家族、地域、会社、社会、国・・・
モノゴトを考える基準が「集団」単位になって当たり前という意識が広がっている。
また、誰かが親の面倒を見なくて、親が生活保護を受けている事を社会的に国会議員から庶民までが批難し、子どもが親を、あるいは親が子どもを養育するのは、たとえそれが成人であっても当然であると合唱する。
一見これらの趣旨は正当であると思えるのだが、ちょっと何かを忘れていませんか?
開国以来封建主義的思想から否応なく西欧主義的思想を取り入れて、西欧諸国と同様な体制で世界で生きていく事を選んだので、現在では生活様式も思想的基準も西欧と同列の基準を用いる事になっている。
権利、義務、法律、社会的規範も何かと西欧の先進国と比べるし、それで日本の立ち位置を確認する事にもなっている。
その結果、西欧先進国の基準で”アジア”とか”後進国”を論じたりしているわけだ、「あの国は遅れている」と。
その西欧先進国の基準のひとつに”個”の確立というものがあるだろう。
まあ、封建的な家族、社会制度に対するものと言えないかな。
でまあ、憲法でも個人というものを大切にとなっているわけだが、”個”は”集団”と対峙するものではない。
”個”の確立があってこその”集団”なのだ。
しかしこの頃、なんか”個”に対する価値観が”集団”の前にかすんできて、あたかも”集団”さえあれば何とかなるという空気が広がっているように思える。
会をめざしていたのが、垂直社会(家父長制)でいる方が正しいんだ、”個”は”集団”があってのものなのだ、という空気がないか?
みんなで頑張ろう、みんなで我慢しよう、みんなでみんなになろうと思っていないか?
そこに”個”を置き去りにしていませんか?
親と子はいつまでも一心同体、最小単位は”家族”、最小単位は”地域”、最小単位は”国”で一心同体に一心不乱に結局一進一退。
最小単位は”個”だろ?
でなきゃ、これまで努力してきた”個の確立”はどこへ消えてしまったんだ?
個を確立できてこそオトナで社会人であるはずだったろう。
結婚したから、子どもが出来たから、「お前も”一人前”」という集団単位主義をとらずに、個の確立を個の単位としようとしていたのではないのか?
それがいつの間にか「みんなで主義」に戻ってしまい、その結果”責任”というものが集団に薄められ、いつものように所在が曖昧になって、いつもの通り”無責任”という社会になっている。
そういう世の中の方が、ぬるま湯につかっているようで楽でいい、と思うのは勝手だが、一方で世界で経済的に競争していこう、新しいものを創りだして勝とう、中国や韓国になんか負けるものかと声だかに叫ぶのと同調してしていけるのか考えなければならない。
オリンピックや世界選手権でみんなが”国”を意識して”応援”しているかもしれないが、行なっているのは”個人”である事を忘れがちだ。
しかし、基準は”個”なのだ。
”個”を基準にすすめていかないと、きっと上手くいかなくなると思うよ。
有馬温泉 温泉寺から