Nonsection Radical

撮影と本の空間

懐かしい昭和に戻れば?

2012年05月19日 | Weblog
今日の京は暑かった。
疲れがたまっているようだったので、ロングはやめて、近場でブラブラしようと京都へ出かけた。
京都駅前には修学旅行生が相変わらず体育座りで点呼を受ける姿がアチコチにあり、団体旅行の正しい姿を晒していたのだけれど、ヤレヤレと思うわけにもいかない。
小旗を持ったツアコンを先頭に、ゾロゾロと歩く「外人さん」の団体もいたのだ。
みんなおしゃべりしたりキョロキョロしたりしているので、知らない街で迷子になるのを避けるのに、”あの小旗”が掲げられているのは重要な目印になるのかもしれない。

鴨川べりに涼んでいる人がたくさんいたのだけれど、これが”本来の京都のあり方”であると思えるのはいつの時代からであろうか?
1000年以上前だと、あの河原は死体の捨て場所であった事もあろうし、わざわざ街中から河原まで涼みにいった人もそうはいないかもしれない。
しかし、昭和だと結構いるのではないか。
それもエアコンが普及する以前だと。

関西は関西電力がなんの努力もこの1年しなかったために、新たな発電所が作られるわけでもなく、夏の電力不足が懸念されている。
15%以上の節電が必要だという。
おまけに火力発電のための燃料費がかさみ電気代も値上げされると言う。
これまでは、ドンドン電気を使って儲けさせてくださいね、と言っていたのに、今は使えば使うほど赤字になるから使わないでね、と言う。
つまり、電力不足の問題は、電力会社の儲けの問題になるのだ。
同様に、電力不足の問題は、電気代の問題なのだ。
だったら15%といわずに、もっと節電したらイイのだ。
収入も伸びない御時世だから、電気代が安くなれば言うことなしではないか。

映画を観て、その頃まだ生まれてもいなかった人達まで”懐かしい”と感じたあの昭和の時代に戻れば、電気代も安くなるではないか。
おまけに電力不足も解消され、原発を動かす事も必要なくなるのだ。
実際にあの時代がどうだったかを振り返ってみると・・・
一般家庭にエアコンなどない。
だからエアコンは使わない。
扇風機だ。
窓を開け放し、扇風機の前で「アワワワワ」と言うのだ(笑)。
これだけで冷房に関して15%以上の”節電”だろう。
もちろん会社にもエアコンなどない。
各自扇子、団扇持参で、扇風機が首を振っている。
クールビスなどという言葉がなくても、みんな開襟シャツだ。
暑さ避けにカンカン帽や日傘は必須だ。
ステテコと下駄があれば植木等だぁ。

電車だって窓を開けて、扇風機が回っていた。
クルマだってエアコンなどないか、使わず、窓を全開で、三角窓から外気を呼び込むか、小型の扇風機をつけたりしていた。
お店にだってエアコンなどあるのは一部だけで、氷柱が涼を呼んだりしたものだ。
昼間からテレビなど視ている者などおらず、団扇片手に寝転んでいたのだ。

こんな昭和の生活に戻れば、電力不足など関係ないし、電気代も安くなるのだ。
そして原発反対、必要ないという立派な意思表示になる。

もちろん当時はパソコンなどなかったので、使うなと言わないまでも、ダラダラつけっぱなしにしておかず、まさしく”あの”モデムで通信していた時のように、時間を気にしながら使用すべきなのだ。
テレビだって”一家の団らん”には不要だろう。
ましてや真夏の高校野球中継など論外だろう。
どうして一番電気が不足する時期時間帯にテレビをつけっぱなしにしなければならないのか?
高校野球はテレビ中継を止めるのが当然だ。
結果だけ夜に少しだけ放送すればイイのだ。

エアコンは使わない。
クルマのエアコンは外気を熱するので禁止。
電車でも扇風機。
店舗冷房禁止。
会社へは開襟シャツで行き、扇風機。
打ち水、すだれ、よしずは当たり前。
あいさつは「暑いですね」。

あの昭和の時代から変わったのは「快適さ」だ。
汗をかかない快適さを手にした結果、電力が必要とされたのだ。
それを手放せばイイ。
そのために努力をすればイイ。
熱中症で倒れるなどというのは、暑さをしのぐ工夫を忘れてしまった結果だ。
足りない足りないは工夫が足りない。と言ったではないか。
電気が足りないのでなく、工夫が足りないのだ。
15%節電などではなく、いっそ50%減らして、昭和の時代を懐かしもうではないか。
そのためにも夕涼みに出るのは大切な風物詩になるべきなのだ。



京都府八幡市橋本駅界隈
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アンソロジーは多いぞぅ

2012年05月18日 | Weblog
~に関する本」で、アンソロジーに関する本を調べようと思った時には、こんなにあるとは思わなかった。

アンソロジーとは、色々な作者の書いた話(比較的短編が多い)を集めた本だと、個人的には思っている。
短編が多いので、電車の移動時間、パソコンの待ち時間、寝る前のひと時などでひとつ話が読めてしまって、続きが気にならずに安心して本を閉じる事が出来る。
また、何人かの作者の話があるので、普段読まない人の話が読めて、新たな興味を持つ事もある。
だから、リストを作っておいて、少しずつ読んでいこうと思ったのだけど、なんということか、大変な数のアンソロジーが発売されている。
特に、SFやミステリーは多い。
話の持ち回しみたいな気もしないではないが、数多くの話が読める事は悪い事ではない。

リスト作りをしていて、ふと、「でもこんなに本屋さんにあったかなぁ?」と思った。
気がつかないだけなのか、アンソロジーはあまり置かないのか、どちらにしてもあまり目につくところにあるわけではない。
古本屋さんに行っても、売っているのは定番の何冊かだけという事が多い。
それがアマゾンでリストアップすると、まだ終わらないほどのアンソロジーがそろっているのだからたいしたものだ。
当初は、そんなにないだろうと思ったので、カテゴリーわけは、”一般”書籍と”官能”書籍としたのだけれど、”一般”の中でもSFやミステリーがドンドンあって、途中で更に区分けしようかと考えもしたけれど、どうも細分化はしにくいなと思い直した。
ミステリーとか、恋愛とか、警察ものとか一言で片づけられない話が実際にはたくさんあるのだ。
それを機械的にわけても面白くないだろう。
新しい出会いがあるから読書は楽しいのだからと思い直し、決して区分けをやり直すのが面倒だからではなく(汗;)、そのままやる事にした。

古い本もかなり在庫があるし、これからも出てくるだろうし、ドンドン読んでいかないと追いつかない。
のんびりテレビなど視ている暇はないのだ。



京都府八幡市小金川から
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葡萄酒のみたい

2012年05月17日 | Weblog
今月は一回キリかな?お酒飲んだのは。
全然飲みたいとも思わなくて、ただただ早く寝たいと思うだけだ。
それぐらい肩の痛みで疲れる。
肩を動かすと少しの時間痛みがなくなるので、暇を見ては正拳突き100回とかシャドーボクシングをしているが、ほんのわずかな時間だけの効果だ。

先ほど雷鳴が轟いたので、パソコン関連すべての電源を抜いて、通り雨を過ごしていたのだけれど、ふと葡萄酒が飲みたいなと思った。
それもワインなどという高級なものでなく、マグナム壜で売っているような安物大衆葡萄酒をだ。
それを大きめのグラスにナミナミと注いで、ゴクゴク飲みたくなった。
そういう飲み方をする時には、酸化防止剤無添加のものに限る。
酸化防止剤が入っていると、どうも悪酔いして後に残る。
これは日本酒も同様だ。
日本酒も安くてイイから純米酒が好い。

どうも「ホンモノ」の酒好きではないようで、お腹いっぱい食べたあとでないとお酒を飲みたいと思わない。
だからお酒を飲む時には”あて”は必要なく、ただ飲むだけだ。
それが美味しいし、落ち着いて飲める。

なんてことを書いていたら、ますます葡萄酒が飲みたくなってきた。
ゴクゴクとね。
明日買ってこようかなぁ。



有馬温泉 タンサン坂からねがい坂へ
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何肩?

2012年05月16日 | Weblog
ますます右肩が痛くなっている。
針が刺さったような痛みが24時間続く。
何度目かの40肩?50肩?実年齢からすると20肩だろう!(笑)
湿布も当然効果ナシ。
揉んでも効果ナシ。
さすっても効果ナシ。
吸っても、舐めても効果ナシ(笑)。
そんなことは最初からわかっている。
もちろん医者にも行かない。
こういう治らなものに医療費を掛けると若い者に申し訳ない。
ひたすら完全に枯れるまで待つのが好々爺の処世術。



大阪市浪速区 通天閣本通商店街
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「死の街」と「ひばくなう(^ ・・)」

2012年05月15日 | Weblog
ツイッターで断片的につぶやいていたのは、感覚的なものなのでハッキリした言葉で言い表すことが難しいと思い、詳しく書くのはやめようと思ったけれど、自分で頭を整理するためにも出来るだけ取りまとめてみたいと思った。
これから書く事は、だれか特定の個人を示して、ああだこうだということではない。
今の世の中にかなりウップンがたまってきており、それが暴走する危険性が高まってきている気がして、この社会の行く末が恐ろしくなったという話だ。
これが日本人の特質であるなどとは言えはしないのだろうが、これまでも幾度か繰り返してきた暴走は決してなかった事にはできないし、どうも同質の問題をいつも抱えながら同様な振る舞いをいつもしているように思えるので、こういうことを繰り返してきたんだ我々は、とは言えるのではないだろうか。
それは、社会的に不満や不安、イライラ、怒りなど、現実的に対処出来ない事柄が続いていると、何かのきっかけでとんでもない方向へ暴走して爆発し、その後、憑き物がとれたようにさっぱりして、暴走したことなどは、それを是とし、サラリと流し去る事が繰り返されてきた事を言う。
問題の本質がどうしようもない場合、その問題から他へ転化し、本来の問題を忘れて、あたかも転化したものが事の本質であるかに勘違いして、”ウップンばらし”のごとく攻撃的暴発をすることがこれまで繰り返されてきた。
それが、東北大地震をはじめとする震災、原発事故の対応において、1年が過ぎても何の解決方向も見いだせず、そのうえ夏の電力不足予想など、社会的不安を感じる状況が重なり、閉塞感に包まれた世の中がますます重苦しく国民にのしかかってきている今の状況が、かなり危険な雰囲気を感じさせることにゾッとした。

あの「死の街」”発言”の時に、どのような反応があったか覚えているだろうか?
「死の街」という言葉尻”しか”問題にせず、「不謹慎だ」「ひどい」「福島の人の心を傷つけた」と発言したとされる人物をバッシングしたではないか。
そして「死の街」と表現された街を作り出した根本的原因に関してなんら”バッシング”に相当するような反応を示さなかったではないか。
菅下ろしにしてもそうだ。
安直な反応でバッシングして、その先に関してはあまり興味を示さず、忘れた頃に「検証」によって当時の内容を知り、手遅れの時間を噛み締めるだけであった。
問題にしたのは「言葉尻」だけ、その背景を想像もせずにただ言葉狩りのように暴走し、発言者を消し去る事でウップンを晴らしたかのように終幕した。
もちろん「死の街」はそのままの状態である。
事故発生者の東京電力は、いまでも言葉を濁し、責任から逃れようとし、国民から強い”反感”を直接受けていない事をイイ事に自社主導で事故対応を進めようとしている。
それに対しては、なんと手ぬるい反応なんだろう。

そして最近は上杉隆氏のツイッターにおける「ひばくなう(^ ・・)」発言に対してだ。
最初この話題を知った時に、誰かの行動に対して上杉氏が「ひばくなう(^ ・・)」とからかったのかと思った。
その事に対して、他の人が「不謹慎だ」「ひどい」「福島の人の心を傷つけた」(どこかで聞いた言葉だ)と批難したのかと思った。
で、ツイッターをさかのぼってみると、どうやら上杉氏が福島の原発の近くまで行き、放射線測定器での数値を画像で送り、その際に「ひばくなう(^ ・・)」としたためたのだ。
つまり自分が放射線に曝されていますよと現場報告したわけだ。
これは揶揄?面白発言?
自らを高い放射線に曝してタチの悪いギャグ?
このように言うと、そんな場所に行くのは”自己責任”で勝手だろうという人がいるが、そういう人は立場で人の命を推し量っているわけだ。
現地に住んでいる人の命は尊く、自ら行く人のはそうではない?
現地に残された動物は殺処分されても尊くない?
尊きものに区別をつける?

では、どのように報告すればよいのだろうか?
某有料放送局のようにかしこまって発言すれば済んだ問題なのか?
画像の数値は鮮明ではないけれど、4870CPMではないかと思う。
これも正確な数値はわからないが、40マイクロシーベルト/hぐらいではないかと思われる。
つまりそれぐらいの放射能に自らが曝されている状態をヤバイなあと思っているような顔文字もつけて「ひばくなう」とやったわけだ。
もちろん”ひばく”しているのは上杉氏自身である。
自らの状況を自らが適切と思い表現した言葉が「ひばくなう(^ ・・)」だ。
「不謹慎だ」「ひどい」「福島の人の心を傷つけた」言葉なのか?
いつものパターンで言葉だけが一人歩きし、ただただその言葉尻だけをとらえて、またいつものバッシングではないと言い切れるのか?
この国にはびこる言葉は「不謹慎」。
不謹慎なことも考えられないほど追いつめられている。
そのことに気がつきもしないアタマで新たな事をどうやってこれからの社会を生み出せると思っているのか?
まるで戦争中みたいに、ただただ頭を低くして耐え忍び「非国民」とか「国賊」とか平気で口にする空気になるのが「自由」なのだろうか?

その社会状況が恐ろしいと感じたのだ。
かなり社会的閉塞感が強くなっている。
それがどこかに暴走して暴発する危険性を感じたのだ。
それぞれの人は、上杉発言に対して憤りを感じているつもりなのかもしれない。
しかしその根底に何があるか考えた事はあるか?
何かをきっかけに”ウップンばらし”をしようという心理が働いていないのか?
これまでそういう事を繰り返してきた事を頭の片隅にでもおいているか?
事の本質は何かを考えようとしているか?
ただ言葉の上に言葉が重なり、本質的問題とは関係なくモノゴトが誰の方向するものでもないところへ向かってはいないか?

福島で事故が起こり、それに対しての東電や政府、マスコミの対応に初めてと言っていいぐらい国民がものを言う自由を行使し、少しは新しい”民主主義”というものが生まれるのかと期待もしたのだけれど、一方で誰かの発言をきっかけに全体主義的に、ひとつのとらえ方、ひとつの振る舞い、ひとつの価値観しか「許せない」不自由さを発揮するのは、どうしても”あの時代”を想像してしまうのだ。




京都府八幡市橋本中ノ町
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