震災の日
2020-01-18 | 日記
25年前
わたし達は
姑と共に
神戸のマンションに暮らしていました
相方さんの出勤が早いので
当然起きて
食事の支度をしている最中でした
淡路の方が
見たこともない
暗雲&オドロおどろしい色だったように思います
グラッときた瞬間に
わたしの手はトースターのスイッチと
ガスの元栓を閉めたことは覚えています
後のことは
消し去りたいのか
拒否反応か
記憶を辿っても
正確な事はスルスルと出てはきません
義姉達からのボンベや水の差し入れと
家に有った
ホットプレートで秋刀魚を焼いたりして
食事をしていた
場面がうっすらと過ります
階段を上り下りして
家財の瓦礫を捨てに行ったこと
前の日
三宮の東遊園地近くへ
親子面接に3人で行ったこと
当時1年生だった末っ子が
箪笥と箪笥の下敷きになったこと
でも
幸い狭い部屋でのことだったので
怪我もせず、隙間で命拾いをしたこと
お姑さんの部屋の箪笥も
全て倒れたけれど無事だったこと
暗闇の中
家族全員の名前を呼んで廻ったこと
幸いなことに、怪我もなく
寄り添ってその後も乗り切れたこと
途切れとぎれの記憶です
家の中は土まみれ
ガラスや壊れた家財で足の踏み場もないほどでしたが
火事にもならず
テレビで流れたような
酷い状態ではありませんでした
マンションは
大揺れにはなったけれど
幸いにも
傾きも倒れもしませんでした
子供達の為に少しづつ貯め揃えた
絵本の数々
そういう物が天井近くから
雪崩のように崩れ落ち
ピアノは家の中を移動して倒れ
家具という家具は全て倒れていました
冬
土の入った植木鉢も沢山有ったので
家の中は土だらけだったように思います
が・・・なにせ
記憶が直ぐ薄れる昨今
誰とも
繰り返し当時の様子を振り返り
話すこともありませんでした
実家の父は大やけどを負いましたが
家族に怪我人がいなかったせいか
前を向いて生きていくことだけでした
ただ
子供の通っていた小学校の
役員をしていて
学校の広報誌を発行するに当たり
長であったわたしは
判断を迫られていました
我が家のような
被害が比較的軽い処ばかりではなく
倒壊した親戚一家を受け入れて
新聞発行どころではない
という部員の方々もいて
発行を止める判断をした
という経緯を思い出しました
わたしが後年務めた
ボランティアセンターも
震災があった年をきっかけに
始まったという風に聞いています
耳の不自由なMさんのことも
思い出しました
相方さんの賀状を止める
に揃えて、わたしも出すのを止めて数年
それでも
当時の、ボランティアグループの代表から
手書きの賀状をいただくと
感無量のモノが有ります
あの頃の
颯爽と仕事に打ち込んでいた
自分が、今の背を丸めた自分を
情けないような、悲しいような気分で
見ているような・・・そんな風に思えます
昨日は震災の日
我が家にとっては
(数年後の)孫の誕生日
義妹にとっては
(数年後に)お父さんが亡くなった日
1月17日
それぞれ心に残る日でもあります