Dr.keiの研究室2-Contemplation of the B.L.U.E-

■こころの科学137■特別企画「児童福祉施設」

児童福祉施設に関する本って、実はあまり充実していなかったりする。もちろん秘密保持やプライバシー問題といったデリケートな理由もあるが、それ以前に研究者や一般人の「無関心」というのがあると思われる。(本書でもそのことは記されている)

僕が学生時代から愛読している「こころの科学」の今月号で、児童福祉施設特集が掲載されている。この雑誌自体とても分かりやすくて、コンパクトで、内容的にも重みがあって、クオリティーの高い雑誌なだけに、これは読んでいて損はないはず。

特に摩尼昌子さんの乳児院についての記事はとても興味深かった。乳児院が今どのような課題を抱えているのか、といったことだけでなく、そもそも乳児院の使命とはなにか。何をする場所なのかを自分の言葉で語ってくれている。しかも、それが全然ありきたりじゃないところがある。(ちょっと文章が読みにくいけど・・・)

乳児期は、忘れられてしまうけれど、人間としての基盤が形成される時期だと真に考えるならば、とくに大きくなってから問題行動が出現した場合には、乳児期(に)どう育てられたかに思いを馳せ、調べられれば調べて、子どもに語るということを大人たちはすべきでないか。(p.29)

忘れられてしまう乳児期。しかし、乳児期の出来事は「語り」を通じて後の人生に伝達される。いわゆる一般家庭では、親の「あんたの小さい頃は・・・で、・・・だったのよ」といった「語り」が子どもに与えられている。自分の小さい頃のエピソードは親の声によって伝達されるのだ。しかも、何度も何べんも。

こうした親の語りによって、自分はここの家の子どもなんだ、という自明性が生まれる。そして、自分がここに存在してもいいんだという安心感を得て、それが根となり、大地となり、自分の地盤、故郷、古里となる。

摩尼さんは、親のこうした「語り」を乳児院に取り入れることを提案している。乳児院の仕事は、たしかに2,3歳までの乳児ではあるが、それ以降のその子の人生にも(可能な限り)コミットすべきだ、と考えているのだろう。僕はそれにとても心を打たれた。というか、そうあってほしいと思った。

役割が分化された施設制度では、なかなか一人の子の面倒を見続けることはとても難しい。保育士たちの日々の懸命の努力も子どもたちには伝わらない。摩尼さんも言っている。「乳児院では必ず愛されていたのだから」、と。

大切なのは、かつての自分はしっかり愛されていた、ということがその子にとって明確になることなのだろう。「愛されること」への渇望は、人間には実はものすごい強くあるのだ。愛されたい、見てもらいたい、しっかり包み込んでいてもらいたいという気持ち(要求?欲求?)は、実は大人にも老人にもあるもので、それがしっかりと満たされていないときに、人間は混乱したり、しなくてもよい犯罪に手を染めるのかもしれない。

誰からも愛されない人間はいない。幼い頃は誰もが愛されてきた(たとえ親に捨てられた子どもであっても!)。しかし、残念ながら、乳児期に愛された経験は忘却されてしまっている。親がいれば語りを通じて伝達されるが、親のいない/親に世話してもらえない子どもの場合、乳児院がその代わりとなって、伝達していかなければならない。

この摩尼さんの考えにはとても共感した。

こころの科学137

目次

子どもはどこで育てられるのか

滝川一廣

わが国の社会的養護の現状と課題 藤井康弘
生涯にわたる心身の基盤を育てる 摩尼昌子
児童養護施設の養育環境と援助過程 伊達直利
児童自立支援施設の現状と課題 高橋一正
「こころの基地」としての自立援助ホーム─「鳥取フレンド」の歩み 藤野興一
少年法が目的とする少年の健全な育成 河原俊也
矯正施設における年少少年の育成 宮本史郎
児童福祉施設に求められること
   ─当事者参加視点からの現状と課題および展望
市川太郎

[座談会]社会的養護とこころの居場所………村瀬嘉代子・田中康雄・青木省三

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