一冊目の翻訳の仕事が佳境を迎えている中、次に訳したいなあと思う本を探している。しかし、訳したい!と心から思う本というのはそうそうあるもんじゃない。で、ちょっと訳してみて、どうかな~?!と思う文章がこれ↓。
内容的には、障害児と健常児は分け隔てなく一緒に幼稚園で育つほうがいい!というもの。障害児と健常児が共に学ぼう!という考えは、【統合教育(インテグレーション)】という。ただ、この考えは、現在のところ、批判される考え方で、【インクリュージョン=障害があろうとなかろうと子どもはみんな個々それぞれ。それを包含しよう!】の方がいいんだ!という意見が多くなっている。僕的には、インクリュージョンの方が屁理屈のような気がしてならない。障害の有無はやっぱり根強い先入観になっているように思う。
ただイマイチ「訳すだけの価値」がある内容なのかどうか、判断に困っている。以下で紹介するのは、その本の「まえがき」。面白いかなぁ~~~・・・
【子どもたちは、幼稚園という場所を必要としている】
親たちは、自分たちが1,2,3年にわたって子どもたちと集中的に関わったときになってまさに、「好奇心に溢れ、知識欲の旺盛な子どもにとって、親がいるだけでは全くもって不十分だ」ということに気づく。子どもたちは、自分自身を形成していく中で、おもちゃの消防車の取り合いの中で感じる怒り(Wut)や、雨の水溜り(Regenpfützen)の中を飛び跳ねる時の喜び(Freude)といった自分の感情を伝える他の子どもたちの鏡を求めているし、必要としている。子どもたちは、「いやだ」と言ってくれる他の子どもを必要としている。子どもたちは、自分自身を社会的な人間に育て上げるためにも、他の子どもが必要なのである。また、子どもたちは、手本として、自分の更なる学びのモチベーションとしても、他の子どもを必要としているのである。子どもたちは、自分より少ししか大きくないのに、すでに塔の上に登ることのできるフランツ君を必要としている。子どもたちは、水と絵の具で紙に絵を描くマイケを必要としているし、5皿がどれくらいなのかをすでに知っているソフィーを必要としているし、歌一曲まるごと歌えるフリーデリックを必要としている。彼らは、よく笑いよく泣くキムを必要としているし、また、よく口からよだれを垂らす(:食べることが大好きな)マルコを必要としている。子どもは、こうした手本となる他の子どもたちを見習い、自分自身の問いを立てて、一歩一歩、あらゆる個人的な諸能力を発達させていくことができるのである。
子どもたちが幼稚園という場所を必要としているということを訴える親は、第一に、自分の子どもたちにありとあらゆる社会的な学びや知的な学びをさせるために、幼稚園に行かせるのである。幼稚園の外では、子どもたちがみんな一緒になって多様な経験をすることはできないだろう。≫いかなる子どもに対しても、子どもの障害の種類や性質、子どもの特別援助のニーズの種類や性質によって、幼稚園施設の入園拒否をしてはならない。障害をもった子どもたちは、本来、他の子どもと共に、統合的に活動する集団の中で援助されなければならない。(上記参照s.o.(siehe oben).5章,1段落)≪
ドイツの子どもたちの大部分は、幼稚園に通っている。ただごく一部の子どもたちは、幼稚園における統合教育の積極的な作用が、現在、一般に承認されているにもかかわらず、障害をもった子どもと障害をもっていない子どもの共同体の中で(それぞれ)育っている。
多くの人たちは、おそらく、「すべての子どもたちに開かれている幼稚園の日常がどれほどノーマルで自然に形成されているか」、ということを知らない。また、親も幼稚園教諭も、幼稚園のどこにも、勇気や率直さを見出せないし、≪障害をもった≫子どもを≪普通の≫幼稚園に入学するための援助も見出せない。
われわれは、この本の中で、統合教育(Integration)が自然であり有効であるということを伝え、統合教育幼稚園(Integrationskindergarten)の中の日常もまた、山あり谷あり(浮き沈み:Höhen und Tiefen)であり、問題もあれば成果もある全く通常の日常である、ということを示したい。
関心を持たれた読者は、統合教育のために自身の環境の中で力を尽くす勇気を手にすることでしょう。すでに統合教育を実践している人々の多くは、きっと、この本の中に、確固としたもの、または、何度も繰り返し問うてきた問いの答えを見出すことだろう。
この本の著者は二人の女性である。われわれは、極度に完璧に合わせる方向で互いの文章を≪推敲する≫ことはしなかった。そして、そのことで、形式上の素直さが保たれたと思っている。建設的な議論のため、他の意見のための余地は残してある。この本は、最初から最後まで読む必要はない。個々の章がまた、完全にそれ自体として、議論の基、例えば教師集団の中での議論の基となるだろう。われわれは、本書を情報と実践の教材と理解しており、いつでも、拡大や具現化することのできるものであると考えている。
本書では、ほぼ「われわれ」という仕方で論じられている。著者のかなり個人的な記述が問題となるところでは、「われわれ」ではなく、「わたし」という仕方に換えてある。
さらに、書き方にもこだわっている。つまり、幼稚園教諭や心理療法実践者の大多数が明らかに女性なので、われわれも、それを一般化して、その大多数の女性に向けて語りかけている。ゆえに、原則的に、女性教育者と表記している。