聖書の言葉を聴きながら

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ヨハネによる福音書 11:1〜11

2019-03-24 18:33:33 | 聖書
2019年3月24日(日) 主日礼拝  
聖書箇所:ヨハネ 11:1〜11(新共同訳)


 きょうから受難週に向けて、礼拝・祈り会を通してヨハネによる福音書の後半部分からキリストの十字架と復活に思いを向けながら聞いていきたいと思います。

 一人の病んでいる人がいました。マリアとその姉妹マルタの村、ベタニアの出身で、ラザロという人でした。
 マリアとマルタの名前も、この福音書ではここで初めて出てきます。二人の説明も詳しくは出てこないので、この福音書を読む人たちにはよく知られていたのかもしれません。マリアはこの福音書では次の12章で、イエスの足に高価なナルドの香油を塗ったことが記されています。
 ラザロの病気については説明されていませんが、重い病気だったようです。二人はイエスのもとに人をやって、「主よ、あなたの愛しておられる者が病気なのです」と伝えました。二人はイエスなら癒やすことができると信じていました。
 するとイエスは「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである」と言われました。

 当たり前ですが、イエスの時代にはビデオなどというものはありませんから、この場面のすべての言葉が記録された訳ではありません。言い伝えられてきた伝承があって、それがあるとき福音書として編集されていく訳です。つまり伝えようとしている言葉が書かれているのですが、この場面は不思議に思えます。普通であれば「どんな具合か」とか「熱はあるのか」とか聞くと思いますが、記されたイエスの言葉を読むと、イエスはラザロの状態を知っておられたように思われます。そしてイエスの言葉を聞いた者たちは「ラザロの病気は治るのだな」と思ったと思います。なぜなら、イエスはラザロが病気だと聞いてからも、なお二日間同じ所に滞在されていたからです。イエスは急いでラザロのもとに駆けつけませんでした。一緒にいた者たちは「ラザロの病気はたいしたことはないのだな」と思ったろうと思います。しかし実際はそうではありませんでした。

 人は病気になります。多くの人は当たり前に病気になります。そして大きな病気にかかったとき、人は「どうしてわたしが」と問います。病気になりたいと思っている人はいません。神に病気を求める人はいません。それなのに病気になってしまう。神がその人を忘れているからでしょうか。神の配慮が欠けていたのでしょうか。それとも本人の信仰が足りなかったのでしょうか。マルタとマリアもイエスに「主よ、あなたの愛しておられる者が病気なのです」と伝えました。ラザロが病気であることをイエスが知れば、治してくださると期待していました。
 しかしイエスは「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである」と言って、二日間同じ所に滞在されました。福音書は5節ではっきりと「イエスは、マルタとその姉妹とラザロを愛しておられた」と書いています。イエスがすぐに駆けつけなかったのは、配慮が足りなかったのでも、愛が足りなかったのでもありません。すべては神の栄光のためになされ、導かれていました。

 栄光は、誉め讃えられるものです。神の栄光は、神が救いの神であることが明らかになることであり、それによって民が神を誉め讃えるものです。このヨハネによる福音書では、イエスの十字架も栄光として描かれています。病であっても、苦難であっても、死であっても、神はそれをわたしたちが神と出会い、神が救いの神であることを知るときとしてくださるのです。

 それからイエスは弟子たちに言われます。「もう一度、ユダヤに行こう」。今イエスは 10:40に書かれているように「ヨルダンの向こう側」におられます。そして福音書が「ベタニアに行こう」ではなく「ユダヤに行こう」と記したのは、ユダヤの指導者たちとの緊張関係が高まっていたからです。
 弟子たちは言います。「ラビ(ユダヤ教の教師を呼ぶときの敬称)、ユダヤ人たちがついこの間もあなたを石で打ち殺そうとしたのに、またそこへ行かれるのですか」。10:31には「ユダヤ人たちは、イエスを石で打ち殺そうとして、また石を取り上げた」と書かれています。
 するとイエスはお答えになります。「昼間は十二時間あるではないか。昼のうちに歩けば、つまずくことはない。この世の光を見ているからだ。しかし、夜歩けば、つまずく。その人の内に光がないからである」。
 昼間というのは、イエスが救い主として活動するのに神から与えられている時間を指します。イエスはご自身の逮捕の時に「今はあなたたちの時で、闇が力を振るっている」(ルカ 22:53)と言っておられます。イエスは、神が時を定めておられることを知っています。そして罪人の救いのためにご自分が命を献げるために世に来られました。

 イエスはこの言葉を通して、神が時を支配し導いておられることを示されます。そしてわたしたちが思いを向けるべきは、神の光の内を歩くことです。イエスはこう言っておられます。「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。・・暗闇に追いつかれないように、光のあるうちに歩きなさい。暗闇の中を歩く者は、自分がどこへ行くのか分からない。・・わたしを信じる者が、だれも暗闇の中にとどまることのないように、わたしは光として世に来た」(ヨハネ 8:12, 12:35, 12:46)。

 光に照らされてこそ見えるのです。神の栄光を見るためには、光であるイエス キリストに照らされることが必要です。イエス キリストの光の内にあってこそ、病気が神の栄光のためであることが見えてきます。そして、イエス キリストの愛を受けてこそ、神がわたしを顧み導いていてくださることを知ることができるのです。
 そのしるしとして、イエスはラザロを起こしに行かれます。「わたしたちの友ラザロが眠っている。しかし、わたしは彼を起こしに行く」。

 ここで眠っているとは、永久(とわ)の眠りという言葉があるように、死んでいるということを表します。その死の眠りから起こすことは、イエスの御業は死にさえ勝利するというしるしです。

 わたしにとって、死は空しさそのものです。結局人はみな死んで終わります。しかし、人生が死んで終わりではなく、死の後に神の救いを見ることを確信させてくれるのが、イエス キリストであり、神の言葉である聖書です。神は、罪人が死んでしまうのは仕方ないとは思わず、罪と死からの救いの御業をなしてくださいました。それを自ら証ししてくださったのが、イエス キリストです。死に勝利されたイエス キリストが、わたしたちを、そしてわたしたちの愛する者をも起こしに来てくださいます。
 そしてそれを信じるしるしの一つとして、ラザロの復活はなされます。

 この受難節と復活節は、代々の聖徒たちと共にキリストの光に照らされて神の救いの御業を確信する時なのです。
 この人を見よ。イエス キリストを見よ。イエス キリストこそ、罪と死からわたしたちを救い出し、永遠の命へと目覚めさせてくださるまことの救い主なのです。


ハレルヤ


父なる神さま
 この受難節・復活節に、イエス キリストの救いの御業を仰がせてください。イエス キリストの光に照らされて、わたしたちの人生のすべてがあなたの栄光が現れるためのものであることを信じさせてください。どうかわたしたちをあなたにある平安、喜び、希望に与らせてください。
イエス キリストの御名によって祈ります。 アーメン