ログインのパスワードから思い出さなければなりませんでした。
やれやれ…。
…かと言って、特別書くことがあるわけでもありません。
今日は、うちはあいにくのお天気ですが、
裏の空き地のセイタカアワダチソウが満開で、
そこだけ一面、金色の絨毯の様に輝いています。
風に吹かれて、右に左に、
花穂をゆらゆら揺らしている姿を見ていると、
心の深いところから、
愛?と呼ばれる愛おしさのようなものが
こみ上げて来て、
ただありがたいな~と幸せを感じます。
思えば、昨年は、
今咲こうというその時期に、
隣の畑のじいちゃんに、
無残に根こそぎ刈り取られ、
すっかり燃やされてしまった麒麟草。
そのせいもあってか、
今年は一層美しく花を咲かせているようにみえます。
この辺に暮らす人達は、
雑草を目の敵にしていて、
少し生えているだけで、
見苦しいとか、汚いと言います。
常に地面を耕運機で耕したり、
除草剤を撒いたりしているので、
作物の植わっていないところは、
ほとんどが、
不毛の荒地のような状態になっています。
遠い昔、
ご先祖たちが、
荒地を開墾し、
畑にした苦労や、
日々の農作業の大変さを思えば、
[雑草は敵]、という遺伝子が、
人々に深く根付いているのも理解できるけど、
私的には、
やっぱり人間の勝手な言い分に思えてならないです。
というわけで、
隣近所から苦情が来ないように、
毎年、イヤイヤ庭や裏の畑の草刈に翻弄され、
辟易している私でもありますが…。
草がちょっとでも伸びていると、「刈れ!」という通知がやって来る昨今。
生垣根を推奨、
その補助金制度までつくりながら、
剪定した際に出る枝葉や草は、
家で燃やしてはならないと言う江南市。
草や葉は袋に詰めて、燃えるゴミとして出せと言うけれど、
それも何袋もあると回収してくれないし…。
剪定して出た枝は、
60センチ以下にに切りそろえて、
資源ゴミの時に出すのだけれど、
その時は、一回に3束までしか出してはいけないとか、
その枝の直径は2センチ未満であることとか言われて、
誰が生け垣や、樹木のある庭を作ろうと思いますか?
実際わたしが、ここに越してきて10年余り。
その条令?が出てから、
どれだけの林がなくなり、
庭木が切り倒されていったことか…。
そして現在もまだ、その荒廃?は進み、
どんどんと、緑のない砂漠が増えていってる現状です。
(もともと、木曽川沿いの砂地なので、風が吹くとまさに砂嵐のようになって、
車を運転していても、視界が真っ白になり、何も見えなくなります。)
つくづく人間は、本当にバカだなぁ~と思います。
草木であっても自宅で燃やしてはならないという条令や、
雑草は悪いものという思い込みにより、
結果、草地や樹木をずんずん減らすことになり、
地球温暖化にますます貢献、
洗濯物は砂だらけ、
家の中も、常にジャリジャリなんですから…。
そんなこんなで話は少し変わるけど、
なんか唐突ですが、
私は、
もしかの時、
動植物のためになら、死ぬことはできるとけど、
人間のために、死ぬことはできない。
と、思います。
人間には自由意志があるし、知恵もある。
どんな人生も、
事故や天災でさえも、
どこかのレベルで自分が招いたり、
決めたりしたことだと思っているので、
万が一にも、そこに、
私がこの身を犠牲にしてでも、助けたい!
という気持ちは起きてこないのです。
一見どんな理不尽にみえることでも、
必ず理由(因果応報のようなものも含め)
があるわけですし、
またそれに気づくことが、必要だったりすることもあるのですから…。
だけど、動植物は違います。
生まれて、生きて、去る。
与えられたものを、そのまま受けて、
地上にあるうち、ひたすら生きる。
不平不満は言わない、言えない。
…そういえば、キムタクの「南極物語」、
見れずにいます。
偏見かもしれないけど、見ることはないと思われます。
私は南極は好きですが、
理由がどうあれ、
犬を置き去りにして、
1年後に彼らのうち2頭(タロ、ジロ)が生きてて感動☆!なんて、
なぜ感動なのか、わかりません。
(もちろんそれだけの話じゃないと思うけど…)
だって2頭以外は、寒さと飢えで死んだのです。
生き残った方だって、きっと、もの凄い大変だったのです。
彼らが何をしましたか?
なんでそんな目にあったのですか?
もともと彼らは、自分たちの意志で、極地に行ったわけではありません。
ある日連れて行かれて、ある日見捨てられたのです。
一緒に寝起きして、共に働き、大好きだっただろう人間というものに。
それでも彼らは、おそらく人間を恨みはしない。
何故置いていかれてしまったのか理解できず、
どんなにか悲しい思いをしただろうけれども、
(犬は寂しがりです)
だからと言ってそのことを、
恨んだり憎んだりすることはないのです。
あなただったらできますか?
ただ運命を受け入れることを、です。
犬は人間に比べて、
感情も知能も劣っているからできるのでしょうか?
本当にそうだと思いますか?
「人間の命は他の生命に比べて、それほど尊いものなのでしょうか?」と、
敢えて私は言いたいです。
そして時折こう思うのです。
「果たして人間は、真に、動植物よりも進化した存在なのでしょうか…?」と。
おそらく、
『神の目から見れば、どの生命も等しく尊い。』
…けれどその御心の深さゆえ、
人間の無知無明を、
傲慢なふるまいのすべてを、
ただ許して下さっているのだろうと、
私は思うのです。
もちろん私の人間嫌いは、自己否定でもあります。
ですがこれもまた、
人というものの、一つの側面にすぎないともわかっています。
宇宙は、人一つとっても、
多種多様な側面を見せてくれる…。
個人的には一昨日辺り、
また一つ、大きなシフトが起こったと感じています。
私たちは、地球と共にどこまで行くのでしょう?
どこまで行けるのでしょう?
「すべては御心のままに…。」
最近、なんでもそれで済むようになってきました。
やれやれ…。
…かと言って、特別書くことがあるわけでもありません。
今日は、うちはあいにくのお天気ですが、
裏の空き地のセイタカアワダチソウが満開で、
そこだけ一面、金色の絨毯の様に輝いています。
風に吹かれて、右に左に、
花穂をゆらゆら揺らしている姿を見ていると、
心の深いところから、
愛?と呼ばれる愛おしさのようなものが
こみ上げて来て、
ただありがたいな~と幸せを感じます。
思えば、昨年は、
今咲こうというその時期に、
隣の畑のじいちゃんに、
無残に根こそぎ刈り取られ、
すっかり燃やされてしまった麒麟草。
そのせいもあってか、
今年は一層美しく花を咲かせているようにみえます。
この辺に暮らす人達は、
雑草を目の敵にしていて、
少し生えているだけで、
見苦しいとか、汚いと言います。
常に地面を耕運機で耕したり、
除草剤を撒いたりしているので、
作物の植わっていないところは、
ほとんどが、
不毛の荒地のような状態になっています。
遠い昔、
ご先祖たちが、
荒地を開墾し、
畑にした苦労や、
日々の農作業の大変さを思えば、
[雑草は敵]、という遺伝子が、
人々に深く根付いているのも理解できるけど、
私的には、
やっぱり人間の勝手な言い分に思えてならないです。
というわけで、
隣近所から苦情が来ないように、
毎年、イヤイヤ庭や裏の畑の草刈に翻弄され、
辟易している私でもありますが…。
草がちょっとでも伸びていると、「刈れ!」という通知がやって来る昨今。
生垣根を推奨、
その補助金制度までつくりながら、
剪定した際に出る枝葉や草は、
家で燃やしてはならないと言う江南市。
草や葉は袋に詰めて、燃えるゴミとして出せと言うけれど、
それも何袋もあると回収してくれないし…。
剪定して出た枝は、
60センチ以下にに切りそろえて、
資源ゴミの時に出すのだけれど、
その時は、一回に3束までしか出してはいけないとか、
その枝の直径は2センチ未満であることとか言われて、
誰が生け垣や、樹木のある庭を作ろうと思いますか?
実際わたしが、ここに越してきて10年余り。
その条令?が出てから、
どれだけの林がなくなり、
庭木が切り倒されていったことか…。
そして現在もまだ、その荒廃?は進み、
どんどんと、緑のない砂漠が増えていってる現状です。
(もともと、木曽川沿いの砂地なので、風が吹くとまさに砂嵐のようになって、
車を運転していても、視界が真っ白になり、何も見えなくなります。)
つくづく人間は、本当にバカだなぁ~と思います。
草木であっても自宅で燃やしてはならないという条令や、
雑草は悪いものという思い込みにより、
結果、草地や樹木をずんずん減らすことになり、
地球温暖化にますます貢献、
洗濯物は砂だらけ、
家の中も、常にジャリジャリなんですから…。
そんなこんなで話は少し変わるけど、
なんか唐突ですが、
私は、
もしかの時、
動植物のためになら、死ぬことはできるとけど、
人間のために、死ぬことはできない。
と、思います。
人間には自由意志があるし、知恵もある。
どんな人生も、
事故や天災でさえも、
どこかのレベルで自分が招いたり、
決めたりしたことだと思っているので、
万が一にも、そこに、
私がこの身を犠牲にしてでも、助けたい!
という気持ちは起きてこないのです。
一見どんな理不尽にみえることでも、
必ず理由(因果応報のようなものも含め)
があるわけですし、
またそれに気づくことが、必要だったりすることもあるのですから…。
だけど、動植物は違います。
生まれて、生きて、去る。
与えられたものを、そのまま受けて、
地上にあるうち、ひたすら生きる。
不平不満は言わない、言えない。
…そういえば、キムタクの「南極物語」、
見れずにいます。
偏見かもしれないけど、見ることはないと思われます。
私は南極は好きですが、
理由がどうあれ、
犬を置き去りにして、
1年後に彼らのうち2頭(タロ、ジロ)が生きてて感動☆!なんて、
なぜ感動なのか、わかりません。
(もちろんそれだけの話じゃないと思うけど…)
だって2頭以外は、寒さと飢えで死んだのです。
生き残った方だって、きっと、もの凄い大変だったのです。
彼らが何をしましたか?
なんでそんな目にあったのですか?
もともと彼らは、自分たちの意志で、極地に行ったわけではありません。
ある日連れて行かれて、ある日見捨てられたのです。
一緒に寝起きして、共に働き、大好きだっただろう人間というものに。
それでも彼らは、おそらく人間を恨みはしない。
何故置いていかれてしまったのか理解できず、
どんなにか悲しい思いをしただろうけれども、
(犬は寂しがりです)
だからと言ってそのことを、
恨んだり憎んだりすることはないのです。
あなただったらできますか?
ただ運命を受け入れることを、です。
犬は人間に比べて、
感情も知能も劣っているからできるのでしょうか?
本当にそうだと思いますか?
「人間の命は他の生命に比べて、それほど尊いものなのでしょうか?」と、
敢えて私は言いたいです。
そして時折こう思うのです。
「果たして人間は、真に、動植物よりも進化した存在なのでしょうか…?」と。
おそらく、
『神の目から見れば、どの生命も等しく尊い。』
…けれどその御心の深さゆえ、
人間の無知無明を、
傲慢なふるまいのすべてを、
ただ許して下さっているのだろうと、
私は思うのです。
もちろん私の人間嫌いは、自己否定でもあります。
ですがこれもまた、
人というものの、一つの側面にすぎないともわかっています。
宇宙は、人一つとっても、
多種多様な側面を見せてくれる…。
個人的には一昨日辺り、
また一つ、大きなシフトが起こったと感じています。
私たちは、地球と共にどこまで行くのでしょう?
どこまで行けるのでしょう?
「すべては御心のままに…。」
最近、なんでもそれで済むようになってきました。