♫まりあ☆の、ちょっぴりスピリチャル♬

自由に楽しく生きるには~🎶

読んだらちょっぴり心が軽くなる、そんなブログで~す(^.^)

何でもポジティブ…?!

2010-05-25 14:38:43 | 日記
精神世界系の本で、
<幸運体質になる!!>
とか、
<願いを叶える○○の魔法>
とか言った類いの本をパラパラめくると、
表現の違いこそあれ、

『何でもポジティブに捉えなさい♪』

という文字が書かれているのを、目にすることがあると思う。


が、これについて私は以前より、
(それも、あんまりよくないんじゃないの?!)
と感じてきた。

物事を楽観的に捉えられることは、
確かに一つの恩恵だと思う。

もともとそういう性格、(私からみれば才能のようなものだが、)
を持って生れた人にとっての人生は、
悲観的な人よりずっと簡単で楽しいだろうと思われる。

物事を、より悪い方向へ誘導してしまう危険も少なくなるし、
日々受けるストレスも、プレッシャーも違ってくる。
ポジティブなエネルギーを発することで、
いい運気が開けてくるのも、また事実だ。

だがそれは、
『何でもポジティブに捉える』というのとは、若干意味が違っていないか?
その若干の僅かな差が、実は大きいのではないか…?

天性の楽天家はそれで良し。
それが、与えられた自然な姿、自然な人生である。

でも、『何でもポジティブに捉えなさい』という言葉に惹かれる人間は
性格がもともと、ネガティブな傾向の人が多いのではないだろうか。

<わずかなことにクヨクヨしててしまう…>
<失敗に引きずられる…>
<物事を悪い方にばかり考えて、いつもたくさんの恐怖を抱えている…>
などに悩まされている人が、
【幸せになるにはどうしたらいいのか?】
と自問しているところへ入ってくるのが、
こういう言葉、こういう考え方を勧める本なのだと思う。

だけど、
ポジティブに捉えようと思った時点で、
すでに実際はネガティブに捉えている状態があるわけで、
それを、いい風に考え直そうという行為には
【事実の捻じ曲げ】が生じるのは、避けられない。

心の底から、認識の転換を無理なくできる人にとっては、
その方法も有効だと思われるけど、
多くの人にとって、それは単に表面的な逃避だけに終わったり、
【故意な捻じ曲げ】によっての、
余計な負荷のエネルギーが掛かってくる気がするのだ。

どんなに、
ネガティブをポジティブに置き換えるよう心がけていても、
いつかは、1度や2度、
どうにも置き換えることの出来ない事象が起こるのもまた人生。


【ならばどうしたらよいのか…。】

私はこう考える。

この世界に2面性があるのは避けられない。
良いことも悪いことも起こるのが当然。
ならばそれを、なるべく在りのまま受け止めること。
何かのせいで悪いことが起こったとか、
良いことが起こったとか考えたり、
過剰に悲劇に仕立てたり、非常な喜びに感じたりせず、
【そのことソノモノを認識する】ようにする。

それが、自分にとってどういう出来事なのか、
新聞の見出しみたいに、
題名をつけるのも、いいかもしれない。

【等身大の認識】

そうすると、多分、それに対して、
適切な反応や対応ができるようになると思われる…。

そしてまた、
落ち込みたかったらとことん落ち込むのもありだ。
落ち込み切ったら(何でも必ず底があるので)
次はかならず浮上に向かうのだから。

ともかく、【自然=無理しない】が一番なのだ。


そして、それをもっと先に進めるとすれば、
古来、聖者が言われるように、
【良い悪いの判断をやめなさい】ということになるのだろう…。
判断したその時点で、それはそういうモノとなって、
自分の【人生の現実】に参加して来るのだから…。


感情のエネルギーに関して言えば、
悲しみを感じた時、
憎しみを感じた時など、
ネガティブな感情を、別なものに置き換えようとすると、
そこに【偽り】が生じ、
自我はそれで、
適切に対処できたと考えて満足したとしても、
実際の感情はそこに取り残され、
体や、心の奥に閉じ込められ、
堆積していくことになる。

それをエネルギーブロックといい、
それが、その人の負荷になっているケースはゴマンとある。

感情は捕まえなければ、やがて消えていくという性質を持っている。

例えばどんなに嬉しいことがあっても、
その喜びが、いつまでも同じ新鮮さで続き、
未来永劫、保たれることはない。

喜びの感情は、喜びの出来事の一つとして記憶に残り、
思い起こすことは、その後もできるが、
その感情自体が存在し続けるわけではないのだ。

喜びがそうなら、悲しみもまた然り。
大切な人を失って、悲しみのどん底にいても、
たまたま目にした、
お笑い番組のくだらないジョークにふと笑ってしまって、
それがまた、自己嫌悪に繋がるなんてこともあるだろう…。
どんなに悲しい時でも、
冷静によくよく観察してみれば、
一瞬たりとも気をそらさず、
悲しみ続けているわけではないことに、気付くはずだ。


物事に深刻になるのを、
また、
悪い風になることばかり考えてしまうのを、
私は推奨するわけでは決してない。
【発想の転換】自体は、
大切な場合もあると思っている。が、

【何でもかんでも、ポジティブに捉えるようにすればそれで良し!】
ではないと言いたい、今日の私だった。

人間の本能に、ネガティブさともいえるもの、
(たとえば、心配、恐怖から慎重さが生れた?など)
があって、
種の存続がなされた経緯もあるのだろうし、
やっぱり物事、いい悪いではないのだろうね。

大切なのは、
<自分がこの世界にどう存在したいか。>
<どう関わっていくか。>
<何を表現したいのか。>

なのだと思うなぁ…。
そしてそれは、どんな内容でもイインだよ、きっと。











伝言ゲーム

2010-05-23 11:21:03 | 日記
 伝言ゲームをやると、大抵どこかで情報の正確性が失われ、
 最後の人に届く頃には、初めとは全く違った内容になっていることが多い。
 だからこそ、ゲームとして競えるわけでもある。

今朝、町内で清掃活動があった。
そして、そこを舞台に伝言ゲームは始まった。

伝えられた元の情報は、
【雨天のため、予定時間より30分早く清掃活動を始めます。】
というものだったらしい。
が、連絡網でうちに回って来た時には、
【雨なので、少し早めに出てきて下さい】
というものになっていた。

更に間の悪いことに、
ナゼかは分からないが、
その連絡は、突如、留守電に入っていた。

(どうも私は、その電話のベルを聞き逃したらしい…。
普段では有り得ないことなのだが。)

と言うわけで、
留守電に気づいたのは、その連絡を受けてから20分ほど経過したところだったので、
【少し早めに】がいったい何時をさすのか、全くわからず焦ったが、
ともかく念のため、急いで、その内容のまま次の人に伝言することに。



※連絡網というものは、フツウ、自分の次の人に繋がらない場合は
もう一つ次ぎの人にも、連絡することになっている。

留守電に入れたからといって、(特に急ぎの内容の時には、)
そこで連絡が途絶えてしまう危険もあるのだから、
そうするのが、理にかなっていると思われる。
(また、連絡を回した元の人は、
連絡網の末尾になっている人達から電話をもらい、
ちゃんと情報が全員に伝わったという確認をとる責任がある。)
実際連絡網にも、そう書いてある。

というわけだが、
万が一連絡がいってないとイケナイと思い、電話をしたわけ。

ところが(あるいは案の定?!)電話をしてみると、
うちに留守電を入れた人は、次の人に電話していなかったことが判明。
結果、私のみならず、私の後の人まで清掃に遅刻することとなった。

遅れたことを、みんなから責められはしなかったけど、
まあ~びっくりだった。



以前、近所の取りまとめ役である、組長をやった時思ったことだが、
人の理解力、認識力には本当に個人差がある。

集金や、保険の申し込などのことがらについて、
事前にどんなに文書で回覧して、また口頭で伝えていても、
全く理解しておらず、気にもしておらず、
今初めて聞いたことのように対応する人もいる。

それがあまりに何回か続いたり、ヒドイ場合は、
もしかしたら認知症なのかもと
思ったりもしたが、
それほどでなくても、
文章の意味を取り違えていたり、
今回のように、表記してあっても、
そのお願いどおり行動してもらえない
(多分その文自体に、気づいてないのだと想像されるが)
ことはザラにあった。
「回覧なんて読まないわよ!」と豪語した人さえいたのだ。

こういった現実に直面し、
実際被害を被ると、
感情面では腹立たしかったり、スゴク疲れたりするのも確かだけど、
多分ここで私に促されていることは、
【理解する=思いやる】そして、【認める=受容する】ことなのだろうな…と感じた。


ミンナが【ふつう】と思っていることは実は【ふつう】ではない。
もちろん私も含めて、人は皆、自分の価値判断で生きていて、
自分の基準が【ふつう=当たり前】と考えている。
だから、【正義の振りかざし】(例えばテロへの報復)とかも起きてくるわけだ。

そこに悪意があるにしろないにしろ、
人間にはそういう側面があると認識することが、
特に、多様な人間が混在して行われる地域活動の運営の際には、必要なのだと思う。
違いを認識し、みんなが理解を持つように心がければ、
それに対応するための工夫や対策をすることもできてくるだろうし、
そうなれば、物事がもっとスムーズにもなるだろう。
要らぬ誤解や争いを避けることもできるし、
より良い形で、地域の繋がりが築かれていくかもしれない。
協力とか調和ってことも大事だしね。

だけれど実際の現実は、今のところそうではないし、
早晩そうなるとも思えない。
多数の人が、そう考えるようになっていくことで、
社会とは、徐々に変化していくものなのだろう。
そのうちそうなるみたいな、気楽な感じでいるのが、
大らかでいいのかもね。




補足だが、
以前読んだ本の中に、
『理解するとは愛すること。』
という文があった。

誰もが、他者を理解しようと努めるなら、
確かに【争い】は無くなるのだろう。
意見の違いはあっても、解決策を模索し、導き出すことは可能だと思うから。
結局、戦争などというものは
【エゴ意識に囚われたものが起す、愛の欠如した状態】
といえるのかもしれない。


まあ、あんまり真剣に
なりすぎるのもよくないから、この変でやめよ。


ほんとのところ、
『細かいことに心囚われて、考え過ぎるのはやめなさい。
みんなそれぞれ違いがあって、
それによって様々な出来事が引き起こされて、
でもそれがこの世界だし、
それでいいのですよ。』
というのが、今日の私へのメッセージなのかも








下着よ、いずこ。

2010-05-14 15:27:19 | 日記
突然思い立って、4月末より近所のスポーツクラブへ通っている。
【体力づくり】が主な目的だったのだが、意外なことに楽しい。

運動嫌いな私に、何が起こったのか。
汗をかくことに、なんと爽快さを感じている!

何故だか、さっぱり理由が分からないけど、
我ながら、同じ人間とは思えぬ変わりよう…??

(魂が誰かと入れ変わったのかしらん…?!)

いやいや、人間変わるものなのだ、きっと。


それはまあ置いといて、そろそろ本題に。


一昨日のこと。
そのスポーツクラブへ行こうとして、
一つしか持っていないスポーツブラを探した。
だが、引き出しの中には見当たらなかった。
急いでいたので、結局その日は、そのまま違うブラをして出かけた。

(干してある洗濯物の中にあるんだろうな)
などと、軽く考えていたのだが、
翌日、そこにもなかった事が判明。

それから、家の中を大捜索したけど、やっぱり何処にも見つからなかった。



そこで、気になりだしたのが、数日前のある光景…。

そのクラブには、ロッカールームの奥にお風呂があり、
入浴する人は、それに併設された脱衣所で着替えをする。

脱衣所には大きめの下駄箱のような棚があり、
そこに脱いだものやタオルを置いてお風呂に入るしくみだ。

私は運動した後、毎回お風呂やシャワーを利用して
汗を流してから帰宅していたのだが、
そういえばそこで、
些細なことだが、奇妙なことがあったのを、
思い出したのである。


その日、お風呂から出てみると、
棚の荷物の中に、脱いだ下着を入れた袋がなかった。

あれっ?と思い周りの棚を見渡すと、少し離れた棚にその袋だけあるのが見えた。
(あらやだ!私ったら、下着の袋だけあんな所に置き忘れてたんだわ。)
そう思い、中を確かめることなくそのまま持ち帰って、他のものと一緒に家の洗濯機に投入…。

そこまで思い廻らしてはたと閃いた!

(もしかしてあの時すでに、ブラは袋の中になかった?…)


…いったい、そんなことがあるものでしょうか。
人の脱いだ、汗まみれの下着を盗む人などいるのでしょうか…。

私は思わす、ブルブルと全身を横に振った。
(私だったら、考えられない…。無理!!!)

でも…。

スポーツブラは、結構お高い。
私のは、確か9千円ぐらいしたはず…。
洗ってしまえば、人のでも気にならない人が、
サイズが合わなければ捨てるつもりで盗ることもあるのかも…。

(勘弁してよ~。)

財布とかの貴重品は、
もちろんロッカールームの、鍵つきロッカーに入れてあるけど、
脱いだ下着が、盗品の対象になるなんて、想像できないよ~。

でもでもさ、
考えてみると、下着なんて、
自分のものにしてしまえば、足がつくこともないし、
お風呂から出た後着る下着なら、
盗まれたらすぐその場で気がついて騒ぐけど、
洗い物なら、
帰宅するまで気がつかない人が殆どと思われる…。

とすれば、盗った人は、
計画的に犯行を重ねている?プロ…?!

(このスポーツクラブに泥棒がいる!!)

そんな泥棒と、
同じスタジオで
芋洗い状態のクラスを、受けてたのかもと思うと、
何だか突然、嫌悪感が湧いてきた。


私にはまず、
世の中に、人の物を盗む人間がいることがショックだし、
物を盗られれば、やっぱり悔しい。

その内に盗った人がだんだん憎らしくなり、
呪いをかけそうにもなるが、
それをやると、魔界の思うツボなので、何とか思いとどまったりする…。

(これは、私の【寛大さ?!】を促し、測るための【お試し】なのよ。)
と言い聞かせてもみたが、
全然ピンと来ない。

こんなイヤな思いをするクラブ、やめてやろうか!と思い、夫にグチグチ相談すると、
 
「世の中にはそんな人もいるから、どこでも鍵付きのロッカーなんだろう?!
脱衣所に鍵がないのはマズかったかもしれないけれど、
もう盗られちゃったのなら仕方ないじゃん。
そんなの、どこにでもある事やでぇ~」
だって…。


(そうですか、そうですか。油断していた私が悪いのね。
じゃあこれからは、汗まみれのパンツとブラと一緒に、お風呂に入るわよ!!)
  〈←※注 その後、夫とケンカ


実はその何日か前に、シャンプーセットも失くしていたんだけど、
てっきり置き忘れたのを、誰かに持っていかれたと思っていたけど、
それも、お風呂にいる内に、既に盗まれていたのかもね…。


つくづくガックリしながら、ふと、

(こんな時、イエス様なら、どうされるのだろう?)
と考えた。

どうされるも何も、
まずイエス様が、こんな目に遭われることもないのだろうけど、
彼ならばきっと、
何事もなかったように、【普通】にしておられるのだろうなと思った。

騒ぐことも嘆くこともなければ、
責めることも裁くこともなく、
ただその出来事を在りのままにとらえ、心穏やかなままなのだろう。

【許してやる】などという奢りもない。


(きっとそうなんだろうなぁ…)
と思ったら、
少し気持ちが落ち着いて、
【まあいいやモード】になった。


ホントのところは分からない。
盗られたのか、どっかの世界に消えてしまったのか…。
思いもよらない家のどこかに、隠れてることもあるかも。
でも、あ~あ。
下着は何処…。


まあ、今まで無防備すぎたかもしれないので、
今後は、夫の言うとおり、
少しは【注意】をして、お風呂に入ることにいたしましょう。