精神世界系の本で、
<幸運体質になる!!>
とか、
<願いを叶える○○の魔法>
とか言った類いの本をパラパラめくると、
表現の違いこそあれ、
『何でもポジティブに捉えなさい♪』
という文字が書かれているのを、目にすることがあると思う。
が、これについて私は以前より、
(それも、あんまりよくないんじゃないの?!)
と感じてきた。
物事を楽観的に捉えられることは、
確かに一つの恩恵だと思う。
もともとそういう性格、(私からみれば才能のようなものだが、)
を持って生れた人にとっての人生は、
悲観的な人よりずっと簡単で楽しいだろうと思われる。
物事を、より悪い方向へ誘導してしまう危険も少なくなるし、
日々受けるストレスも、プレッシャーも違ってくる。
ポジティブなエネルギーを発することで、
いい運気が開けてくるのも、また事実だ。
だがそれは、
『何でもポジティブに捉える』というのとは、若干意味が違っていないか?
その若干の僅かな差が、実は大きいのではないか…?
天性の楽天家はそれで良し。
それが、与えられた自然な姿、自然な人生である。
でも、『何でもポジティブに捉えなさい』という言葉に惹かれる人間は
性格がもともと、ネガティブな傾向の人が多いのではないだろうか。
<わずかなことにクヨクヨしててしまう…>
<失敗に引きずられる…>
<物事を悪い方にばかり考えて、いつもたくさんの恐怖を抱えている…>
などに悩まされている人が、
【幸せになるにはどうしたらいいのか?】
と自問しているところへ入ってくるのが、
こういう言葉、こういう考え方を勧める本なのだと思う。
だけど、
ポジティブに捉えようと思った時点で、
すでに実際はネガティブに捉えている状態があるわけで、
それを、いい風に考え直そうという行為には
【事実の捻じ曲げ】が生じるのは、避けられない。
心の底から、認識の転換を無理なくできる人にとっては、
その方法も有効だと思われるけど、
多くの人にとって、それは単に表面的な逃避だけに終わったり、
【故意な捻じ曲げ】によっての、
余計な負荷のエネルギーが掛かってくる気がするのだ。
どんなに、
ネガティブをポジティブに置き換えるよう心がけていても、
いつかは、1度や2度、
どうにも置き換えることの出来ない事象が起こるのもまた人生。
【ならばどうしたらよいのか…。】
私はこう考える。
この世界に2面性があるのは避けられない。
良いことも悪いことも起こるのが当然。
ならばそれを、なるべく在りのまま受け止めること。
何かのせいで悪いことが起こったとか、
良いことが起こったとか考えたり、
過剰に悲劇に仕立てたり、非常な喜びに感じたりせず、
【そのことソノモノを認識する】ようにする。
それが、自分にとってどういう出来事なのか、
新聞の見出しみたいに、
題名をつけるのも、いいかもしれない。
【等身大の認識】
そうすると、多分、それに対して、
適切な反応や対応ができるようになると思われる…。
そしてまた、
落ち込みたかったらとことん落ち込むのもありだ。
落ち込み切ったら(何でも必ず底があるので)
次はかならず浮上に向かうのだから。
ともかく、【自然=無理しない】が一番なのだ。
そして、それをもっと先に進めるとすれば、
古来、聖者が言われるように、
【良い悪いの判断をやめなさい】ということになるのだろう…。
判断したその時点で、それはそういうモノとなって、
自分の【人生の現実】に参加して来るのだから…。
感情のエネルギーに関して言えば、
悲しみを感じた時、
憎しみを感じた時など、
ネガティブな感情を、別なものに置き換えようとすると、
そこに【偽り】が生じ、
自我はそれで、
適切に対処できたと考えて満足したとしても、
実際の感情はそこに取り残され、
体や、心の奥に閉じ込められ、
堆積していくことになる。
それをエネルギーブロックといい、
それが、その人の負荷になっているケースはゴマンとある。
感情は捕まえなければ、やがて消えていくという性質を持っている。
例えばどんなに嬉しいことがあっても、
その喜びが、いつまでも同じ新鮮さで続き、
未来永劫、保たれることはない。
喜びの感情は、喜びの出来事の一つとして記憶に残り、
思い起こすことは、その後もできるが、
その感情自体が存在し続けるわけではないのだ。
喜びがそうなら、悲しみもまた然り。
大切な人を失って、悲しみのどん底にいても、
たまたま目にした、
お笑い番組のくだらないジョークにふと笑ってしまって、
それがまた、自己嫌悪に繋がるなんてこともあるだろう…。
どんなに悲しい時でも、
冷静によくよく観察してみれば、
一瞬たりとも気をそらさず、
悲しみ続けているわけではないことに、気付くはずだ。
物事に深刻になるのを、
また、
悪い風になることばかり考えてしまうのを、
私は推奨するわけでは決してない。
【発想の転換】自体は、
大切な場合もあると思っている。が、
【何でもかんでも、ポジティブに捉えるようにすればそれで良し!】
ではないと言いたい、今日の私だった。
人間の本能に、ネガティブさともいえるもの、
(たとえば、心配、恐怖から慎重さが生れた?など)
があって、
種の存続がなされた経緯もあるのだろうし、
やっぱり物事、いい悪いではないのだろうね。
大切なのは、
<自分がこの世界にどう存在したいか。>
<どう関わっていくか。>
<何を表現したいのか。>
なのだと思うなぁ…。
そしてそれは、どんな内容でもイインだよ、きっと。
<幸運体質になる!!>
とか、
<願いを叶える○○の魔法>
とか言った類いの本をパラパラめくると、
表現の違いこそあれ、
『何でもポジティブに捉えなさい♪』
という文字が書かれているのを、目にすることがあると思う。
が、これについて私は以前より、
(それも、あんまりよくないんじゃないの?!)
と感じてきた。
物事を楽観的に捉えられることは、
確かに一つの恩恵だと思う。
もともとそういう性格、(私からみれば才能のようなものだが、)
を持って生れた人にとっての人生は、
悲観的な人よりずっと簡単で楽しいだろうと思われる。
物事を、より悪い方向へ誘導してしまう危険も少なくなるし、
日々受けるストレスも、プレッシャーも違ってくる。
ポジティブなエネルギーを発することで、
いい運気が開けてくるのも、また事実だ。
だがそれは、
『何でもポジティブに捉える』というのとは、若干意味が違っていないか?
その若干の僅かな差が、実は大きいのではないか…?
天性の楽天家はそれで良し。
それが、与えられた自然な姿、自然な人生である。
でも、『何でもポジティブに捉えなさい』という言葉に惹かれる人間は
性格がもともと、ネガティブな傾向の人が多いのではないだろうか。
<わずかなことにクヨクヨしててしまう…>
<失敗に引きずられる…>
<物事を悪い方にばかり考えて、いつもたくさんの恐怖を抱えている…>
などに悩まされている人が、
【幸せになるにはどうしたらいいのか?】
と自問しているところへ入ってくるのが、
こういう言葉、こういう考え方を勧める本なのだと思う。
だけど、
ポジティブに捉えようと思った時点で、
すでに実際はネガティブに捉えている状態があるわけで、
それを、いい風に考え直そうという行為には
【事実の捻じ曲げ】が生じるのは、避けられない。
心の底から、認識の転換を無理なくできる人にとっては、
その方法も有効だと思われるけど、
多くの人にとって、それは単に表面的な逃避だけに終わったり、
【故意な捻じ曲げ】によっての、
余計な負荷のエネルギーが掛かってくる気がするのだ。
どんなに、
ネガティブをポジティブに置き換えるよう心がけていても、
いつかは、1度や2度、
どうにも置き換えることの出来ない事象が起こるのもまた人生。
【ならばどうしたらよいのか…。】
私はこう考える。
この世界に2面性があるのは避けられない。
良いことも悪いことも起こるのが当然。
ならばそれを、なるべく在りのまま受け止めること。
何かのせいで悪いことが起こったとか、
良いことが起こったとか考えたり、
過剰に悲劇に仕立てたり、非常な喜びに感じたりせず、
【そのことソノモノを認識する】ようにする。
それが、自分にとってどういう出来事なのか、
新聞の見出しみたいに、
題名をつけるのも、いいかもしれない。
【等身大の認識】
そうすると、多分、それに対して、
適切な反応や対応ができるようになると思われる…。
そしてまた、
落ち込みたかったらとことん落ち込むのもありだ。
落ち込み切ったら(何でも必ず底があるので)
次はかならず浮上に向かうのだから。
ともかく、【自然=無理しない】が一番なのだ。
そして、それをもっと先に進めるとすれば、
古来、聖者が言われるように、
【良い悪いの判断をやめなさい】ということになるのだろう…。
判断したその時点で、それはそういうモノとなって、
自分の【人生の現実】に参加して来るのだから…。
感情のエネルギーに関して言えば、
悲しみを感じた時、
憎しみを感じた時など、
ネガティブな感情を、別なものに置き換えようとすると、
そこに【偽り】が生じ、
自我はそれで、
適切に対処できたと考えて満足したとしても、
実際の感情はそこに取り残され、
体や、心の奥に閉じ込められ、
堆積していくことになる。
それをエネルギーブロックといい、
それが、その人の負荷になっているケースはゴマンとある。
感情は捕まえなければ、やがて消えていくという性質を持っている。
例えばどんなに嬉しいことがあっても、
その喜びが、いつまでも同じ新鮮さで続き、
未来永劫、保たれることはない。
喜びの感情は、喜びの出来事の一つとして記憶に残り、
思い起こすことは、その後もできるが、
その感情自体が存在し続けるわけではないのだ。
喜びがそうなら、悲しみもまた然り。
大切な人を失って、悲しみのどん底にいても、
たまたま目にした、
お笑い番組のくだらないジョークにふと笑ってしまって、
それがまた、自己嫌悪に繋がるなんてこともあるだろう…。
どんなに悲しい時でも、
冷静によくよく観察してみれば、
一瞬たりとも気をそらさず、
悲しみ続けているわけではないことに、気付くはずだ。
物事に深刻になるのを、
また、
悪い風になることばかり考えてしまうのを、
私は推奨するわけでは決してない。
【発想の転換】自体は、
大切な場合もあると思っている。が、
【何でもかんでも、ポジティブに捉えるようにすればそれで良し!】
ではないと言いたい、今日の私だった。
人間の本能に、ネガティブさともいえるもの、
(たとえば、心配、恐怖から慎重さが生れた?など)
があって、
種の存続がなされた経緯もあるのだろうし、
やっぱり物事、いい悪いではないのだろうね。
大切なのは、
<自分がこの世界にどう存在したいか。>
<どう関わっていくか。>
<何を表現したいのか。>
なのだと思うなぁ…。
そしてそれは、どんな内容でもイインだよ、きっと。