現在の稽古状況。
水前寺清子の唄(古いか!)ではないが、3歩進んで二歩下がるといった状況である。
というのも三歩進めたのは何故かという確認を疎かにしているからに他ならない。
例えば、役創りの中で一度目の稽古の中で「余計なもの削ぐ」という事でことで手に入れた成果を、二度目の稽古の時に「実感しよう」として余計なもの付けることによって鮮明さを欠いていくという事なのだ。
それで二歩下がるのだ。
役者にはこの様な傾向を持つ者が多い。
まあ、虚構の中に居るから実感というものを求める気持ちは分からないではない。
でも芝居の世界に「実感」はあり得ないという事を役者は知らなければならない。
如何に実感に近いものを構築していくかという事が役者に求められているのであって、「実感」そのものではないのだ。
あくまでも「虚構の中の実感」という事なのだ。
そこに気付くまで、私はその事を言い続けて行かなくてはならない。
これは結構シンドイ作業なのだが、それを続けていくのが演出の仕事なのだ。
水前寺清子の唄(古いか!)ではないが、3歩進んで二歩下がるといった状況である。
というのも三歩進めたのは何故かという確認を疎かにしているからに他ならない。
例えば、役創りの中で一度目の稽古の中で「余計なもの削ぐ」という事でことで手に入れた成果を、二度目の稽古の時に「実感しよう」として余計なもの付けることによって鮮明さを欠いていくという事なのだ。
それで二歩下がるのだ。
役者にはこの様な傾向を持つ者が多い。
まあ、虚構の中に居るから実感というものを求める気持ちは分からないではない。
でも芝居の世界に「実感」はあり得ないという事を役者は知らなければならない。
如何に実感に近いものを構築していくかという事が役者に求められているのであって、「実感」そのものではないのだ。
あくまでも「虚構の中の実感」という事なのだ。
そこに気付くまで、私はその事を言い続けて行かなくてはならない。
これは結構シンドイ作業なのだが、それを続けていくのが演出の仕事なのだ。
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